解深密經勝義諦相品第二
壱 『本体の章』
@ 【絶対なく相対なし】
その時、釈尊の御前で、如理請問は解甚深密意に問いた。
如理 「菩薩よ、『一切の法は一である』というが、『一切の法』とは何を言い、また何故に『一である』というのか」
解甚 「一切の法とは解り易くいえば、『種々なる因縁によって作られた現象世界、即ち相対』と、『常住不変なる本体界、即ち絶対』とである。しかしこの一切の萬有において、相対と言われるものは、相対でも絶対でもなく、また絶対と言われるものも絶対でも相対でもない。[故に一切の法は『一でもなく二でもない』というべきである]」
如理 「相対が相対でも絶対でもなく、絶対がまた絶対でも相対でもないとは、どういうわけですか」
解甚 「様々な因縁によって存在しているものを相対の境界というのは、絶対の実在の上に強いてつけた名で、即ち見る者が偏った計り心によって、有りと見る現象について名づけたのである。従って之は仮の存在をいうので真の相対の境界ではない。これと等しく絶対というのもまた仮の言葉で、仮の言葉であるから偏った計り心によったもので、もとより絶対というべきものではない。このように、絶対とか相対とか、指し示したならば、それはすでに言葉に拘束されたものである。たとい相対絶対の境を離れるといっても、少しでもこれを説こうとしたならば、それは真の絶対、あるいは真の相対を説くものではない。しかし相対にせよ、絶対にせよ、その体はないのではない。諸々の菩薩は一切の言葉や思議を超えた至上の智慧と、正しい見界とによって正覚を得ているが、しばらく他を導くために、文字を仮に作って相対絶対などというのである」
如理請問は更に論歩を進めた。
如理 「菩薩よ、それなれば何故菩薩たちは、その体得した真理の方へ他の者を導くために、相対や絶対といった仮の言葉を用いるのか」
解甚 「それは例えば手品師が、術によって様々な品を現わすのに、愚かな者はこれを真に在るものとし、賢い者は、ただ幻が眼を迷わすに過ぎぬと見るように、愚かな者は、一切の説明を超えた真理の実在を識ることが出来ず、相対、あるいは絶対の名に拘泥し執着してこれを見、賢い者は、万象の起滅の理をわきまえ、迷界超脱の智慧によって、一切の差別説明を離れた真理を体得して、相対やら絶対やらの差別に迷惑することがない。即ち事物の存在に最もよく即している相対、絶対の言葉によって、差別に眼の眩んだ愚かな者の認識を純化し、そしてついにその認識から超脱させて、絶対平等の正覚の境界を感得せしめるのである」
解甚深密意菩薩は、この意味を、更に頌によって示した。
「仏は離言無二の義を説きたまう。
この義甚だ深く愚者の識る所にあらず。
愚者は却って迷い
おのおの一を執って言を弄ぶ。
その定めなき心は
長く生死流転の苦を招き
牛羊等の類に生ずべし」
A 【真如の理体】
法涌菩薩、釈尊に問て曰く
法涌 「私はかつて、多くの外道が一座になって絶対真実の相について解決を得るために、様々な思索や観察、推求、議論をしているのを見ましたが、ただ異なった意見や、解釈が出るばかりで、ついには論争、打擲に終わってしまいました。
世尊よ、私はその時、世尊こそかならず、そのような思議を超えた境界を証されることと思いました」
世尊 「法涌よ、汝の言うとおりである。予は一切の思議分別を超えた真理の理に覚め、それによって一切の者を導いているのである。実に諸々の菩薩は、心恒に真如を証し、凡夫はただ思議分別の中に迷っている。つまり真如は、一切の思議分別、言説、論議を超え、絶対自由の行を具えているが、思議分別は、その言語、論議、皆思議分別の境におわり、その行なう所は常にしきられている。従って思議分別の境界にある者は、一切の思議分別を超えた真如の相については、思議分別することも、比べはかることもできぬのである」
世尊は、この意味を更に頌によって示された。
「一切の思議分別を超ゆる真如は
内に深く証し
行い礙りなく
言語表示を絶し
諸々の論議を息す」
B 【真如と現象】
その時、善清淨慧菩薩は釈尊に言う。
善清 「世尊よ、世尊の仰せられることは甚だ珍しく、実に尊い教えであります。然しその真如の相は、萬有の相対絶対の体性や相状を超えて、深く仔細にこれを識ることは出来ません。
世尊よ、かつて私は多くの聖者が一座になって、真如の相と、一切の現象との実体や相状について、あるいは一か、あるいは二かということを論じているのを見ました。ある者は真如の相は、現象と異なっているといい、ある者は異なっておらぬといい、その他の者は、何れが真実であるかを疑い迷っていました。
世尊よ、私はこれを聞いてひそかに思いました。この人たちは愚かで、頑なで、鈍く、従って真理を観ることが出来ない。一切萬有の相対とか絶対とかの差別を超えたところにこそ絶対の真理はあるので、決して普通の思議分別で識ることは出来るものではないと」
