華厳経 第四会
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華厳経

第四 夜摩天宮会

  

第十五章 仏昇夜摩天宮自在品

 この章から、第四の夜摩天宮会(やまてんぐうえ)にはいる。この第四会は、四章からなっており、その中心の主題は、十行が説かれていることである。前の第三会を()の立場とすれば、第四会は行をあらわしている。この章とつぎの章は、序章にあたる。

 仏は、神通力によって、帝釈殿をはなれずに、夜摩天の宝荘厳殿に向いたもうた。
 そのとき、夜摩天王は、はるかに仏の来られるのを見たてまつり、殿上において蓮華蔵の師子座をしつらえ、多くの宝でかざり、多くの宝の綱で、その上をおおい、多くの宝の衣を、その上にしき、多くの天子は、その前に立ちならび、多くの梵天が、これをとりまき、多くの菩薩は、その前にあってほめたたえている。
 無数の光明は、てりかがやき、無数の音楽は、自然に正法をのべつたえている。
 ときに、夜摩天王は、蓮華蔵の師子座を荘厳しおわって、合掌し、うやまい、仏にもうしていうに、
「どうか世尊よ、この宮殿におとどまりください。」と。
 仏は、このねがいをうけ入れて、宮殿にのぼりたもうた。
 そのとき、かなでられていた無量の音楽は、寂然としずまりかえった。
 夜摩天王は、かつて過去仏のみもとで修行したところの仏法をおもいおこしながら、つぎのようにのべる。
「名称如来は、十方になりひびき、かつてこの宮殿に入りたもうた。それゆえに、ここは、もっとも祝福されている。
 宝王如来は、世間のともしびで、かつてこの宮殿に入りたもうた。それゆえに、ここは、もっとも祝福されている。
 喜王如来は、智慧がはかり知られず、かつてこの宮殿に入りたもうた。それゆえに、ここは、もっとも祝福されている。
 無師如来は、世間から尊ばれ、かつてこの宮殿に入りたもうた。それゆえに、ここは、もっとも祝福されている。
 苦行如来は、世間に利益をあたえ、かつてこの宮殿に入りたもうた。それゆえに、ここは、もっとも祝福されている。」
 そのとき世尊は、蓮華蔵の師子座の上にのぼり、結跏趺坐したもうた。たちまち宮殿は、つきぬけるように大きくなり、夜摩天いっぱいにひろがった。






  

第十六章 夜摩天宮菩薩説偈品

  [本章木村訳はこちら

 この章は、前の章とともに、第四夜摩天宮会の序章にあたる。ここでは、種々の菩薩があらわれて、仏の世界をほめたたえる。

 無数の世界があり、そのなかに無数の菩薩がいて、それぞれ、その国の仏のみもとにおいて、仏道を修行している。
 そのとき、仏の神通力(じんづうりき)によって、無数の菩薩たちは、仏をうやまい、礼拝し、結跏趺坐して十方の世界に充満した。
 仏は、両足のゆびより、無数の妙なる光明を放って、蓮華の師子座を照らしたまい、菩薩の大集会は、ことごとくうつしだされた。
 そのとき、功徳林菩薩は、仏の神通力をうけて、あまねく十方世界を観察し、つぎのように、ほめたたえる。
「仏は、あまねく清浄の光明を放って、十方世界を照らしたまい、すべてのものは、ことごとく仏をみたてまつって、たがいにへだてるところがない。
 仏は、夜摩天宮に坐したまい、そのお姿のすぐれていること、未曾有である。
 ここに集まれる菩薩たちは、無上の説法をききながら、清浄の修行にはげんでいる。
 仏の無量なる自在力を見たてまつるに、その功徳は、はなはだ深く、よく測ることができない。執著をはなれ、どこにも依るところなく、あたかも虚空のごとくである。
 仏は、十方の世界を遊行して、すべてさわりなく、一身が無量の身となり、無量の身が一身となる。」
 そのとき、勝林菩薩は、仏の神通力をうけて、あまねく十方世界を観察し、つぎのように、ほめたたえる。
「あたかも、春の夜の月の、虚空にかげりなきがごとく、仏の光明は、照らさざるところはない。
 仏の光明には限りがなく、よく測り知ることができない。心の眼のあいているものさえ、知ることはむずかしい。まして冥妄にしずんでいるものは。
 仏の光明は、どこからともなく来り、どこへともなく去る生ずることなく、滅することなく、空洞にひびくがごとくである。
 仏の光明のごとく、一切諸法もまた、生ずることなく、滅することがないこのようにさとるならば、このひとは、仏を見たてまつるであろう。」
 そのとき、無畏林菩薩は、仏の神通力をうけて、あまねく十方世界を観察し、つぎのように、ほめたたえる。
「仏の世界は、広大にしてほとりなく、この座をはなれずに、あまねく至らざるところなく、しかも永遠に不動である。
 もしこのような法を聞いて、つつしみうやまい、ふかく信ずるものは、永久に三悪道(さんまくどう)注1の苦難をはなれるであろう。
 もし仏の無量な自在力を聞くことができて、決意して信ずるものは、不抜の力をそなえることができるであろう。
 未来永劫(ようごう)のあいだにも、この法に遭遇することはむずかしい。もしこの法を聞くことができるならば、それはまさしく仏の本願の力による。
 このゆえに、つとめて努力精進し、仏界の荘厳を行じながら、この正法を身にもちつづけてゆくならば、ついには無上のさとりを完成するであろう。」
 そのとき、力成就林菩薩は、仏の神通力をうけて、あまねく十方世界を観察し、つぎのようにほめたたえる。
「一切の衆生は、ことごとく、過去、現在、未来の三世におさめられる。三世の衆生は、ことごとく五蘊注2のなかにおさめられる。
 五蘊は、宿業によって生じ宿業は、心によっておこっている
 心は、あたかも幻のごとくであり、衆生もまた、それと同様である。
 三世の五蘊が世間と名づけられる。世間は、みずから作るのでもなく、また他によって作られるのでもないその真実のすがたを知らないから、ひとびとは、生死の世界にさまよっている。
 世間は、ことごとくこれ苦である。その真実のすがたを知らないから、ひとびとは、迷いのふちに沈んでいる。
 五蘊(身心)とはなにか。ひとびとは、五蘊のこわれることを見ないで、みだりにそれを不変のものと考えている。
 五蘊は、実は迷妄で、むなしいもので、真実の実体はなく、それ自体、空寂である。
 もろもろの誤まった見解をはなれて、明らかに真実のすがたを見れば、一切智の仏は、つねに眼のまえにあらわれる。」
 そのとき、如来林菩薩は、仏の神通力をうけて、あまねく十方世界を観察し、つぎのようにほめたたえる。
「たとえば、種々の色彩が、たくみな画家によってほどこされるように、ありとあらゆるものは、心によってえがきだされている
 画心は色彩ではなく、色彩は画心ではない。心はしかし画心をはなれて色彩がないように、心をはなれて一切諸法はない
 心は、広大で測りしることができず、ありとあらゆるものをえがきだしながら、心と諸法とは、たがいに知らない。
 心のように、仏もまたそうであり、仏のように、衆生もまたそうである。心と仏と衆生とは、たがいに無差別であり、たがいに尽きることがない
 一切はことごとく心とともにうごく、と諸仏は了知したもう。もしこのようにさとるならば、このひとは、真の仏を見たてまつるであろう。」






