華厳経 第一会
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華厳経

第一 寂滅道場会

  

第一章 世間浄眼品

 第一章は、仏がはじめて悟りをひらかれたときの光景である。悟りをひらくや否や、仏は華厳経の教主ヴィルシャナ仏と一体になられる。仏をとりまくおおくのものどもが、ひとりびとり起ち上って仏をほめたたえるが、それが悟りの内容を暗示する前奏曲になっている。

 このように私は聞いている。
 ある時、仏はマカダ国の寂滅道場におられた。仏が始めて悟りを開かれたとき、大地は(きよ)らかとなり、種々の宝や花をもって飾られ、かぐわしい香りがみちあふれていた。また、はなかずらが仏のまわりをとりまいており、その上に、金、銀、るり、はり、さんご、めのう、しゃこ、などの珍しい宝石がちりばめられ、多くの樹木は、枝葉から光を放ちあって照り輝いている。このような光景は、仏の神通力によって現われたものである。
 仏はこの師子座に坐って、最高の悟りを完成されたのである。仏は、過去現在未来の真理がすべて平等であることを悟り、その智慧の光はすべての人々の体の中に入り、その妙なる悟りの音声は世界のすみずみまでいきとどいている。それはあたかも虚空をいくように、なにものにもさまたげられることがない。仏は平等の心ですべての人々によりそっておられ、すべての人々の行いを知っておられる。その智慧の光は一切の闇を除き、無数の仏の国土を現わし出し、いろいろな方便を用いて人々を教え導かれる。
 仏は、普賢菩薩、(とくこう)菩薩など数限りのない菩薩たちと一緒におられる。この菩薩たちは、昔ともに修行したヴィルシャナ仏注1の友だちであり、すべてのすぐれた徳を完成している。かれらは菩薩の修行をなしとげており、智慧の眼は明るくすきとおっていて、過去現在未来を洞察している。心は(しず)かに統一しているが、一たび真理を語りだせば広大な海のように尽きることがない。すべての人々の心の動きを知っており、それに応じてその悩みを除いてやり、また、どんな事柄でもそのなかに入って、よくこれを経験し、捨てるべきものは捨て、取るべきものは取る。すべての仏の世界に遊び、浄土を建設しようという願いを起し、無数の仏を礼拝し、供養し、自分の体は仏の(どく)で満ち充ちている。
 これらの菩薩たちは仏にかしずいているが、そのほか、仏を護衛するもの、道場を守る神々、大地や樹木の神々、河や海の神々など、あるいはアスラ、ラーフラ、キンナラその他の悪鬼悪神、または三十三天王、()天王、(そつ)天王、(らく)天王、他化自在(たけじざい)天王など、無数のものが仏のそばにはべっている。かれらはみな仏の教えを自由自在に用いており、いろいろな方便をもってすべての人々を教え導くことができる。
 その時、これら多くの諸天、諸王、諸菩薩たちが、ひとりびとり仏の神通力をうけて、仏のさとりの世界をほめたたえる。

 そのなかに、楽業光明(ぎょうごうこうみょう)天王というものがあり、仏の神通力をうけて次のようにほめたたえる。
「すべての仏の境涯は、とても深くて心で思い測ることはできない。仏は数知れない衆生を教え導いて、究極のさとりへの道を歩ませられる。すべての事物の真実のすがたは、動乱を離れて(しず)かに統一されてあり、その根柢はなにものにもさまたげられることがない。如来注2は神通力によって、一本の毛の孔の中でも衆生のために、この上もない真理を説きあかされる。如来は、真理の深い意味を洞察し、衆生の能力に応じて不滅の教えを雨のようにふらせ、その為に多くの真理の門が開かれ、寂かに統一されてある平等真実の世界に衆生を導き入れられる。」

 また、(だいぼん)は仏の神通力をうけて、次のようにほめたたえる。
「仏身は清らかで、いつも寂かである。たとい十万の世界を照らしても、仏身はすがたがなく、形を現すこともなく、あたかも天空に浮んでいる雲のようである。このように仏身は寂かな統一の境界であって、いかなる衆生も心で測り尽くすことはできない。また如来は、真理の大海を一音をもって説き尽し、少しも余す所がない。如来の妙なる音声は深くて満ち足りており、衆生はそれぞれの人格に応じてその教えをうべなうことができる。三世十方の仏の得させられた所の菩薩行は、すべて如来の体のなかにあらわれているが、如来は少しも意識しておられない。仏身はあたかも虚空の如くであり、窮め尽すことはできない。仏身はすがたがなく、従ってなにものにもさまたげられない。」

