掲示板の歴史 その六
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NO.135  「戯論」「不立文字」のリスト
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/01/21(Wed) 15:05:13


「記事No.134」
>「戯論」と「不立文字」は少し違うように思われます。私から見ると、「戯論」は宗教的で形而上学的な解釈の無駄な複雑化とその正否についての議論であって、「不立文字」は経典を含めた一切の典拠の否定です。


を受けて、以下に「戯論」と「不立文字」に関連する語彙やテキストのリストを作ります。
状況と必要に応じて随時編集加筆します。

岩波『仏教辞典』より
戯論[S:prapanca]
戯れの談論の意。原語は、拡大・拡散・分化・複雑化などを意味し、ここから現象世界(拡散・分化した世界)や、無益で冗漫な議論一般、さらには、対象を分化し分別する心作用そのものをさす用例が生まれる。竜樹によれば、戯論は妄分別、さらには業と煩悩を生む原因であり、それは空性(空)を知ることによって滅するという。また戯論は、事物に対する愛著の心をさす《愛論》と、諸種の偏見を意味する《見論》の2種として説明されることもある。

教外別伝・不立文字
「不立文字、教外別伝、直指人心、見性成仏」の四句より成る。禅の宗義をあらわす代表的なことば。教説の外に、体験によって別に伝えるものこそ禅の真髄であり、経論の文字をはなれて、ひたすら坐禅によって釈尊のさとりに直入する意。達磨の語として伝えられているが、達磨より下って六祖慧能から盛んになった南宗禅で、特に強調された(禅源諸詮集都序/上)。(後略)
法蔵館『仏教学辞典』より
不立文字
文字を立てないという意。即ち、達磨が伝えた祖師禅では、心から心へとただちに法を伝えて、経論の語句や文字に依らないことをいう。入楞伽経巻五に、仏は成道以後入滅の時まで、その中間に一字も説かなかったとあるのが根拠のようである

