解深密經卷第三
大唐三藏法師玄奘奉 詔譯
分別瑜伽品第六
参 『実行の章』
(1) 心の進化
@ 【心の統一、観照】
その時、慈氏(彌勒)菩薩は釈尊に問う。
慈氏 「世尊よ、心を統一して、正しい観察をしてゆく[=奢摩他毘鉢舍那/止観する]には、何に依って、また如何様な境界にいるべきありましょうか」
世尊 「仏の大乗の教えを拠り所とし、仏の正覚を目的とする境界にいるならば、自然に心の統一を得て、正しい観察を保っていくことが出来る」
慈氏 「世尊よ、しからば、世尊は私たちの眼や心の上に現われる対象について、『認識の上の対象』と、『超認識の上の対象』と、『真如』と、『真如の活動』との四つをお説きになりましたが、心の統一と、正しい観察とを得るには、この何れを対境とすべきでありますか」
世尊 『慈氏よ、心の統一を計る、即ち禅定は、超認識による対象を対象とし、正しい観察、即ち観照(の智慧)は、認識による対象を対象とし、また真如と、真如の活動に対しては、禅定と観照とともにそれを対象とする」
慈氏 「世尊よ、仏の道に向う者は、この四の対境につき、如何様にして禅定と観照とを得るのですか」
世尊 「予が様々な手段方法によって説く、普遍絶対の真理について、よく聴き、善く受け、よく理解し、よく思惟し、よく究め、その心の状態を静かに続けていけば、身も心もこれによって快く安らかになる。これが 『禅定』 である。 この禅定の境界を求めていくうちに現れる、統一された心について、よく観察し、理解し、認識を超越し、これによって覚めと、安楽と、智慧と、正しき見界と、観察とを得る。これが禅定に従って現れる 『観照』 である」
慈氏 「世尊よ、単に対象を認識する心や、未だ身心の安らかさを得ない心の働きも、禅定ですか。またまだ身心の安らかさを得ずとも、統一された心について、よく思惟したならばそれは観照そのものですか」
世尊 「慈氏よ、それは禅定でも観照でもない。禅定と観照に従って起る、対境を明に分別する心の働きに過ぎぬ」
慈氏 「世尊よ、禅定と観照とは違いますか」
世尊 「同じとも、異なるともいえる。即ちともに心の自体を基とする点に於いて同じであるが、禅定は超認識の対象、観照は認識の対象を対象とする点に於いて、また観照は明らかに対境を弁別していくが、禅定は弁別する素質を具えるのみであるから異なるというのである」
A 【万象は心の顕れ】
慈氏 「世尊よ、観照の対象と、観照の心とは同じですか、違いますか」
世尊 「両者は同じである。なぜならば、万象はただこれ識である。慈氏よ、認識の作用そのものが、一切の対象を作るので、共にこれ根本のアーラヤ識の現れに過ぎぬのである」
慈氏 「然し世尊、もし万象と心と異なることがないというならば、心が心を見るようなことになってしまいます」
世尊 「慈氏よ、鏡の前に立てば、そのままの姿が映る。これは本の姿があればこそ、影の姿が映るので、その間に別の姿があるのではない。しかし人は鏡に映った影を見て、別の姿があるように思う。心と万象の関係もまた同じく、心は本の姿、万象は鏡に映る影の如きものである」
慈氏 「世尊よ、もしそのような禅定や観照を得ない者が、見る対象もまた同じでありましょうか」
世尊 「もちろん、同じである。ただ愚かな者は、顛倒の見界によって、万象は心の影に過ぎぬということを理解し得ぬだけである」
慈氏 「世尊よ、禅定と観照との内容と相との二つが、一所に働く有様について更にお説きください」
世尊 「慈氏よ、禅定とは、対象を認識していく心の真相を究めていく静的の作用であり、観照とは、認識による対象そのものについて、思惟していく動的の作用である。また両者が一になって作用していくとは、万象はすべて識の現れに過ぎずとし、これによって真如の相を思惟する超認識の作用である」
B 【禅定、観照の類別】