  

第十七章 十行品

 この章は、つぎの章とともに、第四会の本論にあたる。そのなかで、この章は、第四会の中心主題である十行について説いている。説法者は功徳林菩薩である。

 そのとき、功徳林菩薩は、仏の神通力をうけて善伏三昧(ぜんぷくざんまい)注1にはいる。三昧に入りおわって、無数の諸仏を見たてまつる。この諸仏は、みな功徳林と名づけられている。
 諸仏は、功徳林菩薩にむかっていわれるのに、
「なんとすばらしいことであろう、仏子よ、あなたはよく、この善伏三昧にはいった。
 十方世界の無数の諸仏が、神通力をあたえられたために、あなたはこの善伏三昧にはいることができた。
 そして、ヴィルシャナ仏の本願力と威神力と、および、もろもろの菩薩の善根(ぜんごん)の力とは、あなたをして、この三昧にいらしめ、やがて甚深の法を説かしめるであろう。
 すなわち、菩薩は十行をおこすのは、一切の智慧をはぐくみ、のばすためであり、すべてのさわりをはなれて、なにものにも()えられない世界にはいるためであり、真実に生きる無数の方便を得るためであり、すべての真理をきき入れて、身に行うためである。
 仏子よ、あなたは、仏の神通力をうけて、このたえなる法を説くべきである。」
 かくして諸仏は、功徳林菩薩に、さえられない智慧、安定した智慧、師を必要としない智慧、はかり知れない智慧、奪われることのない智慧をさずけられた。というのは、この三昧力(ざんまいりき)は、法によってしからしめられたものだからである。
 そのとき諸仏は、それぞれ右の手をさしのべて、功徳林菩薩のあたまをなでられる。すると菩薩は、三昧からたちあがり、多くの菩薩たちにむかって十行の説法をはじめた。
「もろもろの仏子よ、菩薩のはたらきは、おもいはかることができない。それは、広大なること、あたかも法界のごとくであり、きわまりつきていること、あたかも虚空のごとくである。
 なぜなら菩薩は、三世諸仏の行ずるところをまなんでいるからである。
 仏子よ、菩薩には、三世諸仏の説きたもうところの十行がある。

【十行】
 十行とはなにか。歓喜行饒益行(にょうやくぎょう)無恚恨行(むいこんぎょう)無尽行離癡乱行(りちらんぎょう)善現行無著行(むじゃくぎょう)尊重行(そんじゅうぎょう)善法行(ぜんぽうぎょう)真実行である。

@ 歓喜行 [布施]
 仏子よ、第一に、菩薩の歓喜行とはなにか。
 この菩薩は、平等のこころをもって、自分のすべてのもちものを、一切衆生にめぐみほどこす。
 ほどこしおわって、悔いることなく、むくいを求めず、名誉をのぞまず、すぐれた世界に生まれようとおもわない。
 ただねがうところは、すべての衆生をすくい、おさめとり、そして、諸仏の行ずるところを心にかけ、まなび、身につけ、実現し、すべてのひとびとに、それを説こうとおもう。
 これが、菩薩の歓喜行である。
 菩薩が歓喜行を修するとき、すべての衆生は、よろこび、うやまう。
 貧困のものがあれば、菩薩はおもむいて財宝をあたえる。
 無数の衆生が、菩薩のところへきて言うに、
『わたしたちは貧乏で、なんの目あてもありません。どうかお慈悲をもって命をお救いください。』と。
 菩薩は、その求めに応じて、ことごとく満足させ、よろこばせないことはない。
 菩薩は、無上の大慈悲心をおこして、困っているものをつねに来らしめ、ますますこれをよろこばせて、つぎのようにおもう。
『わたしは、善事をうることができた。これらの衆生は、わたしの福田(ふくでん)注3である、わたしのよき友である。
 わたしが求めないのに、衆生みずから来て、わたしをおしえ、わたしを発心(ほっしん)注4せしめ、仏道を修行せしめる。わたしは、このように修学して、あまねく衆生をよろこばせよう。
 わたしが三世において修したところの功徳が、どうかすみやかに、清浄の法身を完成し、衆生の求めに応じて、ことごとく喜びを得させることができますように。またこの功徳をもって、もろもろの衆生が、ことごとく無上のさとりを成就することができますように。
 わたしは、まず一切の衆生をして、その願いを満足させよう、そののちに、わたしのさとりを完成しよう。』と。
 菩薩がこのようにおもうとき、菩薩は、施すものを見ず、それを受けるものを見ず、財物を見ず、福田を見ず、業を見ず、報いを見ず、結果を見ないのである。
 菩薩は、三世の衆生を観察して、つぎのようにおもう。
『なんとあわれなことであろう。衆生は、愚痴におおわれ、煩悩にまとわれ、つねに生死にながれ、苦海にさまよい、すこしも堅固な真実を得ない。
 わたしは、諸仏の学びたもうものをことごとく学び、衆生のために力をつくし、衆生をしてさとりを完成せしめよう。』と。
 これが菩薩の歓喜行である。

A 饒益行 [戒律]
 仏子よ、第二に、菩薩の饒益行とはなにか。
 この菩薩は、戒律をたもつことが清らかで、どのような感覚の対象においても、こころは執著せず、衆生のためにも、無執著の法を説いて、みずからの利益を求めない。ただかたく戒律をたもって、つぎのようにおもう、
『この五欲注5は、仏道のさまたげになる。これに執著しては、無上のさとりを完成することができない。』と。
 そこで菩薩は、みずから仏を見たてまつってからこのかた、一念の欲心もおこさず、こころの浄いこと、あたかも仏のごとくである。
 そのとき、菩薩は、つぎのようにおもう、
『衆生は、長夜の生死のなかで、五欲をおもい、五欲をたのしみ、五欲に執著し、五欲にさまよい、五欲に沈没して、五欲から出ることができない。
 わたしは、いま、もろもろの魔王、天女、およびすべての衆生をして、無上の戒律を立てさせよう、また教えて、不退転注6の境地を得させ、究極のさとりを完成させよう。
 なぜなら、これがわたしのつとめであり、一切の諸仏は、みなこのように行じたもうからである。
 ありとあらゆるものは、むなしく、真実でなく、しばらくもとどまらず、堅固でない。それは、あたかもまぼろしのように、衆生をまどわす。
 一切の諸法は、夢のごとくであり、いなずまのごとくである、とさとるものは、よく生死をきわめ、涅槃に達することができる、また、煩悩を克服していない衆生をして克服せしめ、寂静になっていない衆生をして寂静ならしめ、清浄でない衆生をして清浄ならしめ、涅槃に達していない衆生をして涅槃に達せしめることができる。』と。
 これが菩薩の饒益行である。

