そのとき、功徳林菩薩は、仏の神通力をうけて善伏三昧注1にはいる。三昧に入りおわって、無数の諸仏を見たてまつる。この諸仏は、みな功徳林と名づけられている。
諸仏は、功徳林菩薩にむかっていわれるのに、
「なんとすばらしいことであろう、仏子よ、あなたはよく、この善伏三昧にはいった。
十方世界の無数の諸仏が、神通力をあたえられたために、あなたはこの善伏三昧にはいることができた。
そして、ヴィルシャナ仏の本願力と威神力と、および、もろもろの菩薩の善根の力とは、あなたをして、この三昧にいらしめ、やがて甚深の法を説かしめるであろう。
すなわち、菩薩は十行をおこすのは、一切の智慧をはぐくみ、のばすためであり、すべてのさわりをはなれて、なにものにも碍えられない世界にはいるためであり、真実に生きる無数の方便を得るためであり、すべての真理をきき入れて、身に行うためである。
仏子よ、あなたは、仏の神通力をうけて、このたえなる法を説くべきである。」
かくして諸仏は、功徳林菩薩に、さえられない智慧、安定した智慧、師を必要としない智慧、はかり知れない智慧、奪われることのない智慧をさずけられた。というのは、この三昧力は、法によってしからしめられたものだからである。
そのとき諸仏は、それぞれ右の手をさしのべて、功徳林菩薩のあたまをなでられる。すると菩薩は、三昧からたちあがり、多くの菩薩たちにむかって十行の説法をはじめた。
「もろもろの仏子よ、菩薩のはたらきは、おもいはかることができない。それは、広大なること、あたかも法界のごとくであり、きわまりつきていること、あたかも虚空のごとくである。
なぜなら菩薩は、三世諸仏の行ずるところをまなんでいるからである。
仏子よ、菩薩には、三世諸仏の説きたもうところの十行がある。
【十行】
十行とはなにか。歓喜行、饒益行、無恚恨行、無尽行、離癡乱行、善現行、無著行、尊重行、善法行、真実行である。
@ 歓喜行 [布施]
仏子よ、第一に、菩薩の歓喜行とはなにか。
この菩薩は、平等のこころをもって、自分のすべてのもちものを、一切衆生にめぐみほどこす。
ほどこしおわって、悔いることなく、むくいを求めず、名誉をのぞまず、すぐれた世界に生まれようとおもわない。
ただねがうところは、すべての衆生をすくい、おさめとり、そして、諸仏の行ずるところを心にかけ、まなび、身につけ、実現し、すべてのひとびとに、それを説こうとおもう。
これが、菩薩の歓喜行である。
菩薩が歓喜行を修するとき、すべての衆生は、よろこび、うやまう。
貧困のものがあれば、菩薩はおもむいて財宝をあたえる。
無数の衆生が、菩薩のところへきて言うに、
『わたしたちは貧乏で、なんの目あてもありません。どうかお慈悲をもって命をお救いください。』と。
菩薩は、その求めに応じて、ことごとく満足させ、よろこばせないことはない。
菩薩は、無上の大慈悲心をおこして、困っているものをつねに来らしめ、ますますこれをよろこばせて、つぎのようにおもう。
『わたしは、善事をうることができた。これらの衆生は、わたしの福田注3である、わたしのよき友である。
わたしが求めないのに、衆生みずから来て、わたしをおしえ、わたしを発心注4せしめ、仏道を修行せしめる。わたしは、このように修学して、あまねく衆生をよろこばせよう。
わたしが三世において修したところの功徳が、どうかすみやかに、清浄の法身を完成し、衆生の求めに応じて、ことごとく喜びを得させることができますように。またこの功徳をもって、もろもろの衆生が、ことごとく無上のさとりを成就することができますように。
わたしは、まず一切の衆生をして、その願いを満足させよう、そののちに、わたしのさとりを完成しよう。』と。
菩薩がこのようにおもうとき、菩薩は、施すものを見ず、それを受けるものを見ず、財物を見ず、福田を見ず、業を見ず、報いを見ず、結果を見ないのである。
菩薩は、三世の衆生を観察して、つぎのようにおもう。
『なんとあわれなことであろう。衆生は、愚痴におおわれ、煩悩にまとわれ、つねに生死にながれ、苦海にさまよい、すこしも堅固な真実を得ない。
わたしは、諸仏の学びたもうものをことごとく学び、衆生のために力をつくし、衆生をしてさとりを完成せしめよう。』と。
