掲示板の歴史 その六
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NO.140  安定と堕落と革新
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/01/22(Thu) 16:26:48


>何事もバランス感覚。バランスの取り方が微妙に巧みな人を、徳のある人?と日本人は表現するのかも知れません。

同感です。
ただ、穿って考えてみると、バランスを取って安定するのも大切ですが、常に安定していればよいというものでもなく、時には意図的にバランスを崩して勢いを得ることも必要ですよね。
「徳」にはこの制御が大きく関わってくるように思います。

そこでまた話を戻しますが、一度バランスを取って画一的な安定を得たように見えても、安定はやがて退廃を生み、内側から新たな極端と個性や原点への回帰を求める革新的な動きが生じることがありますね。そうやって、独立する人たちが現れてくる。
そこにもやはり徳性があって、私自身はそれもまた味わい深いと思ってます。

>インドにおける法華思想と華厳思想

なんかそれ、苦し紛れっぽいなあ(^^;)
最初に法華天台といわれていたので、てっきり中国のことだと思いました。
『法華経』に関しては、たしかに複雑化からの回避のように感じるところも多いのですが、私には『華厳経』がそうであるようにはどうも思えません(^^;)
後者が、数多くの独立経典を編纂して作られたもので、しかもインドではなく、三世紀の中央アジアにおいてまとめられたものであるらしいことは周知の事実だと思います。果たしてそこに「華厳思想」なるものが存在しえたのか、すこし疑問です。
その中核的役割のひとつを担う『十地経』にしても、菩薩の精神的階級を十に分けて説いていたり、(そしてこのサイトの『大乗仏教経典』をご覧になっていただいても分かると思いますが)他の品においても十という法数に従った精神的階級とシフトの順序が何度も何度も、重層的かつ階層的に繰り返されて説かれます。
このように、『華厳経』では編集段階において、すでに煩瑣な解釈の下地が出来上がっていたはずです。

>密教の観法には、よく「言妄慮絶せよ」という言葉の締めくくりがあります。

勉強になります(^^)
私はフィールドワークが出来る環境にいないので、そういった具体的な情報の提供は嬉しいです。

>やっぱり臭ってくるのは、中国思想

空と無を取り違えた格義仏教の流れという批判を受ける所以ですが、私はそれはそれで面白い流れだと思います。

>不立文字という立脚も、公案の出現も、分別作業に埋没しているエリート仏教を、カーツ!とさとし、バランスを保とうとする流れだったのでしょうかね。

不立文字に関しては、そういう面があったのかも知れません(^^)
この標語に示される純禅宗系排他的実践主義は、おそらくそのような歴史的背景にもとづく反動かも知れない・・・・・・憶測なのですが。

公案の出現については「記事No.131」内に関連記事を引用してますのでご覧ください。