掲示板の歴史 その六
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NO.131  看話禅と公案の基礎知識
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/01/19(Mon) 10:58:27


以下は看話禅と公案に関する局所的基礎知識です。
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小学館『仏教語大辞典』より
公案
@公文書。官の帳簿・書類の意。
A禅宗で、参禅者に出す課題。仏祖の言行のうち、修行者にとって意義深いものや、暗示に富むものを選んで課題としたもの。転じて、自然現象の一切を仏法を示す課題と見る見方。
B十分に思いめぐらすこと。考え工夫すること。思案。考案。
Cものごとを似つかわしいように正しく書くこと、という約束事。

看話禅
《「看話」は話=公案を工夫する意》 一つの公案を工夫し、それを理解し終えた時は、また他の公案の工夫に移るというようにして、大悟に至ろうとする臨済宗の禅風をいう。曹洞の禅風である黙照禅に対していわれた語で、梯子禅(はしごぜん)ともいう。中国宋代、曹洞の宏智正覚が臨済の大慧宗杲を評したのに始まる。
次は法蔵館『仏教学辞典』より
公案
禅宗で、さとりを開かせるために与える問題をいい、古来の祖師が示した言葉、動作など、宗要をあつめて参禅者に工夫させるもの。公案とは公府の案牘(あんとく)即ち国家の法令の意で、仏祖がさとりをひらいて真理を顕し示した古則は、修行者にとって最も尊厳なものであるから公案という。話(わ)、また話則ともいう。公案によって工夫する禅の方法を看話禅といい、黙照禅に対する。また師匠が公案を言葉で示し与えるのを話頭公案という。碧眼録・従容録(しょうようろく)は各一〇〇則、無門関には四八則を挙げ、景徳伝燈録などの五灯録のすべてを通じて約一七〇〇則あるといわれることから、一千七百則の公案と称される。公案の唱出は中国唐代に始まるが、宋・元代になって盛行し、主に臨済系の禅僧が盛んに用いて、公案禅の禅風が起った。とくに趙州無学の公案が重視され、わが国でもその影響を受けて現在に至る。
続いては、岩波書店『東アジアの仏教』/石井修道「禅」より
「一 中国の禅」より

4 宋代以降の禅

唐の武宗(八四〇〜八四六在位)が行なった会昌の破仏は、大規模なものであったにもかかわらず、宜宗(八四六〜八五九在位)が仏教復興を許すと、禅宗教団は以前にもまして盛んとなるに至った。何れにも拠り所を拒否する思想をもっていた禅宗は、経典にさえ権威と根拠と伝統を認めなかった実践的な宗教運動であったが故に、復興することができたのである。もともと禅宗は、個人の説法さえ記録をとどめることを拒否したし、教えの形骸化を戒めた。しかし、集団を形成し、維持していくにつれて、指導原理が必要となり、教えが整理され、統合されてくるようになって、多くの禅文献があらわれた。また、五代の戦乱を経て成立した宋が強固な国家統制で仏教を支配して行き、南宋になると、首都臨安府を中心とする五山制度を確立してますます仏教を統制するようになった。このようにして、教団の内外からの制約によって、個を重んずる唐代禅から集団を重んずる宋代禅へと変化を余儀なくされ、寺院機能も国家への翼賛体制を担うことになり、禅思想にも大きな変化が生じるようになった。

宋代以降の禅についても、三つの型に分けて禅思想の特色を述べたい。

第一の型は、念仏禅である。中国の実践仏教を展開したものに浄土思想がある。中国の浄土思想は、坐禅して仏を見る観想念仏の伝統をもっているので容易に禅と結びついたし、浄土を唯心に説く流れも存在した。つまり、阿弥陀仏は外ならぬ己心のあらわれという主張と即心是仏を説く禅が結びついたのである。さらに、根源の道に還ればすべての教えは一つであるという中国土着の思想は、一からあらゆる思想が派生するという考えをも許容するので、総合主義の仏教としての念仏禅が生まれた。永明延寿(九〇四〜九七五)が禅浄融合思想者として有名であるが、宋代雲門宗の人々や中峰明本(一二六三〜一三二三)にも念仏と参禅の不二を説く思想が伝えられている。明代以降は「念仏する者は是れ誰ぞ」という公案は大変な流行をみるし、儀礼の中にも混淆形態が多くなるのである。

