解深密経 第二巻
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解深密經

解深密經卷第二

大唐三藏法師玄奘奉 詔譯
一切法相品第四

A 【現象とは何か】
 徳本菩薩、釈尊に問う。
徳本 「世尊よ、現象とは何であって、現象そのものを見究めるには、どうしたらよいのですか」
世尊 「徳本よ、現象には三種の(すがた)がある。 『遍計所執相』、『依他起相』、そして『円成実相』である。
 『遍計所執相』 とは、名や言葉によって仮に現された現象に、おのおの自体と特性とが在ると見られる迷いの相をいい、 『依他起相』 とは、萬有は時間の上にも、空間の上にも独立に存在するものではなく、すべての力や作用や仮の存在が、互いに相依って出来たものであることをいい、 『円成実相』 とは、一切の差別を離れた真如をいうのである。菩薩は一切平等の真如を基本とし、目的として、努力し思惟するので、従って何事も自由に究めざるなく、ついには(まどか)なる正覚を得るのである。
 『遍計所執相』 は、恰も眼病の人の、眼がかすんで、色々の幻を見るのに等しく、 『依他起相』 は、その幻について色々の形や色の見分けをするのに等しく、 『円成実相』 は健全な眼の人の視覚が少しも違わぬのに等しい。そして其処に現される言葉や、習性や、執着は、丁度 『依他起相』 という仮の器に、 『遍計所執相』 といういろいろの絵の具を塗って、他を惑わすのにも等しく、従ってそこには無自性を、特質とする真如もない。
 また徳本よ、(すがた)と名に依って、 『依他起相』 の上の 『遍計所執相』 を認めるが、その時に起す迷いの習性によって、また 『依他起相』 を認める。しかし、もし 『依他起』 の相の上に、『遍計所執』 の迷いを起さなければ、真如の相を認めることが出来る。即ち、 『依他起』 の上に幻の如く顕わされた、迷いの相である 『遍計所執』 を観究めたなら、万象に自体のないことを知り、また万象は相関の力によって成る、 『依他起』 の相の実際を観究めたなら、誤まれるものの一切を見尽くし、またそれらを離れて、真如の相を観究めたなら、正しく浄きものの一切を観得することができよう。このように萬有の相に対し、幻の如しと観ることによって、その自体を差別する誤りを正し、その誤りをただすことによって、真如の相を證るのである。
 この三つの特性を観究めて、次第にこれをただしていけば、現象界の何たるかを識ることが出来る」
 世尊は更にこの意味を、頌によって示された。

「もし無相の法を了知せざれば
離染相の法を断ずること能わず。
離染相の法を断ぜざるが故に
真如の法を證り得ず。
放逸、懈怠
万象に正しき観察をなさず
常住不滅の真理を無となし
生死流転を有となす。
憐れむべき哉」






解深密經無自性相品第五

B 【萬有自性なく生滅なし】
 勝義生菩薩、釈尊に問う。
勝義 「世尊よ、世尊は一切の萬有は、自性なく、生もなく、滅もなく、永恒に絶対寂静の真理である、と教えられますが、これはどういうわけですか?どうかそのわけをお説きください」
 釈尊、勝義生に告げられる。
世尊 「勝義生よ、予はその自性無しということについて、三種類の特性を教えよう。三とは 『相無自性性』 『生無自性性』 『勝義無自性性』 である。これは前に説いた、万象の三つの(すがた)、即ち 『遍計所執相』 『依他起相』 『円成実相』 を夫々の自体について説いたのである。
 万象は仮の名や言葉によって(すがた)ありとする、幻のようなもので、それ自身の相を持っているのではない。従ってこれを @ 『相は自性なきの性』 という。 また万象はひとつとして自体あるものなく、互いの力が相依って成るので、従ってこれを A 『生は自性なきの性』 という。 また真如これらの仮の相からは離れているか、あるいはその境界を顕わす手段として関係するだけで、従って等しく自らの性とすべきものはない。つまり一切の認識差別を離れた、自由平等な無我性、無自性の顕れで、これによって B 『勝義(真如)は自性なきの性』 というのである。
 勝義生よ、斯様に万象には、自らの相がないのであるから、即ち生ずるということはない生ずることがなければ、滅することもないもし無生無滅であるならば、永恒に寂静で、そのまま絶対の真理であるつまりその中には、少しの悟らしむるものも、悟るべきものもないからである。またこれを真如について見れば、幻や影にも等しい万象の如何にかかわらず、絶対独自の境に住している。絶対独自の境に在るから、従って生もなく滅もなく、他の迷いによって起されるものに誤まられることもなければ、永恒に絶対寂静の真理である。斯様に、萬有の相と、真如との二方面から見て、一切萬有は自性なく、生もなく滅もなく、永恒に絶対寂静の真理であるというのである。
 しかし、勝義生よ、多くの人はこの理をわきまえず、 『相互の力に集って出来た相』 や、『真如』 の上に、 『斯く斯くのものなり』 という断定的な言葉を起し、その言葉によって現れる迷いの習性に従い、それを分別覚知し、あるいは潜在意識としてこれを推し計り、斯くして 『遍計所執』 の相を作り、それに執着してそこにまた、因縁の仮の和合になる諸々の相を作って、迷いの世界を展開していくのである。つまり 『依他起』 や 『真如』 の相の上に 『遍計所執』 の相を作り、それに執着してまた 『依他起』 の相を作り、そこに邪悪迷妄の世界を現して、生死の苦悩に流転していくのである」

