如来蔵経
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如来蔵経

第一章 序

(一) 次のように私は聞いている。
 あるとき(1)、世尊(2)は、さとりをひらかれてから十年目の、たいへん暑い盛りであったが、ラージャグリハ(王舎城)のグリドラクータ山(霊鷲山)にある宝蓋の邸宅(3)、栴檀蔵重閣において、百千に満ちる仏弟子(声聞)(4)の比丘(5)たちより成る、比丘の大集団(僧伽、僧)と一緒におられた。そのなかには、まだ修学すべきことを残しているもの(有学)も、すべて学び尽くして、もはや学ぶべきことのないもの(無学)もあった(6)。
(一a)(彼らは)すべてこれ阿羅漢(7)で、汚れ(漏)(8)を尽くし、煩悩はなく、自在力をそなえ、心が完全に自由で、知恵もよく自由にはたらき、血筋よく、大象(のごとき俊傑)で、仕事を果たし、なすべきことをなして、重荷をおろし、自己の目的を達成し、輪廻生存の絆を断ち切り、正知によって心がまったく自由となり、すべての精神的能力の最奥を究めたものばかりであった*。すなわち、(その面々とは)マハーカシュヤパ(大迦葉)尊者(9)、ウルヴィルヴァ・カーシュヤパ尊者、ナディー・カーシュヤパ尊者、ガヤー・カーシュヤパ尊者、マハーカーティヤーヤナ尊者、カウシティラ尊者、バックラ尊者、レーヴァタ尊者、スブーティ(須菩提)尊者、プールナ・マイトラーヤ二ープトラ尊者、ヴァーギーシヴァラ尊者、シャーリプトラ尊者、シャーリプトラ(舎利弗)尊者、マハーマウドガリヤーヤナ(大目建連、目連)尊者、アージニャータ・カウンディヌヤ尊者、ウダイン尊者、ラーフラ尊者、ナンダ尊者、ウパナンダ尊者、アーナンダ(阿難)尊者をはじめとする、百千に満ちる比丘たちであった。

(二) また、種々の仏国土(10)から来集した、ガンガー河六十流の砂の数ほどもある(多数の)菩薩大士(11)たちとも一緒であった。(その菩薩大士たちは)すべてこれ、(あと一生のあいだだけ、輪廻の生存に束縛されているという、菩薩として最高の)一生補処(いっしょうふしょ)12)(の位にあり)、大神通力、(十種の)力、(四種の)おそれなき状態(無所畏)を得ており、幾百千コーティ・ニユタ(13)の諸仏に親近(しんごん)してよく不退転の法輪を転じ(14)、彼らの名を聞くだけで、無量・無数(阿僧祗)の世界の衆生たちが、この上なく正しい完全なさとりに向かってあともどりすることがなくなる(不退転)ような、そういうものたちばかりである。すなわち(15)、(法の知恵をもつ)法慧(ダルママティ)菩薩、(獅子のような知恵をもつ)獅子慧(シンハマティ)菩薩、(虎のような知恵をもつ)虎慧(ヴイアーグラ)菩薩、(目的についての認識をもつ)義慧(アルタマティ)菩薩、(宝のような知恵をもつ)宝慧(ラトナマティ)菩薩、(最勝の知恵をもつ)勝慧(プラヴァラマティ)菩薩、月光(チャンドラプラバ)菩薩、宝月光(ラトナチャンドラプラヴァ)菩薩、満月光(プールナチャンドラプラバ)菩薩、大勇猛(マハーヴィクラーミ)菩薩、無量勇猛(アミタヴィクラーミ)菩薩、無辺勇猛(アナンタヴィクラーミ)菩薩、三世間勇猛(トリローカヴィクラーミ)菩薩、不動地勇猛(アチャラブーミヴィクラーミ)菩薩、得大勢(マハースターマブラープタ)(勢至)菩薩、観自在(アヴァローキテーシヴァラ)(観音)菩薩、香象(ガンダハスティー)菩薩、香悦(ガンダラティ)菩薩、香悦吉祥(ガンダラティシュリー)菩薩、吉祥蔵(シュリーガルヴァ)菩薩、日蔵(スーリヤガルバ)菩薩、(ドヴァジャ)菩薩、大幢(マハーケートゥ)菩薩、無垢幢(アマラケートゥ)菩薩、無辺宝杖(アマララトナダンダ)菩薩、極喜王(パラマナンダラージャ)菩薩、常喜(ニトヤプラムディタ)菩薩、宝手(ラトナパーニ)菩薩、虚空蔵(ガガナガンジャ)菩薩、迷慮(メール)菩薩、須弥山(スメール)菩薩、大迷慮(マハーメール)菩薩、功徳宝光(グナラトナーローカ)菩薩、陀羅尼自在王(ダーラニーシヴァララージャ)菩薩、持地(ブーミダラ)菩薩、除一切衆生病(サルヴァサットヴァヴィヤーディハラ)菩薩、歓喜意(プラムディタマナス)菩薩、憂悲意(ウドヴィグナマナス)菩薩、無憂(アパリキンナ)菩薩、作光(プラバーカラ)(光蔵)菩薩、栴檀(チャンダナ)菩薩、捨動菩薩、無量雷音(アミタービガルジタスヴァラ)菩薩、普起菩提(サムッタービタボーディ)菩薩、不空見(アモーガダルシャナ)菩薩、於一切法自在(サルヴァダルマイシュヴァリヤ)菩薩、弥勒(マイトレーヤ)菩薩、文殊師利童子(マンジュシュリークマーラブフータ)をはじめとするガンガー河六十流の砂の数ほどの菩薩たちであった。

(三) さらに、無量の神々、ナーガ(龍)、ヤクシャ(夜叉)、(天の楽人)ガンダルヴァ、(神々の敵)アスラ(阿修羅)、ガルダ(金翅鳥)、キンナラ、マホーラガ、人間、人間ならざるもの(16)たちもまた一緒であった。
(四) そこで、幾百千という会衆にとりまかれ、対面されている世尊を、国王・大臣・商主・長者・吏臣・町人・国人たちは恭敬し、尊重し、奉仕し、供養した。




