掲示板の歴史 その十四
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NO.365  『金剛頂経』の「不空」
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2005/01/22(Sat) 18:42:45
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「不空」という言葉がある。

『金剛頂経』(真実摂経)に散見するこの語彙は、サンスクリット語 「アモガ」(amogha=a[接頭辞で非、不の意味]+mogha[形容詞で空しき、無益の、無用の] ⇒虚しからざる) の意訳である。
一方、『勝鬘経』や『大乗起信論』にも不空という語は登場するが(記事「No.353」参照)、これはあくまでも空(shUnya)に対する「不空」という考え方である。これらは、掻い摘んで言ってしまうと、真如や如来蔵は「空」と「不空」の両側面から捉えられなければならないという思想であり、但空と不但空の二空の思想にも通じる。
法蔵館『仏教学辞典』の空の項には多くの 「二空」 が述べられており、そこには次のように書いてある。
  • 「但空」 空にかたよって不空の理を知らず、妙有の一面を認めないこと。偏空ともいう。
  • 「不但空」 空にとらわれないで妙有の一面を認める中道の空。これは一切法には決定された自性は得られないとする空であるから、不可得空ともいう。
また法蔵館『密教大辞典』には『釋摩訶衍論』に用例があるとして「不空」を次のように定義する。
空に対す、一切の浄法をさす、これ一切妄法の体相無実にして作用非真なるを空というに反して、自体中実にして虚仮を遠離し、作用勝妙にして巧偽を超越せる一切浄法を不空という。(旧体漢字は現代漢字に変換した)
それでは果たして、『真実摂経』の不空と『勝鬘経』の不空とは、まったく同質のコンセプトなのだろうか。
金剛薩タ[土+垂]の三昧や一切如来の実在性の「堅固」が口煩く強調されることから見ても、そのように考えることは比較的容易い。
しかし、『金剛頂経』で用いられる特定の不空の概念については、諸々の辞典類、参考文献等を渉猟しても驚くほどに記述がない。

そこで、私は『金剛頂経』に見られる「不空」に注目してみることにした。
以下に該当部分の邦訳を列挙して傍線部分を対照する。

  1. まずは同経の「別序」で、そこでは法身である毘廬遮那仏の内実が示される。
    すなわち、この尊格はありとあらゆる存在であって、かつ普賢菩薩でありつつ一切如来たちの胸(心蔵、フリダヤ、本質)にとどまってもいることが説明される。
    そしてここで、同経において初めて「不空」という言葉が登場する。
    紹介するフレーズの後にも二点見られるが、文脈が皆無なので省く。

    • [大毘廬遮那は羯磨(業)波羅蜜として]一切虚空を包含して一切の色を現ずる智慧を持って無尽無余なる衆生界を調伏する最上行あり、一切の如来たちの不空の教勅[おしえ]を実行するものとして完全・無等・無上なる一切業者であり、[以下略](東京美術、津田眞一訳『金剛頂経』二九)

    • (また)空間のすべてを包括する、あらゆる具体的な姿・形を現わすことのできる智慧をそなえていることによって、あらゆる有情の世界を(さとりへと)導くためのすぐれた行為を実行しておられ、しかも、(有情を導くための)一切如来の的確な[不空]勧告を実践しているのであるから、類すべきものなく、しかもこのうえなき巧みな働きをなしておられる。(中央公論社、頼富本宏訳『密教経典』所収『金剛頂経』四七)

    • 如来はまた、全虚空界に充満したすべてを観察する智慧で、すべての衆生界を余すところなく残らず教え導くという最も勝れた所行を遂行しただけでなく、一切の如来の、逃れることのできない命令を実行したことによって、無比にして最高至上の仕事をすべて完全になしとげた。(読売新聞社、岩本裕訳『密教経典』所収『金剛頂経』七九)

  2. 次は、大日如来を取り込んで覚り金剛界如来(当然大日如来そのもの)となったばかりの一切義成就菩薩が、十六大菩薩の第一である金剛薩タ[土+垂](普賢菩薩⇒金剛手菩薩)を出生するくだり。

