掲示板の歴史 その十四
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NO.349  「如来蔵」 資料引用
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2005/01/11(Tue) 19:18:30
□IP/ 4.27.3.43


以下は、仏教が密教神秘主義化するために、おそらく必要不可欠であったと思われる「如来蔵」思想に関する資料。
新しい資料を入手次第、要点引用を更新する。

大蔵出版『仏教研究入門』所収、柏木弘雄著「如来蔵思想」
  • 「如来蔵」の原語は一般にtathAgatagarbha(如来の胎<児>)であるが、『宝性論』を通じて、tathAgatadhAtu(「如来界」)、tathAgatagotra(「如来性」)なども、如来蔵の同義語であることが知られる。「界」には因の意味があり、迷いの世界を悟りの世界たらしめる因としての力が如来蔵に備わっていると見るのである。『不増不減経』における「一界」(ekadhAtu)の観念も、これと同義語であろう。また「仏性」の原語も、チベット訳経典の用例から、buddhadhAtu(「仏界」)であったと推定されている。(中村瑞隆「西蔵訳如来蔵経典郡に現れた仏性の語に就いて」、『日仏年報』第二五号、昭和三十五年)。「仏性」は如来蔵と同義語であり、中国・日本の仏教ではこの語のほうが一般に親しまれていることは周知のごとくであるが、インド仏教の伝統では「如来蔵」の語のほうがこの思想・学説の主流を代表しているので、現在の学会では一般に「如来蔵思想」という呼びかたで統一されている。その他、「仏種」(buddha-vaMSa)の思想も如来蔵の系統に属する。(一四八)

  • 如来蔵思想は、すべての衆生の本性が、すでに悟りの完成に到達した仏のそれとまったく異ならないという立場に立っている。(一四八)

  • この「如来蔵」の語は、同じく如来蔵思想の展開とつねに密接に関連してきた法性・真如・法身などの語にたいするときには、それが衆生の煩悩染垢とのかかわり合いにおいて説かれている点にその立場があることも、この語の用例が歴史的に示してきた諸種の含蓄の中で一貫していることがらであった、と言ってよいであろう。(一四八)

  • このような仏性・如来蔵がすべての衆生にあるという思想は、原始仏教の四姓平等の立場に通じるものである。(一四八)

  • インド仏教においては、如来蔵思想(または如来蔵説)は、それが大乗仏教における一つの重要な思想的傾向としては認められておりながら、中観派や瑜伽行派のような学派としての独立性を認められるまでにはいたらなかった。(一五一)

  • (『如来蔵経』において、如来蔵の説示に先立って説かれる)如来蔵にたいるす表現、あるいは如来蔵の教えを演説する時処へのお膳立てをみていると、われわれは、如来蔵がたんに衆生身中に存在するというだけではなくして、如来蔵は如来の智慧であり禅定である。あるいは禅定がすなわち如来の智慧であり如来の眼であるという印象をうける。(中略)にもかかわらず、この経典にあらわれた最初期の如来蔵の語をめぐる素朴な表現が、全体としては如来蔵そのものの内在性を繰り返して主張する、きわめて実在論的なものであったことは否めない。そのかぎりでは、如来蔵の観念に至りつく最初期の発想が実在論的な性格を帯びていることじたい、それは大乗仏教の空の思想とはあい反する側面をもっていたと言わなければならない。(一五六〜七)

  • 如来蔵思想には、無我思想や空思想にたいして如来蔵自体の有的な側面を強調する傾向がやはり認められる。『如来蔵経』を先駆とする如来蔵経諸経典の中には、一方では『般若経』等の空説にたいして自説を対比させながら、おそらくそのような実在論的性格、あるいは如来蔵説自体が本質的に避けがたいそのような印象を自らが否定するために、龍樹の『中論』などに見られた否定論法を採り入れることによって、空の思想的立場との共存を考えている系譜がある。たとえば、不生不滅・不断不常、等の対立概念の否定を媒介として、それとは次元の異なった常住不変の観念が法身・如来蔵について語られるという弁証法的な傾向が、のちの如来蔵系経典にあらわれていることを、勝呂信静(『アジア仏教史・インド編III・大乗仏教』第四章「大乗仏教思想の理論的展開」佼成出版社、昭和四十八年)は、『不増不減経』『勝鬘経』『大乗涅槃経』『智光明荘厳経』をとりあげて、わかりやすく解説している。(一五七)

  • 如来蔵思想を説く諸経論が、所与の自明の仏教思想の伝統にもとづいて、インド思想一般における有我論的思想にたいして自説の異質性を主張し対決しようとした事例のあること(たとえば、高崎直道『楞伽経・仏典講座17』大蔵出版、昭和五十五年、三一三ページ以下参照)なども慎重に留意されなければならない。(一五七)