慈氏は、更に釈尊に問う。
慈氏 「世尊よ、禅定と観照とに如何様な種類がありますか」
世尊 「先ず観照について三境がある。 @『有相』 A『尋求』 B『伺察』 である。 @ 有相は、認識による対象を思惟し、A 尋求は、進んでその真実の相を解了するために思惟し、B 伺察は、これによりて究竟の解脱を證得するために思惟するのである。この統一されたる心理状態に於いて、また別に A’ 『尋求』を『有尋有伺』 B’ 『伺察』を『無尋唯伺』とし、これに C 真如そのものを顕し示す状態を『無尋無伺』とする三境がある。
また禅定には、観照に於けると同じく、有相、尋求、伺察、並びに有尋有伺、無尋唯伺、無尋無伺の三境次第があり、また別に八種と四種との別がある。八種とは、観念(心霊界)の世界に於ける @『初禅』 A『第二禅』 B『第三禅』 C『第四禅』、感覚(精神界)の世界における @『空無辺処定』 A『識無辺所定』 B『無所有処定』 C『非想非非想定』をいい、四種とは、『慈、悲、喜、捨』をいい、それらは各々一種ずつの禅定である」
慈氏 「世尊よ、教えに依る禅定、観照と、教えに依らざる禅定、観照とをお説きになりましたが、それは如何なるわけですか」
世尊 「機根の勝れた者は、予が説く真理について、そのまま禅定と観照とを得るので、これを教えに依る禅定、観照といい、また機根の劣った者は、予が説く真理をそのまま理解し得ず、他の真理を悟った師について、世相の苦、空、無常、無我、あるいは寂静の涅槃の境を観じ、これによって禅定観照を得るので、これを教えに依らざる禅定、観照というのである。つまり前者は、自ら経法に随って修行するのに対し、後者は他の教えを信ずることによって修行するのである。ここに自ら悟る勝れた者と、他を信じて悟る劣った者との別がある」
世尊 「また慈氏よ、予が教えに随って禅定と観照とを得る者についても、種々に差別して説いたが、これには全体の上にその真理を観得する者、各別の部分にその真理を観得する者、あるいは部分を通じて全体の真理を観得し、あるいはまた究意の證悟に至る道程の真理を、観得する者などの別がある」
C 【禅定、観照の境地】
慈氏 「世尊よ、それについて、人が禅定に入り、正しい観照を得ていく状態は、どんな有様でありますか」
世尊 「それには五の状態がある。 一に心を整えていく刹那刹那に、物心一切の障りを除いて真理を発揚し、 二には、一切の認識を超脱して、萬有の実体、真如を證し、 三には、萬有はただこれ一心の顕れとして、無差別の相を観得し、これによって一切を識り尽す絶対智の光明を認め、四には、仏としての資格を満して、恒に真如のままなる清浄の境界を示し、五には、永恒に勝れたる因を作って、普遍の仏身をなしてその霊能を発揮せしめてゆくのである」
慈氏 「世尊よ、また如何様な境界から、禅定に入り、観照を得たというのでありますか」
世尊 「菩薩が仏の正覚を得るまでの、五十二の階位の中、第四十一位の『歓喜地』に至って、禅定と観照とを究め尽し、第四十三位の『発行地』に於いて完全にその霊能を体得する。而して未だ機根の劣って遠く及ばぬ菩薩とても、これに随って学び、これについて心を調えていったならば、漸次にその境地を進め得るのである」
(2) 認識作用の判別
@ 【ものとは何か/存在の五相】
慈氏菩薩、更に釈尊に問う。
慈氏 「世尊よ、人が物事を知るというのは、如何なることをいうのですか」
世尊 「物事を知るには、相を知るのと、意義を知るのとの二通りがある。
まず相を認識するについては五つの相がある。
五とは
- 一には『名を知ること』 名とは思想によって、仮に言葉を設けて、物の自体を示す声の作用をいう。
二には『句を知ること』 句とは名が集って物の差別意義を示す声の作用をいう。
三には『文を知ること』 文とは未だ意義を有せぬ声の作用で、名と句とは文によって成立する。