    • そこで、たった今現等覚したばかりの世尊・毘廬遮那、一切如来の(総体としての実在界、すなわち金剛界のその実在性の本質たる)普賢(大菩提心をその象徴たる金剛杵のかたちでその)心蔵[フリダヤ](において保持し)、一切如来の虚空(の如くに広大なその実在性)より出現した大摩尼宝灌頂によって灌頂せられ、一切如来の(総体たるその実在界の内実に亘る)観自在菩薩の法の智慧という最勝の波羅蜜を獲得しており、(すでに)「一切如来」として世界建造者[ヴィシュヴァカルマン]たる(べき地位に指名されている)が故にその教勅[おしえ]が空しきことなく、阻碍されることなき(筈の)もの、(せ界建造者[ヴィシュヴァカルマン]としての資格・能力を具えるために予め)作すべきことをすでに完全に作し了り、意[こころ]に楽[ねが]うところを完全に実現したものは、いまや自ら「一切如来」(として世界を建造すべきそ)の役目を自己[おのれ]らの上に引き受け、一切如来の(実在性の本質たる大菩提心を体現する)普賢大菩薩の三昧耶より出現した薩タ[土+垂]加持金剛という名の三昧に入って、「一切如来の大乗の現証」という名の一切如来の心要[フリダヤ]を(次の如き心呪[フリダヤ]として)自己の心蔵[フリダヤ]から出だした。
      「金剛薩タ[ヴァジュラサットヴァ]よ」(津田訳、四六)

    • さて、そのとき、さとってから間もない世尊毘廬遮那如来は、一切如来の普賢(の心)を心髄とし、一切如来の空間より出現する広大なる宝石による灌頂をもって(三界の法王として)灌頂され、一切如来の(有情の状態を)観察することに精通したものの諸存在を認識する智慧の完成に到達し、一切如来の種々の働きを効果的に、中断することなく示し、なすべきことをなしとげ、(有情の)願いすべてを満たしている。
      (その世尊毘廬遮那如来は)一切如来としてみずから自身に対して加護をなしてから、一切如来の(偉大なるさとりを本質とする)普賢の象徴[三摩耶]より生じる「薩タ[土+垂](存在性)を加護するための金剛」という精神集中に入られたのである。その精神集中に入られると、「一切如来の(真実を要約した)大乗の教えを明らかにさとること」という一切如来の心髄(たる真言)が、自身(毘廬遮那)の胸から現われた。
      「ヴァジュラ・サットヴァ(金剛薩タ)よ!」(頼富訳、五八)

    • さて、世尊大日如来は「さとり」に到達すると直ちに、一切の如来の普賢の心をもち、一切の如来から虚空に生じた大摩尼宝珠の灌頂を受け、一切の如来のもつアヴァローキテーシュヴァラ(観自在)の教えの智慧[* これを訳者は「慈悲」としているが、むしろ同尊格が象徴するのは「智慧の完成(般若波羅蜜)」であり「空観の智」なのではないかとも考えられる]を最高に完成させたばかりでなく、一切の如来がいかなることでもなしうる状態にあったので、教誡を確実に、しかも障害もなく完成させたばかりでなく、心身を十分に満足させた。そして、一切の如来の位にみずからを登らせたのち、一切の如来のもつ普賢な大菩薩の誓願から生じた「衆生に対する金剛のごとき加護」という三昧にはいり、「一切の如来の偉大な乗物の現前における観想」という、一切の如来の真髄を自身の心から出して、「金剛薩タよ」と唱えた。(岩本訳、八三〜四)

