如来蔵経 注釈リスト
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如来蔵経

注釈リスト

(1) 「あるとき」(一時)を、チベット訳は「如是我聞」と結びつけて、「私が聞いたあるとき」と訳すのを常とするが、ここでは漢訳の常例に従う。その理由は、経の全体が「私の聞いたこと」の内容であり、それはサンスクリット本に通常見受ける経末の iti の語によって示されていること、「あるとき」は過去の一点で、「世尊は…・・・におられた(viharati sma)」にかかる副詞と見るほうが文法的にも素直だからである。ただし、後期インド仏教では、たとえばハリバドラの「般若経」釈に見られるように両説が認められていた。中央公論社『大乗仏典』第二巻『八千頌般若経T』注(2)参照。
(2) 世尊は、bhagavat(至福をもつもの、幸いをもたらすもの)に対する漢訳の常用語。仏の称号の一つで、呼びかけ語としてよく使用される。
(3) ratnacchattra-prasada の漢訳は、漢第一訳では「宝月講堂」、漢第二訳では「宝蓋鹿母邸宅」であるが、ここでは第二訳に従う。「宝蓋(ラトナチャトラ)」が何の名か詳しくはわからない。次にある「栴檀蔵(チャンダナガルバ)重閣」がその建物(二階堂)の固有名であろう。
(4) 「仏弟子」と訳した sravaka(声聞)は、「仏の教えを)聴聞するもの」の意。しかし、次頁以下に列挙される菩薩との対比でいえば、声聞道(声聞乗)によって修行するものたちで、いわゆる「小乗の徒」の一種を意味する。
(5) 比丘 bhiksu(bhikkhu)は、「食を乞うて生活するもの」の意。出家(男子)の修行者をいう。女性は、比丘尼(bhiksuni)である。
(6) この一文は、直訳すれば、「有学・無学の声聞比丘」とあるもの。本訳文では内容理解の便を考えて、原文の構文を変更した。この有学・無学という修飾句は漢第一訳にはない。
(7) 阿羅漢 arhat の語義は、「・・・・・・に値する」「・・・・・・の値打ちがある」。仏の称号の一つでもあり(そのばあいは「世の尊敬をうけるに値する」と訳した)、「応供」「応」などと漢訳される。ここは、声聞の階位中、八種の聖人位の最高をいう。最高位であるから、それ以上学ぶものがないという意味で、「無学」と呼ばれる。したがって、阿羅漢以外の七種の聖人や、それ以下のものは、まだ学ぶべきことがあるもの、「有学」である。なお、すべてこれ阿羅漢で」というのは、「有学・無学の比丘の集団」という内容と矛盾する。なお、(一a)は、漢第一訳にはない。おそらく後世の挿入であろう。
(8) 以下*印までは、阿羅漢を描写する定型句。たとえば『八千頌般若経』『維摩経』『法華経』の冒頭参照。第六番目の句「血筋よく」 ajaneya は、チベット訳では「すべてを知れる」 can ses pa と訳すのを慣例とし、漢第二訳も「獲得正智」とするが、これは ajnata (よく知れる)などと混同したものであろう。もっとも、「すべてを知れる」のほうが内容には合致するので、仏典の作者がサンスクリット語形を間違えたものか。パーリ聖典の注釈にもチベット語訳同様、「知る」と結びつける解釈が見られる。「血筋のよい」は、元来、馬などについて慣用された句であるが、大乗ではしばしば仏や菩薩の形容に用いる。声聞については、この第六番目の定型句以外には見られない。
(9) 「尊者」と訳した ayusmat (命をもつもの)は、「青春に富んだ」と「高齢の」の両義に解せられる。もと貴族に対して用いられた一種の敬称で、必ずしも老人をさすとは限らない。
(10) 大乗では娑婆世界(saha-loka)のまわり十方に無限の「仏国土」、つまり浄土があり、それぞれにひとりずつ仏がいて法を説いていると考える。なお、娑婆世界は釈迦仏の世界だが、穢土であって、浄土ではない。
(11) 「菩薩」は「さとりをめざす衆生」で、元来、さとりをひらく以前の釈尊に対する呼び名であった。大乗ではその教えにより、正しく完全なさとりを求めて修行するものを広く菩薩と呼ぶ。また、彼らは自利の達成のみでなく、利他行をむねとするので、「大士」(偉大なる衆生)と呼ばれる。以下、菩薩名のあとに称号として用いられる場合は、「偉大なる○○菩薩」というように、その他のばあいは「菩薩大士」と訳す。
