華厳経 第三会
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華厳経

第三 トウ(小+刀)利天会

  

第九章 仏昇須弥品

 この章から第十四章までは第三天トウ利天である。前の第二会が信を中心に説かれたのにたいして、この第三会は十住が中心の主題となっている。すなわち前の信心にもとづいて、仏法の理解を十段に分けて説明していく。説法の場所は、第一第二会が地上であったのに対して、第三会は、須弥山のいただきにあるトウ利天であり、第四会以下は、さらに高く天上へと昇っていく。それは、説法が進むにつれて菩薩行も高まることと対応している。本章と次の章とは、この第三会の序章である。

 世尊(せそん)注1は、威神力(いじんりき)のゆえに、この悟りの座を離れないで、須弥山注2のいただきにのぼりたまい、トウ利天上の帝釈殿に向かわれた。
 そのとき、帝釈天は、はるかに仏の来りたまえるを見て、多くの宝をちりばめた席を設け、この上に宝の布を幾重にもかさねた。
 それから帝釈天は、仏に合掌礼拝して言うよう、
「よくお出でくださいました。世尊よ。どうか、わたしたちをあわれみたまいて、この宮殿におとどまりください。」
 世尊は、この願いをきき入れて、宮殿にのぼりたもうた。
 そのとき、帝釈殿の無量の音楽は、仏の威神力のために、寂としてしずまりかえった。
 帝釈天は、かつて過去仏のみもとにおいて、もろもろの菩薩行を行じたことをおもい出し、つぎのように言う。
迦葉仏(かしょうぶつ)注3は、大慈をそなえ、福徳円満である。かの仏は、かつてここにお出ましになった。それゆえに、この地はもっとも祝福されている。
 拘那含牟尼仏(くなごんむにぶつ)注4の智慧は、さわりがなくて、福徳円満である。かの仏は、かつてこおにお出ましになった。それゆえに、この地はもっとも祝福されている。
 拘樓孫仏(くるそんぶつ)注5の身体は、あたかも金山のごとく、福徳円満である。かの仏は、かつてこおにお出ましになった。それゆえに、この地はもっとも祝福されている。
 毘舎浮仏(びしゃぶぶつ)注6[隨葉如来]は、むさぼり、いかり、愚痴の三毒をはなれて、福徳円満である。かの仏は、かつてここにお出ましになった。それゆえに、この地はもっとも祝福されている。
 尸棄仏(しきぶつ)注7は、つねに寂まりかえって、福徳円満である。かの仏は、かつてここにお出ましになった。それゆえに、この地はもっとも祝福されている。
 毘婆尸仏(びばしぶつ)注8は、あたかも満月のごとく、福徳円満である。かの仏は、かつてここにお出ましになった。それゆえに、この地はもっとも祝福されている。
 然燈仏(ねんとうぶつ)注9[提舍如来]は、明らかに世界を照らし、福徳円満である。かの仏は、かつてここにお出ましになった。それゆえに、この地はもっとも祝福されている。」
 このように帝釈天は、仏の威神力をうけて、過去諸仏の功徳をほめたたえた。おなじように十方の帝釈天もまた、それぞれかつて修行したところの過去の諸仏をほめたたえた。
 そのとき世尊は、師子の座にのぼり、結跏趺坐したもうた。すると宮殿は、たちまち、つきぬけるようにひろがり、トウ利天とおなじ広さになった。十方の宮殿もまたおなじである。






  

第十章 菩薩雲集妙昇殿上説偈品

 本章は、前章とともに、第三トウ利天会の序章である。

 十方世界の一々の菩薩は、それぞれ多くの菩薩たちをひきいて、仏のみもとに集まり、合掌礼拝(がっしょうらいはい)した。この世界の須弥山のいただきに、菩薩たちが雲のように集まったごとく、十方の世界においてもまたおなじである。
 そのとき世尊が、両足の指から、美しい無数の光明を放って、十方世界の宮殿を照らしたもうと、そこに集っている菩薩の大衆が、光明のなかに浮かび上った。

 そのとき法慧菩薩(ほうえぼさつ)は、仏の神通力をうけて、あまねく十方世界を観察し、偈をもってつぎのようにいう。
「一切の諸仏は、須弥山のいただきの上の、帝釈の、妙勝殿(みょうじょうでん)に現われたもう。その諸仏のおともである無数の菩薩は、十方からやってきて結跏趺坐した。
 もろもろの仏子よ、つぎのように知るがよい。如来の威神力によって、一切の世界のなかで、それぞれの人の眼の前に仏がおられる、いま、われわれは、仏が帝釈の妙勝殿に坐したもうを見たてまつる、十方世界の妙勝殿もまた同様である、これは、ひとえに如来の自在力によるのである、と。
 一切世界のなかで、志しを立てて成仏を求めるものはまず清浄の願をおこし、菩薩行を修すべきである。
 菩薩は、測り知れないほどのながい間修行して、法界においてさわりがなく、十方を照らして愚痴のやみをのぞき、その力は、なにものにくらべようがない。」

 また、そのとき一切慧菩薩は、仏の神通力をうけて、あまねく十方世界を観察し、偈をもって次のようにいう。
「測りしれないほどの長いあいだ、つねに如来を見たてまつろうとしても、この正法のなかで、なお真実を見ることができない。妄想にとらわれて生死(しょうじ)のなかに輪廻し、心の眼はつぶれたままで、仏を見たてまつることができない。
 また諸法を観察しても、なおいまだ実相を見ることができない。一切の諸法は生滅していると考え、諸法の観念にとらわれている。
 もし、一切の諸法は生ずることもなく、滅することもなく、と悟ることができたなら、諸仏はつねに眼の前に現われるであろう。
 諸法はもともと執着もなく、我見もなく、空寂にして真実さえもない諸仏は、本来空にして思い量ることができない
 一切の諸法は思い量ることができない、と悟るものは、いかなる煩悩のなかにおいても、その心が染められないであろう。」

 また、そのとき功徳慧菩薩は、仏の神通力をうけて、あまねく十方世界を観察し、偈をもって次のようにいう。
一切の諸法は、幻のように(うつろ)であって実体がない。それにもかかわらず、人々はこれに執著して、つねに生死の輪を廻している。八正道注1さえも知らない。どうして自分の心を知ることができようか。さかさまの考えのために、種々の悪をつくっている。
 人々は、諸法がすべて空であることを見ないで、つねに無量の苦悩をうけている。それは、正法に対する清浄の眼を完成していないためである。
 もし一切の心を知ろうと思うならば、まず正法に対する眼を求むべきである。そうすれば、真実の仏を見たてまつることができよう。
 もし仏を見たてまつって、自分の心に執著なければ、諸法の真実をさとることができるであろう。
 仏は実にこの真実の法によって衆生を導きたもう。」

 また、そのとき善慧菩薩は、仏の神通力をうけて、あまねく十方世界を観察し、偈をもってつぎのようにいう。
「なんと素晴らしいことであろう。無量の如来は、害心をはなれて解脱し、みずから生死を超え、また衆生をして超えしめたもう。
 世間の有様はすべて空であって実体がないのに、迷える人は、これを真実であるとおもう。実際には、一切は無自性であり、ことごとく虚空にひとしい。
 かりにこの有様を説いても、説きつくすことができない。したがって、智者は、これを無尽と説いても、それで説いたことにもならない。諸法の自性が無尽であるから、難思議注2というほかはない。」

