華厳経 第二会
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華厳経

第二 善光法堂会

  

第三章 如来名号品

 第一()がおわって、第二会にうつる。この普光法堂(ふこうほうどう)は、第一会の寂滅道場から、ほど遠からぬところにある。第二会の説法者は文殊菩薩が中心になっている。ここには、第三章から第八章までの六章がふくまれている。第一会が、主として、仏の、広大無辺の世界を説いているのにたいして、第二会は、主として、仏そのもののはたらきをしめしている。
 最初の如来名号品には、如来の無数の名前が説かれている。その一々の名前が、そのまま如来そのものをあらわしており、また、われわれの、悟りへの道しるべになっているようである。

 仏は、マカダ国の寂滅道場で悟りをひらかれ、そこで説法がおわったのち、いまは、普光法堂における蓮華蔵の師子座の上に坐っておられる。仏のまわりには、おおくの菩薩たちがはべっており、かれらはみな、真理の世界に入り、衆生の本性をわきまえており、すぐれた菩薩たちである。
 そのとき、つぎのような願いが、菩薩たちの心のなかに浮んだ。
「どうか仏さまよ、わたしたちをあわれんでお教えください。わたしたちの煩悩をたち、けがれをはなれ、疑いの病をやぶり、愛欲の心がなくなる道をおしめしください。また、仏の最高の境地、仏のいのち、仏のはたらき、仏の力、光、智慧、禅定を、ここにあらわしてください。」
 そのとき、仏は、菩薩たちのおもいをしりたもうて、神通力をあらわし出された。神通力がおわると、東方の国から、文殊菩薩は、無数の菩薩たちと連れだって、仏のみもとに詣で、仏に礼拝供養したのち、神通によって師子の座をこしらえ、そこに結跏趺坐した。
 南方の国から、(かくしゅ)菩薩が、無数の菩薩たちといっしょに、仏のみもとにいたり、おなじく礼拝供養したのち、結跏趺坐した。
 おなじように、西方、北方、東北方、東南方、西南方、西北方、下方、上方の、国ぐにから、それぞれの菩薩たちといっしょに仏のみもとにいたり、礼拝供養して、結跏趺坐した。
 そのとき、文殊菩薩は、仏の神通力をうけ、菩薩たちのあつまりをみて、説法をはじめる。
「なんとまあ、こころよいことであろう。このような菩薩のあつまりを、いままでみたことがない。
 仏子よ、つぎのようにしるがよい。仏の国は、不可思議である。仏のいのち、仏のみのり、仏の説法、仏の無上のさとり、仏の世にあらわれたもうこと、これらは、ことごとく不可思議である。なぜかというに、十方の諸仏は、衆生のねがいが、たがいに異なっていることをしろしめし、それぞれのねがいに応ずるように方を説きたもうのであるが、その説法のはたらきは、あたかも、虚空世界を自由自在にかけめぐるように、すぐれているからである。
 仏子よ、この国では、如来はおおくの()をもっておられる。すなわち、満月、獅子(しし)、釈迦牟尼、神仙、大沙門、最勝、など、その数、一万である。
 仏子よ、東方の国にも、多くの御名がある。すなわち、金剛、尊勝、大智、不壊、(じょう)、平等、歓喜、無比、黙然、など、その数、一万である。
 仏子よ、南方の国にも、多くの御名がある。すなわち()調(じょう)注1、大音、無量、勝慧、など、その数、一万である。
 仏子よ、西方の国にも、おおくの御名がある。すなわち、愛現、無上王、恐怖(くふ)実慧、知足、(きょう)、能忍、など、その数、一万である。
 仏子よ、北方の国にも、おおくの御名がある。すなわち、苦行、婆伽婆(ばがば)注2福田(ふくでん)注3、一切智、善意、清浄、など、その数、一万である。
 仏子よ、東北方の国にも、おおくの御名がある。すなわち、法王、寂静、離欲、等心、など、その数、一万である。
 仏子よ、東南方の国にも、おおくの御名がある。すなわち、蓮華、慧火、智人、解脱、(ねん)安住、妙行成就、精進(しょうじんりき)、など、その数、一万である。
 仏子よ、西南方の国にも、おおくの御名がある。すなわち、不動、慧王、満慧、無動慧、常悲、一切施、など、その数、一万である。
 仏子よ、西北方の国にも、おおくの御名がある。すなわち、()、光明成就、悦楽、本性清浄、など、その数、一万である。
 仏子よ、下方の国にも、おおくの御名がある。すなわち、長養善根(じょうようぜんごん)、利智、(ぼんのん)、平等施、など、その数、一万である。
 仏子よ、上方の国にも、おおくの御名がある。無量清浄、妙荘厳、(じょうまん)注4、火花、一乗、など、その数、一万である。
 このように、娑婆世界(しゃばせかい)注5には、百億の国ぐにがあり、したがって、百億万の如来の御名がある。
 仏子よ、この娑婆世界の東に、(みつくん)という世界があり、そこでも、平等、安慰、一切捨、超越(だいちょうおつ)、無比智、など、百億万の、如来の御名がある。
 仏子よ、おなじように、娑婆世界の、南、西、北、など十方に、それぞれ世界があり、それぞれに、百億万の如来の御名がある。
 このように、数えることも思議することもできない無数無辺の、如来の御名があり、十方の衆生は、みなそれぞれ、如来の御名を称えている。久遠のむかし、仏がまだ菩薩であられたとき、種々の修行を経て、ついに、仏道を完成された。このような無数無辺の御名は、ただひとえに、仏の御法を、衆生にしらせるためのものである。」






  

第四章 四諦品

 (たい)というのは、四つの真理という意味で、第一は苦諦(くたい)、この世はすべて苦であるという真理、第二は集諦(じったい)、苦の原因は煩悩であるという真理、第三は滅諦(めったい)、煩悩のなくなったところが涅槃であるという真理、第四は道諦(どうたい)、涅槃にいたるために八つのただしい道があるという真理。四諦は、原始仏教で説かれ、また、小乗の教えであるといわれているが、本経では、これに無数の名前のあることをしめし、広大無辺な大乗の立場に立っている。