  3. 以下は金剛薩タの生起に次いで金剛王菩薩(不空王菩薩⇒金剛鉤召菩薩)が出生するくだり。

    • ついで(その)大きな金剛鉤より一切世界の極微塵に等しき(数の)如来の身体が出現して、一切如来の鉤召等の一切諸仏の神通力による神変を現じ(た。ついでそれら如来たちは)金剛薩タの三昧が極不空であることからして、また(それが)きわめて堅固であることからして、凝って一つになり、不空王大菩薩の身となって世尊・毘廬遮那の心蔵[フリダヤ]に住して、次の如き頌[ウダーナ]をもってその内心の喜びを表明したのであった。
      「ああ、実[げ]に我は不空王である。金剛より出現したる鉤である。
      なぜなら一切(虚空界)に遍満する諸仏は(衆生をしてそれぞれの)悉地(を成就せしめんがため)の故に鉤召するからである。」(津田訳、五二)

    • つづいて、(金剛杵からなる)揺るぎないその大きな鉤の形状から、すべての世界に満ちている微塵の数に等しいほどの如来たちのお姿が現われ、(それぞれの如来たちは)一切如来を引き寄せることなどの、一切の諸仏の神通によって展開されるさまざまな奇跡的なことがらを示された。そして、金剛杵の存在に精神を集中することは、(目的の達成が)実に的確なる王者[妙不空王]を性質とし、しかも実に揺るぎないものであるから、(それぞれの如来たちは)ひとつにまとまり、不空王(目的の達成が的確なる王者)大菩薩ののお姿となられ、世尊毘廬遮那の胸にとどまり、この感嘆の声をあげられた。
      「ああ、私は(目的の達成が)的確なる王者であり、金剛杵から生じた者たちの中で鉤(を象徴とする)者である。なぜなら、すべてにゆきわたっている諸仏が、(目的の)達成のために、(私によって)引き寄せられるのであるから。」(頼富訳、六二〜三)

    • すると、この大きな金剛鉤の形から、一切の世界の極微の粒子に等しい如来の姿が出現して、一切の如来を召請するなど、諸佛の神通力によって奇跡を現じた。金剛薩タの三昧は誠に確実に効果がある(アモーガ)とともに非常に堅固であるので、一塊となってアモーガ=ラージャ大菩薩の身体となり、尊き大日如来の心の中に立ちどまって、この感興語を唱えた。
      「ああ、余アモーガ=ラージャは金剛杵より生じた鉤である。
      一切に遍満する諸佛は、悉地のために余を召請する」と。(岩本訳、八七)

  4. 以下は十六大菩薩の第十三である金剛業菩薩(一切如来毘首羯磨菩薩⇒金剛毘首羯磨菩薩)が出生した後、毘廬遮那仏の「フリダヤ=本質」に住した際に表明した頌(ウダーナ)。

    • 「ああ、実[げ]に我は諸仏の不空なる、多くの業[カルマン]の一切[すべて]である
      なぜなら仏の目的は任運[おのずから]に(実現するかに見えるが、それ)は(この)金剛業[ヴァジュラかルマン]が活動しているからなのである。」(津田訳、八五)

    • なんと奇なることよ。私は、諸仏の、効果的にして、多様な、あらゆる活動である。なぜなら、意識的努力なくして、仏陀を対照とする、揺ぎない活動に着手するのである。(頼富訳、八八)

    • ああ、[* 該当部分なし]苦労することなく佛のために金剛羯磨を動かすとき、
      余は諸佛の真実の、数多くの所行をすべて成就した。(岩本訳、一〇六)

  5. そして以下は、上の頌の後、同尊の請求に応じて大日如来が金剛名灌頂をするくだり。

    • そこで世尊は一切如来不空金剛と名づける三昧に入り、一切の如来たちの供養の活動を行ずること等の無量にして不空なる一切の業[カルマン]の広大儀軌という三昧耶を、すなわち、無余一切の衆生界の(衆生をして)一切の業の悉地(を得しめ)、一切の安楽と満足とを領受せしめんがため、乃至、一切如来の金剛業性の智慧と神通という最上の悉地の果(を得しめんがため)の故に、その羯磨金剛を、かの一切如来金剛羯磨大菩薩に対して、(それは彼に、やがて)一切業転輪王の位(に即くべき)一切如来金剛灌頂を授け(たことに他ならないのであるが)、その両手に授けた。すると一切の如来たちは、
      「(汝は)金剛毘首[ヴァジュラヴィシュヴァ]である、金剛毘首である」
      と(言ってかれ一切如来毘首羯磨菩薩に)金剛名灌頂を授けた。(津田訳、八六)