 また、そのとき真慧菩薩は、仏の神通力をうけて、生死のなかに流転しているのは、仏の御名を聞かないためである。現在の仏は、因縁によってできたものではない。過去、未来の仏もまたそうである。一切の諸法は無相[空・無我]であるというのが、仏の真性である
 もしこのように、諸法の深義を観察するならば、無量の仏の、法身の真相を見たてまつることができよう。
 真実なるを真実と知り、真実でないものを真実でないと知る、これが究竟覚であり、仏と名づけられる。
 諸仏はこのように(しゅ)して、しかも一法も得ることがない一によって多を知り、多によって一を知り、諸法にはもとづくところがなく、ただ因縁によって起っている
 活動の主体も、活動そのものも、ともに得るところがなく、これを求めても不可得である。この不可得こそ、諸仏のよりどころである。なぜなら諸法にはよりどころがなく、覚者には執著がないからである。」

 その他、多くの菩薩が、仏の神通力をうけ、あまねく十方世界を観察して偈を唱えた。






  

第十一章 菩薩十住品

 本章では、第三トウ利天会の主題である菩薩の十住が説かれる。説者は法慧菩薩である。

 そのとき法慧菩薩は、仏の神通力をうけて、菩薩の無量方便三昧に入った。三昧に入り終わって、十方の無数の仏土のほかに、なお無数の諸仏を見たてまつる。これらの諸仏は、ことごとく法慧と名づけたてまつる。
 ときにその諸仏、法慧菩薩に告げてのたまわく、
「よいかな、よいかな、善男子よ、なんじはよく、この菩薩の無量方便三昧に入った。
 善男子よ、なんじがこの三昧に入ったのは、十方無数の諸仏がなんじに神通力をさずけたためである。また、ヴィルシャナ仏の本願力、威神力、およびなんじの善根力(ぜんごんりき)のためである。また、なんじをして広く法を説かしめようとおもうためである。また、仏の智慧をやしないそだて、法界を開き示し、衆生の世界を分別せしめ、さわりを除いて無碍の境界に入らしめるためである。
 善男子よ、まさに仏の神通力をうけて、微妙の法を説くべきである。」

 そのとき諸仏は、おのおの右の手をさしのべて、法慧菩薩のあたまをなでたもうた。法慧菩薩は、三昧よりたって、もろもろの菩薩衆に告げていう。
「もろもろの仏子よ、菩薩の本性は、広大にして甚だ深く、あたかも虚空のごとくである。一切の菩薩は、過去、未来、現在の、諸仏の本性から生じている。
 もろもろの仏子よ、菩薩の十住の行は、過去、未来、現在の、諸仏の説きたもうところである。
 十とはなにか。一は初発心(しょほっしん)、二は治地(じち)、三は修行、四は生貴(しょうき)、五は方便具足、六は正心、七は不退、八は童心[漢訳によれば童眞]、九は法王子、十は灌頂である。これが、菩薩の十住である。

@ 初発心住
 もろもろの仏子よ、第一に菩薩の初発心とはなにか。
 この菩薩は、すぐれた相好をそなえている仏を見たてまつり、あるいは仏の神通を見、説法をきき、また一切衆生が無量の苦をうけるのを見て、菩提注1の心をおこし、一切智を求めて、決して退くことがない。
 この菩薩は、初発心によって十の力を得ている。たとえば、[1]道理と道理でないものを見分ける智、[2]業報としての生の垢浄を知る智、[3]過去の生涯を知る智、[4]遠隔のものを見る智、[5]すべての煩悩やその余習のなくなっていることを知る智などである。

 もろもろの仏子よ、この菩薩は、十の項目を学ぶべきである。すなわち、(1)諸仏をうやまい、供養し、(2)もろもろの菩薩をほめたたえ、(3)衆生の心をまもり、(4)賢明なものに親しみ、(5)不退の仏法をほめ、(6)仏の功徳を修し、(7)諸仏のみまえに生まれることをほめたたえ、(8)方便によって三昧を学び、(9)生死の輪廻を離れることをのぞみ、(10)苦しめる衆生のために自ら帰依所となることを学ぶべきである。なぜならこれによって、菩提への心をますます強固にし、無上の仏道を完成しようと欲するからである。もし聞くところの仏法あれば、みずからこれを聞いて理解し、決して他人に頼って悟ることをしない

A 治地住
 もろもろの仏子よ、第二に、菩薩の治地住とはなにか。この菩薩は、一切の衆生に対して十種の心をおこす。すなわち、[1]大慈心、[2]大悲心、[3]安楽心、[4]安住心、[5]憐愍心(れんみんしん)[漢訳によると歡喜心]、[6]摂受心(しょうじゅしん)[漢訳によると度衆生心]、[7]守護心[漢訳によると守護衆生心]、[8]同己心[漢訳によると我所心]、[9]師心、[10]如来心である。

 もろもろの仏子よ、この菩薩は、十の項目を学ぶべきである。すなわち、(1)多く聞くことを求め、(2)欲を離れる三昧を修し、(3)善知識に近づいてその教えにしたがい、(4)語るときは適切な時をえらび、(5)心におそれをいだかず、(6)仏法の深い意味をさとり、(7)正法に了達し、(8)仏法のとおりに行い、(9)心の愚迷を離れ、(10)不動心に安住すべきである。なぜならこれによって、一切衆生に対して大慈悲を増長しようと思うからである。もし聞くところの仏法あれば、みずからこれを聞いて理解し、決して他人に頼って悟ることをしない

B 修行住
  もろもろの仏子よ、第三に、菩薩の修行住とはなにか。
 この菩薩は、十種によってすべての存在を観察する。すなわち、すべての存在は、[1]無常であり、[2]苦であり、[3]空であり、[4]無我であり、[5]不自在である。すべての存在は[6]たのしむべきものではなく、[7]集散もなく、[8]永久不変のものでもない、すべてのことがらは[9]虚妄であり、そこには、[10]努力も和合も堅固もない、とこのように観察する。

 もろもろの仏子よ、この菩薩は、十の項目を学ぶべきである。すなわち、(1)すべての衆生の世界、(2)真理の世界、(3)地、水、火、風の世界、(4)欲望の世界、(5)かたちのある世界、(6)かたちのない世界などを知ることを学ぶべきである。なぜなら菩薩は、すべてのことがらにおいてきよく明るい智慧を増進しようとのぞむからである。
 もし聞くところの仏法あれば、みずからこれを聞いて理解し、決して他人に頼って悟ることをしない

C 生貴住
 もろもろの仏子よ、第四に、菩薩の生貴住とはなにか。
 この菩薩は、聖教のなかから生れ、十種の仏法を修行する。すなわち、[1]仏を信じ、[2]真理を実現し、[3]禅定に入り、また、[4]衆生、[5]仏国、[6]世界、[7]諸業、[8]果報、[9]生死、[10]涅槃などを認知する。

 もろもろの仏子よ、この菩薩は、十の項目を学ぶべきである。すなわち、(1)過去、(2)未来、(3)現在の仏法を認知し、(4)過去、(5)未来、(6)現在の仏法を修行し、(7)過去、(8)未来、(9)現在の仏法を身にそなえ、(10)一切諸仏の平等なることを観察すべきである。なぜなら菩薩は、過去、未来、現在の三世に明達して、心の平等を得ようとのぞむからである。
 もし聞くところの仏法あれば、みずからこれを聞いて理解し、決して他人に頼って悟ることをしない

D 方便具足住
 もろもろの仏子よ、第五に、菩薩の具足方便住とはなにか。
 この菩薩は、十種の仏法を聞いて修行すべきである。すなわち、この菩薩の修するところの功徳は、[1]ことごとく一切衆生を救い護り、[2]一切衆生に利益をあたえ、[3]一切衆生を安楽にし、[4]一切衆生をあわれみ、[5]一切衆生の人格を完成し、[6]一切衆生をしてすべての災難をはなれしめ、[7]一切衆生を生死の苦悩から脱出せしめ、[8]一切衆生を歓喜せしめ、[9]一切衆生をして煩悩を克服せしめ、[10]ことごとく涅槃を得しめるようにすべきである。