 文殊菩薩は、つぎのように説いている。
「仏子よ、この娑婆世界では、苦諦のことを、害、罪、逼迫(ひっぱく)注1、変異注2童蒙行(どうもうぎょう)注3、などといい、集諦のことを、火、繋縛(げばく)注4、愛著、妄念、テン(=眞+頁)倒根(どうこん)注5、などといい、滅諦のことを、無障礙(むしょうげ)注6離垢浄(りくじょう)、寂静、不死、真実、自然住(じねんじゅう)、などといい、道諦のことを、一乗趣、寂静、引導、平等、仙人行、などという。
 仏子よ、この娑婆世界のなかで、四諦の名前は、じつに無数無辺である。そのゆえは、衆生の心と行いに応じて教みちびくために、このような無数の名前がつけられているのにほかならない。
 仏子よ、この娑婆世界とおなじように、その東方にある密訓世界においても、苦諦を、不出離(ふしゅつり)注7、繋縛本、極苦、一切不実、第一害、などといい、集諦を、染著(ぜんじゃく)注8、流転、愛著、病源、などといい、滅諦を、正義(しょうぎ)、出離、讃嘆、安穏、一道、究竟、などといい、道諦を、超出、離辺、覚悟、摂取、などという。
 仏子よ、あの密訓世界のなかでも、四諦の名前は、無数無辺である。これもまた、衆生の心とおこないに応じて教えみちびくために、無数の名前を説いているのである。
 仏子よ、おなじように、この娑婆世界の南方、西方、北方、東北方、東南方、西南方、西北方、下方、上方の、それぞれの世界においてもまた、無数の四諦の名前が説かれている。
 仏子よ、さらにまた、この娑婆世界および十方の世界とおなじように、東方の百選億の、数かぎりのない世界においても、四諦の名が説かれており、南西北方、四維、上下、ことごとく同様である。これらはすべて、衆生の心とおこないに応じて教えみちびくために、このような無数の名を説いているのにほかならない。」






  

第五章 如来光明覚品

 この章でも、文殊菩薩は、仏のさとりを、くりかえしくりかえし説いてやまない。

 そのとき、仏の両足のうちから無数の光明がはなたれて、三千大千世界のすべてのものが照らしだされた。仏は、蓮華蔵の師子座の上に坐したもうている。文殊菩薩をはじめ、多くの菩薩たちが、それぞれじぶんのなかまをつれて、仏のまわりにあつまってきた。

 そのとき、文殊菩薩は次のように仏をほめたたえる。
「如来は、すべてのものが、あたかも幻のようであり、また虚空のようである、とさとりたまい、その御心は浄くしてへだてがなく、すべての衆生をおさとしになられる。
 仏が、はじめてこの世にお生まれになったとき、そのお姿は、金山のようにうるわしく、満月のように照りかがやいておられた。お生まれになると、すぐ七歩すすまれたが、その一歩一歩に、無量の功徳をおさめ、智慧と禅定をそなえたもうていた。
 仏は、ときには明浄の眼で十方の世界をみそなわされ、衆生の喜ぶのを見て、にっこり笑みたもうた。また、獅子のほえるような威厳のあるみこえで、『天上天下、ただわれひとり尊とし』とのたもうた。
 カピラ城を出て出家なさるときは、すべての束縛をはなれ、諸仏の修行にはげんで、つねに寂滅(じゃくめつ)注1の世界を願われた。
 そして、ついには道場に坐したまいて、さとりの彼岸にいたり、迷いと煩悩の消滅を体験せられた。
 衆生にたいしては法輪を転注2ぜられ、大悲心をもって教えみちびかれた。最後にはこの世の縁がつきて、涅槃に入られたが、しかし仏は、いまもなお無尽の力によって、自由自在の真理をあらわしたもうている。」

 そのとき、仏の光明が放たれて、無数の世界が照らし出され、世界のありとあらゆるものがあらわれでた。この世界では、仏が蓮華蔵の師子座の上に坐したもうて、十仏世界の無数の菩薩たちによって、とりかこまれているように、一々の世界においてもまた同様である。
 文殊菩薩は、さらに説法をつづける。
「仏の説きたもう真理は、はなはだ深くて、色もなく形もない。その境界は、すべての煩悩をこえ、すべての我執をはなれて、空寂であり、清浄である。
 さとりの世界は広大無辺であり、そのなかで万象は関連しあって起っている。その一々がともに解脱しており、もともとつねに空寂であって、すべてのまどいをはなれている。」

 文殊菩薩は、このような仏のさとりの世界のなかで、[十種の]菩薩のつとめについて説法する。
「(1)人間界や天上界における快楽の心をはなれて、つねに大慈心を行じ、すべての衆生をすくいまもれ。これが菩薩の第一のつとめである。
 (2)ひたすら仏を信じ、その心がしりぞかないよう、諸仏を念じていけ。これが菩薩の第二のつとめである。
 (3)とこしえに生死の海をはなれ、仏法のながれにしたがい、清涼の智慧に安住せよ。これが菩薩の第三のつとめである。
 (4)日常の動作のなかに、仏の深い功徳を念じ、昼も夜もおこたるな。これが菩薩の第四のつとめである。
 (5)過去現在未来の無量であることをしり、怠慢の心をおこさないで、つねに仏の功徳をもとめよ。これが菩薩の第五のつとめである。
 (6)自身のありのままの実相を観察し、すべてはみな寂滅していることをしって、()や無我にたいする執着をはなれよ。これが菩薩の第六のつとめである。
 (7)衆生の心を観察して、まよいの想いをはなれ、真実の境界を完成せよ。これが菩薩の第七のつとめである。
 (8)無辺の世界に思いをはせ、すべての大海をのみつくすほどの神通(じんづう)の智慧を完成せよ。これが菩薩の第八のつとめである。
 (9)諸仏の国土の、形あるものと形ないもののすべてをしれ。これが菩薩の第九のつとめである。
 (10)はかりしれない仏国土の、一つの塵を一仏となし、かくしてすべての塵を諸仏となせ。これが菩薩の第十のつとめである。」

 そのとき、仏の光明は、無数の世界を照らしだし、世界のありとあらゆるものがあらわれでた。文殊菩薩の説法は、さらにつづいてゆく。
「仏は、行じがたいみのりをかたく守って日夜、つねに努力精進し、いまだかつてつかれをおぼえない。
 仏は、もっとも困難な生死の大海をのりこえ、『わたしは、一切の衆生をして、ことごとく生死の海をのりこえさせよう。』と、大音声をあげておられる。
 衆生は、生死のながれにさまよい、愛欲の海にしずみ、無智と迷妄は、十重二十重に、その心をつつみ、まくらなやみのなかで、おそれおののいている。
 衆生は、煩悩のおもむくままに勝手にふるまい、五欲注3によいしれ、妄想をおこして、とこしえに苦しんでいる。
 まよいをはなれきった仏は、衆生の苦悩をことごとくたちきり、世界の超脱者となっておられる。これが大悲の境界(1)である。
 仏は、生死の根本である我執をたち、衆生は、その我執によって生死に流転している。このような衆生を、寂滅の世界へ入らしめようとおぼしめし、最高のみのりをのべたもうている。これが大悲の境界(2)である。
 衆生は、孤独で、たよるものもなく、むさぼり、いかり、迷妄にとらわれている。このように、昼夜、つねに煩悩の火のもえるのをみたもうて、仏は、この苦悩をすくおうとちかわれる。これが大悲の境界(3)である。
 衆生は、まよいまどうて正路をみうしない、よこしまな道にそれて、やみにおちこんでいる。仏は、智慧のともしびをかかげ、諸仏の御法をみせしめようとおぼしめし、仏みずから、そのともしびとなりたもうている。これが大悲の境界(4)である。
 生死の海は、ふかく、ひろく、ほとりがない。衆生は、おぼれ、ただようている。仏は、正法(しょうぼう)の大船をつくり、衆生をのせて、ことごとく生死の海をわたしたもう。これが大悲の境界(5)である。
 仏の深いみのりをきき信じてうたごうことなく寂滅の世界を観察して、こころにおそれることなく、どのような衆生の境界にも同化される。これが人天の師である。」