    • つづいて、世尊(毘廬遮那)は、「一切如来の効果的な(活動の)金剛」という精神集中に入って、[* 該当部分なし]あますところなきすべての有情の領域のあらゆる行為の達成と、あらゆる幸福と快き状態を享受させるために、さらには一切如来の金剛の活動性と智慧と直観力との最もすぐれた目的の達成に至るまでを意図された。そして偉大なるさとりを本質とするその一切如来毘首羯磨大菩薩に対して、一切如来の金剛の灌頂をもって、あらゆる活動の輪を転じるかたとして灌頂をなしてから、一切如来の供養に着手し始めることなどの、計り知れない、効果的な、あらゆる活動の詳細な方法を象徴するその十字金剛杵を、両手のひらに与えられた。
      それに呼応して、一切如来たちは、「金剛毘首、金剛毘首!」と「金剛」という言葉によって特徴づけられた名称の灌頂をもって、(その一切如来毘首羯磨大菩薩を)灌頂されたのである。(頼富訳、八九)

    • すると、世尊は、「一切の如来の真実の金剛」という三昧に入り、一切の如来に供養をさせるなどの、失敗することのない無量の所行のすべての作法に広く通暁することを誓願し、すべての者に安楽と満足を得させるために、ないしは一切の如来の所行が金剛のようであることに関して智慧と神通力とが最高の悉地を得るという果報のために、かのサルヴァ=タターガタ=ヴィシュヴァ=カルマンを一切の所行の転輪王の位に、一切の如来の金剛の灌頂によって陞[のぼ]らせたのちに、この菩薩の両手に、かの羯磨金剛を授けた。すると、この菩薩は一切の如来たちから「ヴァジラ=ヴィシュヴァ(金剛一切)、ヴァジュラ=ヴィシュヴァ」と、金剛名の灌頂を受けた。(岩本訳、一〇六〜七)
上記をご覧になるとお分かりになると思うが、これらにおいて、「不空」をそのまま用いているのは津田氏のみである。
頼富訳が不空を「的確な、効果的な」と訳出しているのは、チベット訳に付随する注釈書に無批判的に依拠しているからである。
岩本訳においては文脈に応じているためか「逃れられない」「効果的な」「真実の」などとしていてまとまりがないが、頼富訳同様、訳自体がなされていない場合が見られる。同氏は訳出において使用した具体的な注釈書などを一切挙げていないが、一箇所だけではあるが「[金剛薩タの三昧は誠に]確実に効果がある(アモーガ)」とわざわざ書いている部分がある以上、頼富訳と同様の注釈書を、徹底するではないにせよ参考としていたことは明らかであると思われる。
ここでいう『真実摂経』のチベット語訳付随注釈書というのは、現存するものを挙げると以下の四つである(頼富『中国仏教』三五一など)。

