掲示板の歴史 その六
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NO.235  病気の根本
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/05/30(Sun) 18:15:48


著名な大乗経典である『維摩経(ヴィマラキールティの教え)』は、紀元後一〜二世紀頃に成立したと考えられている。
サンスクリット本は散逸していて、他書に引用として数個の断片が残されているのみ。
三種の漢訳と一種のチベット語訳が残されている。
これら三種の漢訳というのは三世紀前半に呉の支謙が翻訳した『仏説維摩詰経』二巻、五世紀初頭の姚秦のクマーラジーヴァ(鳩摩羅什/羅什)が訳した『維摩詰所説経』三巻、七世紀の唐の玄奘の訳である『説無垢称経』六巻があり、『大正大蔵経/第十四巻』にそれぞれ四七四番、四七五番、四七六番として収録されている。
また、チベット語訳は「デルゲ版」(『東北目録』の一七六番)と「北京版」(『大谷目録』の八四三番/『影印北京版大蔵経』所収)がある。
原文の簡略化や付加装飾の多い漢訳に比べ、チベット版は一言一句が直訳的であるため、サンスクリット本にきわめて近い内容であると考えられる。
無論、日本は漢訳伝統の傘下にあり、中でももっとも親しまれたのは羅什訳『維摩詰所説経』である。

以下は『維摩経』のチベット語訳と漢訳との邦訳を、「空病」「説法の目的」「病気の根源」というキーワードに照らして比較したもの。
チベット語訳は、サンスクリット本にもっとも近いとされるチベット本『Hphags-pa dri-ma-med-par-grags-pas bstan-pa shes-bya-ba theg-pa chen-pohi mdo』を「デルゲ版」を底本に「北京版」や漢訳も参照して翻訳したという長尾雅人本、漢訳は中村元の『維摩詰所説経』の訳本を用いた。


@ 空病について
  • チベット訳(長尾雅人本)
    「このように[内にも外にも動きなく、自我も涅槃も両者ともに空であるとするところの]平等性を見るとき、彼は病気と空性とを別のものとはしません――病気こそは空性なのです」(中央公論社『大乗仏典』一三一頁/下六行目)
  • 漢訳(中村元本)
    「この平等を体得すれば、他の病のおこることがない。ただ空病(すなわち空に対する執着)のみがある。この空病もまた空である」(筑摩書房『大乗仏典』二六頁/上二三)
上の比較から見ると、どうやら「空病」という言葉の初出は漢訳『維摩経』らしいことが分かる。
この表現は漢訳独特のものであるようで、チベット訳では飽くまでも「病気が空性と区別されない」と述べているのみである。
SATでもダウンロードしてみたところ、やはりこの言葉は鳩摩羅什と玄奘の訳のみに見られ、もっとも古い支謙の訳には見当たらない。
このことからも、この「空病」という言葉が三世紀から五世紀の間に同経典を翻訳した何者か(おそらくは羅什)による造語である可能性が考慮される。
ちなみに七世紀の玄奘は「空病も空であるが、それは何故か」という自問に対して「空病が畢竟空でもあるからだ」と自答の句を付加している。


A 説法の目的
  • チベット訳
    「これらの[悪趣に生まれている一切の]衆生に対しては、正しく心を洞察して病気を除くようにしむけるべきです。しかし、彼らにおいて、いかなる法もつけ加えられたり、取り除かれたりすべきではありません。ただ、病気が生じる根本を知らせるために、彼らに法が説かれるべきであります」(同一三一頁/下十四)
  • 漢訳
    「ただかれら[苦難の場所にいる衆生]の病を除くのであって、かれら自身を除き去るのではない。ただ病の本を断ずるためにこれを教え導くべきである。」(同二六頁/下一)
前者は、病気の除去自体は自己の責任によるところであって、菩薩は説法によって「病人にその病気の根本を知らせるのみ」であるべきと説き、後者は恵まれない相手の「病気自体を除くために」説法すべきであると説いている。
この違いは大きい。
前者は、まるで「過保護にして甘やかすな」「なるべく自分で解決させるべき」と言っていると取れる。
一方、後者は単純に「可哀相な人はあまねく徹底的に介護すべき」という立場である。


B 「病気」の根源
  • チベット訳
    その(病の)根本とは何か。対象をとらえることが根本です。対象としてとらえられたものがあるかぎり、そのものが病の根本であります。何をとらえているかというと、全世界(三界)を対象としてとらえているのです。対象をとらえるという(病の)根本を知るとは何か。それはとらえないこと、見ないことであります。見ない(不可得)とは対象を取らないことであり、何を見ないのか、といえば、それは内にある(主)観と外にある(客)観と、この二つの観を見ないのであって、それゆえに見ないと言われるのです。
    マンジュシリーよ、このように病にかかっている菩薩は、老病死生を断つために自分の心を洞察すべきであります」(同一三二頁/上四)
  • 漢訳
    では<病の本>とは何のことであるか?それは何ものかの基体があると思って認め知ることである。何ものかの基体があると思って認めることから、病の本が成立するのである。では基体であるとして認め知られるものは何であるか?それはすなわち三界のことである。基体があると思って認め知ることを断ずるのは、どのようにして起るのであるか?それは執着して認めることのないこと(無所得)によってである。もしも執着して認めることがないならば、何者かの基体があると思って認め知ることがない。<執着して認めることのないこと>というのは何のことであるか?それは二つの見解を離れることである。<二つの見解>というのは何のことであるか?それはすなわち内面的な執見と外面的な執見とである。これがすなわち<執着して認めることのないこと>である。これが<病める菩薩がその心をととのえること>であり、また<老、病、死の苦しみを断ずること>である。これが菩薩の悟りである」(同二六頁/下三)
このように、長尾本チベット訳では「対象をとらえること」そのものが、中村本漢訳では「基体があるとして認め知ること」が「病気」の根本として挙げられている。
この違いは、きわめて大きいといわざるを得ない。
なぜならば、前者は「認識そのもの」を指しており、後者は「空(あらゆるものに実体がないという現実)に対する謬見(有所得)」を示しているからである。
これら二つは、思想からしてまったく別の次元のものである。