 文殊菩薩の説法は、さらにつづく。
「はかりしれない時のながれを一念のあいだに観察してみると、来るものもなく、去るものもなく、現在もまたとどまらない
 (1)ありのままの実相にしたがい、(2)よくわきまえてそれをしり、(3)究極のすがたを体得すれば、(4)仏の自由自在の力を得て、(5)十方の世界を見ることができる。
 (1)仏に供養してのちに、(2)忍辱注4を行じ、(3)ふかい禅定にはいり、(4)真実のおしえを観察し、(5)すべての衆生をして、よろこんで仏に向かわせる。もしこのような御法を行ずれば菩薩は、(6)すみやかに最高のさとりに到達しよう。
 十方の仏に問いたてまつり、そのこころは、水のたたえられたようにつねにうごかず、仏を信じてしりぞくことなく、日常の動作のなかに仏の功徳をそなえ(身密)、ありとあらゆるものは、有にもあらず、無にもあらず、と体得(空観)する。このように、ただしく観察するならば、菩薩は真実の仏をみたてまつることができよう。」






  

第六章 菩薩明難品

 この章から、つぎの第七章、第八章は、信ずるものの立場について述べている。そのなかで、この章は、信の内容について説いており、それには、縁起甚深(じんじん)から仏境界甚深にいたるまでの十種の甚深があるという。甚深というのは、かぎりなく深い世界のことである。この十種の甚深について、問い手は文殊菩薩であり、答え手は、十人のそれぞれの菩薩である。
(ちなみに「十種の甚深」とは(1)縁起甚深、(2)教化甚深、(3)業果甚深、(4)説法甚深、(5)福田甚深、(6)正教甚深、(7)正行甚深、(8)助道甚深、(9)一乗甚深、そして(10)仏境界甚深。)

(1)縁起甚深
 第一に、文殊菩薩が覚首菩薩に問うて言うに、
「仏子よ、心の本性は一つであるのに、どういうわけで、この世はいろいろの差別が生じているのでしょうか。幸福な人もおり、不幸な人もおり、肢体の完全なものもおれば、不具者もおり、容貌の端正なひともおり、みにくいものもおり、くるしんでいる人がいるかとおもえば、たのしんでいる人もいる。また、じぶんの世界を反省してみると、(1)業は心をしらないし、心は業をしらない。(2)感受は、その結果をしらないし、結果は感受をしらない。(3)心は感受をしらないし、感受は心をしらない。(4)因は縁をしらないし、縁は因をしらない。」
 これにたいして覚首菩薩は、次のように答えている。
「衆生を教えみちびくために、あなたは、よくこの問題をたずねてくれた。わたしは、世界のありのままのすがたを説こう。よくおききなさい。
 すべてのものは、自性を持たない。それがなんであるか、ということをたずねても、体得することができない。したがって、どんなものでも、たがいにしりあってはいない
 たとえば、川の水は流れ流れてやむことがないが、その一滴一滴は、たがいにしらないように、すべてのものもまた、そうである。
 また、大火はもえて、しばらくもとどまらないが、そのなかのそれぞれの炎は、たがいにしらないように、すべてのものもまたそうである。
 眼・耳・鼻・舌・身心などは、くるしみをうけていると感じているが、しかし実際には、なんのくるしみもうけていない
 ものそのものは、つねに微動だもしていないけれども、あらわれているほうからいえば(「存在する」という行為からいえば)、つねにうごいている。しかし実際には、あらわれているということにも、なんの自性もない。
 ただしく思惟し、ありのままに観察すれば、すべてのものに自性のないことがしられる。このような心眼は、清浄であり、不思議である。
 だから、虚妄(こもう)注1といい、虚妄でないといい、真実でないということなどはかりのことばにすぎない

(2)教化甚深
 第二に、文殊菩薩が財首(ざいしゅ)菩薩に問うていうに、
「仏子よ、如来が衆生を教えみちびく場合は、どういうわけで如来は、衆生の時間、寿命、身体、行為、見解などに随いたもうのであろうか。」
 そのとき、財首菩薩はつぎのように答える。
「智慧の明かなひとは、つねに寂滅の行をねがっている。わたしは、ありのままをあなたに説こう。よくおききなさい。
 じぶんの身体を内から観察してみるに、いったい、わが身になんの所在があろうか。このように、観察のゆきとどいたひとは、自我の有と無とを理解することができよう。
 身体のあらゆる部分を観察してみるに、どこにも、そのもとづくところの根拠がない。このように、身体の状態をさとっているものは、からだのどこにも執著することがないであろう。
 身体のありのままの状態をさとり、すべてのことがらに了達しているものは、いかなるものも、すべて虚妄注2であるとしって、さらに、その心にも、執著しないであろう。
 身体と精神が、たがいに関係しあい、つながりあって、活動しているさまは、あたかも旋火輪注3のようで、いずれがさきか、識別することができない。
 因縁によっておこるところの業は、たとえていえば夢のようなもので、したがってその結果もまたすべて寂滅している。
 すべての世間のことがらは、ただこころを中心として動いている。だからじぶんのこのみによって判断をくだすものは、その見解がすべてさかさまになっているといってよい。
 生滅流転の一切の世界は、ことごとく因縁から起っており、刹那刹那に消滅している。智者は、すべての存在は無常迅速であり、空にして自我はないと観察し、執著のイメージをはなれる。」