@ 『タントラ義入』
  • ブッダグヒヤ(buddhaguhya)撰
  • 梵名『タントラールターヴァターラ』(tantrArthAvatAra)
  • 蔵名『rGyud kyi don la 'jug pa』(東北No. 二五〇四、大谷No. 三三二四)
  • チベット王のティソン・デツェン(Khri sroN Ide tshan)王の招聘を受けたブッダグヒヤが、自分の入蔵のかわりに『大日経広釈』と『大日経略釈』の二書とともに送付した密教論書。
  • 内容的には注疏というよりもむしろ「要義釈」(piNDArtha)というべきで、重要な諸点のみを解説する。『初会金剛頂経』を基本としつつ、釈タントラの『金剛頂タントラ』を副次的に依用する点に大きな特色がある。
  • パドマヴァジュラ(padmavajra)による『タントラ義入注釈』(梵名tantrArthAvatAra-vyAkhyAna/蔵名rGyud kyi don la 'jug pa'i grel bs/ad)という複注がある。
A 『コーサラの荘厳という真実の集成に対する注釈』
  • シャーキャミトラ(SAkyamitra)撰
  • 略称『コーサラの荘厳』
  • 梵名『コサラーラムカーラ・タットヴァサングラハティーカー』(kosalAlaMkAra-tattvasaMgrahaTIkA)
  • 蔵名『De kho na n~id bsdus pa'i rgya cher bs/ad pa ko sa la'i rgyan』(東北No. 二五〇三、大谷No. 三三二六)
  • 『初会金剛頂経』全体の注疏であり分量も非常に多い。
B 『一切如来の真実の集成である大乗の現観と名づけるタントラの注・真実の燈明』
  • アーナンダガルバ(Anandagarbha、)撰
  • 梵名『サルヴァタターガタタットヴァサングラハ・マハーヤーナービサマヤ・ナーマ・タントラヴャーキヤー・タットヴァーロカカリー』(sarvatathAgatatattvasaMgraha-mahAyAnAnAbhisamaya-nAma-tantravyAkhyA-tattvAlokakarI)
  • 『De bz/in gs/egs pa thams cad kyi de kho na n~id bsdus pa theg pa chen po mNon par rtog pa z/es bya ba'i rgyud kyi bs/ad pa de kho na n~id snaN bar byed pa』(東北No. 二五〇九、大谷No. 三三三三)
  • 『コーサラの荘厳』に同じく『初会金剛頂経』全体の注疏であり、分量も非常に多い。
C 『瑜伽タントラの海に入る船』
  • 十四世紀頃に活躍したチベット人学僧、プトゥン(Bu ston rin chen grub)の撰
  • 蔵名『rNal 'byor rgyud kyi rgya mtshor 'jug pa'i gru gjiNs』(東北No. 五一〇四)
頼富訳は@〜Bを「瑜伽タントラに通暁した三人」として特に後二者を用いている。
同氏の注によると、Aのシャーキャミトラは例えば 「不空王」(堀内本 amogharAja) を 「みずからの行為を効果的になすことが不空であり、その行為以外の他者の行為をも自在になすから王である(取意)」 と解釈し、また例えば 「不空にして」 などは不空三蔵訳には「不空」、金剛智訳には「不唐捐」、堀内本には「amoghaM」とあるものだが、これはAのシャーキミトラ、Bのアーナンダガルバともに 「確実に/avasyaM」 と解釈して言い換えている。これらを承けた頼富訳においては、「不空」はほぼ徹底して「効果的な」「的確な」と訳出される。
これらのみについていえば、そしてこれらの解釈が正統であるとするならば、『金剛頂経』の「不空」は『勝鬘経』『大乗起信論』の「不空」とは完全に別次元のものであり、しかもそれほど重要な意味を持たない言葉であるといわざるを得ない。

しかし、これらをそのまま「不空なる」等に直接的な訳出をする不空三蔵訳や津田訳に「不都合」が見られるとは私には到底思えない。むしろ、こちらの方がしっくりくるし、いかにも密教らしく聞こえるのではないかとさえ思えるのである。そもそも、上のような注釈がなければ、そこには『大日経』の「空智」を(もちろんそれは必須項目として踏まえた上で)『金剛頂経』の「不空智」で「カウンター」し「昇華(同化)」させ「成就(完成化)」させるというようなコンセプトが秘められていたのではないのか――と普通には見るだろうし、少なくとも私には、いまだにそのように理解して決着を着けたいと考えている部分が大きい。

それでもやはり、これらがことごとく「確実に/効果的に」などと解釈されてきたのには、それなりの事情があったはずだとも考えられる。それが単純に「空」に対する「不空」であってはならないという何らかの強制力がなければ、このような注釈は出ない。出来ればその辺りの背景を(宗教者側のみのそれではなく政治的社会的背景もまた同様に)もっと知りたいと願うところではあるが、これを窺い知るためには更なる資料が必要となるだろう。
















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