第二章 世尊の奇瑞

世尊、蓮華を化現

(五) そのとき、世尊は食事をなさってから、かの栴檀蔵重閣のなかにあって、禅定にはいられた。すると、仏の威神力によって、その栴檀蔵重閣から、幾百千コーティの蓮(華)が出現した。その葉の大きさは(馬車の)車輪ほどもあり、みごとな色彩で、幾百千コーティもの蕾をつけていた。(と、見るまに)それら(の蓮華)は上空に昇って、この仏国土を(そこにある)すべてのものもろともに、すっぽりと蔽った。そして、ちょうど、(虚空中につるされて安定している)宝石でできた天蓋のように安定した。また、その一つ一つの蓮華の(うてな)17)には、坐禅の姿勢をした如来の身が鎮座しており、幾百千の光明を放って輝くと見るまに、それらの蓮華もまた、みなことごとく花開いた。
 ついで、仏の加持力で、それらの蓮華の花弁はことごとく黒ずみ、汚れ、悪臭を放ち、萎んで、嫌悪をもよおすようになった。しかし、それらの蓮華の萼には(前とかわらず、それぞれ)如来の身が坐禅をくんで鎮座し、幾百千の光明を放って輝いていた。それら、蓮華の萼に端坐している如来の身はまた、この仏国土を、そこにあるすべてのものもろともに、すっぽりと蔽った(ので)、そのとき、この仏国土はたいそう美しくなった。
(六) そこで、(そこに居合わせた)菩薩たちのすべては、(比丘・比丘尼および在家の信男信女の)四衆ともども、(これを見て)たいそう奇特なことと思い、喜んだ。(そして、)世尊がこのように色あせ、雄蕊も色あせ、しおれて、見るに耐えなくなったのに、それらの蓮華の萼には、それぞれ、如来の身が坐禅をくんで端坐し、幾百千の光明を放って、たいそう美しく輝いていることの原因は、いったいなんだろう、(その)条件はいったいなんだろうと考えた。そこで、菩薩衆や、(比丘などの)四衆、ならびに(その仏国土の)すべてのものたちは、(それを)知りたいというようすを示した。

金剛慧菩薩の質問
(七) そのとき、その栴檀蔵重閣に金剛慧(ヴァジラマティ)(すなわち、金剛杵のように堅固な知恵をもつもの)という名の菩薩大士が居合わせた。そこで、世尊は金剛慧菩薩に告げられた。
「わが家のよき息子(善男子)よ(18)、そなたは、法話(19)に関して、正しく完全なさとりをひらいた世の尊敬をうけるに値する如来(20)(たるこの私)に、なんなりと遠慮せずに質問しなさい」
(八)  そこで、金剛慧菩薩は、世尊にうながされて、神々、人間、および(神々の敵)アスラを含めた(すべての)世間のものたちと、すべての菩薩と(比丘などの)四衆の疑念のあるところを察知して、世尊に、次のように申し上げた。
「世尊よ、この世界がことごとく、これら幾百千コーティ・ニユタの、このように色あせて、悪臭を放つ蓮華に蔽われており、また、それらの蓮華のなかに、坐禅をくんだ如来の身が端坐して、幾百千の光明を放っており、そして、それらの如来の身を見て、幾百千コーティ・ニユタの衆生(21)たちが合掌し、帰依しておりますが、(その)原因はいったいなんであり、条件はなんでありましょうか」
(九) ついで、そのとき、金剛慧菩薩は、次のように詩頌を述べた。

@ 千コーティの仏たちが動くことなく、蓮華のなかに端坐している、そのような奇瑞をあなたは示現された。私がいまだかつて見たこともないような。
A 幾千の光明を放ちつつ、この仏国土をあまねく蔽い、奇特なる法(の世界)に自在に活躍する、(世の)導師(たる仏)たちに妨げはない。
B 花弁や雄蕊がなえ、色あせた蓮華のなかに、彼ら(仏たち)は宝のごとく端坐している。なんのために(あなたは)これらの奇瑞を示現されるのか。
C 私はガンガー河の砂の数ほどに多くの仏を見、そのすぐれた奇瑞をも見た。けれども、いま示現されているような奇瑞、このようなありさまはいまだ見たこともない。
D 人中の最勝者(22)(たるあなた)に教えていただきたい。(この奇瑞の)原因と条件が何かを説明していただきたい。世間を利益するかたよ、哀愍を垂れたまえ。すべての衆生の疑念を晴らしたまえ。




第三章 九つの比喩

(十) そこで、世尊は、偉大なる金剛慧菩薩をはじめとするすべてを含めた菩薩衆に向かって、次のように仰せられた。
「わが家のよき息子たちよ、『如来蔵』(23)(すなわち、如来を内部に宿すもの)と名づける方等経(24)(大乗経典)がある。それを説き明かすために、如来(たる私)は、このような現象をつくり出したのである。それゆえ、よく聴聞し、思念せよ。私が説明しよう」
 偉大なる金剛慧菩薩、ならびにかの菩薩衆はみな、世尊に「よろしゅうございます」と言い、世尊(の教え)に聞きいった。そこで、世尊は次のように仰せられた。

@ 蓮華のなかの諸仏のたとえ
(十一) わが家のよき息子たちよ、たとえば(いま見たとおり)、如来が化作したところの、色あせ、悪臭を放ち、萎んで、少しも好ましくない、それらの蓮華と、それらの蓮華の萼に坐禅をくんで坐り、幾百千の光明を放って輝いているところの、美しく妙なる姿をし、見て快い、それらの如来の身を知って、神々、人間の衆生たちが(合掌し)、礼拝し、供養する。
 それと同様に、わが家のよき息子たちよ、正しく完全なさとりをひらいた世の尊敬をうけるに値する如来もなた、自身のもつ超越的な般若の叡知(25)と、(それにもとづく)知識と、如来の眼をもって、貪り(貪)、怒り(瞋)、無知(痴)をはじめとする根源的執着(渇愛)と根源的無知(無明)(にもとづく)幾百千コーティと数知れぬ煩悩の蔽いに纏われたすべての命ある衆生たちを(見、また)、わが家のよき息子たちよ、それらの煩悩の蔽いに纏われた衆生たちの内部に、(その如来と)同じ知恵をもち、眼をもった如来があって、坐禅をくんで不動でいるのを見る。(如来はこのように、)煩悩によって汚された彼ら(衆生たち)すべての内部に、如来の本性(法性)が動くことなく(存在し)、(その衆生が)輪廻の(諸)道のいずれにあろうともなんら汚されないでいるのを見て、それら(衆生の内なる)如来たちは、私とそっくりだ、と言う。
 わが家のよき息子たちよ、如来の眼というものは、そのようにみごとなもので、(如来は)その如来の眼をもって、すべての衆生は如来をその内部に宿している(一切衆生如来蔵)と観察するのである。
(十二) わが家のよき息子たちよ、たとえば、(すべてを見とおす)天眼をもつ人が(いたとしよう。彼は)その天眼をもって、このように色あせ、このように悪臭を放つ、なえ萎んだ蓮華を見て、そのなかに、如来が、蓮華の萼に坐禅をくんで端坐していることを知り、如来の姿を見たいと欲して、その如来の像を洗い浄めるべく、色あせ、悪臭を放ち、なえ萎んだ蓮華の花弁を取り除く。
 それと同様に、わが家のよき息子たちよ、如来もまた仏眼をもって、一切の衆生は如来をその内部に宿していると観察して、それら衆生たちの、貪り、怒り、無知(をはじめとする)根源的執着と根源的無知(にもとづく)煩悩の蔽いを切り開くために、法を説くのである。それが完成すると、(衆生の内なる)如来たちはあるがままに安住する(26)。
 わが家のよき息子たちよ(27)、これは(あらゆることについて)妥当するきまり(真理)であって、如来たちが(この世に)出現しようと出現しまいと、これら衆生たちは、常に如来をその内部に宿している(*)。しかしながら、わが家のよき息子たちよ、なえ萎んだ(蓮華のごとき)煩悩の花弁に蔽われているので、それらの煩悩の蔽いを取り除き、(内なる)如来の知恵を浄化するために、正しく完全なさとりをひらいた世の尊敬をうけるに値する如来は、菩薩たちに法を説き、この所作を納得させる。そこで、これらの法にもとづいて修行に努めた菩薩たちは、(基本的)煩悩や付随的煩悩のすべてから自由となった暁には、正しく完全なさとりをひらいた世の尊敬をうけるに値する如来と呼ばれる一員となり、あらゆる如来のはたらきをもあらわすのである。
(十三) さて、そのとき、世尊は次の詩頌を述べられた。