第二の型は、曹洞宗系の黙照禅である。唐代禅の主流は、無修無証を主張する。修業の中にはからいを持ち込まないのである。荷沢神会は、「衆生若し修あらば、即ち是れ妄心にして、解脱を得べからず」(『神会語録』)と言い、臨済義玄は、「ナンジ(人+尓)説け、何の法をか証し、何の道をか修せん。ナンジが今の用処、什麼物(なにもの)をか欠少(かんしょう)し、何の処をか修補せん」(『臨済録』)と述べて、徹底した本来成仏を説くのである。このように本源に還るならば、仏となんら異なるところのないという考えは、一方では坐という形態にもとらわれず日常生活に自由無礙の仏を見出す禅思想を生んだが、一方では一切の作為をともなわない坐禅に仏の完結態を認める禅思想ともなった。前者の流れは唐代の即心是仏禅であるが、この禅が用体験を重んじることによって、無意味な棒や喝の機関を多用する弊害を生んだ。その弊害への批判をもちながら、仏教の伝統的な坐禅修行に完結態を認める後者の流れが生まれたのである。この禅の流れの大成者は、宏智正覚(わんししょうがく)(一〇九一〜一一五七)で、『宏智録』六冊の中の「坐禅箴」や「黙照銘」にその思想を見ることができる。真実の修行者の為すべき行為は坐禅であって、その坐禅は無為でなければならないと説くのである。宏智の銘の名より、その禅を黙照禅と呼ぶ。宏智は曹洞宗に属しているし、日本の道元が宏智を高く評価しているところもあるので、この流れがストレートに日本の道元に伝わったかのごとく考えられるが、これは誤りである点は後述する。

第三の型は、臨済宗系の看話禅であり、これを公案禅とも呼んでいる。この禅の大成者は、円悟克勤(えんごかつごん)下の大慧宗杲(だいえそうこう)(一〇八九〜一一六三)である。大慧の禅の特色は、その成立過程において明確になる。大慧は、唐代の禅と黙照禅を否定することによって看話禅を大成する。大慧は、看話禅を始覚門と性格づける。始覚門とは、本覚門に対する考えであるが、本来的なさとりを原理的に認めながらも、実際には修行者を迷える者と自覚させ、その自覚を修行の出発点とする。大慧は、当時の修行者たちが、現実心をそのまま本来心としてしまったことに大変な怒りを感じた。また、黙照禅の流れの修行者たちが、ただ坐禅をするだけでよいとして、心証的なさとりを求めることを忘れていることを痛烈に批判した。大慧は、このような現実心をそのまま本来心とする誤った修行者を見て、あえて始覚門に立って、本来成仏の確実な把握を意味した。この場合の体験は、禅思想が説く本源に還るという体験であり、本来成仏の確実な把握を意味した。これを見性体験として、その体験を得るのに効果をあげる公案による解決方法を導入した。「大疑の下に必ず大悟あり」という大慧の語は、身体全体を迷いのかたまりとして、あらゆる意識や分別を払拭することによって、無意識の根柢から得られる直感の智慧を把握することを意味した中でも好まれた公案が、「趙州無字(じょうしゅうむじ)」と呼ばれるものである。「無」の一字に精神を集中し、その徹底的な「無」字への精神集中を通して、瞬間的なさとりの光を見出すことを求めたのである。この疑問の解決を精神的な集中より獲得するという方法は、大慧が指導しているうちにきわめて効果的であるという大慧自身の経験に基づく自信あるものであった。このようにして生まれた方法は、その後の禅宗史上に爆発的に広まったのである。相対的な迷いの現実心を、一度完全に自己否定することによって、その後に絶対的なさとりの本来心を獲得するという経過を体験することであった。
このような体験主義を打ち出した看話禅は、その方法論に普遍性を持ち合わせていたので、その伝播は機械的な移植を可能にし、地域や人種や時間などの差別を超えて、大いに広まったのである。
始覚門にたった看話禅は、先に言うように本源に還れば一つであるという思想であるから、教禅一致や三教一致の思想を認めることになるし、明代以降に流行した念仏禅の理論をも許容することになった。
一方、宋代に流行した教外別伝思想も、あたかも教禅一致思想とは対立するかに見えるけれども、返本還源(へんぽんげんげん)思想に変わりはないので、看話禅の主張者から多く認められるに至った。また、看話禅は、待悟禅(たいごぜん)の性格を強め、さとりの目的化と共に、坐禅修行を手段として、坐禅そのものの軽視化が促進された。

なお、中国禅は、朝鮮半島にも伝わった。最初は、唐代禅が伝わったが、大慧禅を基盤とする普照国師知訥(一一五八〜一二一〇)によって曹渓宗が開かれ、朝鮮仏教の伝統ある華厳宗と禅との融合による総合仏教が大成されて定着した。(一二五〜一二八頁)

「二 日本の禅」より

道元は、中国禅の看話禅も黙照禅も継承しなかったし、日本の天台本覚法門も否定した。道元のこの否定は、常に邪説としての外道批判となり、否定を通して生涯にわたって正法の宣揚に努めた。道元の主張は正法にあるが故に、禅宗の枠を超え、自身を禅師に据えることなく伝法沙門と自負した。しかし、この道元の批判は、その法孫の中で継承されたとは思われない。曹洞宗はもちろん禅宗という宗名さえ嫌った道元ではあったが、日本曹洞宗は対臨済宗として、道元没後より中国曹洞宗と限りなく接近していった。そして教団的には、瑩山紹瑾(けいざんじょうきん)(一二六四〜一三二五)の出現により大教団への基礎が固められていったのである。(一三四頁)