(1)縁起甚深
第一に、文殊菩薩が覚首菩薩に問うて言うに、
「仏子よ、心の本性は一つであるのに、どういうわけで、この世はいろいろの差別が生じているのでしょうか。幸福な人もおり、不幸な人もおり、肢体の完全なものもおれば、不具者もおり、容貌の端正なひともおり、みにくいものもおり、くるしんでいる人がいるかとおもえば、たのしんでいる人もいる。また、じぶんの世界を反省してみると、(1)業は心をしらないし、心は業をしらない。(2)感受は、その結果をしらないし、結果は感受をしらない。(3)心は感受をしらないし、感受は心をしらない。(4)因は縁をしらないし、縁は因をしらない。」
これにたいして覚首菩薩は、次のように答えている。
「衆生を教えみちびくために、あなたは、よくこの問題をたずねてくれた。わたしは、世界のありのままのすがたを説こう。よくおききなさい。
すべてのものは、自性を持たない。それがなんであるか、ということをたずねても、体得することができない。したがって、どんなものでも、たがいにしりあってはいない。
たとえば、川の水は流れ流れてやむことがないが、その一滴一滴は、たがいにしらないように、すべてのものもまた、そうである。
また、大火はもえて、しばらくもとどまらないが、そのなかのそれぞれの炎は、たがいにしらないように、すべてのものもまたそうである。
眼・耳・鼻・舌・身心などは、くるしみをうけていると感じているが、しかし実際には、なんのくるしみもうけていない。
ものそのものは、つねに微動だもしていないけれども、あらわれているほうからいえば(「存在する」という行為からいえば)、つねにうごいている。しかし実際には、あらわれているということにも、なんの自性もない。
ただしく思惟し、ありのままに観察すれば、すべてのものに自性のないことがしられる。このような心眼は、清浄であり、不思議である。
だから、虚妄注1といい、虚妄でないといい、真実でないということなどはかりのことばにすぎない。
(2)教化甚深
第二に、文殊菩薩が財首菩薩に問うていうに、
「仏子よ、如来が衆生を教えみちびく場合は、どういうわけで如来は、衆生の時間、寿命、身体、行為、見解などに随いたもうのであろうか。」
そのとき、財首菩薩はつぎのように答える。
「智慧の明かなひとは、つねに寂滅の行をねがっている。わたしは、ありのままをあなたに説こう。よくおききなさい。
じぶんの身体を内から観察してみるに、いったい、わが身になんの所在があろうか。このように、観察のゆきとどいたひとは、自我の有と無とを理解することができよう。
身体のあらゆる部分を観察してみるに、どこにも、そのもとづくところの根拠がない。このように、身体の状態をさとっているものは、からだのどこにも執著することがないであろう。
身体のありのままの状態をさとり、すべてのことがらに了達しているものは、いかなるものも、すべて虚妄注2であるとしって、さらに、その心にも、執著しないであろう。
身体と精神が、たがいに関係しあい、つながりあって、活動しているさまは、あたかも旋火輪注3のようで、いずれがさきか、識別することができない。
因縁によっておこるところの業は、たとえていえば夢のようなもので、したがってその結果もまたすべて寂滅している。
すべての世間のことがらは、ただこころを中心として動いている。だからじぶんのこのみによって判断をくだすものは、その見解がすべてさかさまになっているといってよい。
生滅流転の一切の世界は、ことごとく因縁から起っており、刹那刹那に消滅している。智者は、すべての存在は無常迅速であり、空にして自我はないと観察し、執著のイメージをはなれる。」
(3)業果甚深
第三に、文殊菩薩は、宝首菩薩に問うていうに、
「仏子よ、衆生は、地水火風の四元素から成っており、そのなかに自我の実体はない、また、諸法注4の本性は、善でも悪でもない。
しかるに、どういうわけで衆生は、苦楽を受けたり、善悪をなしたり、また、すがたの端正なものもあれば、みにくいものもあるのであろうか。」
そのとき、宝首菩薩はつぎのように答える。
「それぞれ行なうところの業にしたがって、果報を受けているのであって、その行なうものの実体は存在しない。これが、諸仏の説きたもうところの教えである。
たとえば、あきらかな鏡にうつっている影像がさまざまであるように、業の本性も、また、それとおなじである。