(2) 無自性の体得

@ 【正しき解脱】
世尊 「勝義生よ、多くの者は斯様な現象の上に迷いに纏られて、明らかな解脱の智慧や力を得ることが出来ぬので、予はこれらの者のために、万象は因縁の仮の和合に依って成り、従って不生不滅であると教える。彼らはこれによって万象は無常にして厭うべきものなることを知り、迷いを去って純浄の真理に心をよせる。 @ その観察や修行について専ら善根を植えて、一切の障りを除き十信) A その境界を永く保って乱さず(十住) B これによって一切をよく理解し十行) C 明らかな解脱の智慧と力との原因を集める十回向)。  しかしこれらの心的状態では、万象が起り来った一応の過程を知るばかりで、その現れた現象それ自体や、それに内在する絶対の真理について知ることが出来ぬ。従って、その無常、苦悩を厭い、欲を離れ、過去、現在一切の煩悩の障りより解脱しようとしても、徒らに相対の現地にあって解脱のために解脱をするので、真に正しい真理の道ではない。更に根柢ある生命を体験せしめて必然的に、正しい厭いと、離欲と、解脱とを得せしめるために、現象そのものは迷いのならわしによって現れたものであり、真如は一切を超過してしかも一切に遍満するものたることを知らねばならぬ。
 ここに於いて更に 『相無自性性』 と 『勝義無自性性』 とを説き、彼らにして真理を求むるに更に忠なるものは、この二種の無自性の性を信じ、理解し、進んでは判別し、思惟し(煙頂位)、真如の所在を明にし(忍世第一法位)、永遠性のない仮の和合の相 『依他起相』 について、迷いの習性 『遍計所執』 を排して、実在なき個別に執着せず、言葉の習わしや、それによる分別覚知、潜在の力を離れ、斯くして絶対解脱の真如に即して集合離散常なき現象のうごめきに、愛着固執して起し来る、生死流転の基を断ちつくすのである。斯くすればこそ、はじめてよく、正しく、差別の世界を厭い、欲を離れ、正しく解脱し、一切の煩悩の障りから脱れえることが出来るのである」