四には『各別に知ること』 即ち名、句、文の一々に於いて明に其れを思想するをいい、
五には『総合して知ること』 名、句、文を総合して認識するをいう。
この五つの理由によって、対象が認識されるのである」
A 【ものとは何か/存在の十相】
世尊 「次に十の相によって意義を識る。
十とは 『存在』 『真如』 『主観』 『客観』 『物質の世界』 『器物』 『顛倒』 『無倒』 『染穢』 『清浄』 である。
- 一に『存在』
- 前の相によって認識された現象のすべてを、概括して分別知悉すること。
即ち心身の組織作用、六感とこれに認識せらるる六対境などの一切である。
- 二に『真如』
現象の真実性である無差別平等の真如を知ること。これにまた七種がある。
- 一に 万象に内在して倶に流転してゆく真如。
二に 主観客観一切を空とすることによって顕わされたる真如。
三に 一切万象の根本なる識としての真如。
四に 万象を苦と観ずる真理。
五に 万象は煩悩悪業の集りと観ずる真理。
六に 万象の苦果を滅する絶対清浄の境と観ずる真理。
七に 絶対の境地を観ずるために修めるところの真理の道。
以上の七を知ることである。
- 三に『主観』
- 眼耳鼻舌身の五感五識と、第六意識と、分別の作用(第七識)と、アーラヤ識(第八識)と、それらの心理作用に従属して、共に種々の相を認識する作用とをいう。
- 四に『客観』
- 六感による対象をいう。但し主観というも、アーラヤ識が他の心理作用に力を及ぼす時は、それらの作用はアーラヤ識に対する客観である。
- 五に『物質の世界』
- 全宇宙に存在するすべての世界をいう。
- 六に『器物』
- 世に処するに必要なる器物をいう。
- 七に『顛倒』
- すべての主観と客観に於いて、現象の実相である無常を常とし、苦を楽とし、不浄を浄とし、無我を我とするという。
- 八に『無倒』
- 顛倒を正しく観ずるをいう。
- 九に『染穢』
- 物質世界、感覚世界、観念世界のすべての境界に於ける三種の穢れをいう。
煩悩はそれ自ら穢れであり、善悪の業は根本の無明煩悩の穢れによって起り、苦の生存は、また煩悩の穢れによる。
- 十に『清浄』
- 前の三種の煩悩の穢れより解き脱れて、絶対清浄の真如界、即ち仏の證悟の道に入る」
B 【存在の五性】
世尊 「慈氏よ、すべての相によって知られる意義はこの十に摂められるが、尚別に『意義を知ること』自体に、五つの別がある。
- 一に『存在性』
- 主観客観の、内外一切の存在性を知悉すること。
- 二に『差別性』
- 例えば真不真、正邪、空間的原因と時間的原因、現象の生住滅、病苦、迷悟の四原理、真如、廣略、説明の種々相等、すべての差別された事象についてその意義を認識し観得すること。
- 三に『向上性』
- 前の二によって、よく萬有の不浄にして苦、空にして無我なる真相を道破し、過去現在未来一切の悪を断ち、善をして愈々栄えしめる。
- 四に『完全性』
- 貪り、怒り、愚癡の三毒を断ち、あるいは教団の制規、あるいは小乗、あるいは大乗の現象に即したる、あるいは現象を超越したる等、一切の證果をいう。
- 五に『覚了性』
- 前に得た證悟の大智慧によって、他のためにこれを宣揚し開示するをいう。
- また同じくすべてのものの意義を知ることに於いて、四と三との二通りの別がある。
- 四種とは、 一に感覚を有する身。 二に苦楽等を感ずる主観の作用。 三に主客両観の根本、即ちアーラヤ識。 四にすべての客観対象をいう。
三種とは、 一に『名』、『句』、『文』の三義。 二に @『真如』と、 A『万象迷悟の四原理』と、その四原理の次第を明にする BC『智慧と結果』と、其れを障える DE『煩悩と結果』と、 F『万象が真実相に入る過程の判別』と、 G『主体と属性とによるすべての関係』との八義。 三に有情、非情、物質精神等一切の環境世界をいう。