@ たとえばなえ萎んだ蓮華の、その花弁がまだ蔽いとなって離れないのに、如来の(おわす)萼は汚されていない、とひとりの男が天眼をもって見るとしよう。
A その人はその花弁を開いて、そのなかに勝利者(ジナ)28)(如来)の身を見出す。(内なる)如来は煩悩によって変化せず、彼はあまねき世間の勝利者となる。
B それと同じく私もすべての衆生の、その(身体の)なかに安住する勝利者の身が、あたかも蓮華の花弁のような、幾千万の煩悩に蔽われているのを見る。
C そして私はそれら(煩悩)の除去のため、知者(菩薩)たちに常に法を説き、これらの衆生は仏になるはずと、勝利者になることを目ざして(彼らの)煩悩を浄化する。
D わが仏眼はかくのごとくであって、その(仏眼)でこれらの衆生がことごとく、勝利者の身として確立するのを見とおして、彼らを浄化すべく法を説く。

A 群蜂にかこまれた蜂蜜
(十四) さてまた、わが家のよき息子たちよ、たとえば、樹の枝にぶら下がっている丸い蜜蜂の巣があって、幾百千もの蜜蜂に守られており、なかには蜜がいっぱいつまっていたとしよう。そこで、蜜を得たいと望む人が、それらの蜂という生き物たちを、巧みな手段を用いて追い払えば、その蜂蜜は、蜂蜜としての用を果たすであろう。
 わが家のよき息子たちよ、それと同様に、すべての衆生もまた蜜房のようなものである。そこには、仏の本質(29)が、幾百千コーティもの(基本的)煩悩や付随的煩悩に蔽いかくされて存在していることが、(ただ)如来の知見によってだけ、知られる。
(十五) わが家のよき息子たちよ、あたかも、蜜房のなかに幾百千の蜂に守られて蜂蜜があることを、ひとりの知者が知るごとく、それと同様に、すべての衆生にもまた、幾百千コーティもの(基本的)煩悩や付随的煩悩に蔽いかくされた仏の本質がある、と(如来は)如来の知見によって知る。わが家のよき息子たちよ、その場合、如来もまた、(知者が)巧みな手段をもって蜂を追い払うのと同様に、彼ら衆生たちの、貪り、怒り、無知、自慢、高慢、隠蔽、憤怒、害心、嫉妬、吝嗇などの(基本的)煩悩や付随的煩悩を追放して、これらの(基本的)煩悩や付随的煩悩で汚されたものとならないよう、また侵されることがなくなるまで、彼ら衆生たちに対して、あれこれと法を説くのである。その(彼らの内なる)如来の知見が浄化されると、(彼らは)世間において、如来としてのはたらきをする。わが家のよき息子たちよ、私は、私のこの清浄な如来の眼をもって、このように一切衆生を観察するのである。
(十六) さて、そのとき、世尊は次のような詩頌を述べられた。

@ たとえばここに蜜房があって、蜜蜂どもに守られ、かくされているとしよう。蜜をほしい人がそれを見てその蜂どもを追い払うごとく、
A それとどうようにここでも蜜房ににているのが、三界にあるすべての衆生たちである。彼らには幾コーティもの煩悩があるが、それら煩悩の(蔽いの)内に如来が(おわ)すのを見て、
B 私もまた(彼らの内なる)仏を浄めるべく、蜂を追い払うように煩悩を除去する。何ゆえに幾コーティもの煩悩でそこなわれていると、ここに方便をめぐらして諸法を説くのか。
C 彼らが如来となった暁に、あまねく世間のために常にはたらき、弁舌をもって蜜蜂の容器のような、法を説くべきだからである。

B 皮殻に蔽われた穀物
(十七) さてまた、わが家のよき息子たちよ、たとえば米、大麦、稗その他の穀類は、その実が皮殻に守られていて、それは自身の皮殻から脱しないかぎり、食べたり、飲んだり、味わったりする用に耐えない。(そこで、)わが家のよき息子たちよ、食べたり、飲んだりなどの飲食の用を求める男や女たちは、(穀物を)搗いて、殻の蔽いや内皮を取り除く。
 わが家のよき息子たちよ、(それと同様に)、如来たちもまた、如来の眼をもって、すべての衆生に、如来の本質、仏の本質、自覚者(30)の本質が、煩悩の蔽いという外殻にかくれて存在するのを見る。わが家のよき息子たちよ、そこで如来はまた、煩悩の蔽いという外殻を取り除き、(彼らの内なる)如来としての本質を浄め、これらの衆生たちを、どのようにして、煩悩の蔽いという外殻から解放し、世間にあって、正しく完全なさとりをひらいた世の尊敬をうけるに値する如来と呼ばれるようにならせるかと考えて、衆生たちに法を説くのである。
(十八) さて、そのとき、世尊は次のような詩頌を述べられた。