 もろもろの仏子よ、この菩薩は、十の項目を学ぶべきである。すなわち、衆生は、(1)無辺であり、(2)無量であり、(3)無数であり、(4)不可思議であり、(5)種々の形態をなしており、(6)空であり、(7)自在でなく、(8)真実でなく、(9)より所がなく、(10)自性がないことを学ぶべきである。なぜなら、菩薩は、自分の心が執著しないようにのぞむからである。
 もし聞くところの仏法あれば、みずからこれを聞いて理解し、決して他人に頼って悟ることをしない

E 正心住
 もろもろの仏子よ、第六に、菩薩の正心住とはなにか。
 この菩薩は、十種のことがらを聞いて決定心(けつじょうしん)を得る。すなわち、[1]たとい仏をほめたり、そしったりするのを聞いても、仏法のなかにおいて心は定まって動じない。[2]真理をほめたり、そしったりするのを聞いても、仏法のなかにおいて心は定まって動じない。[3]菩薩をほめたり、そしったりするのを聞いても、仏法のなかにおいて心は定まって動じない。[4]菩薩の行ずる真理をほめたり、そしったりするのを聞いても、仏法のなかにおいて心は定まって動じない。[5]衆生の数は有限であり、あるいは無限であるというのを聞いても、仏法のなかにおいて心は定まって動じない。[6]衆生はけがれており、あるいはけがれていないというのを聞いても、仏法のなかにおいて心は定まって動じない。[7]衆生は救いやすい、あるいは救いにくいというのを聞いても、仏法のなかにおいて心は定まって動じない。[8]真理の世界は有限であり、あるいは無限であるというのを聞いても、仏法のなかにおいて心は定まって動じない。[9]世界は生成されており、あるいは破壊されているというのを聞いても、仏法のなかにおいて、心は定まって動じない。[10]世界は実在する、もしくは実在しないというのを聞いても、仏法のなかにおいて心は定まって動じない。

 もろもろの仏子よ、この菩薩は、十の項目を学ぶべきである。すなわち、ありとあらゆることがらは、(1)すがたのないものであり、(2)本性のないものであり、(3)修行することもできず、(4)実在的でもなく、(5)真実でもなく、(6)自性もなく、(7)あたかも虚空のごとく、(8)幻のごとく、(9)夢のごとく、(10)響きのごときものである、と知るべきである。なぜなら菩薩は、不退転の無生法忍(むしょうぼうにん)注2を得ようとのぞむからである。
 もし聞くところの仏法あれば、みずからこれを聞いて理解し、決して他人に頼って悟ることをしない

F 不退住
 もろもろの仏子よ、第七に、菩薩の不退転住とはなにか。
 この菩薩は、十種のことがらを聞いても、そのこころは堅固であって、動転することがない。すなわち、[1]仏は存在する、あるいは存在しないと聞いても、仏法のなかにおいて退くことがない。[2]真理はあるとも、ないとも聞いても、仏法のなかにおいて退くことがない。[3]菩薩はあるとも、ないとも聞いても、仏法のなかにおいて退くことがない。[4]菩薩の行はあるとも、ないとも聞いても、仏法のなかにおいて退くことがない。[5]菩薩の行は、迷いを越えるとも、越えないとも聞いても、仏法のなかにおいて退くことがない。[6]過去仏、[7]未来仏、[8]現在仏が、それぞれあるとも、ないとも聞いても、仏法のなかにおいて退くことがない。[9]仏の智慧は、尽きるとも、尽きないとも聞いても、仏法のなかにおいて退くことがない。[10]過去、未来、現在の存在[三世相]は、同一のすがた[一相]であり、あるいは同一のすがたでない[非一相]、と聞いても、仏法のなかにおいて退くことがない。

 もろもろの仏子よ、この菩薩は、十の項目を学ぶべきである。すなわち、(1)一は多であり、(2)多は一であり、(3)教えによって意味を知り、(4)意味によって教えを知り、(5)非存在は存在であり、(6)存在は非存在であり、(7)すがたを持たないものがすがたであり、(8)すがたがすがたを持たないものであり、(9)本性でないものが本性であり、(10)本性が本性でないものである、と知るべきである。なぜなら菩薩は、あらゆることがらにおいて方便を得ようとのぞむからである。
 もし聞くところの仏法あれば、みずからこれを聞いて理解し、決して他人に頼って悟ることをしない

G 童心住
 もろもろの仏子よ、第八に、菩薩の童心住とはなにか。
 この菩薩は、十種のことがらにおいて、心を安定することができる。すなわち、[1]こころ、[2]ことば、[3]ふるまいにおいて清浄となり、[4]思うとおりに生を受け、[5]衆生のこころ、[6]ねがい、[7]本性、[8]業を知り、[9]生成消滅を知り、[10]神通自在でさまたげられることがない。

 もろもろの仏子よ、この菩薩は、十の項目を学ぶべきである。すなわち、[1]すべての仏国を知り、[2]観察し、[3]震動し、[4]持ちつづけ、また、[5]すべての仏国やその他すべての世界にいたり、[6]量りしれない真理を問答し、[7]神通によってさまざまな身体になり変わり、[8]無量の音声を理解し、[9]一念のなかに無数の諸仏をうやまい、[10]供養することを学ぶべきである。なぜなら菩薩は、種々の方便によって、すべてのことがらを完成しようとのぞむからである。
 もし聞くところの仏法あれば、みずからこれを聞いて理解し、決して他人に頼って悟ることをしない

H 法王子住
 もろもろの仏子よ、第九に、菩薩の法王子住とはなにか。
 この菩薩は、十種のことがらを理解している。すなわち、[1]衆生の国々、[2]もろもろの煩悩や、[3]そのなごり、[4]量りしれない真理と、[5]その方便、[6]もろもろの礼儀作法、[7]すべての世界の事情、[8]過去未来現在の時の流れ、[9]世間の道理と、[10]究極の真理などである。

 もろもろの仏子よ、この菩薩は、十の項目を学ぶべきである。すなわち、(1)法王注3の住するところ、(2)法王のたちいふるまいの作法、(3)法王のところに安んずること、(4)たくみに法王のところに入ること、(5)法王のところを分別すること、(6)法王の真理をもちこたえること、(7)法王の真理をほめたたえること、(8)法王が完全に真理を実現すること、(9)法王のおそれることのない真理、(10)法王の執著をはなれた真理、などを学ぶべきである。なぜなら菩薩は、すべてのことがらにおいて、さまたげられない智慧を得ようとのぞむからである。
 もし聞くところの仏法あれば、みずからこれを聞いて理解し、決して他人に頼って悟ることをしない

I 灌頂住
 もろもろの仏子よ、第十に、菩薩の灌頂住とはなにか。
 この菩薩は、十種の智慧を完成する。すなわち、[1]量りしれない世界を震動し、[2]照らし、[3]もちこたえ、[4]きよめ、そして[5]その世界に遊び、また、[6]量り知れない衆生の、こころの動き、[7]身のおこない、[8]感官のはたらきを知り、[9]種々の方便によって衆生の煩悩を克服し、[10]解脱を得しめる。

 もろもろの仏子よ、この菩薩の実体は知ることができない。すなわち、かれが冥想に入り、神通自在であること、かれの過去未来現在の智慧、諸仏の国をきよめる智慧、かれの心の境界など、ことごとく知ることができない。すべての衆生や、ないし第九の法王子住の菩薩さえも、これを知ることができない。