以下は戯論関係

『般若心経秘鍵』(『弘法大師空海全集・二』中)より
  1. 「文殊の利剣は諸戯を断つ」(三四九頁)
  2. 「色空といへば、すなはち普賢、頤(おとがひ)を円融(ゑんにゅう)の義に解き、不生と談ずれば、すなはち文殊、顔を絶戯の観に破る」(三五一頁)
    =仏が「色不異空、空不異色」などと説法されると、普賢菩薩が微笑し、仏が「不生、不滅、不垢、不浄」などと談じられると、文殊菩薩は無益な論をやめて、空が通常の認識では把握しえないことを観じ、よろこび笑う。
  3. 「もし総の義をもって説かば、みな人・法・喩を具す。これすなはち大般若波羅蜜多菩薩の名なり。すなはちこれ人なり。この菩薩に法曼荼羅真言三摩地門を具す。一一の字はすなはち法なり。この一一の名は、みな世間の浅名をもって法性の深号を表はす。すなはちこれ喩なり」(三五六〜七頁)
    =もし、(般若心経の)経題の全体の意味について説くならば、「人」と「法」と「たとえ」をそなえている。「摩訶般若波羅蜜多」というのは、大般若波羅蜜多菩薩の名であり、これが「人」である。この菩薩には、文字で象徴した曼荼羅と、さとりの境地をあらわす真言とがある。その一つ一つの文字が「法」である。この一つ一つの文字は、世間で理解される浅い意味になぞらえて、実は、真理の深い意味を表すのである。これが「たとえ」である。
  4. 「二つに絶といつぱ、いはゆる無戯論如来の三摩地門これなり。是諸法空相(ぜしょほくふさう)といふより不増不減に至るまでこれなり。無戯論如来といつぱ、すなはち文殊菩薩の密号なり。文殊の利剣は、よく八不(はっぷ)を揮って彼の妄執の心を絶つ。この故にもつて名づく。頌にいはく。八不に諸戯を絶つ/文殊はこれ彼の人なり/独空畢竟の理/義用最も幽真なり」(三六三頁)
    =第二に「絶」というのは、無戯論如来のさとりの教えを指している。「是諸法空相」から「不増不減」に至るまでの個所がこれに相当する。無戯論如来とは、文殊菩薩の密教における呼び名である。文殊菩薩の利剣は、八種類の否定[八不]によって、この世には何もとらわれるべきものはないことを明らかにし、執着の心を絶つのである。だから「絶」と名づけるのである。頌にいう。八種の否定の剣をふるって、現象にとらわれる無益な執着を断ち切る/それを行なうのは文殊菩薩である/あらゆる差別を否定して、空のみを究極の真実とする/そこから生ずる慈悲のはたらきは、もっとも奥深いものである
講談社刊・中村元著『人類の知的遺産13・ナーガールジュナ』中『中論』から (チャンドラキールティに註釈『プラサンナパダー』による)
  1. 「帰敬序」(『中論』の要旨)
    [宇宙においては]何ものも消滅することなく(不滅)、何ものもあらたに生ずることなく(不生)、何ものも終末あることなく(不断)、何ものも常恒であることなく(不常)、何ものもそれ自身と同一であることなく(不一義)、何ものもそれ自身において分かたれた別のものであることはなく(不異義)、何ものも[われに向かって]来ることもなく(不来)、[われらから]去ることもない(不出)、戯論(形而上学的論議)の消滅というめでたい縁起のことわりを説きたもうた仏を、もろもろの説法者のうちでの最も勝れた人として敬礼する。
  2. 「第十八章 アートマンの考察」五
    業と煩悩とが滅びてなくなるから、解脱がある。業と煩悩とは分別思考から起こる。ところでそれらの分別思考は形而上学的論議(戯論)から起こる。しかし戯論は空においては滅びる。
  3. 「第十八章」九
    他のものによって知られるのではなく、寂静で、戯論によって戯論されることなく、分別を離れ、異なったものではない――これが真理の特質(実相)である。
  4. 「第二十二章 如来の考察」十四〜十六
    しかし如来はそれ自体としては空であるから、この如来については「死後に存在する」とか、あるいは「死後に存在しない」とかいう思索は成立しない。
    戯論(形而上学的論議)を超絶し、不壊なる仏をいろいろ戯論する人々は、すべて戯論に害されていて、如来を見ない。
    如来の本性なるものは、すなわちこの世間の本性である。如来は本質をもたない。この世界もまた本質をもたない。
  5. 「第二十五章 ニルヴァーナの考察」二十四
    [ニルヴァーナとは]一切の認め知ること(有所得)が滅し、戯論が滅して、めでたい[境地]である。いかなる教えも、どこにおいてでも、誰のためにも、ブッダは説かなかったのである。
同著 二四一〜二四二頁
  1. ニルヴァーナとは
    このようにニルヴァーナは四句分別を絶しているが故に、ニルヴァーナは一切の戯論の寂滅した境地であると説かれている。
    「[ニルヴァーナとは]一切の認め知ること(有所得)が滅し、戯論が滅して、めでたい[境地]である」(第二五章・第二四詩前半、なお『プラサンナパダー』五三八頁参照)
    認め知ることと訳した「有所得」とは、何ものかを知覚し、それが実在していると思いなすことである。「戯論」とはprapancaという語を漢訳したのであるが、prapancaという語が仏典では一般に形而上学的議論を意味するので、「戯論」と訳したのであろう。しかしチベット訳ではprapancaをspros pa(ひろがり)と訳している。インド哲学一般としては「世界のひろがり」の意味に解せられている
    ともかく、ナーガールジュナによると、ニルヴァーナは一切の戯論(形而上学的論議)を離れ、一切の分別を離れ、さらにあらゆる対立を超越している。したがって、ニルヴァーナを説明するためには否定的言辞をもってするよりもほかにしかたがない。
    「捨てられることなく、[あらたに]得ることもなく、不断、不常、不滅、不生である。――これがニルヴァーナであると説かれる」(第二五章・第三詩)
    これらの諸説明と、『中論』の帰敬序とを比較してみると、縁起とニルヴァーナとに関してほとんど同様のことが述べられていることに気がつく。(二四二頁)