@ たとえば雑穀類や稲の実であれ、稗であれ、あういは大麦であれ、それらが皮殻をつけているかぎり、そのかぎりでは(食)用をなさない。
A それらは搗いて皮殻を取り除けば、種々の多くの用を果たす。皮殻をつけたままのそれらの実は、衆生たちのために用を果たすことはない。
B それと同様に、すべての衆生の(もつ)仏の本質(31)(仏地)は、諸煩悩に蔽われていると観察して、私はそれを浄化し、(彼らが)仏(位)にすみやかに到達するように法を説く。
C すべての衆生には私と似た本性が、(幾)百の煩悩のなかにかくされてある。それを浄化してみんなが同様に、すみやかに勝利者となるべく(私は)法を説く。

C 不浄所に落ちた真金
(十九) さてまた、わが家のよき息子たちよ、たとえば、腐ったものや、ごみの捨て場所で、いやな臭いの汚穢(おわい)で満ちたところがあったとしよう。ある人がその傍の道を通り過ぎて、丸い金塊を落としたら、(その金塊は)悪臭に満ちた汚穢やごみの捨て場所のなかで、他の不浄物に押しこめられて、姿が見えなくなってしまった。(かくて)それは、十年、二十年、三十年、四十年、五十年、百年ないしは千年にもわたって、そこに(落ちたままで、)不浄物によって変わる性質のものではないけれども、なんぴとの役にも立たなかった。
 わが家のよき息子たちよ、そこで、ある神が天眼をもってその金塊を見て、だれかに向かい、「汝よ、ゆけ。これは最勝の宝たる金が、腐ったものやごみのたぐいに押しこめられているのだ。それを(洗い)浄めて、金の用を果たさせよ」と命じたとしよう。
 わが家のよき息子たちよ、腐ったものやごみのたぐいというのは、それは種々さまざまの煩悩の同義語である。金塊というのは、それは不壊なるものの同義語である。天眼をもつ神というのは、それは、正しく完全なさとりをひらいた世の尊敬をうけるに値する如来の同義語である。
 わが家のよき息子たちよ、このように、正しく完全なさとりをひらいた世の尊敬をうけるに値する如来もまた、すべての衆生たちに如来の不壊なる本性があるので、(それを蔽いかくしている)腐ったものやごみのごとき煩悩を除去するために、衆生たちに法を説くのである。
(二〇) さて、そのとき、世尊は次のような詩頌を述べられた。

@ たとえばある人の所有する金塊が、ごみのたぐいのあいだに落ちたとき、それはそこに少なからぬ年月にわたって、そのままあっても不壊の性質を有している。
A 神が天眼でそれを見て、浄めるために他の人に告げる。「ここに勝宝たる金がある、浄化すればそれは役立つべし」と。
B 同様に私はすべての衆生もまた、久しく常に煩悩に圧迫されているのを見て、彼らには煩悩が一時的に付着しているのだと知り、その本性を浄めるように(32)方便をもって法を説く。

D 貧家の地下にある宝蔵
(二一) さてまた、わが家のよき息子たちよ、たとえば、ある貧乏人の家のなかの倉庫の真下の地中に、宝物や金でぎっしりつまった、倉庫の広さほどもある大宝蔵が、七人(分の高さ)ほど(深く)土をかぶせた下に埋まっているとしよう。その宝蔵は、その貧乏人に向かって、「人間よ、われこそは大宝蔵にして、土に蔽われて(ここに)あるぞよ」などとは言わない。すなわち、大宝蔵は心の性質によって思惟するものではないし、家の主たるかの貧乏人は、その上を歩きまわりながらも、貧しい心で忖度して、地下にかの大宝蔵のあることをつゆ知らず、聞かず、また、見ない。
 わが家のよき息子たちよ、それと同様に、すべての衆生たちの愛着する、家にも比すべき心のはたらき(作意さい)の背後に、(十種の)力、(四種の)おそれなき状態(無所畏)、(十八種の)仏に特有の徳性(不共法ふぐほう)、(その他)一切の仏の徳性(33)(法)の大庫蔵たる如来蔵があるのに、彼ら衆生たちは、色かたち、音声、香り、味、触覚などにとらわれて苦悩するので、生死の世界に輪廻し、それらの徳性の大宝蔵(法蔵)のことを聞かず、まして手にすることもできず、また、浄化すべく努力することもない。
 わが家のよき息子たちよ、そこで、如来は世間にあらわれて、菩薩の内に、このような特性の大宝蔵(があること)を正しく示現する。彼ら(菩薩たち)はまた、かの徳性の大宝蔵のことを信じて(34)、(土を掘って宝蔵をとりだすように)掘り下げる。かくて、世間にあって、正しく完全なさとりをひらいた世の尊敬をうけるに値する如来と呼ばれて、偉大な徳性の宝蔵となったのち、衆生たちのために未曾有の因相(35)と、比喩と、はたらきの由来と目的とを説くところの、汚れの付着しない弁才をそなえて、(十種の)力、(四種の)おそれなき状態、(十八種の)仏に特有の徳性などの多くの徳性の庫蔵たる、大宝蔵の施主となる。
 わが家のよき息子たちよ、そのように、正しく完全なさとりをひらいた世の尊敬をうけるに値する如来もまた、きわめて清浄な如来の眼をもって、衆生のすべてをこのように見て、如来の知恵、(十種の)力、(四種の)おそれなき状態、(十八種の)仏に特有の徳性(など)の庫蔵を浄化すべく、菩薩たちに法を説くのである。
(二二) さて、そのとき、世尊は次のような詩頌を述べられた。

@ たとえば、貧乏人の家の地下に、宝物や金に満ちた宝蔵がある。それには動きも自慢する心もないので、「私はあなたのものです」とも言わない。
A そのときかの家主たる衆生は、貧乏になっても(その宝蔵に)気づかず、だれもそれについて知らせなかったので、その貧乏人は(そのまま)その上に住みつづけたとしよう。
B それと同様に私は仏の眼をもって、貧乏人にも似たすべての衆生たち、彼らには大宝蔵があり、動くことなき善逝(37)の身があると見る。
C それを見て私は菩薩に向かい、「そなたは私の知恵の宝蔵をもつからには、貧しいことはなく世間の主となり、無上なる法の宝蔵となるべし」と説く。
D だれであれ私の所説に心を傾けるものたち、それらの衆生にはすべて宝蔵がある。だれであれ(それを)信じてみずから努力すれば、彼はすみやかに最勝の菩提を得るであろう。