 もろもろの仏子よ、この菩薩は、十種の智慧を学ぶべきである。すなわち、(1)過去未来現在の智慧[三世智]、(2)一切の仏法の智慧[一切佛法智]、(3)真理の世界はさまたげられないという智慧[法界無障礙智]、(4)真理の世界は無量無辺であるという智慧[法界無量無邊智]、(5)すべての世界を照らし[普照一切世界智]、(6)もちこたえ[能持一切世界智]、(7)充実せしめる智慧[充滿一切世界智]、(8)すべての衆生を分別する智慧[分別一切衆生智]、[(9)漢訳ではここに「一切種智=ありとあらゆる種類の智慧」があるが、玉城訳ではこれが抜けている。書き忘れか]、(10)無量無辺の仏の智慧[智佛無量無邊智]、などを学ぶべきである。なぜなら菩薩は、ありとあらゆる種類の智慧を身につけようとのぞむからである。
 もし聞くところの仏法あれば、みずからこれを聞いて理解し、決して他人に頼って悟ることをしない。」
 そのとき、仏の神通力によって、十方無量の仏国は、六種十八相に震動し、天のはな、ころも、かずらが、雨のようにふり、天の音楽は、おのずから鳴りひびいた。






  

第十二章 梵行品

 この章には、前章における菩薩の十住の位を完成するための十種の清らかな行が説かれている。梵行(ぼんぎょう)というのは、清らかな行という意味である。

 正念という天子が、法慧菩薩にたずねて言うのに、
「仏子よ、すべての世界の菩薩たちは、如来の教えにしたがって、在俗の生活をはなれて仏道を学んでいる。菩薩たちは、どのような梵行(清らかな行)によって、無上のさとりに達することができようか。」
 法慧菩薩は、正念という天子に答えて言うのに、
「仏子よ、菩薩がひたすら無上のさとりを求めるときに、つぎのような十種のことがらをわきまえねばならない。十種のことがらというのは、@身、A身業、B語、C語業、D意、E意業、F仏、G法、H僧、I戒である。

@ 身
 第一に、もし身が梵行であるとすれば、つぎのように知るべきである。すなわち、梵行は清らかでなく、真実でなく、にごっており、けがれており、垢にそまっており、また、身体にうごめいている無数の虫である、と。

A 身業
 第二に、もし身業(しんごう)注1が梵行であるとすれば、つぎのように知るべきである。すなわち、梵行とは、行住坐臥注2であり、地に臥し天を仰ぎ、左を見、右をながめ、また、手足を屈伸することである、と。

B 語
 第三に、もし語が梵行であるとすれば、つぎのように知るべきである。すなわち、梵行とは、音声であり、語ることであり、舌の動き、唇歯のふれあうことである、と。

C 語業
第四に、もし語業(ごごう)が梵行であるとすれば、つぎのように知るべきである。すなわち、梵行は、略説注3、広説注4、喩説注5直説(じきせつ)注6である、と。

D 意
 第五に、もし意が梵行であるとすれば、つぎのように知るべきである。すなわち、梵行とは、思惟や判断の作用であり、夢のなかの意識作用であり、また、想起することである、と。

E 意業
 第六に、もし意業が梵行であるとすれば、つぎのように知るべきである。すなわち、梵行とは、寒熱、飢渇、苦楽、憂喜などの心の感受である、と。

F 仏
 第七に、もし仏が梵行であるとすれば、つぎの問題を観察すべきである。すなわち、五蘊注7のそれぞれを仏であるとなすのか、三十二相や八十種好(はちじゅっしゅごう)注8のような多くの特徴を仏であるとなすのか、すべての神通(じんづう)や果報を仏であるとなすのか、と。

G 法
 第八に、もし法が梵行であるとすれば、つぎの問題を観察すべきである。すなわち、寂滅を法であるとなすのか、涅槃を法であるとなすのか、不生を法であるとなすのか、不可説や無分別(むふんべつ)を法であるとなすのか、と。

H 僧
 第九に、もし僧が梵行であるとすれば、つぎの問題を観察すべきである。すなわち、預流(よる)一来(いちらい)不還(ふげん)阿羅漢の修行の位注9を僧であるとなすのか、三明六通(さんみょうろくつう)注10を僧であるとなすのか、と。

I 戒
 第十に、もし戒が梵行であるとすれば、つぎの問題を観察すべきである。戒場を戒であるとなすのか、清浄を戒であるとなすのか、戒師を戒であるとなすのか、剃髪法服乞食を戒であるとなすのか、と。

 以上のように、菩薩は十種のことがらを観察すべきである。

 また、過去はすでに消滅し、未来はまだ起らず、現在は空寂であって、はたらく主体も、果報を受ける主体もないと知れば、つぎのような問題が生ずるであろう。梵行とは一体なんであるか、それはどこにあるか、有であるのか、無であるのか、かたちのあるものか、かたちのないものか、精神的なものか、精神的でないものか。
 菩薩は、この問題に対して正しく念じてさわりがなく、過去、未来、現在のことがらは、あたかも虚空のごとく平等で、二相なしと観察する。
 このように観察する菩薩の智慧は、広大にしてへだてがなく、一切のことがらにおいて執著しない。これを菩薩の梵行と名づける。

【如来の十力】
 また、さらにすすんで菩薩は、つぎのような十種の智を行ずべきである。これは、如来の十力(じゅうりき)といわれているものである。すなわち、[1]道理の是非をわきまえる智 [處非處智]、[2]過去未来現在における種々の業報の智 [去來現在諸業報智]、[3]すべての禅定、解脱に関する智 [一切諸禪三昧正受解脱垢淨起智]、[4]衆生のもろもろの感覚器官に対する智 [衆生諸根智]、[5]衆生の願いに順応する智 [隨諸欲樂智]、[6]衆生の能力性質に関する智 [種種性智]、[7]すべての境地に到るべき道についての智 [至一切處道智]、[8]過去の世界を自由に想い起す智 [無障礙宿命智]、[9]未来の世界をまちがいなく見得る智 [無障礙天眼智]、[10]煩悩のなごりをたちきっている智 [斷習氣智] である。
 このような如来の十力は、深遠にして量り知れないものである。菩薩がもしこの十力を行ずれば、おのずから大慈悲心は養われ、寂滅の世界にありながら、しかも衆生を捨てず、無上の働きをしめしながら、しかもその果報を求めず、一切のことがらは、あたかもまぼろしのごとく、ゆめのごとく、いなずまのごとく、ひびきのごとくであることが知られる。
 かくして菩薩は、すみやかに一切諸仏の功徳を得るであろう。しかし実は、はじめて志しをおこすときに、すでに無上のさとりは完成しているのである。






  

第十三章 初発心菩薩功徳品

 初発心(しょほっしん)というのは、第十一章に説かれた十住の第一住であり、はじめて悟りへの心をおこすという意味である。本章は、この初発心菩薩の功徳が広大無辺であることを説いている。

