掲示板の歴史 その六
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NO.236  「空見」
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/05/31(Mon) 15:22:00


『維摩経』(石田瑞麿訳)より、「空病」に関するくだり。
どうして、空だとするのか?この二つはただの名称でしかないから、空である。このような二つのものは、変わらない実体性をもっていないのである。この平等が得られると、ほかの病気はなくなって、ただ空という病気だけが残るが、この病気もまた実は空なのである。(筑摩書房『実践への道/維摩経・般若経』一五六頁/七)
ここにいうような「空という病気」=「空とはそもそも病気である」というスタンスは、長尾本の「病気が空性と区別されない」とも中村本の「空病もまた空である」とも異なる。
石田氏はこうして辿りついた「空」(とその否定との連鎖)を「最後の迷い」であるといっている。

この「空という病気」はまた「空見」と呼ばれる。
これについて、同氏はまた次のように説明している。
それは空を空というもの、あるいは空という「原理」として捉えることから来る誤りであるとされる。空は対立を超えるはたらきであるのに、これを対立に対する超対立として固定化してしまったところに抜き差しのならない欠陥がすがたをあらわして来たものである。したがってこうした欠陥におちいらないようにつねに戒心がなされなければならないわけで、大乗の経典のなかにはこれについてさまざまな譬喩を説いて、このとらわれを遠ざけるよう説いている。(同一五七頁/四)
また、『大宝積経/第百十二巻』には
もし空を得るために、空を拠り所とするなら、これは、仏の教えにおいては、かえって後退であり、堕落であるとされる。このようになるくらいなら、実体的な自我(我)の存在に執着[する方がましで、執着を]して、須弥山のように積み重ねることはあっても、空見によって、得てもいない悟りを得たように思い高ぶってはならない。(同一五八頁)
と説かれており、空見がいかに恐れられていたかが窺い知れる。
「空執」と「空空」の応酬は、一度始まると果てしなく続く。
「空という病気」というフレーズは、このような底なし沼のような状況を言い表している。