E 樹木の種子
(二三) さてまた、わが家のよき息子たちよ、たとえばアームラ樹の果実であれ、ジャンブ樹の果実であれ、ターラ樹の果実であれ、松の実(38)であれ、(すべて)外皮の蔽いのなかに芽となるべき種子があって、壊れることなく、それが地に落ちると、(やがて)大樹王となる。
 わが家のよき息子たちよ、それと同様に、如来もまた、世の中に住するものは、貪り、怒り、無知ないし根源的執着や根源的無知といった煩悩の外皮に蔽われているのを見る。ここで、貪り、怒り、無知ないし根源的執着や根源的無知といった煩悩の外皮のなかに、(まだ)胎児のごとき状態にあるかの如来の本性(39)は、衆生(40)と名づけられる。そのうちで、(煩悩の勢いが)鎮静したものは、涅槃(41)にはいる。(そして、)根源的無知という煩悩の殻をよく浄め(除く)ので、衆生界中で知恵の大きな集まりたるものに到達する。その、衆生界中で知恵の大きな集まりたるもののうちの最勝者、それは如来と同じように(法を)説いて、神々を含めた世間のものから仰ぎ見られ、如来という名を得る。わが家のよき息子たちよ、ここに如来は、このように観察して、菩薩大士たちに、如来の知恵を理解させるべく、その意義を教え示すのである。
(二四) さて、そのとき、世尊は次のような詩頌を述べられた。

@ たとえば松の実はすべて、内に松の胚芽がある。ターラ樹、ジャンブ樹(など)すべてにも(同様に)あって、内なる果が植えられれば(芽が)生えてくる。
A それと同様に、法を自在に支配するもの、世の導師(たる如来)もまた、松の種に比すべき一切の衆生たち、彼らすべてのなかに善逝の身があると、汚れなき最勝の如来の眼をもって観察する。
B かの不壊なる庫蔵は衆生と呼ばれる。無知のうちに住するが、慢心なく三昧を得て安定し、やがて寂静となる。そこでは動くものは何一つない。
C あたかも大きな幹も種子より生まれるごとく、これら衆生たちも、どうすれば目覚め、神々を含めた世間の救護者となるかと(私は考え)て、(彼らを)浄めるために教えを説く。

F ぼろきれにくるまれ、道に捨てられた仏像
(二五) さてまた、わが家のよき息子たちよ、たとえばある貧しい男が、七宝でできた掌ほどの大きさの如来の像を所有していたとしよう。そのあと、その貧しい男は、その如来の像を携えて、砂漠の荒野を越えて旅しようと思い、なるべく他人(の眼)に触れず、盗人に持ち去られないようにと、その(仏像)を、いやな臭いのする数片のぼろきれでくるんだ。そのあと、その男はその砂漠の荒野で、ある過失によって、臨終の時を迎えた。そのとき、ぼろきれにくるまれた、七宝でできた如来像もその道端に捨て置かれてあったが、商人たちも(だれひとり)それに気づかずに、踏みつけて行ってしまった。(そのうち、)このいやな臭いのするぼろきれでしっかりくるまれた包みは、風にあおられると、そこから深いなものをも示した。その荒野に住む神々は、眼でもって(それを)観察し、一群の他の人たちに教えて、「みなのものよ、このぼろきれの包みのなかに、宝石でできた如来の像がある。世間のすべてのものに礼拝されるにふさわしいものだから[→仏像の価値を認めている]、それをとりだしなされ」と言う。
 わが家のよき息子たちよ、それと同様に、如来もまた、すべての衆生が、煩悩の蔽いに纏われて、咎められるべきものとなり、長夜にわたって、(生死)輪廻の荒野に常にさまよっているのを観察する。そして、わが家のよき息子たちよ、種々の煩悩の蔽いに纏われた衆生たち――最低、畜生の胎に生まれたものたちさえ――のうちに、私とよく似た如来の身があるのを見る。わが家のよき息子たちよ、ここにおいて、如来は、いかにして(衆生の内なる)如来の知恵にもとづく観察が、煩悩から離れて清浄となるか、いかにして、私と同じようにすべての世間の衆生に礼拝されるに値するものとなるかと考えて、煩悩の蔽いに纏われた(状態)から解放させるべく、すべての菩薩のために法を説くのである。
(二六) さて、そのとき、世尊は次のような詩頌を述べられた。

@ たとえば鼻につく悪臭に包まれた、宝石でつくられた善逝(如来)の像が、幾重にもぼろきれをまかれて、道の途中に捨てられ放置されていた。
A 天眼でもってそれを見て、神は他の人に告げる。これは宝石でできた如来(の像)である。幾重にもくるんでいるこのぼろきれをすみやかに開け。
B それと同様に私の天眼はこれに似ていて、その眼で、このすべての衆生もまた、煩悩の蔽いに纏われていたく苦悩し、輪廻の苦しみに常にさいなまれているのを見る。
C 私はまた煩悩の蔽いの内部で、勝利者の身が禅定にはいり、動くこともなく変わることもないのに、それをだれも解放してやらないのを見る。
D 私はそれを見て勧告する。「聞け、最勝のさとりにあるものたちよ、衆生たちの本性は常にこのようである。ここに(煩悩のぼろきれに)くるまれた勝利者がいる」
E 善逝によって知恵を開発されて、すべての煩悩が鎮まったとき、そのときこの(衆生)は仏の名を得、神々や人間は心を喜ばせる。

G 貧女が転輪王子を懐胎する比喩
(二七) さてまた、わが家のよき息子たちよ、たとえば身寄りのない女で、顔色悪く、いやな臭いがして人に嫌われ、いまにも死にそうな、醜くて化物のような人が、救貧院に住んでいたとしよう。彼女は、そこに住んでいて懐妊し、将来必ずや転輪聖王となるであろうような胎児(42)が、彼女の胎中に宿っているのに、彼女の胎中のその胎児に対し、「私のおなかにいるこの赤ん坊はどんな子だろう」というように考えることもない。そのときは、自分の胎中に(赤ん坊が)いるかどうかということさえ考えず、それどころか、彼女は貧乏な衆生だったので、気はなえ、(ただもう)下劣なもの、弱小なものとの思いにつきまとわれ、顔色も悪く、悪臭をただよわせながら、救貧院に住んで、日を送っていた。
 わが家のよき息子たちよ、それと同様に、すべての衆生たちもまた、救護者もなく、生死輪廻の苦になやまされながら、救貧院にも比すべき輪廻生存の住処(すみか)に住んでいる。そのばあい、衆生たちには、如来の血統(43)(如来種姓(しゅしょう))があって、(彼らの)内に宿っているのだが、彼ら衆生たちは(それを)知らない。わが家のよき息子たちよ、そこで、如来は、衆生たちがみずから軽蔑することのないように、次のように法を説く。
「わが家のよき息子たちよ、そなたたちは自分で熱情を失わないよう、しっかりと精進努力してもらいたい。また、そなたには如来が住んでいて、時あって姿をあらわすであろう。そのときには、そなたたちは菩薩の一員に加えられて、もはや衆生と呼ばれることはなくなるであろう。さらに、ついで、仏という名を得て、もはや菩薩とも呼ばれなくなるであろう」と。
(二八) さて、そのとき、世尊は次のような詩頌を述べられた。