B 無恚恨行 [忍耐]
 仏子よ、第三に、菩薩の無恚恨行とはなにか。
 この菩薩は、つねに忍耐の法を行じ、みずからへりくだって、ひとびとをうやまい、柔和な顔で、やさしいことばをつかい、みずからもそこなわず、他をもそこなわず、いつもつぎのようにおもう、
『わたしは、つねに衆生のために法を説いて、すべての悪を離れさせよう。すなわち、むさぼり、いかり、愚痴のこころ、高慢心、乱心、嫉妬心を離れさせ、大きな智慧のなかにこころ安らかならしめよう。』と。
 菩薩が、このような忍耐の法を完成すれば、たとい無数の衆生が、悪声をはなって、菩薩をののしり、はずかしめ、また、もろもろの武器をもって、危害をくわえようとも、菩薩は、いつもつぎのようにおもう、
『もしわたしが、この苦しみによって、いかりの心をおこすなら、わたしみずから、煩悩を克服せず、寂静にいたらず、真実でなく、自分の身を愛著することになろう。まして、相手をして歓喜のこころをおこし、迷いから脱せしめることが、どうしてできようか。』と。
 また、菩薩は、つぎのようにおもう、
『この身心のために、はかり知れない長いあいだ、もろもろの苦悩をうける。そこで、みずからこころをはげまし、みずから煩悩を克服しよう。なぜかというに、わたしは、無上の法において安住すべきであるから。』と。
 さらに、菩薩は、衆生をしてこの法を得させようとねがい、つぎのようにおもう、
『この身は、空寂で、我もなく、我のはたらきもなく、真実の本性もない。すべての苦も楽も、その実体がない。すべては空であることを、わたしはよく了解して、ひとびとのために、ひろく説こう。
 たとい、わたしがいま、苦悩や危害に遭遇しても、よくそれを忍ぶべきである。すなわち、衆生をあわれみ、衆生を安んぜしめ、衆生をおさめとり、衆生をして不退転の境地を得させ、ついには無上のさとりを完成せしめようとおもい、仏の行じたもうところの法を、わたしもまた行ずべきである。』と。
 これが菩薩の無恚恨行である。

C 無尽行 [精進]
 仏子よ、第四に、菩薩の無尽行とはなにか。
 この菩薩は、すぐれた、さまざまの努力精進を行ずる。
 この菩薩は、五欲のために、心みだれず、いかり、愚痴、高慢、嫉妬、うらみのために、なやむことがない。
 また、菩薩は、つぎのようにおもう、
『いかなる衆生をも、なやまそうとおもわないがゆえに、精進を行ずる。
 さらに、すべての煩悩をはなれようとおもい、すべての衆生の生死、煩悩、希望、心のはたらきを知ろうとおもい、諸仏の真実の法を知ろうとおもい、清浄な平等の法を知ろうとおもい、諸仏は無量無辺で、不可思議であることを知ろうとおもうがゆえに、精進を行ずる。』と。
 菩薩が、このような精進を完成するとき、ひとは、つぎのように問うであろう、
『無数の世界の、一々の衆生のために、あなたは、はかり知れない長いあいだ、地獄の苦しみをうけて、その衆生をして、涅槃に達せしめようとおもうか。
 また、無数の諸仏が、世にお出ましになり、無数の衆生をして、種々の楽しみをうけさせても、なおあなたは、つぶさに地獄の苦しみをなめたのち、はじめて無上のさとりを完成しようとおもうか。』と。
 菩薩はこれに答えていう、
『わたしは、無数の世界の、一々の衆生のために、地獄の苦しみをうけよう。また、諸仏が世にお出ましになり、衆生が、そのために楽しみをうけても、わたしは、地獄の苦しみをなめたのちに、はじめて無上のさとりを完成しよう。』と。
 また、ひとは問うであろう、
『たといあなたが、一本の毛をもって、もろもろの大海水をくみつくし、また、無数の世界をくだいて、こなみじんとなし、そのしずくやちりを、ことごとくかぞえて、ながい年月をへても、なおあなたは、さとりのこころを離れないであろうか。』と。
 菩薩は、このようなことばをきいても決して退かず、後悔せず、よろこびいさんで、精進を行じ、そして、つぎのようにおもう、
『わたしは、善事を得ることができた。無量無辺の世界の衆生は、わたしによって、とこしえに苦しみを離れるであろう。』と。
 さらに、菩薩は、つぎのようにおもう、
『わたしは、一切の衆生にかわって、一切の苦しみをうけよう、そして、一切の衆生をして、ことごとく涅槃に至らしめたのち、はじめてわたしは、無上のさとりを完成しよう。』と。
 これが菩薩の無尽行である。

D 離癡乱行 [禅定]
 仏子よ、第五に、菩薩の離癡乱行とはなにか。
 この菩薩は、いかなる場合にも心を乱すことがなく、測りしれないほどの長いあいだ、正法をききつづけている。
 菩薩は正法をききながら、いまだかつて正法から退いたことがない。なぜかというに、菩薩が仏道を行ずるとき、いまだかつて衆生の三昧を乱したことがなく、また、正法や智慧をたち切ったことがないからである。
 菩薩は、他人の悪口をきいても、また、ほめことばをきいても心の乱れることがない。禅定も乱れず、菩薩行も乱れず、菩提心を訓練することも乱れず、念仏三昧も乱れず、衆生を教えみちびく智慧も乱れない。
 菩薩は、禅定のなかで、すべての音声のすがたを観察し、その本性を知っている。たとい他人から、すききらいの声をきいても、愛憎の念をおこすことがない。なぜなら菩薩は、すべての声は実体がなく、無差別である、と知っているからである。
 菩薩は、動作、ことば、こころを寂めているから、さとりから退くことがない。そして、禅定に安住し、智慧は深くなり、すべての音声をはなれた三昧を獲得し、慈悲のこころをやしない、一念一念のなかで、無量の三昧を得、ついには一切の智慧を完成するに至るであろう。
 菩薩は、他人の悪声をききおわって、つぎのようにおもう、
『わたしは、すべての衆生をして、清らかなこころにやすらわしめ、すべての智慧を得さしめ、ついには大いなる涅槃の世界を完成せしめよう。』と。
 これが菩薩の離癡乱行である。

E 善現行
 仏子よ、第六に、菩薩の善現行とはなにか。
 この菩薩は、動作、ことば、こころを寂めており、すべてのものは実体がないという智慧に達している。
 菩薩の動作、ことば、こころには、束縛もなく、解脱もない、それゆえ、菩薩のふるまいは、もとづくところなく、とどまるところがない、ただ心にしたがって現われ、心にしたがってうごく
 菩薩は、つぎのようにおもう、
『すべての衆生は、無性を性としており、ありとあらゆるものは、寂滅を性としており、すべての仏国土は、無相を相としている。
 過去、現在、未来の三世をきわめてみると、ことごとく無性で、ことばもおよばず、おもいもとどかず、ありとあらゆるものにおいて、もとづくところがない。』と。
 菩薩は、このように、ふかい真理をさとり、すべての世界は、ことごとく寂滅であるとさとり、一切諸仏の甚深の妙法をさとり、仏法と世間法とは、同一であって、区別がない、とさとっている。
 菩薩は、世間の法は、仏法に入り、仏法は世間の法に入り、しかも、仏法と世間の法とはたがいに乱れることがない、とさとっている。
 菩薩は、三世の平等な真理に安住して、菩提心を捨てず、衆生を教えみちびく心をすてず、大慈大悲の心をやしなって、すべての衆生を救おうとねがい、つぎのようにおもう、
『わたしが、衆生の徳を完成しなければ、たれが完成し得よう。わたしが、衆生の煩悩を克服しなければ、たれが克服し得よう。わたしが、衆生のなやみをしずめなければ、たれがしずめ得よう。わたしが、衆生のこころを浄めなければ、たれが浄め得よう。』と。
 また菩薩は、つぎのようにおもう、
『衆生の徳が、まだ完成していないのに、自分だけがさとり向うことは、あやまっている。わたしは、まず衆生を教えみちびき、限りなく長いあいだ菩薩の行をおさめ、衆生の徳を完成せしめよう。』と。
 菩薩が、このような行に安住するとき、さまざまの神々、出家者や在家者などが、この菩薩を見て、こころから、よろこび、うやまう。
 もし衆生が、この菩薩をとうとび、礼拝し、その教えにしたがえば、ついには無上のさとりをきわめることができるであろう。
 これが菩薩の善現行である。