(12) 補処とは、「次に仏となる候補者としての地位」の意味である。この形容句は、元来、将来仏としての弥勒菩薩に対するもの。菩薩はその修行に応じて、一般に次の四位に分けられる。(一)はじめて発心したもの、(二)修行を実践したもの、(三)不退転のもの、(四)一生補処。
(13) 「コーティ」と「ニユタ」は、いずれも大きな数の単位。コーティは漢訳で「億」というが、一般には一千万にあたる。すなわち、十万をシャタ・サハスラ、つまり「百千」といい、その上が、ダシャ・シャタ・サハスラ(十X百X千=百万)であろう。その上に新しい数が要求され、「コーティ」と名づけられたものであろう。その伝でゆくと、ダシャ・シャタ・サハスラ・コーティ、すなわち十兆の上が「ニユタ」、すなわち百兆となろう。然らばシャタ・サハスラ・コーティ・ニユタは、一兆ニユタ、すなわち1025である。
(14) 仏が説法をすることを、国王が戦車を進めて敵を征服するのにたとえて、「転法輪」(法の車輪をまわす)という。どんな大敵に出会っても、説法をやめたり、退いたりしないので「不退転」という。
(15) 以下の菩薩名は、他の経典に見られるもの以外は、チベット訳・漢訳から復元・推定したもの。その大部分は菩薩の特性をあらわす説明句(エピテート)で、所有複合語、すなわち「・・・・・・をもつ(もの)」にあたる。
(16) 「無量の神々」以下「マホーラガ」までは、いわゆる天龍八部衆である。「人間ならざるもの」はデーモン、超人的存在をさすという。
(17) 萼は、如来蔵の「蔵」(胎)と同じ語。蓮華の萼に如来が坐すさまは、東大寺の毘廬遮那仏などを想起されたい。
(18) 「わが家のよき息子」と訳した kulaputra (善男子)は、元来、貴族の子弟に対する呼びかけで、「良家の子」と訳せる。仏典でも、たとえば釈尊が長者の子ヤサに呼びかけた場合など(総じて、原始仏教経典において)、そのとおりの意味で解してよいであろう。大乗では広く菩薩に対し、また在家の信男信女に対する呼びかけに用いられた「高貴の生まれ」(kulina)、「血筋がよい」(ajaneya)ともいうのであるから、「良家」とは教理的には「如来の家」にほかならない。漢訳の「善男子」「善女人」はその意を含むものとして慣用されている。けっして、社会的に身分のよい家という意味ではない。
(19) 法話とは、教えの話。[T] chos can gyi gtam、[S] *dharami katha。漢第一訳は「仏法」、漢第二訳は「法要」。
(20) 正しく完全なさとりをひらいた世の尊敬をうけるに値する如来」は、仏の十種の称号の最初の三種(如来・応供・正等覚者)にあたる。如来をあらわす慣用句。「如来」は、「如(真如、そのとおり、真理)に到達したもの」、もしくは「真理からやってきて(この世に姿をあらわした)もの」。両義合わせて、「真理の体現者」と訳すのがよかろう。しかし、本訳では「如来」を用いる。
(21) ここの「衆生」の原語 [T] srog chags、[S] pranin は、「気息をもつもの」「生き物」の意。「衆生」は、一般には sattva (生存するもの)の訳で、「有情」とも訳され、虫にいたるまでの生き物一般をさす。同義語として、この pranin のほか、 denin (身体 deha を有するもの)などがあり、集合名詞として sattvadhatu (衆生界)、 jana (大衆)あるいは jagat (世間、世間の人々。フランス語の le monde にあたる)などがある。 pranin、 dehin は、詩句・韻文でよく用いられるが、すべて「衆生」と訳した。
(22) 「人中の最勝者」(両足尊天)は、漢第二訳では「天中尊」。仏に対する称号の一つ。
(23) 如来蔵 tathagata-garbha の garbha は、単独では「胎」(子宮)、または「胎児」を意味する(注17の「蓮華の萼」はおそらく種子の容れ物)が、複合詞の後分に用いられると、一般に「・・・・・・を胎内にもつ」「・・・・・・を内に宿す」という意味で、全体は所有複合語となる。ここもそれと同じで、「如来を内に宿す(もの)」の意で、具体的には衆生をさす。すなわち、衆生が仏になる(さとりをひらく)可能性をもっていることをあらわすことばである。これは、さきの「蓮華の萼に如来が坐っている」という比喩の象徴するところで、それがこの経の主題である。
(24) 「方等」は、「方広」とも漢訳され、「広大なるもの」という意味。経典の十二種分類の一。一般に大状況をさすと解せられる。