 帝釈天が法慧菩薩に問うていうのに、
「仏子よ、初発心の菩薩は、どれだけの功徳を完成しているであろうか。」
 法慧菩薩が答えていうのに、
「仏子よ、その道理は深遠であって、知りがたく、信じがたく、さとりがたく、説きがたく、わきまえがたい。しかしわたしは、仏の神通力をうけて、あなたに説こう。
 仏子よ、たとえばあるひとが、東方無数の世界の衆生を長いあいだ供養して、その後に五戒注1を行ぜしめる。また、東方の世界のごとく、四方、八方、十方の世界の衆生にも、同じようにする。どうであろう、このひとの功徳は、多いと思うか。」
 帝釈いうのに、
「仏子よ、もろもろの如来のほかには、このひとの功徳をかぞえ立て得るものはいないであろう。」
 法慧菩薩、帝釈にむかっていうのに、
「仏子よ、このひとの功徳がいかに多くても、初発心の菩薩の功徳にくらべたら、その百分の一、千分の一、百千分の、億分、百億分、千億分、百千億分、ないし、数えることもできず、たとえることもできず、説くこともできないほとの分の一にも、及ばないであろう。
 仏子よ、またあるひとが、十万無数の世界の衆生を長いあいだ供養して、その後で十善注2を行ぜしめる。また長いあいだ供養した後で、四禅注3を行ぜしめる。このようにして、四無量心注4、四無色定注5を行ぜしめ、さらに、預流、一来、不還、阿羅漢の、それぞれの位を得しめ、最後に、縁覚注6のさとりを得しめる。どうであろう、このひとの功徳は、多いと思うか。」
 帝釈いうのに、
「諸仏のほかには、このひとの功徳をことごとく知っているものは、いないであろう。」
 法慧菩薩、帝釈にむかって言うのに、
「仏子よ、このひとの功徳がいかに多くても、初発心の菩薩の功徳にくらべたら、その百分、千分、ないし、数えることもできず、たとえることもできず、説くこともできないほどの分の一にも、及ばないであろう。
 仏子よ、なぜかというと、一切の諸仏は、十方無数の世界の衆生を長いあいだ供養するために、世にお出ましになったのではない。また、無数の世界の衆生をして、五戒、十善、四禅、四無量心、四無色定、預流、一来、不還、阿羅漢、縁覚の、それぞれの道を行ぜしめるために、世にお出ましになったのではない。
 一切諸仏が、はじめて菩提の心をおこしたもうたのは、仏の種をたやさないためであり、すべての世界はおのずから清浄であることを知るためであり、すべての衆生をすくい、さとりを開かしめようとおもうためであり、すべての衆生の煩悩、そのなごり、また心のうごきを知るためであり、すべての衆生が、ここに死し、あそこに生まれるのを知るためであり、また、一切諸仏の平等の世界を知るためである。
 仏子よ、またつぎのようなたとえをひこう。あるひとが、一刹那に無量の世界を通過するほどの神通力をもって、気も遠くなる位の長い時間のあいだ、東方に向って進んでも、なお世界のはてに到ることができない。第二のひとが、さきのひとのあとをついて、さらに長い時間のあいだ、東方に向って進んでも、やはり世界のはてに到ることができない。このようにして、第三、第四、ないし第十のひとが、東方に向って進んでも、同じようにそのはてに到ることができない。この東方のように、十方の世界においても、都合百人のひとが、それぞれの方向に向って進むとする。
 さのさい、かりに十方世界のそれぞれのはてに到ることができたと仮定しても、初発心の菩薩における功徳の量を知ることはできないであろう。
 なぜならば、初発心の菩薩は、限られた世界の衆生のために、菩提心(さとりへ向う心)をおこしたのではない。
 十方無辺の世界の実情を知り、その世界の一切の衆生を救おうとおもうがために、菩提心をおこしたのである。
 さらに、小なる世界はすなわち大なる世界であると知り、大なる世界はすなわち小なる世界であると知り、広い世界はすなわち狭い世界であると知り、狭い世界はすなわち広い世界であると知り、一の世界はすなわち無量の世界であると知り、無量の世界はすなわち一の世界であると知り、無量の世界は一の世界に入ることを知り、一の世界は無量の世界に入ることを知り、けがれた世界はすなわち浄い世界であると知り、浄い世界はすなわちけがれた世界であると知り、一本の毛の孔のなかで一切の世界を知り、一切の世界のなかで一本の毛の孔の性質を知り、一の世界より一切の世界が生み出されることを知り、一切の世界はあたかも虚空のごとくであると知り、一念のあいだに一切の世界をことごとく知りつくそうとおもうがために、菩薩は、無上のさとりに向うこころをおこしたのである。
 仏子よ、またつぎのようなたとえがひかれる。あるひとが、神通力をもって、一刹那に無量の世界における衆生の種々ののぞみを知ることができる場合に、気も遠くなる位の長い時間をかけても、なお東方の一切世界における衆生ののぞみを知りつくすことができない。このように、第二、第三、ないし第十のひとが、そのあとをうけついで時間をかけても、なお東方世界の衆生ののぞみをことごとく知ることができない。また、十方の世界の衆生についても同様である。
 しかしかりに、十方無辺の世界における衆生ののぞみを、ことごとく知りつくすことができたと仮定しても、なお、初発心の菩薩における功徳の量を知ることはできないであろう。
 なぜならば、初発心の菩薩は、限られた世界の衆生ののぞみを知ろうとおもうために、菩提心をおこしたのではない。
 菩薩が無上のさとりに向う心をおこしたのは、一切衆生の、果てしのないのぞみの大海を知りつくそうとおもい、また、ひとりの衆生の欲は、一切衆生の欲であることを知ろうとおもい、また、一切の欲は一欲であり、一欲は一切の欲であることを知ろうとおもい、また、如来の種種の欲の力をそなえようとおもい、また、善あるいは不善に対する欲、世間あるいは出世間に対する欲、大智の欲、清浄な欲、さえられない智慧の欲、さえられない智慧を有する仏の解脱の欲などを、ことごとく知りつくそうと思うためである。
 仏子よ、あるいはまた、衆生の、感覚器官、希望、方便、心の動き、諸業、煩悩などを知る同じようなたとえがひかれる。
 仏子よ、あるいはまた、つぎのようなたとえもひかれる。あるひとが一刹那に、東方無辺の世界に活動している諸仏、およびその一切衆生を、うやまい、ほめたたえ、礼拝し、尊重し、また、種々なそなえものやかざりで荘厳するほどの神通力をもって、気も遠くなる位の長い時間をかけるとする。このようにして東方世界と同じく、十方世界の諸仏および一切衆生を供養することができたとしたら、仏子よ、どうであろう、このひとの功徳は多いとおもうか。」
 帝釈こたえていうのに、
「ただ仏のみが、このひとの功徳を知りたまい、ほかのものはとうてい知ることはできないであろう。」
 法慧菩薩いうのに、
「仏子よ、このひとの功徳を、初発心の菩薩の功徳にくらべたら、その百分、千分、ないし、数えることもできず、たとえることもできず、説くこともできないほどの分の一にも及ばないであろう。
 初発心の菩薩が、菩提心をおこし終ると、無限の過去から活動してきた諸仏の、さえられない智慧を知ることができ、無限の未来に向って活動しようとする諸仏の功徳を信ずることができ、現在の、ありとあらゆる諸仏の説きたもう智慧を知ることができる。
 またこの菩薩は、三世一切の諸仏の功徳を、信じ、うけとり、行じ、さらに身をもって体験し、ことごとくその諸仏の功徳と等しいものとなる。
 なぜならば、初発心の菩薩が菩提心をおこすのは、つぎの理由にもとづくからである。すなわち、この菩薩は、一切諸仏の性質をたやすまいとおもうために、また、大慈悲心をもって一切世界の衆生を救おうとおもうために、また、一切世界の衆生の、けがれや浄さの生ずる実情を知ろうとおもうために、また、一切衆生のこころのうごきや煩悩のなごりをことごとく知ろうとおもうために、また、三世の諸仏の無上のさとりを知ろうとおもうために、また、三世の諸仏の智慧力を養い、その無辺の平等の智慧を得ようとおもうために、この菩薩は、無上のさとりに向う心をおこしたのである。
 この初発心の菩薩こそ、じつは仏なのである。この菩薩は、三世諸仏の境界と等しく、如来の一心と、無量の心と、三世諸仏の平等の智慧とを得ている。
 この初発心の菩薩は、つねに、三世の諸仏および諸仏の法、一切の菩薩、縁覚、声聞、およびその法、世間出世間の法、衆生および衆生の法などを離れずに、もっぱらさとりを求め、その智慧はさえられることがない。」
 そのとき、仏の神通力により、また、初発心の菩薩の功徳を説く力によって、十方無辺の諸仏の世界は、六種に震動した。そして天のはな、天のかおり、天のかずら、天のたからが、雨のようにふりそそぎ、微妙な音楽が、自然にかなでられた。
 そのとき、十方無辺の世界の諸仏が、おのおの、その身を法慧菩薩の前に現わしたもうて、この菩薩にいわれるのに、
「なんとすばらしいことであろう。仏子よ、あなたはよく、初発心の菩薩の功徳を説かれた。われら十方無辺の諸仏もまた、ことごとく初発心の菩薩の功徳を演説している。
 あなたが初発心の菩薩の功徳を説いたときに、十方の衆生は、みな初発心の菩薩の功徳を得て、無上のさとりへ向う心をおこしたのである。
 われらはいま、その衆生に約束する、かれらは、かならず未来世に、それぞれ十方において同時に成仏するであろう、と。
 われらは、あまねく未来の菩薩のために、この初発心の法を守り伝えるべきである。」
 このように法慧菩薩が、娑婆世界の須弥山のいただきの上で、初発心の法を説いて、衆生を教えみちびいたごとくに、十方無辺の、はかることもできず、教えることもできず、考えることもできないほどの、もろもろの世界のなかでも、初発心の法を説いて、衆生を教えみちびいている。そしてこの法を説くものは、ことごとく法慧と名づけられる。
 それは、仏の神通力により、また、仏の本願力により、また、智慧の光明があまねく照らすことにより、また、第一義をさとることにより、また、法はこのように自然であることにより、また、もろもろの菩薩は喜びにあふれていることにより、また、諸仏の功徳をほめたたえることにより、また、諸仏の平等なるを知ることにより、また、法界は一にして二なきをさとることによるがためである。