これが菩薩の歓喜行である。
A 饒益行 [戒律]
仏子よ、第二に、菩薩の饒益行とはなにか。
この菩薩は、戒律をたもつことが清らかで、どのような感覚の対象においても、こころは執著せず、衆生のためにも、無執著の法を説いて、みずからの利益を求めない。ただかたく戒律をたもって、つぎのようにおもう、
『この五欲注5は、仏道のさまたげになる。これに執著しては、無上のさとりを完成することができない。』と。
そこで菩薩は、みずから仏を見たてまつってからこのかた、一念の欲心もおこさず、こころの浄いこと、あたかも仏のごとくである。
そのとき、菩薩は、つぎのようにおもう、
『衆生は、長夜の生死のなかで、五欲をおもい、五欲をたのしみ、五欲に執著し、五欲にさまよい、五欲に沈没して、五欲から出ることができない。
わたしは、いま、もろもろの魔王、天女、およびすべての衆生をして、無上の戒律を立てさせよう、また教えて、不退転注6の境地を得させ、究極のさとりを完成させよう。
なぜなら、これがわたしのつとめであり、一切の諸仏は、みなこのように行じたもうからである。
ありとあらゆるものは、むなしく、真実でなく、しばらくもとどまらず、堅固でない。それは、あたかもまぼろしのように、衆生をまどわす。
一切の諸法は、夢のごとくであり、いなずまのごとくである、とさとるものは、よく生死をきわめ、涅槃に達することができる、また、煩悩を克服していない衆生をして克服せしめ、寂静になっていない衆生をして寂静ならしめ、清浄でない衆生をして清浄ならしめ、涅槃に達していない衆生をして涅槃に達せしめることができる。』と。
これが菩薩の饒益行である。
B 無恚恨行 [忍耐]
仏子よ、第三に、菩薩の無恚恨行とはなにか。
この菩薩は、つねに忍耐の法を行じ、みずからへりくだって、ひとびとをうやまい、柔和な顔で、やさしいことばをつかい、みずからもそこなわず、他をもそこなわず、いつもつぎのようにおもう、
『わたしは、つねに衆生のために法を説いて、すべての悪を離れさせよう。すなわち、むさぼり、いかり、愚痴のこころ、高慢心、乱心、嫉妬心を離れさせ、大きな智慧のなかにこころ安らかならしめよう。』と。
菩薩が、このような忍耐の法を完成すれば、たとい無数の衆生が、悪声をはなって、菩薩をののしり、はずかしめ、また、もろもろの武器をもって、危害をくわえようとも、菩薩は、いつもつぎのようにおもう、
『もしわたしが、この苦しみによって、いかりの心をおこすなら、わたしみずから、煩悩を克服せず、寂静にいたらず、真実でなく、自分の身を愛著することになろう。まして、相手をして歓喜のこころをおこし、迷いから脱せしめることが、どうしてできようか。』と。
また、菩薩は、つぎのようにおもう、
『この身心のために、はかり知れない長いあいだ、もろもろの苦悩をうける。そこで、みずからこころをはげまし、みずから煩悩を克服しよう。なぜかというに、わたしは、無上の法において安住すべきであるから。』と。
さらに、菩薩は、衆生をしてこの法を得させようとねがい、つぎのようにおもう、
『この身は、空寂で、我もなく、我のはたらきもなく、真実の本性もない。すべての苦も楽も、その実体がない。すべては空であることを、わたしはよく了解して、ひとびとのために、ひろく説こう。
たとい、わたしがいま、苦悩や危害に遭遇しても、よくそれを忍ぶべきである。すなわち、衆生をあわれみ、衆生を安んぜしめ、衆生をおさめとり、衆生をして不退転の境地を得させ、ついには無上のさとりを完成せしめようとおもい、仏の行じたもうところの法を、わたしもまた行ずべきである。』と。
これが菩薩の無恚恨行である。
C 無尽行 [精進]
仏子よ、第四に、菩薩の無尽行とはなにか。
この菩薩は、すぐれた、さまざまの努力精進を行ずる。
この菩薩は、五欲のために、心みだれず、いかり、愚痴、高慢、嫉妬、うらみのために、なやむことがない。
また、菩薩は、つぎのようにおもう、
『いかなる衆生をも、なやまそうとおもわないがゆえに、精進を行ずる。
さらに、すべての煩悩をはなれようとおもい、すべての衆生の生死、煩悩、希望、心のはたらきを知ろうとおもい、諸仏の真実の法を知ろうとおもい、清浄な平等の法を知ろうとおもい、諸仏は無量無辺で、不可思議であることを知ろうとおもうがゆえに、精進を行ずる。』と。