F 無著行
 仏子よ、第七に、菩薩の無著行とはなにか。
 菩薩は、執著(しゅうじゃく)のないこころをもって、一念一念のうちに、無数の仏国土を観察し、無数の如来のみもとにいたって、礼拝し、供養する。
 菩薩は、仏の光明をうけても、心に執著しない。また、仏の説法をきいても、あるいは、十方世界のなかにはたらいても、または、如来や菩薩や、一切の大衆のなかにおいても、心に執著しない。
 菩薩は、清浄でない国を見ても、心ににくしみを感じない。なぜかというに、菩薩は、そのこころ寂滅で、すべては平等である、と知っているからである。すなわち、すべては、清浄でもなく、不浄でもなく、闇黒でもなく、光明でもなく、分別もなく、無分別もなく、虚妄でもなく、真実でもなく、安楽でもなく、危険でもなく、正道でもなく、邪道でもない、と。
 このように菩薩は、あらゆるものの真実のすがたを観察し、衆生の本性に入って、教えみちびき、その徳を完成し、しかもこころに執著するところがない。
 また菩薩は、菩薩のこころを捨てないで、仏の世界に安住しながら、執著せず、種々のことばの道に入り、衆生の道に入りながら、その道において執著せず、もろもろの禅定をわきまえ、ことごとくそのなかに入りながら、こころに執著せず、無数の諸仏の国土にいたり、その仏国を見ても執着せず、あるいは、その仏国を去っていくも、未練をのこさない。
 そのとき、菩薩は、一切の衆生がもろもろの苦をうけるのを見て、大悲心をおこし、つぎのようにおもう、
『わたしは、十方世界の一々の衆生のために、測り知れないほどのながいあいだ、つねに衆生とともに安住して、その徳を完成せしめ、いかなる場合にも、衆生を捨てようとは、ちりばかりもおもうまい。』と。
 このように、菩薩は、一念一念に大悲心をいだいて、とだえることがなく、しかも衆生において執著しない。
 また菩薩は、すべての菩薩行を学習して、身にそなえ、しかも、身体に執著せず、真理に執著せず、こころに執著せず、ねがいに執著せず、禅定に執著せず、寂静に執著せず、深い真理の世界に入ることに執著せず、衆生を教えみちびき、その徳を成就せしめることに執著しない
 なぜかというに、菩薩は、つぎのように観察しているからである。すなわち、一切の世界は、まぼろしのごとく、諸仏の説法は、いなずまのごとく、菩薩のおこないは、ゆめのごとく、きくところの仏法は、ひびきのごとくである、と。
 菩薩は、一念のなかで、あまねく十方世界に満ちて、菩薩の行をおさめる。その行の広大なること、あたかも法界のごとくであり、つき抜けていて、ほとりのないこと、あたかも虚空のごとくである。
 菩薩は、このように、ありとあらゆるものが、無我であることを観察し、大悲心をおこして、すべてのひとびとをすくい、まだ徳を成就していないものは、成就せしめ、まだ煩悩を克服していないものは、克服せしめ、世間を超越しておりながら、しかも世間にしたがおう、とねがう。
 これが菩薩の無著行である。

G 尊重行
 仏子よ、第八に、菩薩の尊重行とはなにか。
 この菩薩は、つねに、諸仏のすぐれた真理をたのしみ、ひたすら無上のさとりをもとめて、しばらくも菩薩の大願をすてず、測り知れないほどのながいあいだ、菩薩の道をおさめている。
 菩薩は、一念一念のなかで、限りない生死の苦難を転換して、菩薩の大願をそだてている。もし衆生が、この菩薩をうやまい、礼拝し、かつその願いをきくことができれば、衆生は、不退転の位に安住し、かならず、無上のさとりを完成することができるであろう
 菩薩は、ひとりの衆生を無視して、多くの衆生に執著せず、また、多くの衆生を無視して、ひとりの衆生に執著しない。なぜなら、衆生の世界と、真理の世界とは、二つでないことをさとっているからである。
 このように、菩薩は、深い真理の世界をさとって、すがたなきすがたに安住し、あらゆる仏国土に身をあらわしても、その仏国土に執著しない
 また菩薩は、すべてのことがらに対して、欲望をはなれていても、しかも、菩薩の道をやめず、菩薩の行をすてない。
 菩薩のおさめている功徳の蔵は、つくすことができず、衆生を教えみちびくこともまた、つくすことができない。すなわち、菩薩は、究極のさとりに達しているのでもなく、達していないのでもない執著をはなれているのでもなく、はなれていないのでもない世間のことがらでもなく、仏の真理でもなく、凡夫でもない
 菩薩は、このように、尊重智慧のこころを成就して、つねに菩薩の行をおさめ、すべての衆生をして、永久に悪道をはなれしめ、衆生をおしえみちびいて、三世諸仏の真理のなかに安住せしめる。
 そしてつぎのようにおもう、
『すべての衆生は、恩義を知らずに、たがいに傷害しあい、よこしまなこころはもえさかって、正道をくらまし、煩悩さかんにして、無智のやみにおおわれている。わたしは、ただ、すべての衆生の煩悩を克服し、すべての衆生を浄め、かつすくおうとおもうだけである。』と。
 これが菩薩の尊重行である。

H 善法行
 仏子よ、第九に、菩薩の善法行とはなにか。
 この菩薩は、一切衆生のために、清らかな法の池となり、正法をまもって、仏種をたやさない。
 菩薩は、衆生のもとめに応じ、能力にしたがって法を説き、一々のことばに、無量の意味を含めて、ひとびとをよろこばせる。
 たとい、衆生が、無数のことばを知り、無量の宿業や因果応報を知っており、そのような衆生が、かず限りなく、世界に充ちあふれていても、菩薩は、そのなかにあって、一つの真理のことばをもって、これらのひとびとのこころを目ざめさせる。
 そのとき、菩薩は、つぎのようにおもう、
『一本の毛の端のところにも、わずか一念のあいだに、無数の衆生が来りあつまり、このようにして、一念一念のあいだに、過去、現在、未来にわたって、来りあつまっても、なお衆生は尽きることがないであろう。
 しかも、たとい、その衆生のことばは同じでなく、その問うところは、それぞれちがっていても、わたしは、そのような衆生の問題をすべて聞いて、心にすこしもおそれるところがなく、ただ一言をもって、疑いの網をうちやぶり、ひとびとをして、ことごとく歓喜せしめよう。』と。
 菩薩が法を説くことばは、真実で、ひとこと、ひとことのなかに、無量の智慧がふくまれており、その智慧の光は、一切の世界を照らし、衆生の功徳を完成する。
 菩薩は、善法行に安住し、おのずから清浄となり、すべての衆生をおしえみちびく。