(3)業果甚深
 第三に、文殊菩薩は、宝首(ほいしゅ[ほうしゅ?])菩薩に問うていうに、
「仏子よ、衆生は、地水火風の四元素から成っており、そのなかに自我の実体はない、また、諸法注4の本性は、善でも悪でもない
 しかるに、どういうわけで衆生は、苦楽を受けたり、善悪をなしたり、また、すがたの端正なものもあれば、みにくいものもあるのであろうか。」
 そのとき、宝首菩薩はつぎのように答える。
「それぞれ行なうところの業にしたがって、果報を受けているのであって、その行なうものの実体は存在しない。これが、諸仏の説きたもうところの教えである。
 たとえば、あきらかな鏡にうつっている影像がさまざまであるように、業の本性も、また、それとおなじである。
 あるいは、植物の種子は、たがいにしらずに芽を出すように、業の本性もまた、それとおなじである。
 また、おおくの鳥が、それぞれちがった声をだすように、業の本性もまた、それとおなじである。
 また、地獄で受ける苦しみは、別に外からくるのではないように、業の本性もまた、それとおなじである。」

(4)説法甚深
 第四に、文殊菩薩は、徳首(とくしゅ)菩薩に問うていうに、
「仏子よ、仏のさとっておられる真理は、ただ一つであるのに、どういうわけで仏は、無量の声を出し、無量のからだをあらわし、無量の神通(じんつう)をしめし、無量の衆生を教えみちびきたもうのであろうか。しかも法性(ほっしょう)注5のなかに、このような差別を求めても不可得である。」
 そのとき、徳首菩薩はつぎのように答える。
「仏子よ、あなたの質問は、じつに意味がふかい。智慧ある人が、これをしったなら、つねに仏の功徳をもとめるであろう。
 たとえば、大地の本性は一つであって、それぞれの衆生を安住させていても、大地自身はなんの分別もしないように、諸仏の法もまた、それとおなじである。
 また、火の本性は一つであっても、一切のものを焼きつくすが、火自身にはなんの分別もないように、諸仏の法もまた、それとおなじである。
 また、大海には、無数の川の水が流れ入っているが、その味にはかわりがないように、諸仏の法もまた、それとおなじである。
 また、風の本性は一つであって、一切のものを吹き払うが、風そのものには異なることがないように、諸仏の法もまた、それとおなじである。
 また、太陽はあまねく十方を照らしながら、その光に差別はないように、諸仏の法もまた、それとおなじである。
 また、空中の明月は、みなひとしくこれを仰ぐが、月は別にそこにいたることはないように、諸仏の法もまた、それとおなじである。」

(5)福田甚深
 第五に、文殊菩薩は、目首(もくしゅ)菩薩に問うていうに、
「仏子よ、如来の福田(ふくでん)注6は、一つであるのに、どういうわけで、衆生の受ける果報は異なっているのであろうか。衆生には、すがたのうつくしいもの、みにくいもの、尊いもの、いやしいもの、富めるもの、まずしいもの、智慧のおおいもの、少ないもの、さまざまである。しかし、如来は平等であって、怨親(おんしん)のわけへだてのあろうはずはない。」
 そのとき、目首菩薩は、つぎのように答える。
「たとえば、大地は一つで、怨親はないけれども、種々の植物の芽を生ずるように、仏の福田もまた、それとおなじである。
 また、おなじ水であっても、器によって形がちがうように、諸仏の福田も、衆生によって異なってくる。
 また、弁才天注7がひとびとをよろこばせるように、諸仏の福田もまた、衆生をたのしませる。
 明鏡が、種々の影像をうつすように、諸仏の福田も、種々の衆生をはぐくんでいる。
 太陽がのぼるとき、すべての闇が消えるように、諸仏の福田もあまねく十方界を照らす。」

(6)正教甚深
 第六に、文殊菩薩は、進首菩薩に問うていうに、
「仏子よ、仏の教えは一つであるのに、この教をきいた衆生は、どうしておなじように煩悩を断ずることができないのであろうか。」
 そのとき、進首菩薩はつぎのように答える。
「仏子よ、よくおききなさい。わたしは真実の意味を説こう。衆生には、すみやかに解脱するものもあれば、できないものもある。もし、迷いをのぞいて解脱に達しようとおもうならば、つねに心たけく、大精進をおこすべきである。
 たとえば、まきがぬれていると、すこしの火は消えてしまうように、仏法のなかにおける懈怠(けたい)注8のものもまた、それとおなじである。
 また、火をおこす場合に、たびたび休息すると、火勢はおとろえて、ついに消えてしまうように、懈怠のものもまた、それとおなじである。
 また、目をとじて月のひかりをみようとするように、懈怠のものが仏宝をもとめる場合も、それとおなじである。」

(7)正行甚深
 第七に、文殊菩薩は、法首菩薩に問うていうに、
「仏子よ、衆生のなかには、仏宝を聞くだけでは、煩悩を断ずることができないものがいる。仏法を聞きながらも、貪欲(とんよく)をおこし、怒りの心を生じ、愚痴をいうのは、どういうわけであろうか。」
 そのとき、法首菩薩は、つぎのように答える。
「仏子よ、ただ聞くだけでは仏法を体得することはできない。これが求道の真実のすがたである。
 たとえば、山海の珍味をめぐまれても、口にしないで餓死するひとがあるように、ただ聞くだけのものもまた、それとおなじである。
 また、さまざまな薬をしっているすぐれた医者でも、みずから病んで救うことができないように、ただ聞くだけのものもまた、それとおなじである。
 また、まずしいひとが、日も夜も他人のたからをかぞえても、みずから半銭のもちあわせもないように、ただ聞くだけのものもまた、それとおなじである。
 また、めくらが絵をかいて、ひとにしめしても、みずからみることができないように、ただ聞くだけのものもまた、それと同じである。
 また、水のなかにただよいながら、飲むことをしらず、ついに渇して死ぬことがあるように、ただ聞くだけのものもまた、それと同じである。」

(8)助道甚深
 第八に、文殊菩薩は、智首菩薩に問うていうに、
「仏子よ、仏法のなかでは智慧を第一となすのに、如来はどういうわけで、六波羅蜜注9や四無量心注9を讃嘆したもうのであろうか。こういう法では、無常のさとりを得ることはできないであろう。」
 そのとき、智首菩薩は、つぎのように答える。
「仏子よ、よくおききなさい。
 過去、未来、現在の如来は、ただ一法だけでは、無上のさとりを完成することはできない
 (1)貪欲のものには布施をすすめ、(2)規則をおかすものには持戒をすすめ、(3)怒りやすいものには、忍辱をすすめ、(4)怠惰なものには精進をすすめ、(5)こころの乱れやすいものには禅定をすすめ、(6)愚痴のおおいものには智慧をすすめ、(i) 仁愛に欠けるものには、慈をすすめ、(ii) 人を傷害するものには悲をすすめ、(iii) こころに憂いをいだくものには喜をすすめ、(iv) 愛憎のつよいものには捨をすすめておられる。このようにして訓練をつづけていくならば、やがてすべての真理を悟ることになるであろう。」