 また日光天子は仏の神通力をうけて、次のようにほめたたえる。
「仏の智慧の光は、量り知れない十方の国土を照してほとりがなく、すべての衆生をしてまのあたり仏を見たてまつらしめる。衆生の世界は大海のように広いが、仏はよくその心を知っておられ、衆生の智慧の海を開発される。如来はこの世にお出ましになり、あまねく十方を照らして残すところがない。如来の(ほっしん)注3はなにものにもくらべようがなく、この上もない智慧をもって真理を説き示される。如来が衆生の種々の生活のなかで難行苦行されるのは、ひとえに衆生のためである。その時々に応じて如来は、妙なる体を現されるが、それはあたかも満月の如くであり、あるいは虚空に浄い光のさすが如くである。無智のため心の暗くなっている衆生は、盲目の人が目を失ったようなもので、如来は、苦しんでいる衆生のための浄い眼を開いてやり、智慧の燈をかかげて清浄な体を衆生の前に現される。」

 また、毘沙門夜叉王は仏の神通力をうけて次のようにほめたたえる。
「衆生の罪悪は深く重く、いつになっても仏を見たてまつることができず、迷いの世界に流れ流れて、つぎつぎにおこる苦しみを受けている。仏はこれらの衆生を救うために世にお出ましになられる。仏は十万の衆生の前に現われ、種々の世界における衆生の苦しみを抜かれる。仏は方便を用いて衆生の重罪や悪業のさわりをすべて除き、衆生を正法のなかに安立したもう。仏はかつて測り知れない長い間、修行を続けられたとき、十方一切の仏をほめたたえられたことがあった。そのために高遠にして偉大な仏の名が、十方国土のすみずみまで響きわたった。仏の智慧は虚空のようにほとりがなく、その法身は不思議というほかはない。」

 このほかまだ多くの諸天や諸菩薩たちが、いれかわり立ちかわり、仏の神通力をうけては仏の世界をたたえおわったとき、蓮華蔵荘厳世界(れんげぞうしょうごんせかい)注4は六種十八相に震動した。そして一々の世界の諸王は、不思議な供養の雲を現わして仏の寂滅道場の上に雨ふらした。一々の世界のなかで仏が道場に坐しておられ、一々の諸王は、それぞれ仏を信じ、心を統一し、仏道を行じ、悟りを開くことができた。十方一切の世界もまたこれと同様である。






  

第二章 廬遮那品

 第二章、廬遮那(るしゃなぼん)から、華厳経の本文がはじまる。題名のしめすように、教主ヴィルシャナ仏の世界が説かれている。しかしヴィルシャナ仏自身は、経典のなかで自ら一言も説かれることはない。沈黙されたままである。ただ光明を放って、ヴィルシャナ仏の国土蓮華蔵世界(れんげぞうせかい)を現出させる。そこでこの章では、(げん)菩薩がその代りになって仏の世界を説いている。教典のなかではおおくの菩薩たちがあらわれているが、もっとも代表的なものは普賢菩薩と(もんじゅ)菩薩で、前者はヴィルシャナ仏の大行をあらわし、後者はその大智をあらわしている。

 そのとき、多くの菩薩や王たちはつぎのような疑問をおこした。
「いったい、仏の境界とはなんであろう。仏の行、仏の力、仏の冥想、仏の智慧とはいったいなんであろう。また、仏の名号の海、仏のいのちの海、衆生の海、方便の海とはなんであろう。またすべての菩薩たちが実践しているところの行の海とはなんであろう。どうか仏さまよ、わたしたちの心をひらき、このような問題についてあきらかにしてください。」

 そこで多くの菩薩たちは、仏の神通力によって自然の音声を出し、つぎのように言った。
「如来は、かぎりなく長いあいだの修行を成就して自然にさとりをひらきたもうた。そしてときとところとを問わず身をあらわして衆生をみちびいておられる。そのはたらきは、あたかも雲がまきおこって虚空に充満するがごとくである。衆生の疑いをことごとく除いて広大な信心をおこさしめ、世間の底しれないくるしみを抜いてさとりの安楽をあたえておられる。
 無数の菩薩たちは一心に合掌して、ひたすら如来をみたてまつっております。どうか菩薩の願いに応じて、すぐれた( みのり)を説きたまい、その疑惑を除いてください。仏の境界、仏の智や力はどういうものでしょうか、どうかわたしたちのためにおしめしください。おおくの仏の三昧と、清浄な修行と、深く妙なる御法と神通力とは、測り知ることができません。どうか御教の大雲をまきおこして衆生のうえに雨ふらしてください。」