 そのとき、法慧菩薩は、あまねく十方世界を観察し、衆生のまよいやけがれを除いて、ひろく解脱を得させようと思うがゆえに、また、みずからの深くて清浄な功徳を現わしだそうとおもうがゆえに、仏の神通力をうけて、つぎのように偈をのべる。
「初発心の菩薩は、一切衆生のなかで、つねに大慈悲をおこし、いかりのおもいを離れて、利他の心をならい、その慈光は十方世界を照らして、衆生のためのよりどころとなり、諸仏はことごとく、この菩薩を守り念じたもう。
 この菩薩の信心を、はばむことはできない。あたかも金剛のごとくに堅固であり、つねにもろもろの如来のみもとにおいて、恩を知り恩にむくゆる。
 菩薩は、仏の智慧を成就して、そのおもいにへだてがなく、あきらかに真実の世界をさとり、こころは寂滅にして、虚妄をはなれている。
 その信力は、しずかにやすらい、智慧の力は、清らかに成就している。
 未来のはてをつくしても、衆生に力をささげ、ついには解脱を得しめようと思い、はてしなき生死のなかで、うまず、たゆまず、いかなる地獄の苦しみを受けても、衆生のために力をつくす。
 一本の毛の孔に、十方の世界を見る、その世界は、微妙に荘厳せられ、諸仏、諸菩薩は、ことごとくここに集りたもう。
 もし、十方世界の三世一切の諸仏を見たてまつろうとおもい、また、はかり知れない甚深の功徳を得ようとおもい、あるいはまた、一切衆生のはてしない生死の苦しみを滅しようとおもうならば、まさに誓願をたてて、すみやかに菩提心をおこすべきである。」






  

第十四章 明法品

 本章は、第三会の最後の章である。前章で、初発心の菩薩の功徳が説かれたが、この章では、初発心の功徳を得た後の菩薩は、いかなる仏法を行ずべきか、ということが説かれている。説法者は、やはり法慧菩薩である。

 そのとき、精進慧菩薩が法慧菩薩に問うて言うのに、
「仏子よ、初発心の菩薩は、このように量り知れない功徳を手に入れ、そのすがたは、威厳に満ちており、愛欲のともづなを離れて、諸仏のやすらいたもうところにやすろうており、その志ざすところは、無上のさとりの世界の完成に向っている。
 では、この菩薩は、どういう法を行ずれば、その功徳はますますすぐれ、もろもろの如来はことごとくよろこび、この菩薩の清浄な大行と大願とが完成されるのであろうか。
 どうか仏子よ、わたしたちのために、この仏法をお説きください。よろこんで拝聴しようとおもいます。」
 そこで法慧菩薩は、精進慧菩薩に言うのに、
「仏子よ、よくこの問題を問うてくだされた。この仏法は、衆生を安楽にし、衆生に大きな利益を与えるところの、はなはだ深い菩薩の大行である。
 仏子よ、あなたは真実の智慧にやすろうており、大精進の力をもって、ただひたすら行じ、ついに不退転注1の位に到達して、世俗界をとびこえている。あなたが、いま問うているところは、まさに如来の世界である。
 仏子よ、よくきき、よくお考えください。わたしは、仏の神通力をうけて、あなたのために少しく説こう。

【怠惰をのぞく十種の法】
 仏子よ、この菩薩はすでに発心の功徳を得ているから、まさに、無智のやみをはなれ、もろもろの怠惰なこころをのぞくべきである。
 菩薩には十種の法があって、怠惰なこころをのぞくことができる。すなわち、[1]こころを浄めて戒律をたもち[持戒清淨]、[2]ぐちをやめて菩提心をきよめ[遠離愚癡淨菩提心]、[3]へつらいのこころを捨てて衆生をあわれみ[捨離諂曲哀愍衆生]、[4]よき行いにはげんで不退転の位を得[勤修善根得不退轉]、[5]つねに寂けさを願うて、在家出家すべての凡夫をはなれ[常樂寂靜遠離在家出家一切凡夫]、[6]世俗の楽しみを心にかけず[心不願樂世間之樂]、[7]ただひたすらもろもろのすぐれた行をならい[專精修習諸勝善業]、[8]小乗の教えを捨てて菩薩の道を求め[捨離二乘求菩薩道]、[9]つねに功徳をこころがけて汚されることがなく[常習功徳心無染汚]、[10]みずからよく自分の本分をわきまえる[善能分別自知己身]。
 これが怠惰な心をのぞくところの十種の法である。

【清らかな十種の法】
 仏子よ、菩薩は、さらに進んでつぎの十種のきよらかな法を行ずる。すなわち、[1]教えられたとおりに修行し[修行念智成就=正確には「智の成就を念じて修行し」か]、[2]おもいのままが智慧にかなうようにし[常樂求法心無厭足]、[3]もろもろの怠惰なこころを捨てて甚深の仏法にやすらい[捨離調戲諸放逸行]、[4]つねに仏法を願い求めてうむことがなく[安住甚深微妙善法]、[5]心に聞くままに真実の世界を見[隨所聞法得眞實觀]、[6]たくみな智慧をうみだして仏の自由自在な世界に入り[具足出生巧妙智慧能入佛自在]、[7]心つねに寂かでまだ散乱したことがなく[心常寂定未曾散亂]、[8]たとい好悪のことを聞いても、あたかも大地のごとくに心は動揺せず[聞好聞惡心無憂喜。猶如大地]、[9]上中下の衆生を見ても、ことごとく仏の想いをなし[等視衆生。上中下類悉如佛想]、[10]師匠、善知識、出家者、菩薩などを、うやまい、供養し、一念一念にこころがけて、一切の智慧を所有するがごとくになる[恭敬供養和尚諸師及善知識菩薩法師。念念次第如一切智]。
 これが、菩薩の十種の清らかな法である。
 仏子よ、菩薩は、このように努力して、念々の智慧をおさめ、方便を捨てず、心によりどころを求めず、争いのない世界に入り、無量無辺の仏法をことごとくわきまえ、かくして一切の諸仏をよろこばせる。

【一切諸仏をよろこばせる十種の法】
 仏子よ、菩薩は、十種の法を行じて、一切の諸仏をよろこばせる。すなわち、[1]自分の行ずるところを努めて決して退くことがなく[所行精勤而不退轉]、[2]身命をおしまず[不惜身命]、[3]世俗の利益を求めず[不求利養]、[4]一切の仏法を修めてもあたかも虚空のごとくに執著せず[修一切法猶如虚空]、[5]方便の智慧によってすべてのことを観察して法界と等しくなり[巧方便慧觀察諸法等同法界]、[6]一切を分別しながら心によりどころを求めず[分別諸法心無所倚]、[7]つねに大願をおこし[常發大願]、[8]清らかな智慧の光を完成し[成就清淨忍智光明]、[9]衆生のすべての損得を知り[善知一切損益諸法]、[10]行ずるところの仏法がことごとく清浄である[所行法門皆悉清淨]。
 これが、一切の諸仏をよろこばせるところの十種の法である。