これらの種々なる区分の中に、一切の意義が摂められるのである」
C 【認識と真如】
慈氏 「世尊よ、そのようにあらゆる境界を識るのに、聞いて得た智慧、あるいは考え得た智慧、あるいは更に禅定によって得た智慧などの間には、何かの区別がありますか」
世尊 「聞くことによって得ただけの智慧、あるいは進んで思考によって得た智慧は未だ文字に頼っているので、解脱の境界には向っても、到底究竟に達することは出来ない。しかしこれがもし菩薩たちのように、文字により、あるいは文字の表現を越えた、即ち禅定の智慧を体現した実践の境界に入ったなら、初めて完全な解脱の智慧を体得することが出来るのである」
慈氏 「世尊よ、心が段々統一され純化されてゆく禅定の境界に、解脱を得るというのは、どんな心の働きによってそれを得、また如何なるものを解脱して行くのですか」
世尊 「それはすべての認識を超越した、真如を体得することによって、前に述べた『認識する』と『認識される』とのすべての境界を離れるのである」
慈氏 「世尊よ、その認識を離れた真如そのものからも、また離れなければなりますまい」
世尊 「しかし慈氏よ、真如には、元々体も相もなく、真如自らの境界もない。従って離れようとしても、離れるべきものがないのである。慈氏よ、この真如の意味がよく解れば、如何なる事象にも迷うことなく、そのまま絶対の解脱を得るのである」
慈氏 「世尊は穢れた鏡の喩をお説きになりました。つまり穢れた鏡の前に立てば、映る姿もまた穢れて見えるように、如何程美しい本体が映ってきても、心という鏡が穢れていれば、其処に認識され、具象され、存続されていく一切の万象は皆穢れたものとなると教えられました。これによって心の障りを除いて本体(真如)を、そのまま映し観ることが出来るわけになりますが、世尊は、前に真如には体も相もないといわれています。この真如とは何ですか」
世尊 「真如とは一切の存在の根本たる識である。この識が心身に作用して認識の作用を起すのであるが、この認識の作用に対しては、見聞や、覚知や、実践によって得た観照の力により、心を浄鏡のようにすることによって、真如としての体得を得ていくのである」
(3) 解脱の階程
@ 【十種の空】
慈氏 「世尊よ、このように一切は識に作用した迷の発現に過ぎぬと見る時、どうしたら認識の対象を撥無することが出来ますか」
世尊 「それは『空』の思想によって、一切は迷妄の現れに過ぎぬと説かれる。
その空に十の階程がある。
- 一に『一切法空』
- 一切の差別を空にすることである。一切の現象は、相互の力の仮の和合に成った、無自性の上に迷妄の執着を起し種々なる名称区別をつけて、実在なりとするところに現れるので、これによってこの差別の迷妄を破る。
- 二に『相空、無先後空』
- 『相空』とは現象の差別そのものに、自らの相も、共通の相も有せず、従って空間的に定まった固体なく、『無先後空』は、消滅相続の状態は始めなく、終わりなく、従って時間的に前後の別なきことを示す。
- 三に『内空、無所得空』
- 主観の作用によって、自我は実在せりとして己が心身に執着する迷いを除くことをいう。
- 四に『外空』
- 主観の誤りと共に、客観も実在せりとする迷いを除くことをいう。
- 五に『内外空、本性空』
- 『内外空』に於いて、主観の作用と、客観の対境とを共に空とし、『本性空』に於いて、空は人為的なる空でなく、先天的に本性としての空なることをいう。
- 六に『大空』
- この世界のみならず、すべての世界等しく空なりとする。
- 七に『有為空』
- 物質や精神の世界を越えて法界に作られる、常住不変な解脱の境地を空なりとする。これは法界にのみ、然様な相対的特殊の境界は有り得ぬからである。
