掲示板の歴史 その六
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NO.138  「不立文字」
□投稿者/ 大閑道人
□投稿日/ 2004/01/21(Wed) 18:58:17


>「不立文字」は経典を含めた一切の典拠の否定

これは、暴論だろう。
むしろ、経典にのみしがみついて、文字解釈にヒーヒー言って、体験的な裏付けなしで、モノを言うことに対して、「不立文字」と戒めたのではないか?

道元の、典座教訓の一エピソードを思い出す。
<以下は、寺報より転載>

道元禅師は、上陸するや天童山・景徳寺の門をたたき、さっそく禅のご修行に邁進された。
このことを知った、かの老禅僧は、わざわざ天童山に道元禅師を訪ねている。おそらくは、船中の問答が大いに気になっていたのだろう、すぐに問答を続けた。
船中での出会いの結果、道元禅師が一番関心を向けられらたのが「学問とは何か、修行とは何か」であったから、そのことで訊ねると「経典や祖録とは、文字、つまり単なる記録に過ぎないし、目前にあるものはすべて修行の対象である」と老禅僧は答えられた。

ここは圧巻であるから、原文を引用しよう。
「文字の意味を学ぶものは文字の意味、それに表現されている根源のわけを知りたいのである」という老禅僧の見解に対して、道元禅師は、
問「如何にあらんか是れ文字」
云「一二三四五」
問「如何にあらんか是れ弁道」
云「盒界曽て蔵さず(へんかいかつてかくさず)」

「文字とは何か」と問うなり「一二三四五」と答えられたのでは、あまりにも文字通りすぎて同語反復ではないか、と反論したくなるが、これが禅問答の面白さでもある。確かに、文字は文字として、それ以上でなくそれ以下でもない。といって、文字なしでは伝達ができない。しかも、文字は単に事象を映すものでしかない。経典や祖録といった文字にこだわっていたであろう道元禅師には、目を開かせられた体験だったことだろう。