【菩薩が安住する十法】[玉城訳では省略。書き忘れか]
漢訳: 佛子。菩薩復安住十法。能令一切諸佛歡喜。何等爲十。安住不放逸。安住無生法忍。安住大慈。安住大悲。安住滿足諸波羅蜜。安住菩薩清淨之行。安住滿足無量大願。安住巧方便。安住一切力。安住一切法。猶如虚空無所依止。佛子。是爲菩薩安住十法能令一切諸佛歡喜。
[私訳: 仏子よ、菩薩は十種の法に安住し、一切の諸仏をよろこばせる。すなわち、[1]不放逸、[2]無生法忍、[3]大慈、[4]大悲、[5]もろもろの波羅蜜に満足すること、[6]菩薩の清浄行、[7]無量大願に満足すること、[8]巧みな方便、[9]一切力、[10]一切法 のそれぞれによりどころなく虚空のごとく安住する。これが、一切の諸仏をよろこばせるところの十種の法である。]

【すべての境地を完成する十種の法】
 仏子よ、つぎに菩薩は、十種の法を行じて、すみやかに菩薩のすべての境地を完成する。すなわち、[1]心はつねにもろもろの功徳を行じようと願い[心常樂行諸功徳事]、[2]彼岸にいたるすべての道を修め[行大莊嚴諸波羅蜜道]、[3]智慧は明るく到達して迷わず[智慧明達不隨他語]、[4]つねに善知識にしたしみ[恒不遠離眞善知識]、[5]つねに努力して退くことなく[常修精進而不退轉]、[6]仏心をうけとってもろもろの仏法を持ちつづけ[善取佛意受持諸法]、[7]すべての善を行なって心にうれいなく[行諸善根心無憂?(→不明。情報求む)]、[8]智慧の光はあまねく一切の事物をてらし[以大乘莊嚴而自莊嚴明利慧光普照一切]、[9]すべての境地の仏法にやすらい[九者安住一切諸地法門]、[10]三世の諸仏の正法に同化する[同三世佛善根正法]。
 これが、菩薩のすべての境地を完成するところの十種の法である。
 仏子よ、この菩薩は、それぞれの境地に安住し終って、種々の方便を用い、得るところの深い智慧にしたがい、みずからの宿業、境界、地位にしたがい、一切のすぐれた仏法をことごとくわきまえ、しかも、すべてのことがらにおいて執著することがない。なぜなら、すべてのことがらは心にもとづいているからである。
 菩薩が、このように明らかに観察すれば、すべての菩薩の境地を、わが身にそなえることができるであろう。
 菩薩が心におもうに、
『わたしは、すみやかにすべての菩薩の境地を完成しよう。わたしが、それぞれの境地において、教えの通りに行ずるとき、無量の功徳を得るであろう。無量の功徳を得おわって、しだいに仏の境地にすすもう。仏の境地に到りおわって、仏のはたらきをなそう。』と。
 このゆえに菩薩は、つねに努力して仏法を行じ、方便を捨てず、こころにうれいなく、大いなる威厳にみちて、菩薩の境地に安住するのである。

【菩薩の行いを清らかにする十種の法】
 仏子よ、つぎに菩薩は、十種の法を行じて、菩薩のおこないをきよらかにする。すなわち、[1]一切をなげうって衆生のねがいをみたし[悉捨一切滿衆生意]、[2]戒律をたもっておかすことなく[持戒清淨無所毀犯]、[3]忍ぶべきを忍んで尽きることなく[具足忍辱無有窮盡]、[4]方便を用いて退くことなく[勤修方便而不退轉]、[5]無智をはなれてつねに三昧に入り心みだれず[離癡正念常定不亂]、[6]すべてのことがらを明らかに認知し[分別明了一切諸法]、[7]すべての行を完成し[具足成滿一切衆行]、[8]功徳をとうとぶ心は、あたかも山王のごとく[功徳尊重心如山王]、[9]一切衆生のために、みずから清涼の地となり[爲一切衆生作清涼池]、[10]一切衆生をして諸仏の法に同化せしめる[令一切衆生同諸佛法]。
 これが、菩薩のおこないをきよらかにするところの十種の法である。

【菩薩の行を清浄でもっとも勝れたものにする十種の法】[玉城訳では省略。書き忘れか]
漢訳: 佛子。是爲菩薩行十種法悉能清淨菩薩諸行。佛子。菩薩摩訶薩。如是修行清淨之行。復得十種轉勝妙法。何等爲十。一者他方諸佛皆悉護念。二者修習長養超勝善根。三者安住如來巧密方便。四者常樂親近依善知識。五者安住精進修不放逸。六者分別諸法非總非別。七者安住具足無上大悲。八者觀法如實出生智慧。九者能善修行巧妙方便。十者一切方便觀如來力。佛子。是爲菩薩十種清淨轉勝妙法。
[私訳: 仏子よ、菩薩はつぎの十種の法を行じて、菩薩のおこないをきよらかにする。すなわち、[1]他方諸仏をことごとく護念し、[2]すぐれた善を行ないつづけ、[3]如来の巧みで密かな方便に安住し、[4]常に善知識に親しみ、[5]常に努力し怠ることなく、[6]すべてのことを纏まっているのでもなく分かれているのでもないと認知し、[7]無上の大悲を具えるに安住し、[8]如実に現象を観察して智慧を発揮し、[9]巧妙な方便をよく行い得て、[10]一切の方便で如来力を観る。仏子よ、これが、菩薩の行を清浄でもっとも勝れたものにする十種の法である。]

【十種のきよらかな願い】
 仏子よ、菩薩には、十種のきよらかな願いがある。すなわち、[1]衆生の徳を完成せしめて心にうれいがないことを願い[願成就衆生心無憂?(←不明。情報求む)]、[2]よい行いをのばし、仏国をきよめることを願い[願長養善根嚴淨佛刹]、[3]すべての如来をうやまい、供養することを願い[願恭敬供養一切如來]、[4]身命をおしまずに、正法を守ることを願い[願不惜身命守護正法]、[5]種々の智慧や方便によって、衆生がことごとく諸仏の国に生まれることを願い[願以種種諸智慧門悉令衆生生諸佛刹]、[6]菩薩不二の法門注2や、仏の限りない法門に入って、すべてのことがらを認知しようと願い[願諸菩薩入不二法門入佛法門分別諸法]、[7]仏を見たてまつろうとおもうものをして、ことごとく見ることができるように願い[願令一切所欲見佛悉得見之]、[8]未来を尽すところの限りない時間を、一瞬のごとく感ずるように願い[願盡未來際一切諸劫如須臾頃]、[9]普賢菩薩の願いを、みずから身につけようと願い[願具足普賢菩薩所願]、[10]すべての種類の智慧をきよめようと願う[願淨一切種智之門]。
 これが、菩薩の十種のきよらかな願いである。