 仏子よ、この菩薩には、「十種の身体」がある。
@ 第一に、無量無辺の法界に入る身。それは、すべての世間を超越している。
A 第二に、未来身。それは、いかなる国土にも生まれることができる。
B 第三に、不生身。それは、いまだかつて生じたことがないという真理を得ている。
C 第四に、不滅身。すべての諸法は、ことばで言いあらわすことができない。
D 第五に、真実身。それは、真実の道理を体得している。
E 第六に、無智を離れている身。それは、衆生のもとめに応じて、教えみちびく。
F 第七に、過去も未来もない身。それはここで死に、あそこで生まれる、ということが全くない。
G 第八に、不壊の身。法界の本性は破壊することができない。
H 第九に、一相の身。過去現在未来はあらわしようがない。
I 第十に、無相の身。それは、よく諸法のすがたをわきまえている。
 菩薩は、このような十種の身体を完成し、一切衆生のために、みずから家となる。なぜなら、善の能力をやしなっているから。
 菩薩は、一切衆生の救い手となる。なぜなら、衆生に恐れのない心を与えるから。
 菩薩は、一切衆生の帰依注7となる。なぜなら衆生をして、やすらかな世界に安住せしめるから。
 菩薩は、一切衆生の導き手となる。なぜなら、衆生に、無上道にいたる門をひらき示すから。
 菩薩は、一切衆生の師となる。なぜなら、衆生をして、真実の法に入らしめるから。
 菩薩は、一切衆生のともしびとなる。なぜなら、衆生に、因果応報をおしえるから。
 菩薩は、一切衆生の明智となる。なぜなら、衆生をして、甚深の仏法を得しめるから。
 菩薩は、一切衆生の光となる。なぜなら、衆生に、如来の自在力をあらわし出すから。
 これが菩薩の善法行である。
 この菩薩は、善法行に安住し、一切衆生のために、清らかな法の池となる。甚深微妙(じんじんみみょう)の仏法の源底を得ているがためである。

I 真実行
 仏子よ、第十に、菩薩の真実行とはなにか。
 この菩薩は、真理のことばを成就し、そのことば通りに行じ、行ずるとおりに説法する。
 菩薩は、三世諸仏の真実のことばをまなび、三世諸仏の本性に入り、三世諸仏の功徳とひとしい。
 菩薩は、また、つぎのようにおもう、
『一切衆生が、無量の苦しみをうけるのを見て、わたしは、これを救おうとおもう。もし、まだ衆生を救わないうちに、みずからのさとりを完成するならば、これは適当でない。
 わたしは、まず菩薩の大願を満足したのちに、一切衆生をして、さとりを求めしめ、究極の涅槃を完成せしめよう。
 なぜかというに、衆生は、わたしに依頼して菩提心をおこすのではない。わたしみずから、菩提心をおこし、あまねく衆生をして、あらゆる種類の智慧を得しめようとおもうからである。
 わたしは、一切において、もっともすぐれている。なぜかというに、衆生に執著しないからである。
 わたしは、一切において、最高者である。なぜかというに、衆生を統御しているからである。
 わたしは、一切の闇をはなれている。なぜかというに、衆生の空なることをさとっているからである。
 わたしは、得べきことを得ている。なぜかというに、根本の願いを身につけているからである。
 わたしは、善をおさめとっている。なぜかというに、三世諸仏にまもられ、念ぜられているからである。』と。
 菩薩は、根本の願いを捨てないから、無上の智慧に入ることができる。
 菩薩は、一切衆生のもとめに応じて、教えみちびき、その根本の願いにしたがって、衆生ののぞみを満足せしめ、ことごとく清浄ならしめる。
 菩薩は、一念一念のなかで、あまねく十方の世界にあそび、一念一念のなかで、無量の仏国にいたり、一念一念のなかで、無量の諸仏を見たてまつる。
 菩薩は、如来の自在な神通力をあらわし出し、そのこころは、法界、虚空界にひとしく、その身は、無量で、衆生のもとめに応じてあらわれ、身心ともに、さまたげられるところがなく、もとづくところがない。
 菩薩自身のなかにおいて、一切衆生、一切諸法、三世の諸仏が、ことごとく、あらわれている。
 菩薩は、衆生の、種々のおもい、種々の欲望、種々の業報注8を知り、衆生のもとめに応じて、その身をあらわし、衆生のなやみをしずめる。
 菩薩は、大悲心に安住し、甚深の仏法をおさめ、寂静の世界をきわめている。仏力を得て、自由自在に、因陀羅網(無尽縁起)の法界に入り、如来の解脱を成就し、智慧の大海をきわめ、つねに、一切衆生のために活動している。
 これが菩薩の真実行である。」

 そのとき、仏の神通力のために、十方の世界は、六種に震動し、天から、はなの雨、かおりの雨、かずらの雨、たからの雨が、ふってきた。また、天の光明は、あまねく一切を照らし、天の音楽は、おのずから、微妙なひびきをかなではじめた。
 そのとき、十方無数の仏国土から、十方無数の菩薩たちが、来りあつまり、おのおの、功徳林菩薩にむかっていうに、
「なんと喜ばしいことであろう、仏子よ。あなたは、よく、もろもろの菩薩の行を説いてくださった。わたしたちは、あなたと同じ名前の、功徳林であり、わたしたちの国土は、功徳憧、わたしたちの仏は、普功徳である。
 仏子よ、わたしたちは、仏の神通力をうけて、この国土にいたり、あなたの説法のために、証をたてる。」






  

第十八章 十無尽蔵品

 本章は、前章とおなじように、第四会の本論にあたり、ここでは、十種の蔵を説き、それぞれの蔵が無尽であることをあらわしている。説き手は、まえと同様、功徳林菩薩である。

 功徳林菩薩は、もろもろの菩薩たちにむかって言うに、
「仏子よ、菩薩に十種の蔵があり、三世諸仏の説きたもうところである。
 十種の蔵とはなにか。信蔵戒蔵慚蔵(ざんぞう)愧蔵(ぎぞう)聞蔵(もんぞう)施蔵(せぞう)慧蔵正念蔵持蔵弁蔵である。