菩薩が、このような精進を完成するとき、ひとは、つぎのように問うであろう、
『無数の世界の、一々の衆生のために、あなたは、はかり知れない長いあいだ、地獄の苦しみをうけて、その衆生をして、涅槃に達せしめようとおもうか。
また、無数の諸仏が、世にお出ましになり、無数の衆生をして、種々の楽しみをうけさせても、なおあなたは、つぶさに地獄の苦しみをなめたのち、はじめて無上のさとりを完成しようとおもうか。』と。
菩薩はこれに答えていう、
『わたしは、無数の世界の、一々の衆生のために、地獄の苦しみをうけよう。また、諸仏が世にお出ましになり、衆生が、そのために楽しみをうけても、わたしは、地獄の苦しみをなめたのちに、はじめて無上のさとりを完成しよう。』と。
また、ひとは問うであろう、
『たといあなたが、一本の毛をもって、もろもろの大海水をくみつくし、また、無数の世界をくだいて、こなみじんとなし、そのしずくやちりを、ことごとくかぞえて、ながい年月をへても、なおあなたは、さとりのこころを離れないであろうか。』と。
菩薩は、このようなことばをきいても決して退かず、後悔せず、よろこびいさんで、精進を行じ、そして、つぎのようにおもう、
『わたしは、善事を得ることができた。無量無辺の世界の衆生は、わたしによって、とこしえに苦しみを離れるであろう。』と。
さらに、菩薩は、つぎのようにおもう、
『わたしは、一切の衆生にかわって、一切の苦しみをうけよう、そして、一切の衆生をして、ことごとく涅槃に至らしめたのち、はじめてわたしは、無上のさとりを完成しよう。』と。
これが菩薩の無尽行である。
D 離癡乱行 [禅定]
仏子よ、第五に、菩薩の離癡乱行とはなにか。
この菩薩は、いかなる場合にも心を乱すことがなく、測りしれないほどの長いあいだ、正法をききつづけている。
菩薩は正法をききながら、いまだかつて正法から退いたことがない。なぜかというに、菩薩が仏道を行ずるとき、いまだかつて衆生の三昧を乱したことがなく、また、正法や智慧をたち切ったことがないからである。
菩薩は、他人の悪口をきいても、また、ほめことばをきいても心の乱れることがない。禅定も乱れず、菩薩行も乱れず、菩提心を訓練することも乱れず、念仏三昧も乱れず、衆生を教えみちびく智慧も乱れない。
菩薩は、禅定のなかで、すべての音声のすがたを観察し、その本性を知っている。たとい他人から、すききらいの声をきいても、愛憎の念をおこすことがない。なぜなら菩薩は、すべての声は実体がなく、無差別である、と知っているからである。
菩薩は、動作、ことば、こころを寂めているから、さとりから退くことがない。そして、禅定に安住し、智慧は深くなり、すべての音声をはなれた三昧を獲得し、慈悲のこころをやしない、一念一念のなかで、無量の三昧を得、ついには一切の智慧を完成するに至るであろう。
菩薩は、他人の悪声をききおわって、つぎのようにおもう、
『わたしは、すべての衆生をして、清らかなこころにやすらわしめ、すべての智慧を得さしめ、ついには大いなる涅槃の世界を完成せしめよう。』と。
これが菩薩の離癡乱行である。
E 善現行
仏子よ、第六に、菩薩の善現行とはなにか。
この菩薩は、動作、ことば、こころを寂めており、すべてのものは実体がないという智慧に達している。
菩薩の動作、ことば、こころには、束縛もなく、解脱もない、それゆえ、菩薩のふるまいは、もとづくところなく、とどまるところがない、ただ心にしたがって現われ、心にしたがってうごく。
菩薩は、つぎのようにおもう、
『すべての衆生は、無性を性としており、ありとあらゆるものは、寂滅を性としており、すべての仏国土は、無相を相としている。
過去、現在、未来の三世をきわめてみると、ことごとく無性で、ことばもおよばず、おもいもとどかず、ありとあらゆるものにおいて、もとづくところがない。』と。
菩薩は、このように、ふかい真理をさとり、すべての世界は、ことごとく寂滅であるとさとり、一切諸仏の甚深の妙法をさとり、仏法と世間法とは、同一であって、区別がない、とさとっている。