- 八に『畢竟空、無性空、無性自性空、勝義空』
- 『畢竟空』に於いて有情も事物も悉く空にして、それ自体も、属性もなく、『無性空』に於いて、一切実有の性なしと観じ、『無性自性空』に於いて、無性を自性とすることを明にし、『勝義空』に於いて、一切の根本にして絶対清浄な真如の理体は、またそのまま空なることを明にする。
- 九に『無為空、無変異空』
- 真如は寂静止滅の境界でなく、絶対清浄の働きを以て一切を摂めてゆく。従ってこれによって、固定した絶対の相や、寂静止滅の境地を空ずる。
- 十に『空空』
- このように一切を空じ去るとき、一切は空なりと執着する。この迷妄を破って空を空とせざるところに、真の空の意義が現れる。[これは『空、仮、中』の『中』にあたる]
慈氏よ、第十の『空空』によって、完全に解脱の證を得るのであるが、これは同時に
他のすべての空の力を摂めた最も勝れた力を持っている。
また別にこれを総括的にいうならば、前に説いた
萬有は相互の力が、仮に集合離散して現わされるという『依他起性』と、
万象にさわりなき真如の相の『円成実相』との上に、
種々な相ありとする『遍計所執相』を離れ、
同時にその現象や真如にも、捉われぬ境界をいうのである」
A 【心の障礙】
慈氏は更に問う。
慈氏 「世尊よ、空の体験によって真に心の統一、即ち禅定と、正しい観照とを得ることは解りましたが、その二つの境界を得るとき、あるいは得たとき、あるいはその障りとなることなどについて、更に詳しくお説きください」
世尊 「慈氏よ、人の心が完全に統一されて、真の観照の力を具えるには、心身の煩悩を去り、正しく見、聞き、考察することによって得られ、ここに善と、智慧とに満ちた世界が現れる。即ち現象の差別に捉われて起す悩みの心や、心の迷いによる本能的な煩いや、浅劣な知慧によって、真理を疑う惑いなどから解脱して、善と正しい智慧とに満ちた世界が現れ、如何なる人の境界にも、善という善は、これによって初めて行なわれることとなる。
また身や財に愛着することによって、心の統一を紊して禅定を遠ざかり、仏の教えを信解し得ぬことによって観照の障礙りを作り、迷悟の両端に泥み、あるいは少なきに満足するは両者の障りとなる。禅定を得ぬことから、行いは正しからず、観照を得ぬことによって、ついに究竟の真理を得ることが出来ぬ。
また人の心を迷いの世界に引き入れていく、五因、即ち貪欲、瞋恚、昏眠、軽学追悔、疑惑について、軽学追悔は禅定を妨げ、昏眠と疑惑とは正観を障え、貪欲と瞋恚とは禅定、正観の両者を妨げる。もし禅定と観照とに於いて共にこの五の迷いの因を離れて、清浄の境を得たならば、そこに禅定と観照との完成を得るのである。
また心の上に禅定と観照の力とが現れてくる時には、心の散動した五つの状態が明にされる。即ち
- 一には『作意散動』
- 自らの狭い見聞や理論によって、孤立独善の境界に満足する状態。
- 二には『外心散動』
- 主観の作用によって現れた、差別の現象界の有様や、それによって起される多くの迷いに、心が惹かれ乱れていく状態。
- 三には『内心散動』
- 主観の作用が、幾多の煩悩に暗く覆われ、あるいは自ら作る寂静の境界に愛著し、あるいはまたその愛著に従って、更に起り来る煩悩に覆われる状態。
- 四には『相散動』
- 差別の現象によって、心の定めを求める状態。
- 五には『煩悩散動』
- 主観の上に種々の愛著を持ち、我意、慢心を起す状態。
以上の五が、禅定と観照の力が現れる時に明にされる、心の散乱した状態である」
慈氏 「世尊よ、然らばこの禅定と、観照の力によって、常人が仏の正覚を得るまでの十の階程(十地
『華厳経 第六会』参照)について、一々に如何様な障りを除いていくのですか」
世尊 「慈氏よ、障りについては、
己が身心の上に自我ありとする『我障』と、
