解深密経 第五巻
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解深密經

解深密經卷第五

大唐三藏法師玄奘奉 詔譯
如來成所作事品第八

(四) 仏の教説

@ 【普遍の仏身】
 その時、文殊師利菩薩は釈尊に問う。
 文殊 「世尊よ、世尊が仰せられる普遍の仏身とは、如何なるものをいうのですか」
 世尊 「菩薩が、前に述べた解脱行によって、主観客観のすべてに於いて、迷いと障りとを除いて、ただ一、絶対真実の実在を体現する、それが普遍の仏身である。それは、思想や言語で説明し得る範囲を超え、生死の分別を絶つことによって、さらに迷妄の生涯を作るすべての原因を、滅しつくすところに顕われる常住不変の実体である。つまり仏身は誰でも得られる。然しただ迷妄の現象に、愚かな思惟分別を起して迷いの上に迷いを重ね、永恒に生死の原因を断つことが出来ぬから、仏身は得難いのである」
 文殊 「世尊よ、小乗の人たちが己れの感覚を滅したり、哲理を推究することによって得る解脱、寂滅の境界も、また普遍の仏身といえますか
 世尊 「それは仏身ではない。解脱身というものである。もちろん、すべての迷いや障りから解脱することには、小乗の證悟も大乗の證悟も違うことはないが、ただ大乗の者の證悟は、解脱すると共に、萬有の解脱に及ぼすあらゆる力を示してゆくのである。従ってここに利己的な寂滅の悟りを越えて、萬有と相関し、萬有を統摂する、尊い真実身が体現されるのである」
 文殊 「世尊よ、ある世界に仏が現われるというのは、如何なるわけですか」
 世尊 「すべての現象が、過去の行為の結果によって現われるのと同じように、すべての現象の迷妄を教え、すべての生類を、生死の悩みから救い出そうとする真実の力が、自然に現われて、色々の世界に応現して、化身(かりのすがた)を示されるのである」

A 【教説の区分】
 文殊 「その応現の仏は、どういう形式や順序で、教えを説き示されますか」
 世尊 「先ず大体に経典と、戒律(制規)と、論集(区分)との三に分たれる。