菩薩は、世間の法は、仏法に入り、仏法は世間の法に入り、しかも、仏法と世間の法とはたがいに乱れることがない、とさとっている。
菩薩は、三世の平等な真理に安住して、菩提心を捨てず、衆生を教えみちびく心をすてず、大慈大悲の心をやしなって、すべての衆生を救おうとねがい、つぎのようにおもう、
『わたしが、衆生の徳を完成しなければ、たれが完成し得よう。わたしが、衆生の煩悩を克服しなければ、たれが克服し得よう。わたしが、衆生のなやみをしずめなければ、たれがしずめ得よう。わたしが、衆生のこころを浄めなければ、たれが浄め得よう。』と。
また菩薩は、つぎのようにおもう、
『衆生の徳が、まだ完成していないのに、自分だけがさとり向うことは、あやまっている。わたしは、まず衆生を教えみちびき、限りなく長いあいだ菩薩の行をおさめ、衆生の徳を完成せしめよう。』と。
菩薩が、このような行に安住するとき、さまざまの神々、出家者や在家者などが、この菩薩を見て、こころから、よろこび、うやまう。
もし衆生が、この菩薩をとうとび、礼拝し、その教えにしたがえば、ついには無上のさとりをきわめることができるであろう。
これが菩薩の善現行である。
F 無著行
仏子よ、第七に、菩薩の無著行とはなにか。
菩薩は、執著のないこころをもって、一念一念のうちに、無数の仏国土を観察し、無数の如来のみもとにいたって、礼拝し、供養する。
菩薩は、仏の光明をうけても、心に執著しない。また、仏の説法をきいても、あるいは、十方世界のなかにはたらいても、または、如来や菩薩や、一切の大衆のなかにおいても、心に執著しない。
菩薩は、清浄でない国を見ても、心ににくしみを感じない。なぜかというに、菩薩は、そのこころ寂滅で、すべては平等である、と知っているからである。すなわち、すべては、清浄でもなく、不浄でもなく、闇黒でもなく、光明でもなく、分別もなく、無分別もなく、虚妄でもなく、真実でもなく、安楽でもなく、危険でもなく、正道でもなく、邪道でもない、と。
このように菩薩は、あらゆるものの真実のすがたを観察し、衆生の本性に入って、教えみちびき、その徳を完成し、しかもこころに執著するところがない。
また菩薩は、菩薩のこころを捨てないで、仏の世界に安住しながら、執著せず、種々のことばの道に入り、衆生の道に入りながら、その道において執著せず、もろもろの禅定をわきまえ、ことごとくそのなかに入りながら、こころに執著せず、無数の諸仏の国土にいたり、その仏国を見ても執着せず、あるいは、その仏国を去っていくも、未練をのこさない。
そのとき、菩薩は、一切の衆生がもろもろの苦をうけるのを見て、大悲心をおこし、つぎのようにおもう、
『わたしは、十方世界の一々の衆生のために、測り知れないほどのながいあいだ、つねに衆生とともに安住して、その徳を完成せしめ、いかなる場合にも、衆生を捨てようとは、ちりばかりもおもうまい。』と。
このように、菩薩は、一念一念に大悲心をいだいて、とだえることがなく、しかも衆生において執著しない。
また菩薩は、すべての菩薩行を学習して、身にそなえ、しかも、身体に執著せず、真理に執著せず、こころに執著せず、ねがいに執著せず、禅定に執著せず、寂静に執著せず、深い真理の世界に入ることに執著せず、衆生を教えみちびき、その徳を成就せしめることに執著しない。
なぜかというに、菩薩は、つぎのように観察しているからである。すなわち、一切の世界は、まぼろしのごとく、諸仏の説法は、いなずまのごとく、菩薩のおこないは、ゆめのごとく、きくところの仏法は、ひびきのごとくである、と。
菩薩は、一念のなかで、あまねく十方世界に満ちて、菩薩の行をおさめる。その行の広大なること、あたかも法界のごとくであり、つき抜けていて、ほとりのないこと、あたかも虚空のごとくである。
菩薩は、このように、ありとあらゆるものが、無我であることを観察し、大悲心をおこして、すべてのひとびとをすくい、まだ徳を成就していないものは、成就せしめ、まだ煩悩を克服していないものは、克服せしめ、世間を超越しておりながら、しかも世間にしたがおう、とねがう。
これが菩薩の無著行である。
G 尊重行
仏子よ、第八に、菩薩の尊重行とはなにか。