 そのとき仏は多くの菩薩たちの願いをしられ、自分の口の一々の歯のあいだから無数の光明を放ちたもうた。その一々の光明からまた無数の光明が分かれて無量の仏国土を照らしだした。多くの菩薩たちは、この光明によってヴィルシャナ仏の蓮華蔵荘厳世界海(れんげぞうしょうごんせかいかい)を見たてまつることができた。そしてかれらは、仏の神通力によってこの光明のなかでつぎのように説いている。
「ヴィルシャナ仏はかぎりなく長いあいだ功徳を修め、十方一切注1の仏を供養し、測り知れない衆生のかずかずを教みちびいて最高のさとりを完成された。大光明を放って十方の世界を照らし、一々の毛の孔から化身注2の雲を吹き出して衆生の器にしたがって教化するところの方便の道を得たもうた。
 おおくのすぐれた仏子よ、如来につかえまつれ。そしてただ一心に敬礼して如来を観たてまつれ。如来の説きたもうところの真理は、その一語のなかにも無辺の経巻の海を流出し、一切衆生に甘露注3の雨を降らしている。如来の大智の海は、底の底まで光明に照らされており、真理へのあらゆる道が充満している。

 ところでこの蓮華蔵荘厳世界の東に、また世界があって、そのなかに仏の国があり、その仏を中心に無数の菩薩がとりまいて結跏趺坐(けっかふざ)注4している。おなじように、南にも西にも北にも、また東南、西南、西北、東北、下、上にも、それぞれ世界があって、そのなかに仏の国があり、その仏を中心に無数の菩薩がとりまいて結跏趺坐している。これらの無数の菩薩たちは、自分の身のすべての毛の孔から光の雲を吹き出し、一々の光のなかからまた無数の菩薩たちを現出している。
 そのとき仏は、これらのすべての菩薩たちに、仏の無量無辺の世界、自由自在の真理への道をしらせるために、眉間の(びゃくごう)注5から光明を放ちたもうた。その光はあまねくすべての仏の国を照らして普賢菩薩をあらわし出し、それを大衆にしめし終って、ふたたび仏の足下相輪(そっかそうりん)注6のなかへおさまった。

 普賢菩薩は仏のみまえで蓮華蔵の師子座に坐し、仏の神通力によって三昧にはいった。それをヴィルシャナ仏身の三昧と名づける。すると十方世界はすべての仏があらわれて普賢菩薩をほめたたえる。
「なんとまあすばらしいことであろう。あなたはこの(さんまい)に入ることができた。これはひとえにヴィルシャナ仏の本願力にもとづくためである。またあなたが諸仏の願いを実行したためである。あるいはまた、諸仏の真理を説きつたえるため、諸仏の智慧の海をひらくため、一切衆生の煩悩をのぞいて清浄な道を得さしめるため、一切諸仏の境界に自由自在に入らしめるためである。」

 そのとき十方の諸仏は普賢菩薩にさまざまな智慧をあたえ、それぞれ右の手をさしのべて菩薩の頭をなでたもうた。その智慧というはたとえば、無量無辺の真理の世界に入る智慧過去現在未来の諸仏のみもとにいたる智慧無量の衆生の世界に入る智慧一切衆生のことばの海をもって真理を述べつたえる智慧などである。
 この光景を見終った無数の菩薩たちは、いっせいに声をあげて、普賢菩薩にむかって「どうか清浄な御教をおつたえください」と願う。
 そのとき普賢菩薩は仏の神通力をうけ、衆生海、(ごうかい)注7、三世の諸仏海を観察しおわって、菩薩たちの大衆に告げていう。
「仏子よ、一切諸仏の智慧の海はこころにおもいうかべることができない。わたしは仏の神通力をうけることによってそれを述べつたえよう。ただ一切の衆生をこの智慧の海に入らしめようと願うためにほかならない。」
 普賢菩薩がこの三昧から起ちあがると、一切の世界は六種に震動し、すべての衆生は平和でこころたのしく、一切如来の大衆の海に十種の宝が雨ふってきた。そのとき普賢菩薩は無数の菩薩たちに告げていう。

