掲示板の歴史 その十四
▲[ 345 ] / 返信無し
NO.346  密教非仏説論の無意味
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2005/01/10(Mon) 15:25:13
□IP/ 4.27.3.43


snafkinさま、いらっしゃいませ。
熱心な書き込み、ありがとうございます。


>いろいろな宗教に神秘主義的な流派があることは事実だと思います。神秘主義を密教化と考えれば、あらゆる宗教は密教化すると言うことも可能でしょう。ただ、神秘主義的な合一の思想と、歴史上のブッダが説いた涅槃とを同一視することはできないと、私は考えます。そもそもブッダはバラモン教が説く梵我一如の神秘思想を無我説によって否定したわけです。そのブッダが普遍の形而上的実在である法と合一することが涅槃だと主張したのであれば、梵我思想と同じことを言っていることになってしまいます。

私も金岡氏の「もし神秘思想、神秘主義の最大公約数を神人合一と考えれば、成仏を最終目的とする仏教はそれ自体が基本的に神秘主義の範疇に入る」は斬新で面白いのですが、やはり極端な主張だと思います。おそらく、あまり深く考えないで書かれたのでしょう。
記事[No.344]にも、試みにこれに合わせて資料を集めてみましたが、snafkinさんが仰るように定説を覆すような内容にはなりませんね。
ブッダがバラモン教の神秘思想を無我説によって否定したというのは基本的定説ですね。ただ、初期仏教経典に如来蔵思想、神秘思想の根元が見られるという報告がなされているのも事実ですし、紹介させていただきました。


>方法論の上からも、この差異は歴然としています。宗教的な行、神秘主義的な実践は、その全てがいろいろな形での精神集中法であるといえます。祈りの言葉を唱える(マントラ)、神や仏のイメージに集中する、等々、シャーマニズムから密教まで、共通した要素を持っています。これを一括してサマタ瞑想と言うわけです。サマタ瞑想のゴールは対象との合一感であり、これを三昧(サマーデ)と言います。
>これに対して初期仏教独特の実践法であるヴィパッサナー観法は、心身に起こる感受等の諸現象を、瞬間瞬間意識的に微細に観察する(サティによる純粋観察)というものです。初期仏教には瞬間定というものがあり、これは、瞬間瞬間生起する異なる事態に対して、そのつど矢継ぎ早に三昧の状態になっていると解釈されています。こうした訓練によって、現象の無常・無我、苦を認識し、執着を離れて解脱、涅槃にいたるとされます。


止観均行というやつですね。
呼吸制御などに伴って、止(シャマタ)と観(ヴィパシュヤナー)を交互に行なったり双修したりというのはチベット密教にも見られます。


>このように、仏教の解脱は合一ではなく、離れること、捨てることであり、神秘主義的なサマタ・サマーディでは得られないと言うことになります。スリランカやミャンマー、タイなどの南方上座部仏教(テーラワーダ)では、サマタを否定してはいませんが、サマタの訓練で定力をつけた上で、ヴィパッサナーを行なうようになっているようです。流派によってはヴィパッサナーだけで解脱を目指すようです。

南伝仏教でも流派によって修行法が違うわけですか。
ご紹介いただいた観行(ヴィパッサナー)はマハーヴィーラ派の修行法ですね。


>>金岡秀友氏の「仏教は基本的に密教である」という主張は、かならずしも空観派がそうであるといっているわけではなく、あくまでも仏教現象が「基本的」に初期段階より密教化の萌芽を内包していた、ということなのではないでしょうか。
>空殻さんがおっしゃるように、初期仏教は神秘主義的文脈で解釈されかねない概念を持っていたことは事実でしょう。それが問題だと思います。法や仏、如来といった概念を、形而上学的な実在としてして捉え、神秘主義的な文脈に位置づけることによって、本来ブッダが説いた無常、苦、空、無我といった認識論を有名無実化し、本来の涅槃に代わって、如来と合一することが究極的目標としてすりかえられてしまうわけです。合一体験は神秘主義、サマタ瞑想で十分可能です。しかし、無常・無我等の認識は、ヴィパッサナーなくしては不可能です。