(9)一乗甚深
 第九に、文殊菩薩は、賢首(げんじゅ)菩薩に問うていうに、
「仏子よ、すべての諸仏は、ただ一乗によって、生死を超えておられるのに、一切の仏国土を観察してみると、事情がそれぞれ異なっている。すなわち、世界、衆生、説法、教化、寿命、光明、神力(じんりき)など、みなおなじではない。そうすると、一切の仏法をそなえなくては、無常のさとりを完成することは、できないのではあるまいか。」
 そのとき、賢首菩薩は、つぎのように答える。
「文殊菩薩よ、仏法は常住で、ただ一法である。諸仏は、一道によって生死を越えておられる。
 一切諸仏の身体は、ただ一つの法身であり、また、そのこころや智慧も、一心、一智慧である。
 しかし、衆生が無上のさとりをもとめる仕方によって、説法や教化も異なっている。
 また、諸仏の国土は、平等に荘厳されているが、衆生の宿業が、たがいに異なっているから、眼にうつるところもおなじでない。
 仏力は自由自在であるから、衆生の宿業や果報に応じて、真実の世界をしめしたもうのである。」

(10)仏境界甚深
 第十に、もろもろの菩薩たちは、文殊菩薩に問うていうに、
「仏子よ、わたしたちの会得しているところは、みなそれぞれ説きました。どうか仏子よ、つぎに、あなたの深い智慧によって、仏の境界をお説きください。仏の境界(きょうがい)とはなにか、その原因はなにか、どうしたらそこへはいれるか、また、どうしたらその境界を知ることができるか、などを教えてください。」
 そのとき、文殊菩薩は、つぎのように答える。
「如来の深い境界は、あたかも虚空のように広大で、たとい一切の衆生がそこに入っても、真実には、入らないのとおなじである。
 その境界の原因は、ただ仏のみが知っておられる。たとい仏が無量劫注10に説明されても、おそらく説きつくすことはできないであろう。
 仏が、衆生を解脱せしめられるときは、衆生のこころや智慧にしたがって仏法をのべられる。そしていくらのべられても、仏法は尽きることがない。このように仏は、衆生にしたがって、自由自在に衆生の世界に入りたもうけれども、仏の智慧は、つねに寂然(じゃくねん)としている。これが、ただ仏だけの境界である。
 仏の智慧は、その自性が真に清浄で、こころや意識でしることはできない。
 仏の境界は、業でもなく、煩悩でもなく、寂滅していて、よりどころもないが、しかし、平等に衆生の世界に活動している。
 一切衆生のこころは、過去、未来、現在のなかにあり、仏は、ただ一念において、衆生のこころをことごとく明達(みょうたつ)注11しておられる。」

 そのとき、仏の神通力によって、この娑婆世界における一切衆生の、宿業、身体、能力、持戒、犯戒(ぼんかい)注12、などの互いに差別している状態があらわれた。おなじように、十方の無数無量の世界においても、このような衆生の差別が明らかにあらわれた。






  

第七章 浄行品

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 説法者は文殊菩薩である。前章の大解(たいげ)にもとづいて、本章では大行がのべられ、在家者や出家者などの、多くの願いが説かれている。

 そのとき、智首菩薩は、文殊菩薩に問うていうに、
「仏子よ、菩薩は、いかにして、清浄で、ものに動じないところの身口意(しんくい)三業(さんごう)注1を得るのであろうか。
 菩薩は、いかにして、智慧を完成し、畏れないひととなり、覚悟がきまるのであろうか。
 菩薩の、もっともすぐれた智慧、不可思議、不可称、不可説の智慧とは、どういうものであろうか。
 菩薩は、いかにして、方便の力や禅定の力をそなえることができるであろうか。
 菩薩は、いかにして、縁起の法をしり、また、空三昧や無相三昧を行ずることができるのであろうか。
 菩薩は、いかにして、六波羅蜜や四無量心を満足することができるのであろうか。
 菩薩は、いかにして、もろもろの天王、竜王、鬼神王、梵天王などの諸神によって、まもられ、うやまわれることになるのであろうか。
 菩薩は、いかにして、衆生のために、おちつく家となり、救い手となり、燈明となり、みちびき手となるのであろうか。
 菩薩は、いかにして、一切衆生のなかで、比類のないほどすぐれたものとなるのであろうか。」