「十の教え」
@【かぎりない因縁】 A【依存的安定】 B【形態】 C【】 D【測り知れない荘厳】 E【清浄なる方便】 F【無数の諸仏の出現】 G【種々の時間】 H【変化】 I【種々の無差別

@ 【かぎりない因縁】
「もろもろの仏子よ注8、第一にすべての世界の海は、かぎりない因縁によって成り立っている。すべては因縁によってすでに成立しおわっており、現在成立しつつあり、また将来も成立するであろう。ここに言う因縁とはつぎのことを指している。すなわちそれは[1]如来の神通力である、また[2]ものごとはすべてありのままであるということである、また[3]衆生の行為や宿業である、また[4]すべての菩薩は究極のさとりを得る可能性を有しているということである、また[5]菩薩が仏の国土を浄めるのに自由自在であるということである。これが世界海の因縁である。
 ヴィルシャナ仏の境界はとうてい思い測ることはできないが、われわれが経験しているとおりにすべてが安定している。なぜならヴィルシャナ仏は無量無辺のすべての世界海を浄めたもうているからである。」

A 【依存的安定】
「仏子よ、第二に一々の世界海は種々の拠り所にもとづいて安定している。たとえば、一々の世界海は[1]仏力の荘厳(しょうごん)注9によって安定しており、あるいは[2]虚空によって安定しており、あるいは[3]仏の光明によって安定しており、あるいは[4]幻のような業力(ごうりき)によって安定しており、あるいは[5]普賢菩薩の願力によって安定している。
 ヴィルシャナ仏は、諸仏や諸菩薩の神通力をあらわしたもうている。そこでは一々の小さなちりのなかに仏の国土が安定しており、一々の塵のなかから仏の雲が湧きおこって、あまねく一切をおおい包み、一切を護り念じている。一つの小さな塵のなかに仏の自在力が活動しており、その他一切の塵のなかにおいてもまた同様である。」

B 【形態】
「仏子よ、第三に一切の世界海には種々の形態がある。あるいは円、あるいは四角、あるいは三角、八角、あるいは水が曲がりくねって流れるように、あるいは花の形のようにさまざまである。
 諸仏の国土は(しんごう)によって起り、測り知れないほどのさまざまな形があって、仏力によって荘厳されている。その国のすべてのものはそれぞれ自由自在であって、無量のすがたをあらわしている。浄いものもあれば汚れたものもあり、くるしみもあればたのしみもあり、ものごとがつねに(てん)するにつれてそのすがたもうつりかわっていく。一切の業海はただ不可思議というほかはない。
 一本の毛の孔のなかに無量の仏国土が荘厳されており、悠々として安定している。すべての世界には種々の形があり、どの形の世界のなかでも尊い仏法が説かれている。それこそがヴィルシャナ仏の説法である。これはヴィルシャナ仏の本願力、神通力のいたすところである。それはあたかも幻のようであり、また虚空のようでもあり、もろもろの心業の力によって荘厳されている。」

C 【体】
「仏子よ、第四に一切の世界海には種々の(たい)がある。たとえばおおくの宝によって荘厳されている体、あるいは一宝の体、あるいは金剛のように(けん)な大地の体などである。
 ときには世界海はおおくの宝から成り立っており、堅固であってけっしてこわれることがない。あるいは世界海は光明によって安定しており、光明の雲によってつつまれている。あるいは世界海はいなずまのようであり、とうていことばでいいあらわすことはできない。これはすべて仏の願力にもとづいて起こっているのである。
 あるいは仏身の光明は宝の国に安住しており、悟りの雲はすべてをおおいつつみ、一切の諸仏は自由自在である。あるいは普賢菩薩は仏の国土を現出し、一切の宝をもってかざっている。これはすべて仏の願力の荘厳するところである。」

D 【測り知れない荘厳】
「仏子よ、第五に、すべての世界海には測りしれない荘厳がある。
 たとえば、すべての衆生の宿業が荘厳されていること、また、過去現在未来の諸仏、および普賢菩薩の願力が荘厳されていること、などである。
 十方の世界海は、いろいろに荘厳されていて、広大無辺である。
 衆生の宿業の海は、ひろくてほとりがなく、そのときどきにうつりかわっていくが、その底の底まで諸仏の力によって荘厳されている。」