現象の上に実在ありとする『智障』との二通りがあり、その二の各々に誤った教えや、考察によって、独自の観察を下す
智的の迷いと、対象に愛著して起す
情的の迷いとの別がある。
【常人が仏の正覚を得るまでの十の階程において除いてゆく障り】
- 第一 『歓喜地』
- 地獄、餓鬼、畜生の境界に趣く、迷いの原因と生死の結果とを招く障り、即ち智的な我障と、智障とを除く。
- 第二 『離垢地』
- 愚かなために無意識的に身口意の過失をなすを除く。
- 第三 『發光地』
- 五欲を貪るため心乱れて正しき行為の智慧を障ゆるを除く。
- 第四 『焔慧地』
- 清浄なる心境と、教えとに愛著する障りを除く。
- 第五 『難勝地』
- 生死の苦を厭い、ひたすら寂滅の證悟、即ち小乗の涅槃を求むる障りを除く。
- 第六 『現前地』
- 小乗の涅槃に於いて、證悟の実在ありとの差別有相の観を懐くことによって、観得するところ、多くの差別有相の迷いに堕する。即ちここにその障りを除く。
- 第七 『遠行地』
- 無差別無相の観に入るとも、未だ空にのみ偏して、空、無相としての活動を発現し得ず、ここにその障りを除く。
- 第八 『不動地』
- 更に進んで、空、無相の活動を以て、主観と客観の別なく、悉く己が悟りのままにこれを変現して、これを妨ぐる障りを除く。
- 第九 『善慧地』
- 一切障ゆるところなければ、説き示すこと自在ならざるなく、ここに勝れたる自在の弁説を妨ぐる障りを除く。
- 第十 『法雲地』
- 究竟普遍の仏身を證得し得ぬ障りを除く。
ここに於いて遂に仏の正覚を得るのである。慈氏よ、この十位を、障りの種類について見るのに、
第一の歓喜位は、『智的の我障』と、『智的の智障』とを除き、
第二の離垢より第十の法雲位に至る九位に於いて、一分ずつ、『情的の智障』を断ち、また
十位の間故ら留めてきた『一切の情的我障』と、『残余の情的智障』とを悉く断ち尽し、ここに自我に執着せず、迷妄の対象に捉えられず、絶対の知見を得て、自ら最極清浄なる普遍の仏身を体現するに至るのである」
慈氏 「世尊よ、然らばその仏の
正覚を得るまでの過程を、菩薩の修行についてお説きください」
世尊 「それは、すべて禅定と観照とを完全にし、前に説いた七種の真如について、眼にし、耳にする一切を審に思い量ってゆくので、然らば心の上に現れる、相対差別の現象を棄て去ることが出来るのである。
その心の上に現れる差別の相とは、身は浄、受けるところは楽、心は常住、一切は我(自体)ありとし、あるいは客観の対象、主観の作用、主客両観の融合を認め、あるいは自ら一切を利導せんとの相対観を懐き、あるいは正覚の智慧、真如の相、あるいは、迷悟因果の四原理の相、あるいは相対の相、あるいは絶対の相、あるいは常住の相、あるいは無常の相、あるいは苦悩に於ける有形無形の相、あるいは相対の中に於ける同異の相、あるいは差別の全体、あるいは差別の一々に於いて差別する相、あるいは無我の相、あるいは無体の相に対し、
曩の真如に対する観察を以て、一々にこれを棄て去るのである。これを棄て去ることによって、また七種の真如の一々に、自在の智慧を生じ、ここに歓喜地の位を證得するのである。
かくして曩に禅定と観照とによって、その心境が、意識的より、無意識的に進んだものが、更に真如そのものの作用を證得し、後の一位一位に於いてその信證を進め、対象によって起り来った後天的な煩悩や、識の主観を形成してきた先天的な煩悩などを断ち尽し、恰も
鉄の中から金を取り出す時のように、その心を練り鍛えて、遂に仏の無常正覚を證得するのである」
B 【解脱心の作用と自体】
慈氏 「世尊よ、そのように、対象を空じ去り、また修行をしていくとき、心そのものの作用、変化について、如何様にそれが真実の力を発揮していくかを、お説きください」