 そのとき、文殊菩薩は、智首菩薩に答えていうに、
「仏子よ、あなたの問いはなんとすぐれていることであろう。
 衆生をいつくしみ、衆生に恩恵をあたえるために、あなたは、よくも問うてくださった。
 仏子よ、もし菩薩が、清浄で、ものに動じないところの身口意の三業を成就するならば、菩薩は、すべてのすぐれた徳を得るであろう。
 そのとき、菩薩は、仏の正法においてこころにへだてがなく、仏のあらわしたもうた仏法を、みずからよくあらわし、衆生をすてず、あきらかに諸法の実相に到達して、すべての悪をやめ、すべての善をそなえ、一切の諸法において自由自在となるであろう。
 仏子よ、それでは、菩薩が、清浄でものに動じない身口意の三業を成就して、すべてのすぐれた徳を得る、とは、どういうことであろうか。
 菩薩は、まさにつぎのように願うべきである注2
 菩薩が家に在るときは、家にともなうさまざまな困難をすておいて、因縁空注3を体得しよう。
 父母につかえるときは、よくこれをまもり、両親に大きな安心が得られるようにしよう。
 妻子眷属があつまるときは、怨親平等にして、愛欲の貪著(とんじゃく)からはなれよう。
 五欲注4にあうときは、むさぼりやまどいを捨てて、徳がそなわるようにしよう。
 音楽や舞踊にしたしむときは、仏法のたのしみを得て、すべては幻のごとくである、という体認を得よう。
 寝所にあるときは、愛欲のけがれをはなれて、清らかな境地にすすもう。
 うつくしい着物をつけるときは、それに執著するこころをすてて、真実の世界に達しよう。
 たかどのにのぼるときは、仏法のたかどのにのぼるおもいで、すべてを徹見しよう。
 ひとに施すときは、一切の執著をすてて、さっぱりしたこころになろう。
 集会の席においては、さとりを成就して、諸仏の集会にまでなるよう努力しよう。
 災難にあうときは、自由自在にこころがはたらいて、さまたげられないようにしよう。
 菩薩注5が、信心をおこして家を捨てるときは、一切の世間の仕事をなげうって執著しないようにしよう。
 僧房にあるときは、すべての出家者が和合して、心にへだてがないようにしよう。
 出家するときは、不退転の境地を目指して、心にさわりがないようにしよう。
 俗服を捨てるときは、ひたすら仏道を求め、徳を修めて、怠惰にならないようにしよう。
 剃髪するときは、煩悩をもそりおとして、寂滅の世界に到達しよう。
 僧服をつけるときは、むさぼり、いかり、愚痴の三毒をはなれて、仏法のよろこびを得よう。
 出家したときは、仏のように家を出て、すべてのひとびとを導こう。
 みずから仏に帰依したときは、大道を体得して、無上のさとりに向かうこころをおこそう。
 みずから仏法に帰依したときは、深く経典を学んで、大海のような智慧を得よう。
 みずから僧に帰依したときは、大衆をすべておさめて、さわりのないようにしよう。
 身注6をただして端座するときは、なにものにもとらわれないようにしよう。
 結跏趺坐注7するときは、道心堅固にして、不動の境地を得よう。
 三昧(ざんまい)にはいったときは、それを徹底して究極の禅定に達しよう。
 諸法を観察するときは、真実のすがたを見て、さわりやへだてのないようにしよう。
 衣服注8をつけるときは、もろもろの功徳をつける思いでつねにざんげしよう。
 服をととのえ、帯をむすぶときは、仏道にはげむ心をあらたにしよう。
 手に歯ぶらしをとるときは、こころに正法を得て、自然にきよらかになろう。
 大小便をもよおすときは、すべてのけがれをのぞき、むさぼり、いかり、愚痴の三毒を捨てよう。
 水で手を洗ったときは、そのさっぱりした手で仏法を受けとろう。
 口をすすいだときは、清浄な法門に向かって、解脱を完成しよう。
 道注9を行くときは、清浄な法界をふんで、心のさわりからはなれよう。
 のぼる道を見ては、無上の道をのぼって、三界(さんがい)注10を超越しよう。
 くだる道を見ては、へりくだって仏の深法にはいっていこう。
 けわしい道を見ては、心を正直にして、いつわりからはなれよう。
 まっすぐな道をみては、心を正直にして、いつわりからはなれよう。
 大樹注11を見ては、争いの心をすてて、いかりやうらみからはなれよう。
 高山を見ては、無上のさとりを目指して、仏法のいただきをきわめよう。
 いばらを見ては、三毒のとげを抜いて、傷害の心をなくしよう。
 茂っている樹木を見ては、仏道のかげりをつくり、禅定三昧にはいろう。
 ゆたかな果実を見ては、仏道の大行をおこして、無上の果実を成就しよう。
 流水を見ては、正法の流れにさおさして、仏智の大海にすすもう。
 井戸の水を見ては、汲みつくせない法水をのんで、無上の徳をおさみょう。
 山のわきみずを見ては、ちりやあかを洗いおとして、きよらかな心になろう。
 橋を見ては、仏法の橋をつくって、休みなくひとびとを彼岸へわたそう。
 楽しめる人を見ては注12、清浄の法をねがい、仏道によってみずからたのしもう。
 うれえる人を見ては、迷いをはなれる心をおこそう。
 なやめる人を見ては、すべての苦をのぞいて、仏智を得よう。
 すこやかな人を見ては、金剛のようにこわれない法身に達しよう。
 病める人を見ては、身の空寂をしって、一切の苦を解脱しよう。
 恩にむくゆる人を見ては、つねに諸仏や諸菩薩の恩徳を念じよう。
 出家のひとを見ては、清浄の仏法を得て、すべての悪をはなれよう。
 食注13を得ては、その力によって、こころざしを仏道に向けよう。
 食を得ないときは、すべての悪行からはなれよう。
 美食を得ては、節を守り、欲をすくなくして、それに執著することをやめよう。
 粗食を得ては、すべては虚空のごとく無用であるという三昧に徹しよう。
 食をのみこむときは、禅定のよろこびを食となすように心がけよう。
 食を終っては、功徳が身に充満し、仏智の完成に向かおう。
 如来注13を見たてまつるときは、ことごとく仏眼(ぶつげん)を得て、如来の実相を見たてまつろう。
 如来の実相を見たてまつるときは、ことごとく十方を見て、端正なること仏のようになろう。
 夕の注14ねむりにつくときは、すべてのはたらきをやめ、心の動乱をはなれよう。
 (あした)に目ざめるときは、すべてに心をくばり、十方をかえりみよう。」






  

第八章 賢首菩薩品

 説法者は賢首(げんじゅ)菩薩である。前章の菩薩の諸行によって、この章では、種々の功徳が完成されていくことを説いている。

 文殊菩薩は、仏法の深い意味を体得している賢首菩薩に問うていうに、
「仏子よ、わたしは、すでに菩薩の清浄の行を説きおわった。どうか、あなたは菩薩の広大な功徳の意味をお説きください。」
 賢首菩薩が答えていうに、
「仏子よ、よくおききなさい。菩薩の功徳は、広大無辺で、測りしることができない。
 わたしは、じぶんの力にしたがって、そのなかの一部の功徳を説こう。わたしの()べるところは、あたかも大海の一滴のごときものである。
 菩薩が、はじめに菩提心注1をおこすとき、かれは、ひたすらさとりをもとめて動揺することがない。その一年の功徳でさえ、如来がこれを説きたもうとも、ついに説きつくすことはできないであろう。まして、菩薩が種々の行を修めた功徳については、なおさらのことである。十方世界のすべての如来が説きたもうとも、完了することはあるまい。
 いま、わたしは功徳の一部を説くのであるが、それはあたかも、鳥の虚空をふむがごとく、また、大地の一塵にひとしい。
 菩薩が菩提心をおこすには、つぎのようなもろもろの理由がある。
 仏・法・僧の三宝にたいして、深い清浄の信心を有するがゆえに、菩提心をおこす。
 感覚上の欲望や財物をもとめず、世間の名誉をのぞまず、衆生の苦悩をのぞいて、誓ってこのひとびとを救おうとおもうがゆえに、菩提心をおこす。
 深い清浄の信心は、堅固にしてこわれることがない。すべての仏をうやまい、正法および聖僧をとうとぶがゆえに、菩提心をおこす。
 信心は、仏道の根本、功徳の母である。すべての善法を増進しすべての疑惑をのぞいて、無上の仏道を開示する。
 信心は、垢もなく、にごりもなく、たかぶりの心をのぞき、うやまいとつつしみの根本である。
 信心は、第一の宝蔵であり、清浄の手をなって、もろもろの行を受ける。
 信心は、すべての執著をはなれ、深くて妙なる仏法をさとり、ありとあらゆる善をおこない、ついにはかならず仏の国に到るであろう。
 信心の力は、堅固にしてこわれることがない。すべての悪を永久にのぞき、一切の魔境を超えて、無上の解脱道をあらわし出すであろう。
 もし真実の仏法を信ずれば、つねにそれを聞こうとねがい、倦むことがないであろう。もし倦むことがなければ、ついには不可思議の仏法をさとるにいたるであろう。
 もし信心堅固にして、動ずることがなければ、身心ともに明るく、ことごとく清浄となるであろう。
 ことごとく清浄となれば、すべての悪友をはなれて、善友にしたしむであろう。
 善友にしたしめば、測りしれないおおくの功徳を修めるであろう。
 功徳を修めば、もろもろの因果をまなび、その道理をさとるであろう。
 その道理をさとれば、一切の諸仏に守られ、無上の菩提心を生ずるであろう。
 無上の菩提心を生ずれば、諸仏の家に生まれ、一切の執著をはなれるであろう。
 一切の執著をはなるれば、深い清浄心が得られ、すべての菩薩行を実践し、大乗の法をそなえるに至るであろう。
 大乗の法をそなえば、すべての諸仏に供養し、念仏三昧が絶えないであろう。