 (一) 経
教を宣説する経典の説示の形式と、成立に、四種、九種、二十九種の別がある。
四種とは、聴聞、帰趣、修学、菩提(覚)。
九種とは、一にすべての生類を摂め、二にその教えを受け持つことにつき、三に萬有が生起する原因につき、四に現象につき、五にその浄と穢とにつき、六にその差別につき、七によく説き、八によく聴き、九に一切と倶なる、を言う。
二十九種とは、一に五感の上に迷を起し、二に迷を起すが故に万象在りとし、三に万象の中に我執を起し、四に万象実在の想を起して、共に生死流転の(もと)を作り、五に対境に於いて、身は不浄、感受するところは苦、心は無上、事象は無我と知って、浄、楽、我、常の妄見を破り、六にその境界を保ってよく勤め、七に心、これによって安らかに、八に真理を楽しみ、九に一切の苦を超越する方法を明にし、十より十三に於いては、万象起滅の四原理、即ち物質、精神、心霊の三界の中の、惑業の集(因)と、現世の苦(果)との迷界の因果と、修道(因)と、涅槃寂滅の境地(果)との悟界の因果とを、順次に断ち、行い、證し、十四に絶対智を起して、その證を堅固ならしつつ十五、十六に相対智による認識作用とその対境、十七にその中に於いて理の迷いを断って、未だ事象の迷いを断たず、十八より二十に於いて、その中間に於ける散乱の心と、散乱の心を断つと、不散乱の事象とを示し、二十一に感覚(物質)世界に於ける理の迷いを断ち、二十二に意識(精神)、観念(心霊)の世界の理に迷いを断って、共に永恒不変の道に入り、二十三に更に堅牢の境を作り、二十四、二十五に於いて、空間的、時間的に一切の智を尽くして、絶対無生の智を證し、二十六に無象寂静の境を望んで真如を観じ、二十七にこれにより一切の認識智慧を超えて、微細なるアーラヤ識のみとなり、真如を体得して涅槃の境に入り、二十八、二十九に於いて、すべての外道の学解を超越し、行なわざるを明す等である。
 (二) 律
次に教団の制規、即ち『戒律』については、七種の形式によって説かれる。一に戒を守る軌則、二に悪法に随い、三に戒に随うことを説き、四に凡夫の有犯、五に菩薩の無犯、六に所犯の出離、七に戒律を超越することを説く。
 (三) 論
次に『論』については、十一種の形式によって説かれている。
一に相対の世界、即ち『我執』と、『遍計所執』との自性と、万象の作用について。
二に真如、即ち七種の真如について。
三に一切に遍き実在性について。
四に現象の差別について。その中にまた諦実、安住、過失、功徳、理趣、流転、道理、総別の、八種の別がある。
一に『諦実』とは萬有の真実性。
二に『安住』とは有情の我性なる『遍計所執』の自性を安立し、あるいは一向、分別、反問、置記あるいは隠密と顕了との記別の差別と安立し、
三に『過失』とは誤られたる不浄の境界の過患を説き、
四に『功徳』とは正しき清浄の境界の功徳を説き、
五に『理趣』とは真義、證得、教導、二辺遠離、不可思議、意趣の六種の別を説き、
六に『流転』には、過去、現在、未来の三世に亘った存在に対する生、異滅の三相と、一切の相対界を生ずる四種の因縁、即ち一切の差別界を生ずるとき、親しく自体を構成する『因縁』、二に前に滅した作用が、直に次の縁を開き導く『等無間縁』、三に縁じ現したる境界を更に因縁とする『諸縁縁』、四に以上の三縁の外の、一切の境界が、あるいは積極的に、あるいは消極的に、助縁となる『増上縁』とを説き、
七に『道理』には、観待、作用、證成、法爾の四種がある。
一に『観待道理』とは、因あるいは縁によって、現象を生ずる作用と、それに従う言説とを起すをいい、二に『作用道理』とは、その因あるいは縁によって現象を生じ己ってその業用(はたらき)を作すをいい、三に『證成道理』とは、因あるいは縁によって、起し、説き、示すところを、よく成立せしめて、対者をして正しく覚悟せしめるをいう。而してこの證成道理に、五種の正しい論理と、七種の邪った論理とがある。
 五種の論理とは、一に『現見所得の相』。すなわち、一切を生ずる作用の要素は無常であり、苦であり、従ってそれによって現わされた萬有は無我であると対境のありのままを知ること、二に『依止現見所得の相』とは、一切の相対的作用の要素は、皆刹那の性で、而も未来の苦楽に対する果を有し、すべての有情は、これに依止して生死を招くことを正しく比較して説き、三に『自類比喩所引の相』とは、自らの生死の無常を以て刹那無常の譬えとし、生老病死等種々の苦相によって無我を説き、世間の盛衰によって無常を説く等、菩薩の言説を標準とし、自らを譬えとして、万象流転の真相を明にするをいい、五に『善清浄の言教の相』とは、真理を表す善にして清浄なる言説をいう。この五種の相によってよく正しき道理を観察するのである。
 次に七種の不正なる理論とは、一に『此餘同類可得の相』とは、一の論證に於いて、前提と同喩との意義が範囲を異し、二に、『此餘異類可得の相』とは、前提の證言と、異喩との意義の範囲が混同し、三に『一切同類可得の相』とは、論證の全部が悉く範囲を同じくし、四に『一切異類可得の相』とは、全部が悉く範囲を異にし、五に『異類譬喩所得の相』とは、前提と、比喩とが反対の範囲を有し、六に『円成実に非ざるの相』とおは、前の五の相の不定の過失によって、完全に意義を立ち得ず、似て非なる相を立てるをいい、七に『善清浄に非ざる言教の相』とは、菩薩の言説に相違するをいう。
 次に道理の第四『法爾道理』とは、萬有が具うる自然の理性道理をいう。
八に『総別』とは、先ず一句の真理を説いて、漸次、諸の句を差別し、究め示してゆくのをいう。
五に現象の自体について。
六にすべての境界に於いて煩悩を断ち、解脱によって得る智徳について。
七にその智徳を受け保って、他のために説き示すことについて。
八に障礙をなすすべての煩悩について。
九に障礙なくよく解脱することについて。
十に障礙によって生ずるすべての過失について。
十一に障礙なき所に生ずる智徳の作用について説かれている。