@ たとえば身寄りのなくなった、顔色悪く姿醜い愚かなひとりの女が、救貧院に住んでいて、時あってそこで懐妊したとしよう。
A 彼女の胎内には必ずや、大転輪聖王として、多くの宝をそなえて威徳すぐれ、四大州の主たるべきものが宿っている。
B 愚かなその女はこのように、(未来の王が)胎中にありとも否とも知らず、救護院に住みながら、貧しいと思いつづけて日を送る。
C それと同様に私はすべての衆生もまた、身寄りなくして苦(を与えるもの)に逼迫され、三界のわずかの楽しみに安住しているが、その内部に胎児のごとき(如来の)本性があるのを見る。
D そのようなさまを見て菩薩に向かい、「世の中に役立つものが胎中にあるのに、すべての衆生は本性を知らずにいるゆえに、自分は劣っているとの思いをいだいてはならない」と説く。
E そなたたちはしっかり精進努力せよ。さればみずからの身は久しからずして勝利者となるであろう。時あって菩提の座を獲得してのち、幾千万の衆生を解脱させるであろう。

H 鋳型のなかの真金像
(二九) さてまた、わが家のよき息子たちよ、たとえば、馬の形像なり、象の形像なり、女の像なり、もしくは男の像なりを蝋でつくり、鋳型のなかに置いて土をかぶせて、(火にかけて)溶かし、(蝋が)溶け出したあとに金を溶かし込む。溶かし込んだものがなかにいっぱいになってから、次第に冷却すると、均質になったそれらの形像はすべて、外の鋳型は黒くて汚いのに、なかのものは金でできたものとなる。その後、工匠あるいは工匠の弟子が、そのうちどの像であれ、冷えたことが知られたものから順次に鋳型を槌でこわすその瞬間、内なる金でできた像は清浄となる。
 わが家のよき息子たちよ、それと同様に、如来もまた、如来の眼で、すべての衆生が鋳型のなかの像のごとくであり、外なる(基本的)煩悩や付随的煩悩の蔽いの内側の空間は、仏の徳性で満ちており、汚れない知恵の宝をもった如来が美しくはいっているのを見る。わが家のよき息子たちよ、そこで如来は、すべての衆生をこのように観察してから、菩薩たちのあいだに行って、このような法門を説き示す。そうすると、(煩悩が)鎮まり、清涼となった菩薩大士たちは、(自己の内なる)如来の知恵という宝物を浄化させるべく、金剛杵のごとき如来の教えの力で、外なるすべての煩悩を打ち砕く。
 わが家のよき息子たちよ、工匠というのは如来の同義語である。わが家のよき息子たちよ、正しく完全なさとりをひらいた世の尊敬をうけるに値する如来は、仏眼をもって、すべての衆生をこのように観察して、それらの煩悩から解脱せしめ、仏の知恵を確立させるべく、法を説くのである。
(三〇) さて、そのとき、世尊は次のような詩頌を述べられた。

@ たとえば形像は外側を鋳型で蔽われ、なかに空間があって何もないところに、(金などの)宝が(溶かされ)一杯に埋まると、幾百、幾千となくできあがる。
A 工匠はよく冷却したのを知って、この宝でできたものをこのように、清浄な像とするのにどんな作業をなすべきかを考えて、形像を蔽っている鋳型を壊す。
B それと同様に私は一切衆生もまた、金像が鋳型にかくされているごとく、外には皮のような煩悩の蔽いがあるが、内には仏の知恵があると見る。
C その(衆生たちの)うち菩薩たるものは、(煩悩が)鎮まって清涼となったものたちで、彼らはそれら煩悩を残りなく除き、法という道具をもってそれを打ち砕く。
D 宝像が見て美しいように、ここに清浄となったジナの子はだれであれ、十力などをもって身体を満たし、神々を含めた世間において供養される。
E 一切衆生を私はそのように見、菩薩を私はそのように見る。(彼らは)かくて清浄となり善逝となる。(その)善逝たちは仏眼を示現する。




第四章 経典受持の功徳
(三一) そのとき、世尊は金剛慧菩薩に仰せられた。
 金剛慧よ、わが家のよき息子たちであれ、娘たちであれ、また、在家の信者であれ、出家の修行者であれ、なんぴとでも、この「如来蔵の法門」をうけ、保ち、読み、暗誦し、書写して44)、他の人々にも詳しく講釈し、正しく説き示すならば、その功徳はきわめて多く生ずるであろう。
 また、金剛慧よ、ある別の菩薩がいて、如来の知恵を完成すべく努めるにあたり、それぞれの世界のそれぞれの仏に供養しようとして奇瑞をあらわして、このような禅定にはいり、禅定の力を身につけて、幾百千コーティもある、ガンガー河の砂の数よりも多い仏国土において、ガンガー河の砂よりも多くの諸仏・世尊、菩薩たちとともにあり、弟子衆とともにある如来のそれぞれのために、季節に応じて、広さ一ヨージャナ(45)平方、高さ十ヨージャナあり、あらゆる種類の宝石でできており、天界の美香をもち、種々の花をちりばめ、すべて非のうちどころのない家具をそなえた快適な楼閣を、ガンガー河五十流の砂の数の幾百千倍ほども毎日のようにつくり、百千(カルパ)46)ものあいだこのような供養をした(としても、それ)よりも、わが家のよき息子であれ、娘であれ、だれか、菩提心を起こして、この「如来蔵の法門」の中の一つの比喩だけでも身につけ、書写するものがあれば、金剛慧よ、その形成される功徳(の量)に比べて、前の(楼閣をつくる)功徳などは、百分の一(47)、千分の一、百千分の一(にも及ばず)、計量も、分割も、算数も、比喩も及ばず、比較することもできない (*)。
 さらにまた、金剛慧よ、ある菩薩が仏の法を求めて、それらの仏・世尊たち、ないしおのおのの如来たちに対し、百千(カルパ)にもわたって、マンダラヴァの花百千(カハーラ)48)を散華するのに対し、(他方では)金剛慧よ、比丘あるいは比丘尼、信者の男あるいは女があって、菩提心を起こし、この「如来蔵の法門」を聴聞し、掌を合わせて、「随喜します」との一語だけでも述べたとするならば、金剛慧よ、その形成する福徳や善根と比べて、前述の花弁や華鬘をもって、如来のために積んだ福徳の形成や善根の形成は、百分の一、千分の一、百千分の一(にも及ばず)、計量も、分割も、算数も、比喩も及ばず、比較することもできない。
(三二) さて、そのとき、世尊は次のような詩頌を述べられた。