この菩薩は、つねに、諸仏のすぐれた真理をたのしみ、ひたすら無上のさとりをもとめて、しばらくも菩薩の大願をすてず、測り知れないほどのながいあいだ、菩薩の道をおさめている。
菩薩は、一念一念のなかで、限りない生死の苦難を転換して、菩薩の大願をそだてている。もし衆生が、この菩薩をうやまい、礼拝し、かつその願いをきくことができれば、衆生は、不退転の位に安住し、かならず、無上のさとりを完成することができるであろう。
菩薩は、ひとりの衆生を無視して、多くの衆生に執著せず、また、多くの衆生を無視して、ひとりの衆生に執著しない。なぜなら、衆生の世界と、真理の世界とは、二つでないことをさとっているからである。
このように、菩薩は、深い真理の世界をさとって、すがたなきすがたに安住し、あらゆる仏国土に身をあらわしても、その仏国土に執著しない。
また菩薩は、すべてのことがらに対して、欲望をはなれていても、しかも、菩薩の道をやめず、菩薩の行をすてない。
菩薩のおさめている功徳の蔵は、つくすことができず、衆生を教えみちびくこともまた、つくすことができない。すなわち、菩薩は、究極のさとりに達しているのでもなく、達していないのでもない。執著をはなれているのでもなく、はなれていないのでもない。世間のことがらでもなく、仏の真理でもなく、凡夫でもない。
菩薩は、このように、尊重智慧のこころを成就して、つねに菩薩の行をおさめ、すべての衆生をして、永久に悪道をはなれしめ、衆生をおしえみちびいて、三世諸仏の真理のなかに安住せしめる。
そしてつぎのようにおもう、
『すべての衆生は、恩義を知らずに、たがいに傷害しあい、よこしまなこころはもえさかって、正道をくらまし、煩悩さかんにして、無智のやみにおおわれている。わたしは、ただ、すべての衆生の煩悩を克服し、すべての衆生を浄め、かつすくおうとおもうだけである。』と。
これが菩薩の尊重行である。
H 善法行
仏子よ、第九に、菩薩の善法行とはなにか。
この菩薩は、一切衆生のために、清らかな法の池となり、正法をまもって、仏種をたやさない。
菩薩は、衆生のもとめに応じ、能力にしたがって法を説き、一々のことばに、無量の意味を含めて、ひとびとをよろこばせる。
たとい、衆生が、無数のことばを知り、無量の宿業や因果応報を知っており、そのような衆生が、かず限りなく、世界に充ちあふれていても、菩薩は、そのなかにあって、一つの真理のことばをもって、これらのひとびとのこころを目ざめさせる。
そのとき、菩薩は、つぎのようにおもう、
『一本の毛の端のところにも、わずか一念のあいだに、無数の衆生が来りあつまり、このようにして、一念一念のあいだに、過去、現在、未来にわたって、来りあつまっても、なお衆生は尽きることがないであろう。
しかも、たとい、その衆生のことばは同じでなく、その問うところは、それぞれちがっていても、わたしは、そのような衆生の問題をすべて聞いて、心にすこしもおそれるところがなく、ただ一言をもって、疑いの網をうちやぶり、ひとびとをして、ことごとく歓喜せしめよう。』と。
菩薩が法を説くことばは、真実で、ひとこと、ひとことのなかに、無量の智慧がふくまれており、その智慧の光は、一切の世界を照らし、衆生の功徳を完成する。
菩薩は、善法行に安住し、おのずから清浄となり、すべての衆生をおしえみちびく。
- 仏子よ、この菩薩には、「十種の身体」がある。
- @ 第一に、無量無辺の法界に入る身。それは、すべての世間を超越している。
A 第二に、未来身。それは、いかなる国土にも生まれることができる。
B 第三に、不生身。それは、いまだかつて生じたことがないという真理を得ている。
C 第四に、不滅身。すべての諸法は、ことばで言いあらわすことができない。
D 第五に、真実身。それは、真実の道理を体得している。
E 第六に、無智を離れている身。それは、衆生のもとめに応じて、教えみちびく。
F 第七に、過去も未来もない身。それはここで死に、あそこで生まれる、ということが全くない。
G 第八に、不壊の身。法界の本性は破壊することができない。
H 第九に、一相の身。過去現在未来はあらわしようがない。
I 第十に、無相の身。それは、よく諸法のすがたをわきまえている。
