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NO.351 『如来蔵経』
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2005/01/11(Tue) 20:29:00
□IP/ 4.27.3.43
『如来蔵経』(邦訳は同サイト『大乗仏教経典』参照)
柏木氏「如来蔵思想」より(一五四〜)。
- サンスクリット語名は「tathAgatagarbha-sUtra」
- 漢訳は二種で仏陀跋陀羅訳(大正一六、No.六六六)と不空訳(大正一六、No.六七七)が現存し、仏教文化研究所編『漢蔵三訳対照如来蔵経』(京都、昭和三十三年)が便利なテキストである。
- 如来蔵という語の最初者とみられている。
- 唯識が禅定体験にヒントを得て平常時の認識においても唯識が成り立つことを理論的に説明したのに対して、如来蔵の観念が禅定の世界に関連するということがテキストの中におぼろげながら現れている。
- 一切の衆生は如来蔵(如来を内に蔵するもの)である(sarvasattvAst tathAgatagarbhAH)と宣言し、九種の譬喩によって説示する。
- 如来蔵の説示に先立って説かれる如来蔵にたいるす表現をみていると、如来蔵がたんに衆生身中に存在するというだけではなく如来蔵は如来の智慧であり禅定である、あるいは禅定がすなわち如来の智慧であり如来の眼であるという印象をうける。にもかかわらず、この経典にあらわれた最初期の如来蔵の語をめぐる素朴な表現が、全体としては如来蔵そのものの内在性を繰り返して主張する、きわめて実在論的なものであったことは否めない。