【十種の修行】
 仏子よ、菩薩は、さらに進んで、十法を修行して、すべての願いを果たす。その十法とは、[1]心につかれもいといもうれいもさびしさもなく[生大莊嚴心無憂?(←不明。情報求む)]、[2]もろもろの菩薩を念じ[轉向勝願念諸菩薩]、[3]十方の仏国土にことごとく往生しようと願い[所聞十方嚴淨佛刹悉願往生]、[4]未来をおしきわめ[究竟未來際]、[5]一切衆生の徳を完成しようとおもい[究竟成就一切衆生滿足大願]、[6]はかり知れない長い時間のなかに安住しながら久しい感じがなく[住一切劫。不覺其久]、[7]いかなる苦においても苦をおぼえず[於一切苦不以爲苦]、[8]いかなる楽においてもこころを執著せず[於一切樂心無染著]、[9]比類のない大いなるさとりを認知しようとする[悉善分別無等等解脱] (玉城訳では、ここに [10][得大涅槃無有差別=究極の悟りを完成する]が抜けている。書き忘れか)。
 これが、すべての願いを果たすところの菩薩の十法である。

 仏子よ、菩薩はいかにして、その求めに応じて衆生を教化するのであろうか。
 この菩薩は、衆生にとって適切な方便を知り、衆生の宿業の因縁を知り、また、衆生が心におもうているところを知る。そして、それに応じて煩悩をのぞく方法を教えるのである。
 むさぼりの多いものには肉身の不浄をおもわせ、腹立ちの多いものには慈悲をおもうことを教え、ぐちの多いものにはすべてのことは因縁によっていることを知らせ、なにごとにも執著するものには一切は空であることを教え、おこたりがちなひとには努力を行ずることをすすめ、我慢のつよいものには一切は平等であることをおもわせ、自分の心をまげて人にへつらうものには、菩薩の心は寂かでなにごとにも執著しないことを教える。
 このように、もろもろの煩悩に対しては、無量の教えがこれに応ずるのである。
 菩薩は、分別の智慧をよくめぐらし、教えの意味をよくのべつたえ、ものの順序をたごうことなく、すべてのことがらは破滅すべきものでありながら、真理の世界においては消滅するものがないことを教え、衆生の疑いをのぞいて、ことごとく真理を喜ばしめ、その能力に応じてもろもろの功徳を教え、ついに如来の大海に入らしめるのである。
 菩薩は、このように、すべての衆生をみちびき、そのこころは寂かで、乱れたことがなく、つぎのような十の波羅蜜注3そなえている

【十波羅蜜】
[1] 第一に、一切の衆生のために、精神的、物質的なすべてのものを与えて、これに執著することがない。これが「施波羅蜜注4」である。
[2] 第二に、すべての戒律をたもちながら、たもっているという意識がないから、これに執著しない。これが「戒波羅蜜」である。
[3] 第三に、いかなる苦痛にも耐えしのび、()きを聞くも、悪しきを聞くも、心は平等で動揺しないこと、あたかもすべてのものをささえている大地のごとくである。これが「忍波羅蜜」である。
[4] 第四に、努力精進してつねに怠ることなく、不動のこころをもって、決して退くことがない。これが「精進波羅蜜」である。
[5] 第五に、いかなる欲望にも執著せず、次第に禅定に入って、あらゆる煩悩をやきつくし、やがて無量の三昧を生じて大神通(だいじんづう)をそなえ、さらに超越して、一つの三昧のなかで無量の三昧に入り、一切の三昧の境地を知って、諸仏の智慧をそなえるにいたる。これが「禅波羅蜜」である。
[6] 第六に、諸仏のみもとで、法を聞いてよくささえ、もろもろの善知識にちかづき、うやまい、こころに倦怠をおぼえることなく、諸法を正しく観察して、真実の禅定に入り、すべての偏見をはなれて真理の海をわたり、如来の無効用(むくゆう)注5の道を知って、一切の智慧をそなえるにいたる。これが「般若波羅蜜注6」である。
[7] 第七に、世間のさまざまなすがたを示して衆生をみちびき、そのこころばえに応じて身をあらわし、いかなるはたらきにも執著することなく、あるいは凡夫の身となり、あるいは聖人の身となり、あるいは生死をあらわし、あるいは涅槃をあらわし、すべての境地に入って、衆生を目覚ましめる。これが「方便波羅蜜」である。
[8] 第八に、すべての衆生を完成せしめ、すべての世界を荘厳注7し、すべての如来を供養し、諸法の真実をさとり、修行して法界の智慧をそなえ、すべての仏国土をあらわし、諸仏の智慧を体得する、これが「願波羅蜜」である。
[9] 第九に、大心力によってもろもろの煩悩をはなれ、大信力によってなにものにも負けず、大悲力によって行のうところ平等であり、弁才力注8によってすべて衆生をよろこばせ、神通力によってすべての衆生をまもる。これが「力波羅蜜」である。
[10] 第十に、むさぼり、はらだち、愚痴のつよいひとびとを知り、一念のなかで衆生の心のはたらきを知り、一切諸法の真実を知り、諸仏の深い智慧力に到達し、あまねく一切の道理をわきまえる。これが「智波羅蜜注9」である。

 仏子よ、菩薩はこのように、もろもろの波羅蜜をきよめ、もろもろの波羅蜜を完成し、衆生のむかうところにおうじて法を説く。むさぼりのつよいひとには、欲をはなれよ、とおしえ、はらだちのはげしいひとには、平等観をおしえ、よこしまな見解のひとには、因縁観をおしえ、小乗をねがうひとには、寂静の行をおしえ、大乗をねがうひとには、大乗を荘厳することをおしえる。
 そのむかし、菩薩がはじめて悟りに向うこころをおこしたとき、多くの衆生が悪道におちていくのを見て、菩薩は、つぎのように大獅子吼した。
『わたしは、衆生のこころの病を知り、その病に応じて、衆生におしえ、ついにこれを目覚ましめよう。』と。
 菩薩は、このような智慧をそなえて、無量の衆生を救っている。

 仏子よ、また菩薩は、三宝注10をさかんにおこして、とこしなえに絶えないようにしている。
 すなわち、菩薩は、衆生をみちびいて菩提心をおこさせる。このために、仏宝の絶えるときがない。
 菩薩は、つねにすぐれた法を開示している。このために、法宝の絶えるときがない。
 菩薩は、つねに作法をまもり、教えを身につけている。このために、僧宝の絶えるときがない。
 また菩薩は、すべての大願をほめたたえている。このために、仏宝の絶えるときがない。
 菩薩は、因縁の道理をわきまえ、これを説法している。このために、法宝の絶えるときがない。
 菩薩は、六和敬(ろくわきょう)注11を行じている。このために、僧宝の絶えるときがない。
 また菩薩は、仏の種子を衆生の田地におろし、さとりの芽を出させている。このために、仏宝の絶えるときがない。
 菩薩は、身命をおしまずに、正法をまもっている。このために、法宝の絶えるときがない。
 菩薩は、大衆を統御して、倦むことを知らない。このために、僧宝の絶えるときがない。
 仏子よ、菩薩は、智慧のともしびによって、無智のやみをのぞき慈悲の力によって、もろもろの魔軍をくだし金剛定(こんごうじょう)注12に入って、すべての心のあかと煩悩をのぞき清浄な智慧を完成することによって、すべての悪道のわざわいをはなれ大法をのべて、無量無辺の衆生を目覚めさせる
 仏子よ、菩薩は、このように無量の法を修行して、次第に身につけ、ついには如来の境地に到達する。
 無量の国において正法をまもり、大師となって如来の法をささえ、大衆のなかで深法をのべつたえ、容貌は端正で、その声色はことにすぐれ、一言をのべるごとに、多くの衆生をよろこばせ、適切にみちびき、こころの目を開かせて、智慧の世界に入らしめる。
 菩薩は、このように多くの方便によって、あまねく衆生のために法の蔵をひらき、いまだかつて倦怠のこころを生じたことがなく、大衆のなかにあって少しもおそれず、たれも菩薩の智慧をやぶることができない。
 菩薩は、次第にすべての法のすがたを識別し、大悲心によって、すべての衆生をきよめ、またたのしませ、師子の座において、すぐれた弁舌をもって、ひろく衆生のために甚深の法を説いている。」



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初版:2003年5月20日