世尊 「汝の言うとおりである。それらの者は心が闇く、一切を超脱する真理を観ることは出来ない。なぜなれば、もし真如の相と萬有の相とが同一であるというならば、すべての人はそのまま悉く悟道に入って、仏の証悟を得ることになろう。またもし真如の相と萬有の相とが異なるというならば、現象の差別を観て悟りに入ろうとする者は、永く客観の上にも主観の上にも解脱することが出来ず、従って寂静涅槃の境に入ることも、仏の正覚を得ることも出来ぬこととなる。然しこのように、すべての人がそのまま悟道に入ることが出来、あるいは現象の差別を観じておっては永久に解脱を得ることも正覚に入ることも出来ぬというのは、何れも道理に合わぬ。
善清淨慧よ、また現に道を求める者は、差別の現象について、悟道に入り、解脱し、正覚を得ている。従って両者が異なるということは出来ぬ。またもし両者が一であるというならば、恒に現象の真実性として、普く貫通し内在している真如の相が、差別の相そのものに堕してしまうこととなる。
善清淨慧よ、一切の現象は穢れ迷っている。然し真如は、恒にその現象の真実性として普く貫通し内在している。従って両者は一でもなく、二でもない。
また善清淨慧よ、現象と真如とが一であるというなら、真如は一切の現象と差別するところがないように、現象そのものに差別がなくなり、これを対境として、修行し証悟することは出来なくなる。もし両者が二であるというなら、現象の内在性である「唯無我性」と「唯無自性」に顕わされるものは真如でなく、現象そのものについて、浄穢の混乱が醸されることとなる。従って両者は、一でもなく二でもない。
善清淨慧よ、それは丁度、螺貝とその鮮白の色と、金と黄色と、声とその音色と、沈香とその匂いと、胡椒とその辛味と、伽羅とその渋味と、綿とその柔かさと、熟酥とその醍醐味と、あるいはまた一切の現象とその無常の性と、肉身とその苦の性と、それぞれ一か二かと判別することが出来ぬようなものである。
善清淨慧よ、予は斯様な微細中の極めて微細、甚深中の極めて甚深、難通達中の極めて難通達な、相対絶対の性相を超えた真如を体得し、その正覚によりあらゆる手段を以って、一切のものを覚まし導いているのである」
世尊は更に頌によって、その意味を示された。
「現象と真如とは
一にあらず、二にあらず
もし一といい、あるいは二といわば
其は真理にあらず。
一切の生存は
現象に縛せられ
迷闇に縛せらる。
まさに正しき観察に入れ
然らば乃ち解脱を得ん」
C 【真如の顕現】
その時、善現が釈尊に言う。
善現 「世尊よ、極めて少数の人を除く外は、世の人は皆、己れのみ證りを得たという慢心を起して、世尊の、そのような尊い御教えを理解し信受することが出来ません。
世尊よ、私はかつて静かで大きな森に住んでいましたが、その近くにまた大勢の僧が住んでいました。彼らは毎日夕暮れになると一所に集っては、現象について夫々の観察し得た所を語り合っていました。
その中で夫々現象界を形作る物心の五類の要素、あるいは主観と客観との十八の分類、あるいは現象の起滅次第を説く十二の過程、あるいは生存を養う四種の法、あるいは萬有生滅の四原理、あるいは萬有を正観する四念、四断、四神足、五根、五力、七覚支、八正道等の中の一々、あるいはその一々の中で、それ自体について、あるいはそれに対する認識の種々の状態などについて、皆異なってこれを執し、己れのみの證悟として説明してました。
世尊よ、私はこの人たちの観察するところを聞き、この人たちは慢心につまづいて、真如が平等に、一切に、遍満していることを理解し得ないのであると思いました。そして今、世尊から微細甚深を極め、絶対に自由平等なこの真理について聞くことが出来ました。然し、世尊よ、世尊の御教えを受けている者の中にすら、この絶対の真理を究めることが出来ぬ者があるのですから、外道の者などは、到底これを理解することは出来ないと思います」
世尊 「汝のいうとおりである。予はその真理を体得して仏となり、それら現象の分別次第、思惟智慧の顕れなどに於いて、それが少しでも純化清浄に向ったものは、即ち真如の顕れであることを覚知している。しかもその真如は決して異なった相で、それらの中に存るのではない。一切平等の相を持って実在しているのである。しかもまた、それらの存在、作用について一々推求せずとも、無我性、無自性の究極の実在である真如を観得したならば、同時にそれら一切の存在、作用の中に内在する真如を観得することが出来るのである。
その真如には勿論、原因とすべきものはなく、仏がおるおらぬに拘らず、無始より永劫に亘り、萬有の無我性として萬有の裡に平等に実在しているのである」
釈尊は更に頌によってこのことを説き示された。
「悟れる者に於いて
この平等一味の真如は異なることなし。
もし中に異なる分別をなす者あらば
そはかならず愚痴、慢心による」