@【信蔵】  第一に、菩薩の「信蔵(しんぞう)」とはなにか。
 この菩薩は、一切諸法は、空であると信じ、一切諸法は、形態がないと信じ、一切諸法には、これをつくる主体がないと信じ、一切諸法は、不生注1である、と信じている。
 もし菩薩が、このような信心を完成すれば、たとい、諸仏、衆生、法界、涅槃界などの、不可思議であることを聞いても、心におどろきをおぼえない。また、たとい、過去世、未来世、現在世の、不可思議であることを聞いても、心におどろきをおぼえない。
 なぜかというに、菩薩は、諸仏のみもとにおいて、ひたすら、信心堅固で、くずれることがないからである。
 その仏は、尽きることのない、ほとりのない智慧を、そなえておられる。
 しかも、十方世界のなかで、三世無数の諸仏が、世にお出ましになり、十分に、仏のはたらきを終えられて、涅槃に入りたもうている。
 諸仏の智慧は、増すこともなく、減ることもなく、生ずることもなく、滅することもない。
 菩薩は、このような無辺無尽の信蔵を完成すれば、如来の大力に乗ってすすみ、すべての仏法をまもり、菩薩の一切の徳をやしない、如来の一切の徳にしたがい、一切諸仏の方便から生まれている。
 この信蔵は、決して退くことのない信、乱れることのない信、こわれることのない信、執著することのない信、如来本性の信である。
 これが、菩薩の無尽の信蔵である。

A【戒蔵】  仏子よ、第二に、菩薩の「戒蔵」とはなにか。

 この菩薩は、種々の戒を成就する。すなわち、
@ 一つには、饒益戒である。菩薩は、衆生のために働き、衆生を安楽にする。
A 二つには、不受戒である。菩薩は、外道の戒を受けないで、三世諸仏の平等の戒をまもる。
B 三つには、無着戒である。菩薩は、いかなる世界の戒にも執著しない。
C 四つには、安住戒である。菩薩は、いかなる戒をもやぶることなく、清浄にして、疑いも悔いもない戒を成就する。
D 五つには、不諍戒である。菩薩は、つねに涅槃に向う戒にしたがい、この戒のために、衆生を悩ますことはしない。菩薩が戒をたもつのは、ただ衆生の利益をおもい、衆生をよろこばせるためである。
E 六つには、不悩害戒である。菩薩は、戒をたもつことによって、衆生をなやませたり、呪術を学んだりすることはない。なぜかというと、菩薩は、衆生を救いまもるために、戒をたもつからである。
F 七つには、不雑戒(ふぞうかい)である。菩薩は、かたよった見解をはなれ、ただ因縁を観察して、清浄の戒をたもつ。
G 八つには、離邪命戒である。菩薩は、ただ清浄の戒をたもって、ひたすら仏法をもとめ、一切の智慧を成就しようとおもうだけである。
H 九つには、不悪戒である。菩薩は、みずからたかぶって、『わたしは、戒をたもっている。』とはいわない。また、戒を犯すひとを見ても、これをいやしみ、ののしって、なやますことはしない。ただ、一心に戒をたもつだけである。
I 十には、清浄戒である。菩薩は、傷害、ぬすみ、よこしまな性関係、虚言、悪口、二枚舌、むさぼり、いかり、愚痴、よこしまな見解、などから離れて、ひたすら、戒をたもつ。
 そのとき、菩薩は、おもうように、
『もし衆生が、戒をおかすならば、それは、衆生の顛倒(てんどう)注2によるものである。一切の諸仏は、衆生は顛倒によって戒をおかす、ということを知っておられる。そこで、わたしは、ひたすら仏道を求め、無上のさとりを完成し、ひろく衆生のために、真実の法を説き、顛倒をはなれ、清浄の戒をたもたしめ、ことごとく無上のさとりを成就せしめよう。』と。
 これが、菩薩の無尽の戒蔵である。

B【慚蔵】  仏子よ、第三に、菩薩の「慚蔵注3」とはなにか。
 この菩薩は、みずから、自分の過去世をおもうのに、
『わたしは、限りない昔から、親、兄弟のなかで、罪をおかしてきた。あるいは、相手をあなどって、みずからたかぶったり、あるいは、心が乱れて、節義を失ったり、あるいは、腹をたてて、親しみがなくなったり、このように、迷いまどうて、いろいろな悪をつくってきた。一切衆生もまた、そのとおりで、もろもろの罪をおかしている。どうして、これでよいことがあろう。
 そこでわたしは、みずから罪をはじ、さとりを完成し、また、衆生のために真実の法を説き、衆生をして罪をはじさせ、さとりを完成させよう。』と。
 これが、菩薩の無尽の慚蔵である。

C【愧蔵】  仏子よ、第四に、菩薩の「愧蔵」とはなにか。
 この菩薩は、みずから恥じておもうに、
『わたしは、昔から、感覚の対象や、妻子兄弟や、財産や宝物などを、むさぼりもとめて、満足することがなかった。こうしたことは、やめなくてはならない。』と。
 また、つぎのようにおもう。
『衆生は、毒心をいだいて、たがいに傷つけあっている。それを、すこしも恥としない。このために、迷いのふちに沈んで、はかり知れない苦悩をうけている。三世の諸仏は、ことごとく、これを見通しておられる。
 わたしは、自分の行為をみずから恥じて、さとりを完成し、ひろく衆生のために、この真理を説いて、仏道を完成せしめよう。』と。
 これが、菩薩の無尽の愧蔵である。

D【聞蔵】  仏子よ、第五に、菩薩の「聞蔵」とはなにか。
 この菩薩は、多くの真理を聞く。
 たとえば、菩薩は、或ることがあるから、他のことがあり、或ることがないから、他のことがない、或ることがおこるから、他のことがおこり、或ることが滅するから、他のことが滅する、という相対関係を知っている。
 あるいはまた、菩薩は、この世界における真理、この世界を超越している真理、形のある世界の真理、形のない世界の真理などを知っている。
 菩薩は、つぎのようにおもう。
『衆生は、迷いの世界に、流れ流れて、仏道におさめることを知らない。
 そこでわたしは、つとめはげんで仏道をまなび、一切諸仏のおしえをたもって、無上のさとりを完成し、また、ひろく衆生のために真実の法を説いて、無上の仏道を完成せしめよう。』と。
 これが、菩薩の無尽の聞蔵である。

E【施蔵】  仏子よ、第六に、菩薩の「施蔵」とはなにか。

 この菩薩は、十種の施しをなす。すなわち、修習施法(しゅじゅうせほう)最後難施法内施法外施法内外施法一切施法過去施法未来施方現在施法究竟施法である。

@【修習施法
 一つに、菩薩の修習施法とはなにか。
 菩薩は、どんな珍品も、御馳走も、みずから執著しないで、すべてのひとびとに、めぐみほどこす。
 ほどこしたのちに、もし残りがあれば、みずからそれを食べて、つぎのようにおもう、
『わたしが、食事をするのは、わたしのからだのなかの、およそ八万ほどの虫のためである。わたしの身が、安楽であれば、かれらもまた、安楽であり、わたしの身が、うえにくるしめば、かれらもまた、うえにくるしむであろう。』と。
 このように、菩薩が食事をするのは、からだのなかの虫のためであって、その味をむさぼるのではない。
 また、菩薩は、つぎのようにおもう。
『わたしは、ながいあいだ、自分の身のために、たべもの、のみものを、むさぼり求めていた。わたしは、すみやかに、この身をはなれることに、つとめはげもう。』と。
 これが、菩薩の修習施法である。