E 【清浄なる方便】
「仏子よ、第六に、すべての世界海には、種々の清浄な方便がある。
 たとえば、菩薩は、多くの善知識(ぜんちしき)注10にしたしんで徳を修め、智慧をみがき、また、いろいろなすぐれた境地を観察して、それに到達し、あるいは、衆生の種々の悩みを抜こうと念願する。
 すべての仏国の荘厳は、測り知れない願海から生じ、すべての仏国の清浄な色は、菩薩の深い業力からあらわれている。
 菩薩は、久遠のむかしから善知識にしたしんで修行し、その慈悲心は、あまねく流れて衆生をうるおしている。このゆえに、菩薩は世界海を浄めるのである。
 菩薩は、ふかい清浄心を起し、仏を信じてうたがわず、どのような困難にもたえしのぶ。このゆえに、菩薩は世界海を浄めるのである。
 菩薩は、衆生のために清浄の行をつくし、衆生は、それによって無量の福徳を得る。このゆえに、菩薩は世界海を浄めるのである。
 菩薩は、諸仏の功徳の海に入り、すべての衆生をして苦しみの源をきわめさせ、こうして広大な仏国を完成する。このゆえに、菩薩は世界海を浄めるのである。」 

F 【無数の諸仏の出現】
「仏子よ、第七に、一々の世界海には、無数の諸仏がおでましになっている。そのおすがたは、あるいは小さなからだ、あるいは大きなからだ。そのおいのちは、あるいは短寿、あるいは長寿。ただ一つの仏国土を浄めたもうたかとおもえば、無数の仏国土を浄めたまい、ただひとつの御法をしめしたもうかとみれば、不可思議な無数の御法をお説きになり、また、衆生の一部をみちびきたもうこともあれば、無辺の衆生を教えたもうこともある。
 諸仏は、測りしれない方便の力によって、すべての仏国の海を起し、衆生ののぞむところにしたがって、世におでましになっている。
 仏の法身は不可思議である。色もなく、形もなく、なにものにもくらべようがないが、衆生のために種々の形をあらわし、衆生のこころばえに応じて、姿をおみせになられる。
 あるいは、一本の毛の孔から、仏の化身が湧きでて、十方世界に充満し、測りしれない方便の力によって、衆生をみちびかれる。
 あるいは、仏の(おんじょう)は、十方世界にひびきわたり、衆生の(おも)うところにしたがって説法をつづけ、瞬時もたえるときがない。」

G 【種々の時間】
「仏子よ、第八に、一々の世界海には、それぞれその世界の時間がある。短いのもあれば、長いのもあり、また、おもい測ることのできないほどの長時間のものもある。
 諸仏は、無量の方便と願力によって、これらすべての時間のなかに自由自在に入りたもう。」

H 【変化】
「仏子よ、第九に、すべての世界海には、種々の変化が起る
 たとえば、[1]世界海は、自然のうごきにしたがって世にあらわれ、やがて消滅する。また[2]世界海は、煩悩の衆生が住んでいるために、煩悩によってうつりかわる。また[3]世界海は、智慧を有する菩薩が住んでいるために、きよらかさとけがれとによってうつりかわる。また、[4]世界海は、無数の衆生が悟りへの心を起しているために、ただきよらかさによってだけうごいていく。また[5]世界海は、すべての菩薩が雲のようにあつまっているために、測りしれない大荘厳によってうごいていく。また[6]世界海は、如来の神通力がはたらいているために、あまねく清浄のままでうつりかわる
 このように、十方一切の国土は、ただ業力にしたがってうごいているのである。」

I 【種々の無差別(むしゃべつ)
「仏子よ、第十に、すべての世界海にはおおくの無差別がある。
 たとえば、一々の世界海のなかに、またおおくの世界があるが、すこしの差別もない。また、一々の世界海に諸仏がおでましになられるが、その威力には差別がない。また、一々の世界海のなかに諸仏の光明はあまねくゆきわたって差別がない。また、一々の世界海のなかに、諸仏の音声がひびきわたって差別がない。また、一々の世界海のなかの一々の小さな塵は、(さん)注11のすべての諸仏の広大な境界をあらわしだして差別がない。
 一々の塵のなかに、おもい測ることのできないみほとけがいまし、衆生の心にしたがってあらわれ、ついにすべての国土海に充満しておられる。このような方便には差別がない。」