 仏の安住したもうをしれば、仏法はとこしえに身についたものとなり、かぎりない弁力を得て、無量の仏法を説き出すであろう。
 無量の仏法を説き出せば、すべての衆生を解脱せしめることができ、大悲心は確立するであろう。
 大悲心、確立すれば、甚深の仏法をよろこび、慢心や怠惰をはなれることができよう。
 慢心や怠惰をはなるれば、苦悩の生死(しょうじ)にありながら、すこしもうれいがなく、努力精進することができよう。
 努力精進すれば、もろもろの神通を得て、衆生の生活をしるであろう。
 衆生の生活をしれば、衆生にたいして、法を説き、ものを施こし、親愛のことばをかけ、善行によってみちびき、ともに活動をおなじゅうして、はかりしれない利益をあたえるであろう。
 はかりしれない利益をあたえれば、みずからは無上道に安住し、悪魔のためにやぶれることはないであろう。
 悪魔のためにやぶれることがなければ、不動地(ふどうじ)注2に到達し、不生不滅の真理を体得するであろう。
 不生不滅の真理を体得すれば、やがて成仏することが約束せられ、諸仏の深い教えをさとり、諸仏のためにつねに護られるであろう。
 不生不滅の真理を体得すれば、やがて成仏することが約束せられ、諸仏の深い教えをさとり、諸仏のためにつねに護られるであろう。
 諸仏に護らるれば、仏の無量の功徳が身にあふれ、その面影は光明に照りかがやくであろう。
 光明にかがやけば、その光明から無量の蓮華があらわれ、その蓮華の一々のはなびらに無量の仏がましまし、衆生を教えみちびいて解脱せしめるであろう。
 衆生を解脱せしむれば、無量の自在力を得、適切なところに身をあらわし、一念のうちに、ことごとく衆生の心をしるであろう。
 一念のうちに衆生の心をしれば、苦悩の生死はとこしえに終息し、すべての煩悩は寂滅し、法身の智慧がそなわって、諸法の実相をさとることができよう。
 諸法の実相をさとれば、すべての自在力をことごとく実現して、すぐれた解脱に達し、十方一切の諸仏から成仏の約束がさずけられ、甘露の法水がその頂きに灌がれる注3であろう。
 甘露の法水がいただきにそそがれると、法身は虚空に充満し、十方世界に安住したものとなるであろう。
 このように菩薩の大行によって、正法はつねに安住し、とこしえに不滅となるであろう。その力は、大海のように広大であり、また金剛のように堅固である。」

「菩薩は、一念のあいだに十方世界にあらわれ、十方世界のなかで念念に仏道を実現して涅槃に入る。
 あるいは男女のすがた、あるいは天上、人間、竜神のすがたによって、無量の活動をなし、もろもろの音声を出して仏法を説く。
 このように菩薩が十方世界にあらわれて、あますところなきは、海印三昧注4の力のためである。
 また、菩薩は、一切の諸仏を供養し、みずから放つところの光明は不可思議であり、衆生をみちびくこと無量である。このように、すべてに自由自在にして不可思議であるのは、華厳三昧注5の力のためである。」

「もし菩薩が、一切の仏を供養しようとおもうとき、無量の三昧が生み出されるであろう。
 もろもろの舞踊や音楽、うたごえや詩句をもて、諸仏の功徳をほめたたえ、その音声が十方世界に充ち満ちても、ことごとく菩薩の掌中から自然に出ている。
 また菩薩は、衆生を平安にする三昧にはいって大光明を放っておりこの光明によって衆生を解脱せしめる。
 たとえば、放つところの光明を善現(ぜんげん)と名づく。衆生この光にあえば、果報をうることかぎりなく、ついには無上道をきわめるであろう。この光によって、仏、法、僧の三宝があらわれ、堂塔や仏像が建立される。
 また、放つところの光明を除愛(じょあい)と名づく。その光は、すべての衆生をめざめさせ、もろもろの愛欲をすてて、解脱の甘露水をたのしませる。そのとき、仏の解脱の甘露雨は、すべての衆生の上にふりそそぐであろう。
 また、放つところの光明を歓喜(かんぎ)と名づく。その光は、すべての衆生を目ざめさせ、よろこびに勇んで悟りをもとめ、無上の宝を願わしめる。仏の大慈像が建立され、もろもろの功徳がほめたたえられ、そのために歓喜の光明が完成する。
 また、放つところの光明を愛楽(あいぎょう)と名づく。その光は、すべての衆生を目ざめさせ、心はつねに、もろもろの如来、無上の仏法、きよらかな僧団をたのしませる。つねに十方諸仏のまえにつらなり、無上の仏法をわきまえ、無量の衆生を教えみちびいて菩提心を開発し、そのため愛楽の光明が完成する。
 また、放つところの光明を慧燈(えとう)と名づく。その光は、すべての衆生を目ざめさせ、諸法は空寂にして、生ずることもなく、滅することもなく、有にもあらず、無にもあらず、と解脱せしめる。たとえば、かげろうや水にうつる月かげのごとく、まぼろしや夢や鏡のなかの影像のごとく、諸法は実体なくして、ことごとく空寂である。このために、慧燈の光明が完成する。
 また、放つところの光明を無樫(むけん)と名づく。その光は、すべての衆生からむさぼりの心をのぞき、財宝は永久のものではない、としらしめて、すべての執著をはなれしめる。制しがたい物おしみの心をよく統制し、財宝は夢のごとく浮雲のごとし、とさとり、つねによろこんでひとにものを施こし、そのために無樫の光明が完成する。
 また、放つところの光明を忍荘厳(にんしょうごん)と名づく。その光は、怒れるひとを目ざめさせ、いかりとたかぶりをすて、つねに柔和忍辱注6の仏法を願わせる。性悪にしてしのびがたい衆生を、ことごとくしのばせて仏道を求め、つねに忍辱の仏法をほめたたえ、そのために、忍荘厳の光明が完成する。
 また、放つところの光明を見仏(けんぶつ)と名づく。その光は、臨終のひとをめざめさせ、念仏三昧によって、かならず仏を見たてまつり、いのち終わるときは、仏前に生まれさせる。その臨終を見て念仏をすすめ、仏像をしめして礼拝せしめ、そのために、見仏の光明が完成する。
 また、放つところの光明を法清浄(ほうしょうじょう)と名づく。一々の毛の孔のなかの、無量の諸仏は、それぞれ不可思議の仏法を説いて、衆生を歓喜せしめる。すなわち、因縁によって生ずるところのものは、実体がない、また如来の法身は身体ではなく、不動にして永遠なること、あたかも虚空のごとくである、と。このために、法清浄の光明が完成する。
 このような光明は、それぞれ無量であり、無辺であり、またその数ははかりしれない。ことごとく菩薩の毛の孔から出ており、一つの毛の孔から放つところの光明が、無量無辺にして、その数がはかりしれないように、すべての毛の孔から出ているところの光明もまた、そうである。これ菩薩の三昧における自在力のためである。
 もし、無量の功徳をおさめ、無数の仏をうやまい供養し、こころつねに無上の仏道をねがいもとめるものは、このような光明に出あうであろう。
 たとえば、めくらが日を見ないのは、日が地上に出ないためではなく、もろもろの目あるものは、ことごとく見て、それぞれの仕事にしたがってつとめを果たすがごとくである。
 この光明もまたおなじで、見るものもあり、見ないものもある。邪見のひとは見ないが、智慧のすぐれたひとはよく見る。」

