掲示板の歴史 その十四
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NO.353  『勝鬘経』
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2005/01/11(Tue) 20:30:59
□IP/ 4.27.3.43


『勝鬘経』

柏木氏「如来蔵思想」より(一五八〜)。
  • チベット訳冒頭の梵文題名音写によれば「Arya SrImAlAdevI-siMhanAdanAma mhAyAna-sUtra」
  • 漢訳は求那跋陀羅訳(四三六年、大正一二、No.三五三)と菩提流支訳、大宝積経第四十八会(七〇六〜七一三年、大正一一、No.三一〇)の二種が現存する。
  • チベット訳、北京版巻二四、No.七六六があり、『宝性論』、『大乗集菩薩学論』などによる引用を通じて梵本の一部の姿がうかがわれる。
  • 『如来蔵経』『不増不減経』であきらかになってきた如来蔵の観念を継承し、「摂受正法(saddharma-parigraha)」―「大乗」―「仏一乗」(法華経の一乗の思想)―「法身」の系列から、より広範囲に大乗仏教の諸教説との関連で如来蔵説を組織化し、その地位を確立させることに寄与した。
  • 本経の如来蔵説の性格
    @ 如来蔵とは、如来の法身(tathAgatadharmakAya)が煩悩に覆われている状態である。
    A 如来蔵は、声聞・縁覚の境位に対して如来の境界の究竟性を示すものとして、聖諦・一滅諦、等の諸観念と同一に考えられている。それは甚深微妙で理解しがたく、分別することができず、理論の境界にかかわりがない。また、如来蔵の別名として法界蔵・法身蔵・出世間上上蔵・自性清浄蔵の異名があげられているが、たとえこれらの如来蔵が客塵煩悩に染められていても、なおかつ、それは不思議如来の境界である、という。つまり如来蔵の認識論的な超越性の主張である。
    B 『勝鬘経』では右のごとき如来蔵の超越的な性格にたいする考えがさらに発達して、如来蔵を空・不空の両面から説いている。しかも、それらはともに如来の空智(tathAgatAnAM SUnyatAj~nAna)に基づくという。その場合、如来蔵は煩悩については空であるが、無量の仏の徳性については不空である、という。それは、初期大乗仏教の教説にたいする如来蔵説の位置づけであり配慮でもあるが、同時に、『宝性論』における造論の目的からも推定されるように、仏の功徳徳性という絶対的価値の不空を強調することによって、如来蔵説自身の教説目標を限定しているということになる。この空・不空説は『大乗涅槃経』『宝性論』『仏性論』『大乗法界無差別論』にもあり、『大乗起信論』における心真如の「如実空・如実不空」に連なっている。
    C 常住不変の如来蔵は、それが悟りに到達するための根源・依りどころであると同時に、現実におけるわれわれの生存の根本でもあること。すなわち如来蔵染浄依持の問題である。如来蔵そのものは凡夫・二乗の所知を超越した如来の境界であり、それが無始無終の究極、不生不滅の法であることによって、かえってわれわれの「苦を厭い、涅槃を楽求する」という実践的態度が可能になる。それにたいして、不生不滅の法である如来蔵が、何故にわれわれの生死の依りどころであるのかということに関しては、経は理論的な説明を加えていない。しかしこうした如来蔵にたいする実践的態度として、第一に、如来蔵がわれわれの生死の根本であると同時に、涅槃に到達するための依りどころであると信ずること、第二に、他によって四聖諦の意義を観察・実習するのではなくして、自力による観察により、苦滅に至る一切の道を実習すべきであるという点が打ち出されている。この点は、『宝性論』の如来蔵説ではあまり問題にされなかったが、『楞伽経』における如来蔵とアーラヤ識を同一視する立場を経て、『大乗起信論』にいたって組織的に論述され、それが中国仏教において「如来蔵縁起説」というかたちでとりあげられることになった。
以下は『勝鬘経』に見られる如来蔵空智に関する資料。
空と不空との二種の如来蔵空智が説かれる。
中央公論社『大乗仏教(12)』所収、高崎直道訳『勝鬘経』より抜粋。

「四 一諦章」所収「空性の知」

(二一)(さて、世尊よ、私は前に、「如来たちの不可思議なる一切の現象は、空、すなわち非存在であると知る知恵」と申しましたが、)世尊よ、如来蔵に関する知こそは、その如来の空性の知なのです。世尊よ、如来蔵は声聞や独覚たちによっては、いまだかつて見られたことも、さとられたこともなく、(世尊よ、)ただ如来によってのみ、了知され、体得されます。
世尊よ、この(如来蔵に関する知、すなわち)如来蔵が空性を示すと知ること(如来蔵空智)は、次の二種を内容としています。二種とは何かといえば、すなわち、(次のとおりです。)世尊よ、如来蔵には、(もともと法身と)無関係で、(さとりの)知恵から切り離された、あらゆる煩悩の蔽いが(欠如している、つまり)空である。(したがって、煩悩は虚妄で非存在である)が、世尊よ、如来蔵は(法身と)密着・不可分で、(さとりの)知恵と切り離しえないところの、ガンガー河の砂の数よりも多い、不可思議なるほとけの諸徳性を(本来、そなえている、つまり)不空である(ということです)
世尊よ、如来蔵についての、この二種の空性の知は、(たとえばシャーリプトラのように)どんなに偉大な声聞でさえ、ただすすんで世尊を信じてこそはじめて、はいることのできるものです。世尊よ、声聞や独覚たちがもつ空性の認識というものは、ただ、(凡夫のもっているところの、無上なものを常住と思い、ないしは不浄なものを清浄と思う)四つの転倒した見解に対して(これを正すべく有効に)はたらくだけです。それゆえ、世尊よ、(完全な意味での)一切の苦滅(という真理)は、声聞や独覚たちによっては、いまだかつて見られたこともさとられたこともありません。世尊よ、ただ如来たちによってのみ、了知され、体得されます。
(そして、世尊よ、)あらゆる煩悩の蔽いを打ち破って、苦の滅にいたるすべての道もまた、ただ如来たちによってのみ、(完全に)修せられたのです。(一〇九〜一一一)
『勝鬘経』では煩悩に纏いつかれている如来蔵を「在纏位の法身」(煩悩の蔽いから離脱していない法身)と呼び、上の記述のように
「如来蔵は煩悩に関して空である」⇒「如来蔵には煩悩はない」
と断言し、それゆえに
「如来蔵は仏と同じ知恵やそれに伴う諸徳性(仏の本質)に関して不空である」⇒「如来蔵は仏智を本来具有する」
と主張している。
同様の「空智×不空智」説は『大乗起信論』にも説かれる。
記事「No.356」参照。