 普賢菩薩は、さらにつづけて説く。
「仏子よ、つぎのようにしるがよい。この蓮華蔵世界海は、ヴィルシャナ仏が久遠のむかし、菩薩の修行をあそばしたとき、一々のみほとけのもとにおいて、菩薩の大願を起しながら荘厳したもうたところの世界である。
 この世界は、過去の無数の諸仏が、修行のために自分の身を捨てること、いくたびかしれず、ついにすべての不浄をはなれ、ことごとく清浄となったところの世界である。
 大悲の雲は、一切衆生の上にたれこめ、ヴィルシャナ仏の広大な念願は、すべての国土にゆきわたっている。衆生の苦はのぞかれ、究極のさとりは確定しており、すべての世界海は、あまねく光明に照らされている。この蓮華蔵世界海のなかでは、一々の小さな塵のうちに、ありとあらゆる世界の光景をみることができる
 諸仏は、衆生の心の(おも)うところをしりたもうて、余りなく、無数の方便の教えによって衆生をみちびかれる。人びとの心は、ただしいすがたに立ちかえり、いつも(しず)けさのうちに安住している。
 このようにして、ヴィルシャナ仏の偉大な活動は、すべての世界を浄めたもうている。その世界は、かずかぎりがなく、また、その世界は広大でほとりがない。ヴィルシャナ仏は、このような無数無辺の世界海に、自由自在に活動しておられる。
 ヴィルシャナ仏は、十方世界にあまねくゆきわたりながら、自分から無数の化身仏をあらわし出しておられるが、その化身仏は来るのでもなく、また去るのでもない。化身仏は、ただヴィルシャナ仏の本願力のゆえに、ことごとく見たてまつることができる。
 このような蓮華蔵世界海のなかで、無数の仏子たちは、それぞれ自分の行を(しゅ)しており、その修行は本来の仏道にかなっている。仏子たちには、やがてかならず究極のさとりに達するという保証があたえられている。」

 普賢菩薩は、最後に、普荘厳童子(ふしょうごんどうじ)(普荘厳という少年注12)の菩提心注13について語る。
「久遠のむかし、普荘厳という少年がいた。少年は、仏のかぎりない徳を見たてまつり、十種の三昧注14を得た。そのとき、少年は、仏をほめたたえて言う。
『仏は道場に坐したまい、清浄な大光明がはなたれている。それはあたかも千の太陽が一時に出て、虚空を照らすようなものである。
 千万億劫注15にも遭い難い仏が、いま世にあらわれたもうた。そして、すべての人びとが、仏を見たてまつっている。
 光明は、仏身の毛の孔から放たれており、雲の湧きでるように尽きることがなく、十方世界に充ち満ちている。どこにいても、あたかも、すぐ目のまえに光明をみるようである。
 衆生は、仏の光に触れると、くるしみをはなれ、こころが寂まり、平和でたのしく、心はよろこびでふくれる。』
 そのとき仏は、一切衆生を教みちびくために、大衆海のなかで経を説きたもうた。少年は、この経をききおわって、種々の三昧を得た。それは宿世の因縁によるものである。少年は、よろこびのあまり、つぎのように述べる。
『わたしは、最高の御法をきいて智慧の(まなこ)がひらけ、すべての仏の行ぜられた功徳の海を見たてまつることができた。
 わたしは、(しょう)の海のなかで、自分を捨てること、かずしれず、ただ菩薩の行を(しゅ)し、仏国土を荘厳した。耳をすて、鼻をすて、目も頭も、手足もすて、宮殿も王身も、ことごとくかなぐりすてて、国を浄めることだけを修した。
 太陽の光に照らされて、太陽そのものをみることができるように、わたしは、仏の智慧の光によって、仏の行じたもうた道をみることができた。
 仏国土を見たてまつるに、そこには最高のさとりを完成したよろこびが満ちあふれている。わたしは、仏の威神(いじんりき)注16をうけて、さらに悟りへの道をすすもう。』
 少年がこのように述べおわったとき、かずしれない衆生が、ことごとく無上の菩提心をおこした。
『なんとすばらしいことであろう。少年よ、あなたは勇敢にさとりをもとめた。あなたは、衆生のよりどころとなるであろう。またやがてあなたは、仏の尽きることのない活動の世界に、はいることができるであろう。
 怠惰なものは、ふかい方便の海を(わか)ることができない努力精進の力が完成することによって、仏の世界は浄められて行くのである。』」



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初版:2003年5月20日