(25) 「超越的な般若の叡知」は、 prajnya (般若、慧)の説明的な訳。次の「知識」は、 jnyana (智)の訳。両者は、ともに如来の知恵として同一のことをさすばあいと、前者が「さとりの知恵」、後者は「世の中を救うための知恵」というように分けて考える場合がある。あとの場合、前者は超世間的(出世間)で、後者は内在的(世間、世俗)、また、前者は真理に対する見とおし、直感的な知恵で、後者はすべてのことについての広い知識である。以下、区別の必要のないときは、ともに「知恵」と訳し、区別の必要なときは「叡知」と「知識」、もしくは説明を加えた訳語をときに応じて使用する。なお、「知」には vid、 vidya という語もあり、漢訳は「明」と訳すので、その場合は「明知」と訳出した。ただし、厳密に一定しているわけではない。
(26) 「如来たちはあるがままに安住する」は、漢第一訳では「顕現仏性」(仏性、すなわち衆生の内なる仏の本性を顕現する)である。しかし、「仏性」に直接該当する語はない。
(27) 以下*印までは、『宝性論』所引(RGV.p.73, 11−12)。「如来たちが(この世に)出現しようと出現しまいと」は、真理 dharmata (法性、きまり)の永遠性をあらわす定型句。最初は「縁起の理」をさすのに用いられた。
(28) 勝利者 jina は、「煩悩という魔の軍隊の征服者」の意で、仏の称号の一つ。「仏」「如来」「勝利者」などの使い分けは、韻律の関係によるもの。
(29) 「仏の本質」 buddhatva は、「如来の本性」(tathagata−dharmata)と同じ。
(30) 自覚者 svayambhu (自生、みずから成ったもの)は、元来、ヒンドゥー教でブラフマンやヴィシュヌという絶対神に対する呼び名であったが、仏教において「ひとりでさとったもの」(自覚)の意として、仏に対して転用されたもの。また、「独覚」をさして使う場合もある。
(31) 「仏の本質」にあてた漢訳「仏地」は通常、仏の位、さとった状態をいう。なお、漢第一訳「仏蔵」、漢第二訳「如来智」は、内容に基く意訳であろう。
(32) ここの意味は、「煩悩は心に一時的に付着したもので、心は本来(本性として)清浄である」ということであるが、これは、原始仏教以来の基本的な考え方の一つである。
(33) 「十種の力」は十種の超能力、道理と非道理を知ることなど。「(四種の)おそれなき状態」(無所畏)はすべてを知り、汚れがまったくないなどの四点によって、おそれをもたないこと。「(十八種の)仏に特有の徳性」(不共法)は過失のないこと、ないし三世にわたって無礙、無染着の知見がはたらくこと。漢訳の「法」は、ここでは「性質」「徳性」の意。以上は、仏の徳性(仏法、仏功徳)をあげるときの定型句である。そういうものの宝庫だから、「如来蔵」だと説明される。この「如来蔵」に対し、漢第一訳では「如来知見」、漢第二訳では「如来智慧」とある。
(34) 「信じて」(信解、勝解)は、そこに心を傾注すること。(二二)の(五)の中の用例もこれに同じ。
(35) 「未曾有の因相」は、「いまだかつてない種類の根拠」の意。訳は漢第二訳による。衆生がみな、如来を内に宿していること、すなわち、将来、如来たるべきこと、の原因という意味であろう。漢第二訳は「一切有情の未曾有の因相を見て」と訳す。
(36) 「汚れの付着しない弁才」 asanga−pratibhana は、漢両訳とも「無礙弁才」(仏の徳性の一つ)で、「心によく記憶すること」 dharani (陀羅尼、総持)と対をなす。 pratibhana は「心にひらめく」を原義とするが、仏典ではとくに「弁舌のひらめき」をいう。あるいは bhana (bhan- 「話す」。たとえば、法師 dharma-bhanaka 「法を説く人」)との混同によるものか。
(37) 善逝 sugata は、「善く逝ったもの」「幸福になった人」の意。仏の十種の称号の一つ。教理的には、「よく理想に到達したもの」の意。ここも韻律の関係で用いられたもので、如来と同義。
(38) 漢第二訳では「藤子」。実物不詳。
(39) 「胎児のごとき状態にあるかの如来の本性」は、「如来蔵」を意味するところの句の一つ。
(40) この「衆生」を、漢第二訳は「有情」 sat-tva と訳す。この「衆生」に比べて、二行あとの「知恵の大きな集まりたるもの」は菩薩にあたり、衆生(如来蔵)→菩薩→如来ちう三階位が成立する。