仏教密教の特色の一つは、もしかすると単純に「合一体験に終る」のではない、というところにあるのではないでしょうか。
例えば、ヴィパシュヤナーによって無常・無我を認識することを、現存する上座仏教教団では「ゴール」としているようですが、仏教密教教団ではむしろ基本であり「スタート地点」としているようです。
実際、阿字観その他は観法ですし、これが含まれていることは、仏教密教を他宗教密教と差別化する重要な因子の一つなのかも知れないです。


>ブッダは法の第一発見者であり、法の教師として尊敬すべきであるということになるわけです。ただそれだけのことであって、縁起・無我等の法を形而上学的な実在と見ることは誤りと考えます。テーラワーダの高僧は、初期仏教は宗教よりも科学に近いといいます。実際、テーラワーダ仏教の教理と実践に触れると、まさに認知科学のような様相を持っています。

仰るとおりだと思います。
それが誇らしく思えた時期が、私にもありました。


>日本の学者のこうした残念な傾向は、日本の仏教全体が、本覚思想=如来蔵思想に染め上げられていることから来ていると思われます。これらの思想は、仏教の皮をかぶった神秘主義=梵我思想であり、非仏教的思想であると考えます。

私も数年前の一時期、学生の頃に、そのように考えて日本仏教に反発心を覚えたことがあるのですが、就職してから考えが変わりました(笑)
大乗非仏説は、明治期にヨーロッパの研究によって科学化した仏教学の影響下において「再発」したわけですが、それが今下火になってきているのは、原始経典や現存する南伝仏教の修行法に依拠したとしても、原始経典そのものが同ブッダの死後数百年のちに書かれ編集されたものであり、教団もそれに依拠するものである以上、それらのいずれからもゴータマ・ブッダの直説を探り出すことは困難であると認識されるようになったからです。
仏教が正しいか否か、科学的か否か、は求道者としては気になるところですが、おそらくはそうでないモノ、非仏教的現象が流れの大部分として生じたこと、そしてそれらが人類(特にアジア人)の歴史に大きな影響を与えてきたことも事実です。
このように現象として観た限りでは、大乗仏教や密教を非仏説として否定したり論議したりするのは、建設的であるとは思えません。
逆に、私がしてみせたように「初期仏教はそもそも密教だった」などと発想の切り口を少し過激に変えてみたりする方が(というか私は単に金岡氏の発想に乗じてみただけですが)、それまで見えなかったものもいろいろと見えてきて、視野の拡張に役立つのではないかなどと考えてます。


>>もしかすると如来蔵思想や仏教密教には本質的に「初期仏教への回帰」ともいえる部分が、多かれ少なかれあるのかも知れません。
>これには賛同できません。初期仏教を現代に伝える南伝上座部仏教(テーラワーダ)の教理では、如来蔵思想を認めていません。


マハーヴィーラ派が認めていないからといって、初期仏教の他宗派が類似思想を認めていなかったと断言してよいかは疑問です。


>仏教密教においても、その他の仏教密教が如来蔵思想を中心思想としている中で、それを非仏教思想として否定しているのがチベット正統ゲルク派です。チベットでは、中国の禅僧・摩訶衍と、インド中観派のカマラシーラがサムイェー寺に於いて王様の面前で法論を行い、中観派が中国禅を論破したことから、中観思想が仏教の正統となり、如来蔵思想は非仏教として退けられています。大雑把に言うと、カマラシーラは中国禅の論拠となっている如来蔵思想を実在論であるとして退け、一切法の空を主張したと理解しています。このカマラシーラの立場に立脚して、チベット密教を再構成したのがツォンカパで、密教としては中観密教とでもいうべき、如来蔵思想に基づかない非神秘主義的な異例の密教を打ち立てたと考えます。

ゲルク派ツォンカパの著作とされる『吉祥秘密集会成就法清浄瑜伽次第』によると、行者はまず空性の智を体現した後、自分はその心臓にジュニャーナ・サットヴァ(智的存在、仏性)を宿した持金剛(ヴァジュラダラ=ドルジェチャン=本初仏)であると観想し、そうして顕現したジュニャーナ・サットヴァがサマヤサットヴァ(約束の存在、自分が一体になりたいと願って思い描く存在)と重なり合一した瞬間に成就法が成就すると説かれています。
これは如来蔵思想に基づいているのではないかと思います。
他の派の成就法にも空性の智をまず体験し、主客一致の境地で神仏と一体化します。
そこでさらに空性の智を認識するという構図が見られます。


