掲示板の歴史 その十四
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NO.345  密教、神秘主義を批判する
□投稿者/ snafkin
□投稿日/ 2005/01/10(Mon) 10:20:25
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>ところで義仙さんは方法論と目的の類似から「すべての宗教は密教化するのでしょうか?」と問われていたのですが、これについてはどのように考えられますか?

いろいろな宗教に神秘主義的な流派があることは事実だと思います。神秘主義を密教化と考えれば、あらゆる宗教は密教化すると言うことも可能でしょう。ただ、神秘主義的な合一の思想と、歴史上のブッダが説いた涅槃とを同一視することはできないと、私は考えます。

そもそもブッダはバラモン教が説く梵我一如の神秘思想を無我説によって否定したわけです。そのブッダが普遍の形而上的実在である法と合一することが涅槃だと主張したのであれば、梵我思想と同じことを言っていることになってしまいます。

方法論の上からも、この差異は歴然としています。宗教的な行、神秘主義的な実践は、その全てがいろいろな形での精神集中法であるといえます。祈りの言葉を唱える(マントラ)、神や仏のイメージに集中する、等々、シャーマニズムから密教まで、共通した要素を持っています。これを一括してサマタ瞑想と言うわけです。サマタ瞑想のゴールは対象との合一感であり、これを三昧(サマーデ)と言います。

これに対して初期仏教独特の実践法であるヴィパッサナー観法は、心身に起こる感受等の諸現象を、瞬間瞬間意識的に微細に観察する(サティによる純粋観察)というものです。初期仏教には瞬間定というものがあり、これは、瞬間瞬間生起する異なる事態に対して、そのつど矢継ぎ早に三昧の状態になっていると解釈されています。こうした訓練によって、現象の無常・無我、苦を認識し、執着を離れて解脱、涅槃にいたるとされます。

このように、仏教の解脱は合一ではなく、離れること、捨てることであり、神秘主義的なサマタ・サマーディでは得られないと言うことになります。スリランカやミャンマー、タイなどの南方上座部仏教(テーラワーダ)では、サマタを否定してはいませんが、サマタの訓練で定力をつけた上で、ヴィパッサナーを行なうようになっているようです。流派によってはヴィパッサナーだけで解脱を目指すようです。

>金岡秀友氏の「仏教は基本的に密教である」という主張は、かならずしも空観派がそうであるといっているわけではなく、あくまでも仏教現象が「基本的」に初期段階より密教化の萌芽を内包していた、ということなのではないでしょうか。

空殻さんがおっしゃるように、初期仏教は神秘主義的文脈で解釈されかねない概念を持っていたことは事実でしょう。それが問題だと思います。法や仏、如来といった概念を、形而上学的な実在としてして捉え、神秘主義的な文脈に位置づけることによって、本来ブッダが説いた無常、苦、空、無我といった認識論を有名無実化し、本来の涅槃に代わって、如来と合一することが究極的目標としてすりかえられてしまうわけです。
合一体験は神秘主義、サマタ瞑想で十分可能です。しかし、無常・無我等の認識は、ヴィパッサナーなくしては不可能です。

>「法を見るものはわれを見る、われを見るものは法を見る」と語られたと伝える。ゴータマ・ブッダが法を悟って仏陀となられたと言うことは、法と一体となられたことを示す言葉…

ブッダとそのダルマが出世間的、世間の常識を超えた存在であることはそのとおりだと思います。しかし、「法と一体になる」とは一体どういうことでしょうか。それを言うなら、無常、無我等の法を見る目が生じたとか、法を観察する能力が備わったというべきでしょう。「法を見るものは我を見る」というのは、現象の無常・無我・縁起を観察するものは、私に直接会って、説法を聞いたのと同じだよ…くらいの意味だと思います。

ブッダは常に法を観察しておられた、法を実践しておられたというならわかります。それをわざわざ「法と一体になった」と言い換えるのは、初期仏教を無理にでも神秘主義として理解したがっているからではないでしょうか。

法の普遍性というのは、科学法則とかなり近い概念と考えた方がよいと思います。万有引力の法則は歴史を超えており、ニュートン以前から存在したということと同じに理解して差し支えないのではないでしょうか。ただ、仏教の場合には、法を見るのにヴィパッサナーという特殊な訓練が必要なだけだと・・・。

その意味で、ブッダは法の第一発見者であり、法の教師として尊敬すべきであるということになるわけです。ただそれだけのことであって、縁起・無我等の法を形而上学的な実在と見ることは誤りと考えます。テーラワーダの高僧は、初期仏教は宗教よりも科学に近いといいます。実際、テーラワーダ仏教の教理と実践に触れると、まさに認知科学のような様相を持っています。

(日本の学者のこうした残念な傾向は、日本の仏教全体が、本覚思想=如来蔵思想に染め上げられていることから来ていると思われます。これらの思想は、仏教の皮をかぶった神秘主義=梵我思想であり、非仏教的思想であると考えます。)

>もしかすると如来蔵思想や仏教密教には本質的に「初期仏教への回帰」ともいえる部分が、多かれ少なかれあるのかも知れません。

これには賛同できません。初期仏教を現代に伝える南伝上座部仏教(テーラワーダ)の教理では、如来蔵思想を認めていません。仏教密教においても、その他の仏教密教が如来蔵思想を中心思想としている中で、それを非仏教思想として否定しているのがチベット正統ゲルク派です。

チベットでは、中国の禅僧・摩訶衍と、インド中観派のカマラシーラがサムイェー寺に於いて王様の面前で法論を行い、中観派が中国禅を論破したことから、中観思想が仏教の正統となり、如来蔵思想は非仏教として退けられています。
大雑把に言うと、カマラシーラは中国禅の論拠となっている如来蔵思想を実在論であるとして退け、一切法の空を主張したと理解しています。

このカマラシーラの立場に立脚して、チベット密教を再構成したのがツォンカパで、密教としては中観密教とでもいうべき、如来蔵思想に基づかない非神秘主義的な異例の密教を打ち立てたと考えます。
とはいえ、ゲルク派といえども、仏教を密教化の圧力から辛うじて救っているという感触は否めません。空観によって、どこまで解脱にアプローチできるかも不明です。ところがニンマ派などは、如来蔵思想を大手を振って用いているのです。

ちなみに、サムイェー寺の法論については、山口瑞鳳著『チベット』下巻に詳しく出ています。また、如来蔵思想・本覚思想を非仏教的な思想として論陣をはっている学者としては、松本史朗氏と袴谷憲昭氏がいます。

>ここで義仙さんが問題にしたがっているのは、むしろ密教化した宗教や宗派の方法論や目的に類似点が多いという事実だと思います。できるならば、これを機会に密教化現象の本質を探り、その一端を齧ってみたいなどと考えてます。

この趣旨には沿えなかったと思いますが、密教化現象を解析するタームとして、神秘主義思想、サマタ瞑想、三昧、と言った用語は役に立つのではないかと思います。ただ、ここで私がいいたかったのは、神秘主義やサマタ瞑想では釈尊の解脱には至らないし、正しく理解も出来ないということです。