@ あるひとりの衆生が菩提を願い、この(経)を聴聞し、うけ、書写し、あるいは経巻に仕立て、恭敬心をもって一詩頌だけでも講釈し、
A あるいはこの「如来蔵(の法門)」を聴聞して、この最勝の菩提を求めるならば、いかばかりの福徳の集まりが生まれるか、その功徳をここで比べてみよ。
B この最勝の神通力によって、勇者が千劫にもわたり、十方(の世界)にある人中の主(仏)たちや、その弟子衆に供養をなし、
C ガンガー河の砂の数のコーティ倍よりももっと多く、思議も及ばないほどの、宝石でできたすぐれた宮殿を、それぞれの師(仏)の世界につくり、
D その高さ十ヨージャナ、縦横おのおの一ヨージャナあり、塗香と焼香をよくそなえ、そのなかに宝石でできた椅子を置き、
E 絹や浄布を百枚も敷いた、椅子その他の座席をも、ガンガー河の砂の数のごとく限りなく、一々の仏に捧げては、
F ガンガー河の砂の数より多い諸世界の、(それぞれの)一世界に(ひとりずつ)(おわ)す、それらの勝利者たちにもことごとく同様に、捧げて恭々しく供養するに比し、
G あるひとりの知者がこの経を聴聞し、ただ一比喩でもよくうけて、堅持して人に説くならば、これは前者より福徳の集まりが多大である。
H 勇者(菩薩)がもつ福徳も、これに比べれば(ほんのわずかで)分割も比喩も及びがたい。衆生たちすべての帰依するところとなり、彼はすみやかに最勝の菩提をさとるであろう。
I 知恵ある菩薩にして、もしすべての衆生の内に、この如来の胎児のごとき本性のあること(49)を思惟するならば、彼はすみやかに、みずからさとれるもの、仏となるであろう。




第五章 常放光明如来と無辺光菩薩――金剛慧菩薩の来歴

常放光明如来

(三三) 金剛慧よ、次の方法によっても、上に述べたごとく、この法門が、どんなに菩薩大士たちに、一切知者(如来)の知恵が完成するという利益を与えるかを知るわけである。
 金剛慧よ、かつて(50)、広大・無量で思議も及ばず、比べるものもなく、ことばであらわせない無数劫(アサンキャカルパ)よりもさらにはるか遠い過去の世、まさにそのとき、その折に(*)、常放光明(ニトヤラシュミプラムクタ)という、(51)正しく完全なさとりをひらいて世の尊敬をうけるに値する如来、学識・徳行ならびすぐれ、よく(理想世界に)いたり、世間のことを知り、人を調練することが巧みで、最上(の師)、神々と人間たちの教師たる尊き仏(*)が世にあらわれた。金剛慧よ、(その如来は)なぜ常放光明(すなわち、いつも光明を発する)と名づけられているのであろうか。金剛慧よ、かの尊き常放光明如来は、まだ(さとりを求めて修行する)菩薩であったとき、母の胎内にはいるやいなや、彼は母胎中にありながら身体から光を発し、東方にある十仏国土の原子(微塵)の数に等しい百千世界(52)を光明をもっていつも蔽い、同じようにして、南・西・北・東南・南西・西北・北東・下方・上方にある十仏国土の原子の数に等しい百千世界を、光明をもって常に蔽った。すなわち、その菩薩の、喜ばしく、美しく、たいそう喜ばしく、人を楽しませる身光(53)は、以上(述べた)ほどの百千世界を光明でもって常に蔽ったのである。
 金剛慧よ、それらの百千世界において、母の胎内にいるその菩薩の光に触れた衆生たちは、だれでも大威光をもち、容色をもち、記憶力・判断力・認識力をもち、弁舌の才をもつものとなった。それらの百千世界においては、地獄の衆生であれ、畜生のたぐいであれ、あるいはヤマの世界やアスラたちのなかに生まれたものたちであれ、すべての衆生は、その菩薩の光明に照らされただけで、それぞれの生存していた(輪廻の)道から撤退して、人間や神々のあいだに生まれかわった。彼らは、(その菩薩の出す光との)接触だけによって、この上なく完全なさとり(への道)からあともどりしなくなったのである。さらにまた、彼ら不退転なものたちにその光が触れると、たちどころに、彼らはみな、もろもろの存在は本来不生であることを認識し、うけいれること(無生法忍)を得た(54)。また、「五百功徳品(55)」と名づけるダーラニー(陀羅尼)をも獲得した。
 その、母の胎内にある菩薩の身光に触れたもろもろの百千世界はすべて、瑠璃宝でできたものとなり、金の糸で碁盤の目(56)のように綾どられた。その碁盤の目のすべてが、また、花・果・香・色をそなえた宝樹を生じた。それらの宝樹は風に吹かれ、風にゆれると、さまざまの耳に快い音声を発した。すなわち、「(ブッダ)」という音声、「(ダルマ)」という音声、「(サンガ)」という音声、「菩薩」という音声、菩薩の(五[57])力、(五)根、(七つの)菩提の支分、解脱、三昧(サマーディ)等至(サマーパッティ)など(の音声)である。それらの宝樹の出す音声によってまた、それらの百千世界のすべては、歓喜、大歓喜を得て、落ちついた。そして、それら一切の仏国土には、もはや、地獄の衆生、畜生のたぐい、ヤマの世界やアスラの眷属などはいなくなってしまった。また、その母胎内にある菩薩は、それらの衆生たち(の前)に、月輪のような姿を見せた。(すると、衆生たちは)胎中にある(その菩薩)に、日に三度、夜三度ずつ、合掌して礼拝した。
 金剛慧よ、そのようにかの菩薩が孕まれ、出生し、さとりをまのあたりにひらくにいたるまで、その菩薩の身光はたえず光りつづけ、まのあたりにさとりをひらいてからのちも、その世尊の身からは、たえず光があらわれつづけた。同様にして、その世尊の身光は、完全な涅槃にはいられるまでも光りつづけた。(それのみでなく、)その如来が完全な涅槃にはいって、遺骨が塔に安置されたあとでもまだ、その身光はたえず光りつづけたのであった。金剛慧よ、こういうわけで、その世尊は、常放光明という名号を、神々や人間たちから奉られたのである。
(三四) また、金剛慧よ、その世尊、(すなわち、)正しく完全なさとりをひらいた世の尊敬をうけるに値する常放光明如来がはじめて明らかなさとりをひらいたとき、千人の眷属をひきつれた、無辺光(アナンタラシュミ)(すなわち、はてしない光をもつもの)という名の菩薩が出現した。金剛慧よ、その無辺光菩薩は、正しく完全なさとりをひらいた世の尊敬をうけるに値する尊き(58)常放光明如来に向かい、この「如来蔵の法門」について質問した。そこで、正しく完全なさとりをひらいた世の尊敬をうけるに値する尊き常放光明如来は、彼ら菩薩たちを歓迎し、うけいれるべく、一つの座に坐ったまま、五百大劫(マハーカルパ)ものあいだ、この「如来蔵の法門」を詳しく解説した。かの(如来)はこの「如来蔵の法門」を、知られるかぎりのことばを用い、教えの実践やことばの説明や幾百千の比喩によって、彼ら菩薩たちに詳しく解説したので、十方にある、十仏国土の原子の数ほどの諸世界においても、(菩薩たちは、この法門を)ほとんど難儀もせずに理解した。
 金剛慧よ、そのとき、この「如来蔵の法門」(を聴聞し)、あるいは少なくとも如来蔵という名だけでも聞いた菩薩たちは、だれでもみな、最終的に善根を完成し、そのような徳性で身を飾って(59)、正しく完全なさとりを明らかにひらいた。ただし、四人の菩薩だけは例外であった。
 金剛慧よ、そのとき、その折に無辺光と呼ばれていたかの菩薩というのは、だれか他人だとそなたは思うかもしれないが、そうではない。金剛慧よ、そなたこそが、そのとき、その折に無辺光と呼ばれていたのだ。かの世尊が説法されたときにもなお、この上なく正しい完全なさとりを明らかにさとらなかった四人の菩薩たちとは、だれだれであろうか。それはすなわち、文殊(マンジュシュリー)大勢至(マハースターマプラープタ)観自在(アヴァローキテーシヴァラ)と、そなた金剛慧(ヴァジラマティ)との四人なのだ。
 金剛慧よ、そのように、この「如来蔵の法門」を聴聞しただけでも、菩薩大士たちに仏の知恵が成就するほどに、利益は大きいのである。
(三五) さて、そのとき、世尊は次のような詩頌を述べられた。

