掲示板の歴史 その十四
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NO.344  初期仏教資料に見られる法と如来
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2005/01/08(Sat) 21:51:07
□IP/ 4.27.3.43


いらっしゃいませ、snafkinさま。
はじめまして。
井の中の蛙のサイトへようこそ(苦笑)

>一般的に、密教は神とか、仏とかを究極の実在と想定し、それとの神秘的合一をめざして、さまざまなサマタ瞑想(対象集中型瞑想)をおこない、瞑想対象に関する三昧(対象との主客合一状態)を完成させることを目的にしています。これを神秘主義と呼びます。

なるほど、やはり神秘主義は密教なんですね。
ところで義仙さんは方法論と目的の類似から「すべての宗教は密教化するのでしょうか?」と問われていたのですが、これについてはどのように考えられますか?


>ところが、原始仏教および、中観派仏教は、究極の実在の存在を否定します。それも単なる「概念」の一つに過ぎないとするわけです。これらの仏教は究極の目的自体が密教=神秘主義とは異なり、ヴィパッサナーといわれる瞑想技術、あるいは空の観法を用いて無常、無我の認識、あるいは一切法の空の認識に至ろうとします。それによって真の涅槃が得られるとするわけです。これらの仏教は神秘主義を否定していると言っていいでしょう。

金岡秀友氏の「仏教は基本的に密教である」という主張は、かならずしも空観派がそうであるといっているわけではなく、あくまでも仏教現象が「基本的」に初期段階より密教化の萌芽を内包していた、ということなのではないでしょうか。
それから止観による禅定、空観による無常・無我の認識ということは仏教の基本ですね(カリフォルニア大学で一般教育課程の一環として仏教のクラスを採ったことがありますが、やはりその辺から真っ先に勉強させられました)。ただ、仏教が神秘主義を徹底的に否定していたかというと、かならずしもそうだとは思えないような、むしろ神秘主義を仄めかすような記述が初期経典のそこかしこに散見することも事実です。
初期仏教の資料には、仏陀・如来といった場合、ゴータマ・ブッダ自身を指す用例と、物理的肉体を所有はするがあくまでも人格を超越した「普遍的な存在」として扱う場合とが見られます。以下は後者、普遍的如来(=法身)の用例です。
  • 比丘たちよ如来に名をもって、あるいは友よとの言葉をもって、話しかけてはならない。比丘たちよ、如来は阿羅漢であり、等正覚者である。比丘たちよ、耳を傾けよ、不死が得られたわたしは教えよう、わたしは法を示そう。(『南伝大蔵経』第三巻、律蔵三、一六)
  • 天とともなる、魔とともなる、梵とともなる世界において、沙門、バラモンおよび人・天とともなる人々が、見聞覚知し、達し、求め、意によって思惟せるすべてを如来は正覚している。ゆえに如来と称せられる。(『南伝大蔵経』第八巻、長部三、一七一)
  • 如来は清浄であって、超人的天眼をもって、死にありつつあり、再生しつつある衆生を見、業によって動く衆生が、卑賤であり、また高貴であり、美しく、また醜く、幸福であり、また不幸であるのを知る。(『南伝大蔵経』第九巻、中部一、一一五)
  • われによって説かれた法と律こそが、わがなき後のなんじらの師である。(パーリ『涅槃経』)
  • 法は世尊をもととし、世尊を導きとし、世尊を依りどころとする。(『ニカーヤ』『阿含経』)
武内紹晃龍谷大学教授は「仏陀論」という論文で次のように述べてます。
  • はじめに述べたようにゴータマ・ブッダは法を悟って仏陀になられたのである。ゴータマ・ブッダのよりどころは法そのものであったことは言うまでもない。したがって仏陀の教えは常に法を説かれたのである。そこで「仏世に出ずるも出でざるも変わらざる法」として、法の普遍性、超歴史性が強調せられたのである。
  • (仏陀の)悟られた法は普遍にして、常住なるものである。『ニカーヤ』にはゴータマ・ブッダが「法を見るものはわれを見る、われを見るものは法を見る」と語られたと伝える。ゴータマ・ブッダが法を悟って仏陀となられたと言うことは、法と一体となられたことを示す言葉と言うことが出来るであろう。(一三五)
中観派はともかく、少なくとも初期仏教においては法は普遍・常住の存在として絶対視され、法と一体化する行為が経典のそこかしこに仄めかされていたこと、如来によって法が「顕現」すると示唆がなされていること、如来が普遍的存在であることなどを、同教授は指摘しています。

>釈尊の仏教は、密教一般とは根本的思想が異なると言えましょう。特に、密教技法を逆手にとって空の認識に至ろうとするチベット・ゲルク派の密教は、いろいろな宗教の中に存在する密教思想とは、目的が本質的に異なっていると言わなければならないのではないでしょうか。

もし武内氏の指摘が正しく初期仏教において法の絶対視とそれとの合一が示唆されていたとするならば、もしかすると如来蔵思想や仏教密教には本質的に「初期仏教への回帰」ともいえる部分が、多かれ少なかれあるのかも知れません。
私は「仏教系密教現象」は、おそらくは当時の社会的状況からヒンドゥー教に対抗して必然的に方法論の著しい変貌を強いられつつも、だからこそあくまでも仏教であり続けなければならず、そのためにも大乗仏教の基本である空性観に基づいて、それまで生じてきたさまざまな仏教現象を包括し統合し、思想的矛盾を解消し繋ぎ合わせた「集大成」であると認識してます。信仰形態も修道論も、初期、中期、後期とでまた大きく違ってきますし、異なった地域にあれば当然風土と文化の違いから独特の展開を見せますが、中期の『大日経』ではかなりしつこく空が説かれていますし、またチベット密教ではゲルク派以外にもカギュ派とニンマ派と、ほとんどすべて宗派の修行階梯に異系統ながら空観が取り入れらています。仏教密教はこの空=縁起を架け橋にして、通常の仏教と根本的に繋がっていると考えることができます。

>特に、密教技法を逆手にとって空の認識に至ろうとするチベット・ゲルク派の密教は、いろいろな宗教の中に存在する密教思想とは、目的が本質的に異なっていると言わなければならないのではないでしょうか。

たしかに、仏教密教の根幹となる仏教思想は、他宗教密教の根幹となる思想とは異なって然るべきです。
仏教だからといって浄土宗と禅宗は同じではありませんよね。
それでも、両宗派は仏教という宗教現象において包括されます。
密教という宗教現象もまた仏教密教と他宗教密教を包括します。


ここで義仙さんが問題にしたがっているのは、むしろ密教化した宗教や宗派の方法論や目的に類似点が多いという事実だと思います。
できるならば、これを機会に密教化現象の本質を探り、その一端を齧ってみたいなどと考えてます。