A【最後難施法
 二つに、菩薩の最後難施法とはなにか。
 もし菩薩が、種々の御馳走や、衣服、その他の生活の具を、自分のために用いれば、長命をたもって、快適な人生をおくることができるのに、反対に、もしこれを、すべてのひとびとにほどこせば、菩薩は、困りはてて、命をはやめるであろう。そうした場合に、ひとりの乞食があらわれて、菩薩に、すべてを所望してきた。
 菩薩は、そのとき、こころにおもうよう、
『わたしは、これまで、命をおとしてきたことは、測り知れないが、ひとを救うために、自分の命を捨てたことは、まだ一度もなかった。幸いに、御馳走や衣服を得たことは、この上もないよろこびである。このさい、わたしは、命をすて、一切をささげて、衆生のためにつくし、大いなる施しを完成しよう。』と。
 これが、菩薩の最後の行じがたい施しである。

B【内施法
 三つに、菩薩の内施法とはなにか。
 菩薩は、若いときに、すがたが端麗で、おごそかで、その(おもて)は、ことにすぐれ、清らかな衣服を着し、かざりを身につけ、国王の位をうけて、天下をおさめていた。
 そのとき、ひとりの乞食があらわれて、王にむかって、いうに、
『わたしは、年老いて、病みおとろえ、孤独で、だれもかまってくれるものがない。このままでいたら、かならず死んでしまうでしょう。
 大王よ、どうか、わたしをおたすけください。もしわたしが、あなたの王身を得ることができれば、わたしは、あなたの手足、血肉、脳髄などをもちいることができましょう。どうぞ、お慈悲をもって、わたしを、おあわれみください。』と。
 菩薩は、そこで、つぎのようにおもう。
『わたしの身も、やがては、乞食とおなじ運命になるであろう。もし死んでしまえば、なにひとつ施しをすることもできなくなる。では、すみやかに、この身を捨てて、かれのいのちを救おう。』
 とこころに念じ、菩薩は、よろこんで、わが身を乞食にほどこした。
 これが菩薩の内施法である。

C【外施法
 四つに、菩薩の外施法とはなにか。
 菩薩は、若いときに、すがたが端麗で、おごそかで、その(おもて)は、ことにすぐれ、清らかな衣服を着し、かざりを身につけ、国王の位をうけて、天下をおさめていた。
 そのとき、ひとりの乞食があらわれて、王にむかって、いうに、
『わたしは、年老いて、病みおとろえ、やがて、貧苦のなかで、いのちをおわるでしょう。
 これにひきかえ、大王は、すべての楽しみを身につけておられる。
 大王よ、どうか王位を、わたしに施してください。わたしは、天下をおさめて、王の幸福を満喫しましょう。』と。
 菩薩は、そこで、つぎのようにおもう、
『富貴は、はかないものである。それは、やがて、貧賎になれば、ひとに施しをすることもできず、その願いをかなえてやるわけにもいかない。
 では、すみやかに、王位をすてて、乞食のこころを満足させよう。』と。
 そこで、菩薩は、よろこんで、王位をあたえた。
 これが、菩薩の外施法である。

D【内外施法
 五つに、菩薩の内外施法とはなにか。
 菩薩は、若いときに、すがたが端麗で、おごそかで、その(おもて)は、ことにすぐれ、清らかな衣服を着し、かざりを身につけ、国王の位をうけて、天下をおさめていた。
 そのとき、ひとりの乞食があらわれて、王にむかっていうに、
『わたしは、年老いて、病みおとろえ、ひそかに、大王の生活をねがっています。
 大王よ、どうか、あなたの王身と、王位と、天下とをわたしに、おさずけください。』と。
 菩薩は、そこで、つぎのようにおもう、
『わが身と財宝とは、ともにはかないもので、やがてほろびていくであろう。
 わたしは、いま、年もわかく、力もさかんで、天下の富を有し、しかも、乞うものが、目の前にあらわれている。
 では、このはかないもののなかで、永遠の真実を求めよう。』と。
 菩薩は、このように、こころに念じ、よろこんで、内外のものを捨てて、乞食に施した。
 これが、菩薩の内外施法である。

E【一切施法
 六つに、菩薩の一切施法とはなにか。
 菩薩は、若いときに、すがたが端麗で、おごそかで、その面は、ことにすぐれ、香りのたかい湯に浴し、清らかな衣服を着し、かざりを身につけ、国王の位をうけて、天下をおさめていた。
 そのとき、ひとりの乞食があらわれて、王にむかっていうに、
『大王のお名前は、あまねく、世界に聞こえています。わたしは、自分の国で、王の名前をきき、はるばるやってきました。
 大王よ、どうか、わたしの望みにまかせて、この気持を満足させてください。』と。
 そして、その乞食は、王の、国や城、妻子、一族、手足血肉、頭脳など、すべてを求めてきた。
 そのとき、菩薩は、つぎのようにおもう、
『すべての自分に親しいものは、会えば、やがてわかれねばならない。いま、ひとに施さねば、そのねがいを遂げてやることはできないであろう。
 わたしは、すみやかに、貪愛のこころをはなれ、すべてを捨てて、ひとのためにつくそう。』と。
 菩薩は、このように、こころに念じ、よろこんで、乞食に、すべてを施した。
 これが、菩薩の一切施法である。

F【過去施法
 七つに、菩薩が過去の施法を実行する、とはなにか。
 菩薩は、過去の諸仏、菩薩のおこないや功徳をきいても、それに執著せず、妄想もおこさない。
 ただ、ひとびとを、教えみちびくために、身をあらわして、ひろく道を説き、衆生をして、仏法を完成せしめようとおもうだけである。
 また菩薩は、たとい、十方世界をたずねて、過去の諸法を観察しても、その実体を得ることができない。そこでかれは、つぎのようにおもう。
『過去の諸法を、ことごとくはなれよう。』と。
 これが、菩薩の過去の施法を実行することである。

G【未来施方
 八つには、菩薩が未来の施法を実行する、とはなにか。
 菩薩は、未来の諸仏、菩薩のおこないや、功徳をきいても、そのすがたをえがかず、こころに執著せず、その仏国に往生しようともおもわず、味わうこともなく、厭うこともなく、心をおさめて、散乱することがない。
 ただ、衆生を教え、みちびき、衆生をして、仏法を身につけさせようと願って、真実を観察するだけである。
 この真実の法は、その所在があるのでもなく、ないのでもなく、内にあるのでもなく、外になるのでもなく、遠くにあるのでもなく、近くにあるのでもない。
 これが、菩薩の未来の施法を実行することである。

H【現在施法
 九つに、菩薩が現在の施法を実行する、とはなにか。
 菩薩は、四天王、三十三天、夜摩天、兜率天などのさまざまな天上の世界、あるいは、声聞、縁覚の、功徳を身につけていることをきいても、そのこころは、まどわずみだれず、うれいをいだかず、つねに寂かで、執著するところがない。
 菩薩は、ただつぎのようにおもう、
すべての現象は、ことごとく夢のごとくであり、すべてのおこないは、みな真実でない衆生は、そのことを知らないから、まよいの世界に流転するのである。』と。
 菩薩は、衆生のために、ひろく法を説き、衆生をしてすべての悪をはなれて、仏道を完成せしめ、このように、みずから、菩薩の道をおさめて、こころにまどいがない。
 これが、菩薩の現在の施法を実行することである。