B 【教説の特質】
 文殊 「世尊よ、世尊の教えが、すべてのものを説き尽す広大なものであることはよく解りましたが、その教えの他の学術や信仰と異る特質について更にお説きください」
 世尊 「文殊師利よ、すべての認識現象は、たとえそれが真実の相であろうと、虚妄(いつわり)の相であろうと、皆そのまま寂静の(すがた)であり、何等それ自体に於いて、我なるものの存在を認め得ぬことである。つまり一切の現象に差別ありと見るのが誤りの因をなすのである。真如も差別の現象も、畢竟は湛然として常住する同一の真如の相に過ぎない。清浄なものが穢れたのでもなく、穢れたものが清浄になったわけでもない。
 ただ人は、理智や感情の上に迷いを起して、現象を認識し、自我の念を起し、差別に執着し、その迷いの習性によって、あらゆる迷妄の見界を懐いてゆく。この妄見が、己れを計らってゆくところに、我見、我聞、我嗅、我嘗、我觸、我知、我食、我作、我染、我淨の、自我妄執の境界に随って行くのである。もしこの無生、無我の真理を知って、すべての迷いを断ち、戯論を離れたならば、己れそのまま、絶対普遍の真如なることを体得するのであろう。他に対する予が教えの特質は、要するにただこれのみである

C 【仏の正覚、救済】
 文殊師利は、更に問う。
 文殊 「世尊よ、仏には心の作用がありますか」
 世尊 「文殊よ、仏は、すべての現象差別のように、心の迷いによって、現わされたものではない。然しその仏にも、自然に起る心の働きがある。即ち前に述べたように、一切を見究めて、絶対平等の空を識得することによって得た『大智慧の作用』によるのである。例えば人が眠るときは、無心のうちに自然に睡眠の状態に入り、一切の想を滅しつくした『滅尽定』に在るときには、何等分別意識することはないが、定から出ると、そのまま心の働きが起るように、さきに平等の空理によって体得した智慧が、そのまま力となって現れ、ここに仏としての大智慧光明が放たれ、量りなき化現の身を出すのである。これはかの小乗心の徒が、真理を局限して、己れのみの解脱に満足する境界とは、まったく異なっているのである」
 文殊 「世尊よ、仏の正覚と、説法と、涅槃の境界とは、如何なる相によって現わされますか」
 世尊 「文殊よ、仏は一切の障りを離れた絶対の真如そのものである。真如そのものなるが故に、萬有のうちに行き渡らぬところなく、清浄なる所これ悉く浄土、一切の世界また仏の境界ならざるはない。従って仏は正覚を体現したものともいえるが、また元より有する真如の境界が開顕せられたので、別に区別して正覚というべきものもない。また特別に教えを宣べているわけでもないが、そのまま偉大なる説法をなしているともいえる。また独り絶対寂静の境界に入っているともいえるし、入らぬともいえるのである」
 文殊師利はまた世尊に問う。
 文殊 「世尊よ、仏や菩薩の威徳の力によって、将来種々の境界に生まれることについてお説きください」
 世尊 「もし人にして、仏あるいは菩薩の説くところのこの道、この行いによって正しく修行すれば、如何なるところに於いても、身に、財に満足せぬようなことはない。もしこの道、この行いに背き、あるいは其れを軽んじ、毀ち、あるいは悩み、怒りの心を起すならば、命終わって後は、至る処、身に、財に、下劣の境界に入らねばならぬ」
 文殊 「世尊よ、この世の中で得易いことと、得難いことと、仏の浄土に於いて得易いことと得難いこととをお説きください」
 世尊 「この世で得易いものは八種ある。一には外道、二には苦の生活、三には家系と生活の盛衰を招くこと、四には諸の悪行をなすこと、五には誡めを犯すこと、六には地獄、餓鬼、畜生の悪道に入ること、七には、思想信念の底下、八には下劣なる境界や行為に満足すること。得難いものに二種ある。一には仏の正覚を体現する菩薩の法悦の境地に入ること。二には仏の在す世に生まれることである。文殊師利よ、浄土に於いてはこの世に得易いことが得難いことになり、この世に得難いことが得易くなるのである」
 世尊 「文殊師利よ、今予は、仏についてのすべてを説き己えた。汝まさにこの教えをたもて」

解深密経 終



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初版:2003年5月20日