>ゲルク派といえども、仏教を密教化の圧力から辛うじて救っているという感触は否めません。空観によって、どこまで解脱にアプローチできるかも不明です。ところがニンマ派などは、如来蔵思想を大手を振って用いているのです。

如来蔵思想については武内氏は次のように述べてます。
如来蔵・仏性の思想は古くからあった本性清浄・自性清浄という考え方だけから生じたものではない。『維摩経』に「般若波羅蜜と方便から菩薩が生れる」といい、また『法華経』「方便品」には仏子(buddha-putra)という言葉が出る。仏子とは仏からうまれた子という意味で、衆生は仏からうまれた子ということになり、仏陀の慈悲の精神にもつながる。その立場からは如来蔵は衆生が如来に蔵されているという意味になる。こうした考え方がおりなして如来蔵・仏性の思想が確立されたのである。そうすれば如来蔵・仏性は単純に仏の内在を言うのではなく、仏陀の普遍性の理論を宗教的にうけとめたものと言うことが出来る。(同一四一)
このように考えると、確かに仏教の如来蔵思想は誤解されがちではありますが、アートマン思想とは一線を画するものだということが分かりますね。

また、以下は『長部阿含経』所収「AggaNNa-suttanta(起世因本経)」より引用です。バラモンが生まれを誇るのに対して、仏弟子が「出家して沙門・釈子(Sakiyaputta)となれば、いかなるカーストの出身であろうとも等しく世尊の嫡子であり、かれの口から生れた者であり、法から生れた者で、法の相続者である」というのですが、その根拠として次のようにいいます。
何となれば、如来は次のようによばれるからである。いわく、法を身体とする者(dharmmakAyo)、ブラフマンを身体とする者(brahmakAyo)、法と成れる者(dhammabhUto)、ブラフマンと成れる者(brahmabhUto)と。(dIgha nikAya, III, p.84)
高崎直道氏は『仏教思想論』という論文で上記の部分について「法が根元で、それと一体になったことで、ブッダがその真実性を保証されたといった程度にすぎないが、そこからやがて『法身』(dharmakAya)の名で、法そのものとしての仏、すべての法(教説)の根元となる絶対的存在としての、如来の『法身』という概念が生れてくる」(『2』一一一)と述べています。
こういったところにも如来蔵思想の萌芽があるようですね。


>ちなみに、サムイェー寺の法論については、山口瑞鳳著『チベット』下巻に詳しく出ています。また、如来蔵思想・本覚思想を非仏教的な思想として論陣をはっている学者としては、松本史朗氏と袴谷憲昭氏がいます。

ご紹介いただきありがとうございます。
縁があれば読んでみたいと思います。

ところでこのサムイェー寺の法論については、手元のノルティム・ケサン/正木晃著『チベット密教』には残念なことに法論自体は載っていないのですが、それによるとどうやらカマラシーラ側の勝利には政治的な背景があり、「ただ単に宗教哲学上の是非にとどまらず、頓悟(功徳を積まなくても禅定のみで悟れるという立場)を主張して現実世界における善行の集積を無意味とする前掲の中国仏教に、現体制を否定しかねない危険性を、王が察知した点もあった。少なくとも現実世界における善行の集積を重要とみなすインド仏教のほうが、そのことに関しては、ずっと安全であった」(四七〜八)という指摘がなされています。法論の勝敗を宣言したのがティソン・デツェン王であったこともあり、政治的意図のもとに采配が下されたと考えるのは自然かと思います。


>この趣旨には沿えなかったと思いますが、密教化現象を解析するタームとして、神秘主義思想、サマタ瞑想、三昧、と言った用語は役に立つのではないかと思います。

そうですね、ありがとうございます。
参考にさせていただきます。


>ただ、ここで私がいいたかったのは、神秘主義やサマタ瞑想では釈尊の解脱には至らないし、正しく理解も出来ないということです。

釈尊の解脱に至れるか至れないかという論議は、形而上学的に過ぎて建設的ではないと思いますよ。