(41) 涅槃は、「(煩悩の非を)吹き消すこと」、したがって、「寂静」(鎮静した)とか「清涼」とか説明される。理想状態としての「滅」すなわち「苦の滅」の同義語。
(42) ここの「胎児」は、 sattva (胎内の生き物)。
(43) 血統 gotra (種姓、種性)とは「家系」「家柄」のことであるが、その家に伝わる血筋、その家の特徴をあらわす本質という意味にもなる。これも「如来蔵」の概念の内容の一部を構成している。
(44) 「書写して」は、チベット訳では「本にして配列して」である。
(45) ヨージャナ(由旬)は、長さの単位。軍隊の一日の行軍量をいう。
(46) (カルパ)は、長大な時間の単位。
(47) 以下*印までは、比較を絶することをあらわす定型句。中央公論社『大乗仏典』第二巻『八千頌般若経T』一〇一〜一〇二頁など参照。
(48) (カハーラ)は、穀物などの量をはかる単位。一カハーラは、約一〇八リットル。
(49) この第三句のチベット訳を直訳すると、「如来の胎児のごときものがある衆生すべてのこの本性を」となる。漢第二訳では「此如来蔵相応法(若智菩薩能思惟)一切有情勝法性・・・・・・」。この漢訳中の「如来蔵」は、「如来の胎児のごときもの」と、なお比喩的要素を残す。
(50) 以下*印までは、過去世の仏の物語をはじめるときの定型句。『法華経』第二十二章、第二十五章など参照(ケルン南条本)、p.404、p.457)。続いて仏名が仏の十号つきであげられ、その出現の世界名と劫名があげられる。
(51) 以下*印までは、仏の十号。漢第一訳では「如来、応供、等正覚、明行足、善逝、世間解、無上士、調御丈夫、天人師、仏世尊」。
(52) 「十仏国土の原子の数に等しい百千世界」とは、一仏国土の微塵数 X 一〇 X 一〇〇、〇〇〇の世界。
(53) この「身光」はいうまでもなく、如来の知恵の光を象徴するもので、それが母の胎内にあるうちから、涅槃にはいってのちまでも、永遠不変に光りつづけるということは、そのような知恵の光明で代表される如来の本質、のちの教理で「法身」の名で固定するものを示している。
(54) 漢両訳は、「五種の神通力を得た」という。
(55) 「五百功徳品」が、具体的に何をさすかは不明。「ダーラニー」(陀羅尼)は心に記憶し保つこと、また、そのための重要な文句。呪文的効果があるとされて、のちには専らその目的でつくられた。
(56) *astapada は、蜘蛛(八足)のこと。それが「碁盤の目」をあらわすのは、蜘蛛の巣からの連想か。この「金糸で碁盤の目のように綾どられた」という表現は、『法華経』比喩品にも見られる(ケルン南条本、p.65.10)。
(57) 以下の一文は、菩薩の身につけるべき諸徳性、能力の略記。信仰・精進努力、億念・精神集中(三昧)・叡知という五種の能力(五根)とその発現する力(五力)。億念、法の判別、精進努力、喜び、心の軽やかさ、精神集中、特定のことに気をとられぬこと(捨)という七種の、さとりのための必須条件(七覚支)。「三昧」 samadhi と「等至」 samapatti はともに広義の禅定、つまり精神統一の方法の名である。等至とは、「平等に到達すること」と解釈されるが、元来は「ある状態に達した、完成した」といった意味。たとえば、「禅定にはいった」(samadhi-samapanna)が転じて、禅定の一名として独立したものであろう。心の安定性、平静をいう。
(58) この「尊き」は、単独の用例では「世尊」と訳したものに同じ。
(59) 漢第二訳は「おのおの異なった国土において」という。
(60) 以下の(三五a)は、漢第一訳にはない。のちの増広であろう。
(61) 「人中の雄」は、仏に対する敬称の一つ。直訳は「牡牛のごとき人」。
(62) 「ということである」はサンスクリット仏典の慣用に従い付加した。漢両訳、チベット訳では掲げていない。これは、「如是我聞」に対応する。
(63) チベット訳は、このあとに次の奥書きを加える。「インドの学僧シャーキヤプラバと、チベットの翻訳官、大徳イエ・シェ・デが翻訳、校閲ならびに改定して確定した」


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中央公論社『如来蔵系経典』より参考資料として抜粋・編集
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初版:2003年5月20日