「菩薩は、十方の世界に縁あるがゆえに、往復出入して衆生をすくい、ときには三昧に入り、ときには三昧よりたつ。
 あるいは東方にて三昧に入り西方にて三昧よりたち、あるいは西方にて三昧に入り東方にて三昧よりたつ。
 このように、三昧に出入して十方にあまねきは、菩薩の三昧における自在力のためである。
 視覚において三昧に入り色彩において三昧よりたち、色彩の不可思議なるを見る。色彩において三昧に入り視覚において三昧よりたつも、こころ乱れず、視覚は生ずることもなく、自性もなく、ただ寂滅である、と説く。
 聴覚において三昧に入り音声において三昧よりたち、もろもろの音声をききわける。音声において三昧に入り聴覚において三昧よりたつも、こころ乱れず聴覚は生ずることもなく、自性もなく、ただ寂滅である、と説く。
 このように、嗅覚、味覚、触覚についてもまたおなじである。
 心において三昧に入り、対象において三昧よりたち、もろもろの対象を識別する。対象において三昧に入り、心において三昧よりたつも、心に生ずることもなく、自性もなく、ただ寂滅である、と説く。
 少年の身において三昧に入り、壮年の身において三昧よりたち、壮年の身において三昧に入り、老年の身において三昧よりたつ。
 老年の身において三昧に入り、善き女人において三昧よりたち、善き女人において三昧に入り、善き男子において三昧よりたつ。
 善き男子において三昧に入り、比丘尼の身において三昧よりたち、比丘尼の身において三昧に入り、比丘の身において三昧よりたつ。
 比丘の身において三昧に入り、声聞注7の身において三昧よりたち、声聞の身において三昧に入り、縁覚注8の身において三昧よりたつ。
 縁覚の身において三昧に入り、如来の身において三昧よりたち、如来の身において三昧に入り、諸天の身において三昧よりたつ。
 諸天の身において三昧に入り、一切の鬼神において三昧よりたち、一切の鬼神において三昧に入り、一つの毛の孔において三昧よりたつ。
 一つの毛の孔において三昧に入り、一切の毛の孔において三昧よりたち、一切の毛の孔において三昧に入り、一つの毛の先端において三昧よりたつ。
 一つの毛の先端において三昧に入り、一切の毛の先端において三昧よりたち、一切の毛の先端において三昧に入り、一微塵(いちみじん)注9において三昧よりたつ。
 一微塵において三昧に入り、一切の微塵において三昧よりたち、一切の微塵において三昧に入り、諸仏の光明において三昧よりたつ。
 諸仏の光明において三昧に入り、大海の水において三昧よりたち、大海の水において三昧に入り、虚空のうちにおいて三昧よりたつ。
 このように、無量の功徳あるひとは、その三昧、自由自在にして不可思議である。
 たとい十万一切のもろもろの如来が、その三昧を説きたもうとも、説きつくすことはできないであろう。
 一切の諸仏は、みなともにのたまわく、衆生の業報は不可思議である、と。
 そのとき、自然に空中に声あり。
『一切の五欲注10は、ことごとく無常である。虚妄なること、水沫のごとくであり、幻やかげろうや水中の月のごとくであり、また、夢や浮雲のごとくである。五欲は、すべての功徳を摩滅するものである。汝は、つねに真実にして清浄な菩薩行を求めよ。』と。
 一切世界の衆生のなかで、声聞の道をねがい求めようとするものは少なく、縁覚を求めようとするものは、さらに少なく、大乗を求めようとするものは、もっとも少ない。
 しかく大乗を求めることは、まだやさしい。大乗の法を信ずることは、はなはだむずかしい。まして、この法をよく受持し、ただしく億念し、教えの通りに行じ、真実に理解することは、もっともむずかしい。
 かりに三千大千世界注11を頭にいただいて、一劫のあいだ供養しても、その功徳はそれほどすぐれているとは言えない。しかし大乗の法を信ずる功徳は、とくにすぐれている。
 かりにたなごころのなかに十仏国をたもち、一劫のあいだ虚空にとどまることは、さほどむずかしいことではない。しかし大乗の法を信ずることは、はなはだむずかしい。
 たとい十仏国の衆生に、一劫のあいだ供養しても、その功徳は、それほどすぐれているとは言えない。しかし大乗の法を信ずる功徳は、とくにすぐれている。
 まして、この第八章を受持するものは、その功徳もっともすぐれている。」

 賢首菩薩がこの章を説きおわったとき、十方の世界は六種に震動した。諸魔の宮殿は、あたかも墨のごとく暗かったが、仏の光明は十方を照らして、すべての悪道をことごとく除き去った。
 一切十方のもろもろの如来は、みな賢首菩薩の前にあらわれ、おのおの右の手をさしのべて、その頭をなでたまい、そのために菩薩の仁徳は無量のものとなった。
 一切の如来は、菩薩の頭をなでおわってほめたたえてのたまわく、 「よいかな、よいかな、真の仏子よ、あなたは、大乗の法をさわやかに説きおわった。わたしは、あなたとともに心からたのしもう。」



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初版:2003年5月20日