世尊 「それを大別すれば六となる。即ち心の作用と、自体と、解脱と、増と、減と、作用の範囲とである。
一に心の作用については、十六種の別がある。 一には、根本となる心の働き(アーラヤ識)が、主観、客観のすべてに即してゆく、アーダナ識としての作用である。 二には、六感と、六感に認識される六境、即ち現象を認識しあるいは分別する意識(第六感)の作用。 三に感覚世界を対境とする作用、 四に、意識世界を対境とする作用。 五に、観念世界に於ける四の境界の内、無量の空と、空に即した無量なる識の働き、即ち『空無辺処』と『識無辺処』とを識得する作用。 六に、同じく四の境界の内、主客両観より脱離するところ、即ち『無所有処』を識得する微細な心の作用。 七に、同じく四の境界の内、心の作用を非とし、また『非非』とする最後の『悲想非非想処』に於いて識得する心の作用。 八に、究竟に望み、あるいは滅に即して起る心の作用。 九に、地獄の苦を招く心の作用。 十に、感覚世界に於ける行為によって起る心の作用。 十一に、意識世界の四の境界に於ける『初静慮』『第二静慮』、 十二に『第三静慮』、 十三に『第四静慮』より観念世界の『非想非非想処』に至るまでの境界に起される心の作用。 十四に、主となり従となるすべての煩悩の作用。 十五に、十一種の善を為す作用。 十六に、善にも非ず、悪にも非ざる心の作用。
二に、心の自体とは、識の実性、即ち真如が活現してゆく状態。
三に、心の解脱とは、現象を実在なりとする迷妄と、心身の情的意欲と、知的考察とによる迷執とより解脱する作用。
四と五に、心の増と減とを知るとは、その解脱の境地が、あるいは増大し、あるいは減退する状態。
六に、心の作用の範囲を知るとは、八種の解脱、八種の勝れたる観察、十種の遍き処とに於いて、よく解脱の行いをなし、相対差別の迷いを空じ去るのである。
慈氏よ、菩薩はこの心の働きによって、真実の力を発揮していくのである」
C 【無餘の涅槃】
慈氏 「世尊よ、世尊は相対差別の迷いを滅して、絶対清浄の真如を体現せよ、と教えられますが、その相対差別とは何をいうのですか」
世尊 「慈氏よ、これを簡略にいえば、大別して六感(眼、耳、鼻、舌、身、意)による主観の認識分別と、六感によって認識される客観である。その客観については、物質界と、意識界と、現在を現し来った過去の迷いと、未来の認識境界を作る現在の迷いとの、四つの状態が現わされ、そこにまた、所有、愛著の作用が起される。
人はこの世に於いて、一切の対境は、心の寫象に過ぎぬ空、無自性のものと観照するとき、過去と、現在と、未来との一切の障を除き、その純浄な境界から現れる、永恒常住の真生命を体得する。しかしそれは未だ『有餘の涅槃』の状態である。究竟の覚めの境地には、真の生命なりとして、体得すべきものもない。ただそのままが本体真如の活動となる。これが『無餘の涅槃』で、ここに真の覚めの活動が現われる。
慈氏よ、予は今、人の心の真相と、それが如何様にして客観の上に展開していくかを詳に説いた。如何なる者の證悟の境界も、これによって現われるのである。汝よく精進して正しく学べ」
釈尊は、更にこの意味を頌によって教えられた。
「万象実在の迷執を起さば
遂に涅槃の大義を失い
万象は空にして無自性なりと識得すれば
正に涅槃の大覚を得ん。
万象差別の相対世界に泥んで
生死流転の難を求むれば
真理を離るること甚だ遠く
譬えば大空と大地の如し。
無念にして彼我の別なく
ただよく一切の救済に志し
悟り己って而も永恒に有情を恵む。
ここに無上離染の喜びあり。
もし人、慾のために真理を説かば
彼れ慾を捨て而も慾を取る
愚かなる者は真理の道を聞いて
却ってこれを世間名利のためにせんとす。
空華、水泡の観察戯論を捨てて
まさに勇猛精進のこころを起し
一切をしてことごとく
真如正覚の大生命に入らしむべし」