あるいは、植物の種子は、たがいにしらずに芽を出すように、業の本性もまた、それとおなじである。
また、おおくの鳥が、それぞれちがった声をだすように、業の本性もまた、それとおなじである。
また、地獄で受ける苦しみは、別に外からくるのではないように、業の本性もまた、それとおなじである。」
(4)説法甚深
第四に、文殊菩薩は、徳首菩薩に問うていうに、
「仏子よ、仏のさとっておられる真理は、ただ一つであるのに、どういうわけで仏は、無量の声を出し、無量のからだをあらわし、無量の神通をしめし、無量の衆生を教えみちびきたもうのであろうか。しかも法性注5のなかに、このような差別を求めても不可得である。」
そのとき、徳首菩薩はつぎのように答える。
「仏子よ、あなたの質問は、じつに意味がふかい。智慧ある人が、これをしったなら、つねに仏の功徳をもとめるであろう。
たとえば、大地の本性は一つであって、それぞれの衆生を安住させていても、大地自身はなんの分別もしないように、諸仏の法もまた、それとおなじである。
また、火の本性は一つであっても、一切のものを焼きつくすが、火自身にはなんの分別もないように、諸仏の法もまた、それとおなじである。
また、大海には、無数の川の水が流れ入っているが、その味にはかわりがないように、諸仏の法もまた、それとおなじである。
また、風の本性は一つであって、一切のものを吹き払うが、風そのものには異なることがないように、諸仏の法もまた、それとおなじである。
また、太陽はあまねく十方を照らしながら、その光に差別はないように、諸仏の法もまた、それとおなじである。
また、空中の明月は、みなひとしくこれを仰ぐが、月は別にそこにいたることはないように、諸仏の法もまた、それとおなじである。」
(5)福田甚深
第五に、文殊菩薩は、目首菩薩に問うていうに、
「仏子よ、如来の福田注6は、一つであるのに、どういうわけで、衆生の受ける果報は異なっているのであろうか。衆生には、すがたのうつくしいもの、みにくいもの、尊いもの、いやしいもの、富めるもの、まずしいもの、智慧のおおいもの、少ないもの、さまざまである。しかし、如来は平等であって、怨親のわけへだてのあろうはずはない。」
そのとき、目首菩薩は、つぎのように答える。
「たとえば、大地は一つで、怨親はないけれども、種々の植物の芽を生ずるように、仏の福田もまた、それとおなじである。
また、おなじ水であっても、器によって形がちがうように、諸仏の福田も、衆生によって異なってくる。
また、弁才天注7がひとびとをよろこばせるように、諸仏の福田もまた、衆生をたのしませる。
明鏡が、種々の影像をうつすように、諸仏の福田も、種々の衆生をはぐくんでいる。
太陽がのぼるとき、すべての闇が消えるように、諸仏の福田もあまねく十方界を照らす。」
(6)正教甚深
第六に、文殊菩薩は、進首菩薩に問うていうに、
「仏子よ、仏の教えは一つであるのに、この教をきいた衆生は、どうしておなじように煩悩を断ずることができないのであろうか。」
そのとき、進首菩薩はつぎのように答える。
「仏子よ、よくおききなさい。わたしは真実の意味を説こう。衆生には、すみやかに解脱するものもあれば、できないものもある。もし、迷いをのぞいて解脱に達しようとおもうならば、つねに心たけく、大精進をおこすべきである。
たとえば、まきがぬれていると、すこしの火は消えてしまうように、仏法のなかにおける懈怠注8のものもまた、それとおなじである。
また、火をおこす場合に、たびたび休息すると、火勢はおとろえて、ついに消えてしまうように、懈怠のものもまた、それとおなじである。
また、目をとじて月のひかりをみようとするように、懈怠のものが仏宝をもとめる場合も、それとおなじである。」
(7)正行甚深
第七に、文殊菩薩は、法首菩薩に問うていうに、
「仏子よ、衆生のなかには、仏宝を聞くだけでは、煩悩を断ずることができないものがいる。仏法を聞きながらも、貪欲をおこし、怒りの心を生じ、愚痴をいうのは、どういうわけであろうか。」
そのとき、法首菩薩は、つぎのように答える。
「仏子よ、ただ聞くだけでは仏法を体得することはできない。これが求道の真実のすがたである。
たとえば、山海の珍味をめぐまれても、口にしないで餓死するひとがあるように、ただ聞くだけのものもまた、それとおなじである。