菩薩は、このような十種の身体を完成し、一切衆生のために、みずから家となる。なぜなら、善の能力をやしなっているから。
菩薩は、一切衆生の救い手となる。なぜなら、衆生に恐れのない心を与えるから。
菩薩は、一切衆生の帰依
注7となる。なぜなら衆生をして、やすらかな世界に安住せしめるから。
菩薩は、一切衆生の導き手となる。なぜなら、衆生に、無上道にいたる門をひらき示すから。
菩薩は、一切衆生の師となる。なぜなら、衆生をして、真実の法に入らしめるから。
菩薩は、一切衆生のともしびとなる。なぜなら、衆生に、因果応報をおしえるから。
菩薩は、一切衆生の明智となる。なぜなら、衆生をして、甚深の仏法を得しめるから。
菩薩は、一切衆生の光となる。なぜなら、衆生に、如来の自在力をあらわし出すから。
これが菩薩の善法行である。
この菩薩は、善法行に安住し、一切衆生のために、清らかな法の池となる。
甚深微妙の仏法の源底を得ているがためである。
I 真実行
仏子よ、第十に、菩薩の真実行とはなにか。
この菩薩は、真理のことばを成就し、そのことば通りに行じ、行ずるとおりに説法する。
菩薩は、三世諸仏の真実のことばをまなび、三世諸仏の本性に入り、三世諸仏の功徳とひとしい。
菩薩は、また、つぎのようにおもう、
『一切衆生が、無量の苦しみをうけるのを見て、わたしは、これを救おうとおもう。もし、まだ衆生を救わないうちに、みずからのさとりを完成するならば、これは適当でない。
わたしは、まず菩薩の大願を満足したのちに、一切衆生をして、さとりを求めしめ、究極の涅槃を完成せしめよう。
なぜかというに、衆生は、わたしに依頼して菩提心をおこすのではない。わたしみずから、菩提心をおこし、あまねく衆生をして、あらゆる種類の智慧を得しめようとおもうからである。
わたしは、一切において、もっともすぐれている。なぜかというに、衆生に執著しないからである。
わたしは、一切において、最高者である。なぜかというに、衆生を統御しているからである。
わたしは、一切の闇をはなれている。なぜかというに、衆生の空なることをさとっているからである。
わたしは、得べきことを得ている。なぜかというに、根本の願いを身につけているからである。
わたしは、善をおさめとっている。なぜかというに、三世諸仏にまもられ、念ぜられているからである。』と。
菩薩は、根本の願いを捨てないから、無上の智慧に入ることができる。
菩薩は、一切衆生のもとめに応じて、教えみちびき、その根本の願いにしたがって、衆生ののぞみを満足せしめ、ことごとく清浄ならしめる。
菩薩は、一念一念のなかで、あまねく十方の世界にあそび、一念一念のなかで、無量の仏国にいたり、一念一念のなかで、無量の諸仏を見たてまつる。
菩薩は、如来の自在な神通力をあらわし出し、そのこころは、法界、虚空界にひとしく、その身は、無量で、衆生のもとめに応じてあらわれ、身心ともに、さまたげられるところがなく、もとづくところがない。
菩薩自身のなかにおいて、一切衆生、一切諸法、三世の諸仏が、ことごとく、あらわれている。
菩薩は、衆生の、種々のおもい、種々の欲望、種々の業報注8を知り、衆生のもとめに応じて、その身をあらわし、衆生のなやみをしずめる。
菩薩は、大悲心に安住し、甚深の仏法をおさめ、寂静の世界をきわめている。仏力を得て、自由自在に、因陀羅網(無尽縁起)の法界に入り、如来の解脱を成就し、智慧の大海をきわめ、つねに、一切衆生のために活動している。
これが菩薩の真実行である。」
そのとき、仏の神通力のために、十方の世界は、六種に震動し、天から、はなの雨、かおりの雨、かずらの雨、たからの雨が、ふってきた。また、天の光明は、あまねく一切を照らし、天の音楽は、おのずから、微妙なひびきをかなではじめた。
そのとき、十方無数の仏国土から、十方無数の菩薩たちが、来りあつまり、おのおの、功徳林菩薩にむかっていうに、
「なんと喜ばしいことであろう、仏子よ。あなたは、よく、もろもろの菩薩の行を説いてくださった。わたしたちは、あなたと同じ名前の、功徳林であり、わたしたちの国土は、功徳憧、わたしたちの仏は、普功徳である。
仏子よ、わたしたちは、仏の神通力をうけて、この国土にいたり、あなたの説法のために、証をたてる。」