@ 量り知れぬほどの(カルパ)も以前の過去の世に、常放光明なる世尊が出現し、その身から光があらわれて、幾千コーティの(仏)国土を照らし出した。
A 勝利者がはじめてさとりをひらいたと知って、無辺光菩薩はそのとき、その勝利者、よく(理想世界に)いたった自在者に請うた。「この経を常に詳しく説きたまえ」
B だれであれ、その勝利者の所説のうちで、この経を指導者から親しく聞いたものは、すべてすみやかに最勝のさとりを得た。ただ四人の菩薩たちを除外して。
C (それは)大勢至・観自在と、文殊菩薩が第三で、そなた金剛慧が第四である。そのとき彼らはこの経を聞いたのである。
D そのとき勝利者に質問して、その(経を)自在にした善逝の子、無辺光菩薩こそは、当時のそなた金剛慧自身である。
E 私もまたかつて前世の修行を積んだ折、よく理想世界に達した師子幢(シンハドヴァジャ)(如来)から、この経の名を聞いた。恭敬して聴聞し合掌した。
F このよくつとめた行為によって私は、最勝のさとりをすみやかに獲得した。それゆえ知恵ある菩薩たちは、常にこの最勝の経を受持すべし。

アーナンダの質問

(三五a) 金剛慧(60)よ、わが家のよき息子であれ、娘であれ、業障(ごっしょう)(すなわち、行為上の欠陥から生じた障害)につき纏われているものたちはだれでも、この「如来蔵の法門」を聴聞するか、あるいは伝承をうけ、暗誦し、(他人に)説き示すかするならば、この法門を聞き、伝承をうけ、暗誦し、解説し、書写するなど(の善行)によって、たいした難儀もなく、その業障は浄められるであろう。
 そこで、アーナンダ尊者は世尊に向かい、次のように申し上げた。
「世尊よ、(如来の)家のよき息子であれ、娘であれ、業障につき纏われることなく、この法門にもとづいて修行するものたちは、どれほど多数の尊き仏から、多くの法を聴聞したならば、(その)法を(他の人々に)説くべく、出家(修行J)するのでしょうか」
 世尊は仰せられた。
 アーナンダよ、わが家のよき息子、あるいは娘で、(ひとりの)仏の説法をすべて受持しようとして出家する人たちもいる。アーナンダよ、わが家のよき息子、あるいは娘で、二百の仏、三百、四百、五百、千、二千、三千、四千、五千、六千、七千、八千、九千、一万、百千の諸仏から、ないしは百千コーティの諸仏から、その説法のすべてを受持するために出家する人たちもいる。アーナンダよ、菩薩であって、この法門を身につけ、読み、他の人々にも広く詳しく教え、本につくって解説するものは、次のように思惟する。「私はいまこそ、この上なく正しい完全なさとりを得たい」と。(このように)発心したものは、いまそうであるように、そのとおりに、神々、人間、アスラたちを含めた世間のものたちから礼拝されるにふさわしく、供養をうけるにふさわしいものである。
 さて、そのとき、世尊は次のような詩頌を述べられた。
(三六)
G 菩薩にしてこの経を聴聞してのち、自分は最勝のさとりを得たいと思うもの、その手にこの経典をもつもの、彼こそいまや世間の礼拝をうけるに値する。
H 彼は世間の保護者・指導者であり、教師・大教師と讃えられるに値する。この経典に手にするもの、彼はこのように法王と呼ばれる。
I その手にこの経典をもつもの、人中の雄(61)、法のたいまつをもつもの、彼は日月のごとく仰がれるにふさわしく、世間の保護者(世尊)のごとく礼拝すべきよりどころである。




第六章 結び

(三七) 世尊が以上のように仰せられると、金剛慧菩薩、およびその他すべて(の菩薩たち)を含めた菩薩の集会と、彼ら偉大な仏弟子たちと、(比丘などの)四衆と、神々、人間、アスラやガンダルヴァたちをも含めた世間のものたちは、みな大喜びして、世尊の説かれた教えをほめ讃えたということである(62)。

 聖なる「如来蔵」と名づける大乗経典おわり(63)。



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中央公論社『如来蔵系経典』より参考資料として抜粋・編集
無断転載禁止
初版:2003年5月20日

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