また、さまざまな薬をしっているすぐれた医者でも、みずから病んで救うことができないように、ただ聞くだけのものもまた、それとおなじである。
また、まずしいひとが、日も夜も他人のたからをかぞえても、みずから半銭のもちあわせもないように、ただ聞くだけのものもまた、それとおなじである。
また、めくらが絵をかいて、ひとにしめしても、みずからみることができないように、ただ聞くだけのものもまた、それと同じである。
また、水のなかにただよいながら、飲むことをしらず、ついに渇して死ぬことがあるように、ただ聞くだけのものもまた、それと同じである。」
(8)助道甚深
第八に、文殊菩薩は、智首菩薩に問うていうに、
「仏子よ、仏法のなかでは智慧を第一となすのに、如来はどういうわけで、六波羅蜜注9や四無量心注9を讃嘆したもうのであろうか。こういう法では、無常のさとりを得ることはできないであろう。」
そのとき、智首菩薩は、つぎのように答える。
「仏子よ、よくおききなさい。
過去、未来、現在の如来は、ただ一法だけでは、無上のさとりを完成することはできない。
(1)貪欲のものには布施をすすめ、(2)規則をおかすものには持戒をすすめ、(3)怒りやすいものには、忍辱をすすめ、(4)怠惰なものには精進をすすめ、(5)こころの乱れやすいものには禅定をすすめ、(6)愚痴のおおいものには智慧をすすめ、(i) 仁愛に欠けるものには、慈をすすめ、(ii) 人を傷害するものには悲をすすめ、(iii) こころに憂いをいだくものには喜をすすめ、(iv) 愛憎のつよいものには捨をすすめておられる。このようにして訓練をつづけていくならば、やがてすべての真理を悟ることになるであろう。」
(9)一乗甚深
第九に、文殊菩薩は、賢首菩薩に問うていうに、
「仏子よ、すべての諸仏は、ただ一乗によって、生死を超えておられるのに、一切の仏国土を観察してみると、事情がそれぞれ異なっている。すなわち、世界、衆生、説法、教化、寿命、光明、神力など、みなおなじではない。そうすると、一切の仏法をそなえなくては、無常のさとりを完成することは、できないのではあるまいか。」
そのとき、賢首菩薩は、つぎのように答える。
「文殊菩薩よ、仏法は常住で、ただ一法である。諸仏は、一道によって生死を越えておられる。
一切諸仏の身体は、ただ一つの法身であり、また、そのこころや智慧も、一心、一智慧である。
しかし、衆生が無上のさとりをもとめる仕方によって、説法や教化も異なっている。
また、諸仏の国土は、平等に荘厳されているが、衆生の宿業が、たがいに異なっているから、眼にうつるところもおなじでない。
仏力は自由自在であるから、衆生の宿業や果報に応じて、真実の世界をしめしたもうのである。」
(10)仏境界甚深
第十に、もろもろの菩薩たちは、文殊菩薩に問うていうに、
「仏子よ、わたしたちの会得しているところは、みなそれぞれ説きました。どうか仏子よ、つぎに、あなたの深い智慧によって、仏の境界をお説きください。仏の境界とはなにか、その原因はなにか、どうしたらそこへはいれるか、また、どうしたらその境界を知ることができるか、などを教えてください。」
そのとき、文殊菩薩は、つぎのように答える。
「如来の深い境界は、あたかも虚空のように広大で、たとい一切の衆生がそこに入っても、真実には、入らないのとおなじである。
その境界の原因は、ただ仏のみが知っておられる。たとい仏が無量劫注10に説明されても、おそらく説きつくすことはできないであろう。
仏が、衆生を解脱せしめられるときは、衆生のこころや智慧にしたがって仏法をのべられる。そしていくらのべられても、仏法は尽きることがない。このように仏は、衆生にしたがって、自由自在に衆生の世界に入りたもうけれども、仏の智慧は、つねに寂然としている。これが、ただ仏だけの境界である。
仏の智慧は、その自性が真に清浄で、こころや意識でしることはできない。
仏の境界は、業でもなく、煩悩でもなく、寂滅していて、よりどころもないが、しかし、平等に衆生の世界に活動している。
一切衆生のこころは、過去、未来、現在のなかにあり、仏は、ただ一念において、衆生のこころをことごとく明達注11しておられる。」
そのとき、仏の神通力によって、この娑婆世界における一切衆生の、宿業、身体、能力、持戒、犯戒注12、などの互いに差別している状態があらわれた。おなじように、十方の無数無量の世界においても、このような衆生の差別が明らかにあらわれた。