I【究竟施法
 十に、菩薩の究竟施法とはなにか。
 多くの衆生のなかには、眼、耳、鼻、手足などの、欠けたものがいる。これらのひとびとが、菩薩にむかっていうに、
『わたしどもは、不具者で、薄幸の身です。どうか、おめぐみによって、わたしどもを完全にしてください。』と。
 そこで菩薩は、よろこんで、自分のものをあたえた。
 そのために、菩薩は、たとい自分が、はかり知れないほどながいあいだ、不具者になっても、一念の悔いをも、おこさない。
 ただ菩薩は、みずから、自分の身を観察してみるに、すでに、受胎のときから、不浄で、悪臭をはなち、一片の真実もなく、骨節たがいに組みあって、血肉によっておおわれ、もろもろの孔からは、つねに不浄がながれ、かくして、ついには、しかばねとなる
 菩薩は、このように、わが身を観察して、一念の愛著をも、おこさない。
 また、菩薩は、つぎのようにおもう、
『この身は、もろく、またあやうい。どうして、この身に、愛著を生じよう。よろこんで、ひとびとに施し、そのねがいを満足せしめよう。そしてついには、衆生のこころを開いて、おしえみちびき、ことごとく、清浄の法身注4を得しめ、身心のすがたから、はなれさせよう。』と。
 これが、菩薩の究竟の施法である。
 以上が、菩薩の無尽の施法である。

F【慧蔵】  仏子よ、第七に、菩薩の「慧蔵」とはなにか。
 この菩薩は、かたちの世界や、こころの世界の苦悩、その苦悩の原因、その苦悩の消滅した涅槃、苦悩を消滅する方法を、あきらかに知っている。
 また、根本無智の苦悩、その原因、その滅した涅槃、消滅の方法をも、あきらかに知っている。
 また、声聞、縁覚、菩薩の、それぞれのおしえ、その涅槃をも、あきらかに知っている。
 では、菩薩は、どのように知っているのであろうか。
 菩薩は、ありとあらゆるものは、ことごとく宿業のむくいであり因縁にしたがって生じている、と知っている。
 それゆえに、すべてのものには、我の実体がなく、堅固でなく、真実でなく、ことごとく空である、と知っており、ひろく、衆生のために、真実の法を説いている。
 では、菩薩は、どのように説いているのであろうか。
 すなわち、『ありとあらゆるものは、毀れるものではない。』と。
 かたちの世界、こころの世界は、こわれるものではなく、根本無智も、こわれるものではなく、また、声聞、縁覚、菩薩の、それぞれのおしえも、こわれるものではない。
 なぜなら、ありとあらゆるものは、みずから生じたものでもなく、他によってつくられたものでもない、それは、不生であり、不滅であり、施すこともなく、受けることもなく、ことばによって、表しようがないからである。
 菩薩は、このような、無尽の慧蔵を完成し、おのずから、究極の道に到達している
 これが、菩薩の無尽の慧蔵である。

G【念蔵】  仏子よ、第八に、菩薩の「念蔵」とはなにか。
 この菩薩は、無智のやみを離れて、過去の、一生、十生、百生、ないし、はかり知れないほどの多くの生涯や、世界の生成消滅のくりかえしを、こころにおもいうかべる。
 また、菩薩は、一仏の名や、ないし、はかり知れないほどの多くの諸仏の名を、おもいうかべ、一仏の出現や、ないし、多くの諸仏の出現を、おもいうかべ、一仏の一説法や、多くの諸仏の多くの説法を、おもいうかべ、一つの煩悩や多くの煩悩を、おもいうかべ、一つの三昧や、多くの三昧を、おもいうかべる。
 菩薩の右[つまり上]のおもいには、十種ある。
 すなわち、@ 寂かなおもい、A 清らかなおもい、B にごりのないおもい、C 澄みとおるおもい、D ちりを離れたおもい、E 種々のちりを離れたおもい、F あかを離れたおもい、G ひかりかがやくおもい、H たのしむおもい、I さわりやへだてのないおもい、である。
 菩薩が、このおもいをなすとき、いかなる世間も、菩薩のこころを、みだすことはできず、いかなる悪魔も、そのこころを、うごかすことはできない。
 菩薩は、諸仏の真理を、こころに堅持し、あきらかに、そのむねをさとり、いまだかつて、あやまったことがない。
 これが、菩薩の無尽の念蔵である。

H【持蔵】  仏子よ、第九に、菩薩の「持蔵」とはなにか。
 この菩薩は、諸仏のところで、一つの経典、ないし、はかり知れないほどの多くの経典をまなび、一字一句も、忘れたことがない。一生のあいだも、忘れず、また、多くの生涯のあいだも、忘れたことがない。
 菩薩は、一仏、ないし、多くの諸仏の名を、ききおぼえている。また、一つの世界、ないし、多くの世界の名を、記憶している。また、一つの集会(しゅうえ)、ないし、多くの集会を、つかさどっている。また、一時の説法、ないし、多くの時の説法を、こころみている。また、一煩悩、ないし、多くの煩悩を、ききわけている。また、一つの三昧、ないし、多くの三昧に出入している。
 これが、菩薩の無尽の持蔵である。

I【弁蔵】  仏子よ、第十に、菩薩の「弁蔵」とはなにか。
 仏子よ、第十に、菩薩の弁蔵とはなにか。
 この菩薩は、深い智慧を完成し、ひろく衆生のために、もろもろの真理を、のべつたえている。
 菩薩は、一つの経典の真理、ないし、はかり知れないほどの多くの経典の真理を説き、また、一仏の名、ないし、無数の諸仏の名を説き、また、一つの世界、一つの集会、一つの説法、一つの煩悩、一つの三昧、ないし、それぞれ無数の、世界、集会、説法、煩悩、三昧を説いている。
 あるいは、一日に、一句一味の法を説いて、しかも尽きることがない。
 たとい、時のながれを尽くすことがあっても、一句一味の説法を尽くすことはできないであろう。
 なぜかというに、この菩薩は、十種の無尽蔵を完成しているからである。また、それゆえに、一切の仏法をおさめている。陀羅尼注5をも得ている。
 菩薩は、この陀羅尼によって、ひろく衆生のために、仏法をのべつたえ、その妙なる音声は、十方の世界に満ち満ちて、衆生の煩悩をのぞき、衆生をして、ことごとく歓喜せしめる。
 菩薩は、すべての音声、言語、文字をきわめ、一切の衆生をして、如来の種子をたやさないようにさせ、仏法をのべつたえるのに、すこしも倦怠をおぼえない。
 なぜかというに、菩薩は、大虚空に充満する清浄の法身を、完成しているからである。
 これが、菩薩の無尽の弁蔵である。

 仏子よ、以上が、菩薩の十種の無尽蔵であり、これによって、一切の衆生は、無上のさとりを完成することができる。」



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初版:2003年5月20日