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【
歴史その九】
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NO.224 「空空」
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/04/16(Fri) 13:50:35
>空で解決する病気だが、これも病気
空執と同義ですね。
空に執着して、それ以上のレベルにいけなくなる。
これを病気に譬えたのが「空病」。
そして、これを解決した状態が「空空」ってやつです。
(【
掲示板の歴史/六ノ一】 記事[
No.156]参照)
この「空病」という言葉は、『維摩経義疏/下一』「文殊問疾品」や日本天台宗の論書である『定宗論/六』に、「有病」に対する語として出てきます。
初出は不明。情報求む(笑)
ところで、『宝積経/四三』「迦葉品」の六八節目には「ヨーガ行者の精神集中の対象が空虚なものとして現前する」とあるのですが、これについてスティラマティ(安慧)はその注釈書『大宝積経論』で、「ヨーガ行者はその精神集中において対象の空であることを観、その空である対象が逆に彼の『知』までも食ってしまう」と言ってます。また同著の別の箇所では「(ものがないという)法無我の知」が「(われがないという)人無我の知」を食う、とも言っています。(中央公論社『大乗仏典』二〇九頁参照)
行者が「正しい観察」を行なうとき、彼には「慧根(知恵の根本力)」が生じる。
そして、これが「正しい観察」そのものをも焼き尽くしてしまう。
もしかすると、「空病」や「空空」の本質的根拠はこの辺りにあるのかも知れませんね。
『宝積経/四三』では他にも、その九五節目以降において、三十七菩提分法を含む観念的かつ実践的な「治療」に加え、縁起の知、人無我の知、法無我の知という三つの「知恵の良薬」(三つというのはスティラマティの註によるもので、経典ではこれに「心を観察する勇猛心(精進)」が加えられる)、そして心の諸相の観察について詳細が述べられてます。
>病気が治ったら、もう、薬はいらないから
まったくその通りですね。
私などは病気になっても薬はなるべく飲まない主義で、特に西洋薬の服用は極力避けるようにしてます(^^)
漢方薬は面白いので、たまに趣味で飲んだりします。
激マズですが。
まあ、薬にもいろいろあるということです。
薬や治療を受ける側にもいろいろいて、苦手なため受けつけない人、苦手としつつも病気を治したくて受けつける人、むしろ楽しんで受ける人、受ける必要なく受けない人、病気が回復したと思い込んで受けない人、そこそこ回復していて服用の必要がないのに回復することにこだわって無理に飲み続ける人、もう受ける必要はないがそれが旨い(自分の口に合う)ので受け続け、楽しみ続ける人、と様々なケースが考えられますね。