A 【真理に二なし】
世尊 「勝義生よ、一切の生類の中には、その機根に、上中下の別がある。その鈍根の者は 『声聞』 あるいは 『縁覚』 といわるるもので、彼らはただ表面の事象に現われた、生滅無常の相に怖れ悲しみ、一切の終滅の状態を涅槃の理想として、己れのみの解脱を求める。しかしそれは、己れ一個の無を證するだけで、裡に流れやまぬ大宇宙の事象をして、純浄な真理の生存に入らしむることは出来ぬ。不合理な消極利己的な證悟である。これはつまりその修行者が、ただ身や心に關聯して現わされる煩悩を断ち尽くすだけで、万象の何たるやを知らず、永恒に真理の覆いかくされた状態ばかりを観ていくのである。
 しかしこれは要するに、局部に覚めて、全体に覚めぬだけである。もし前に述べた現象の仮の現われから、真如の実在に及ぶ三つの無自性の真理をさとり、あるいはこれを悟った菩薩たちに帰依していくならば、共に真如を体験して、純浄絶対の境界に入ることが出来るのである。つまり色々の智慧や證悟の境界に居る者は、元からその機根が定まっているのではない。ただ求め悟りさえすれば、 『声聞』 の機根の者も 『縁覚』 の機根の者も、菩薩や仏の境界を悟る者の機根も、その間には何等の異なりはない道も結果もただ一である。
 これと同じく予が説くところの教えには、何の差別もなく、悉く絶対清浄の真如の流れに外ならぬが、時により、機根に応じて色々の教えを説き、従ってこれを聞く者によって、夫々異なって證悟を得る。例えば、一切のものは自性なく、無生無滅で、永恒の時に亘って無差別平等なる涅槃の境界である、と説けば、ある者は、この一応の理を聞くことによって、心頓に開けて正しきに向い、よく理解して一切の障りを除き、このことを信じ解くことによって、一切萬有の真相を洞察し、ついに無自性の大生命である真如の実在を観得して、究境の解脱と、智慧と、正覚とを得る。
 またある者は、これによって心正しく、よく理解して、一切の障りを除くとも、この空無我の真理は、その理甚だ深く、到底己れの心や行いにより知り得る境界でない、と自らを卑下して仏の境界と、己れの境界とを絶対に区別し、ただそれを説いた教典を読み尊ぶ。斯様な者は、真如の実在を観得することは出来ぬが、その(もと)を作ることとなる。
 またある者は、この一切無自性の真理を聞いて、一切に自性なきことを理解するとも、その空の一面にのみ執するため、一切の存在、真如に至るまで無とする。これはつまり真理を信じ解くことができても、真理に適わぬことをもその中に交えるもので、その中にはまた、真理に適わぬことに執着するのと、真理に適わぬことを真理とする、のとの二様の者があって、何れも完全な解脱の智慧を具えることが出来ぬ。
 またある者は、一切の万象には自性なくそのまま涅槃の境界であると聞いて、心に怖れを懐き、真理を真理ならずとし、惑わしの説としてこれを謗り、これによって苦悩邪悪の生活を招くこととなる。このように予は絶対清浄の真理を説くとも、人により、種々に差別してこれを聞くのである」
 世尊は更に頌を以て、この意味を示された。

「一切の萬有は皆無性なり
無生無滅にして本来寂たり
萬有の自性は恒に涅槃なり
その義甚だ深く
常人の知るところにあらず。

万象は仮の和合に過ぎず
差別は迷いの計らいなり
万象無我の実在
これ即ち真如
ここに三種の無自性を説く
もしこの真理を究め悟らずんば
正道を失い壊って
仏の正覚に至り得ず。
この三の無自性の真理を悟る外には
一の真理あることなし
仏の道はこの一乗による
ただ信解の如何によって人各々道を異にす。
多くの者は自己の局限に堕し
一身のための滅無をのみこととす。

如来は大悲のこころ尽きず
絶対普遍の真理を證し
一切の有情と倶なる。

覚れる者も、迷える者も
往くべき道は一なり
解脱の境もまた違うなし。
微妙難思の涅槃界に
一切を究竟して
迷いと苦とを離る」

 勝義生、釈尊に言う。
勝義 「世尊よ、この三つの無自性の教えは、実に甚深、微妙、難解の中の難解な真理であります。 『遍計所執相』に対する『相無自性性』 と、その依り所である 『依他起相』に対する『生無自性性』と『一分の真如』 と、一切の『無我性』に対する『真如』 を、精神、物質、迷悟一切の状態について、順次に自らを自らとすべきなき、まことの(すがた)を説かれ、明に了解しました。世尊よ、世尊がたとえ、如何様な形式で教えをお説きになっても、すべてのものは自性なく、従って生滅変化することもなく、永恒に無差別平等な涅槃の境界である、ということが、その基をなしていることも分かりました。それは丁度、どんな薬の中にも、毘濕縛藥が入れられるように、あるいは一つの畫面に様々な彩色が施されるように、あるいはまたどんな食事の中にも、熟酥を入れれば更に美味になるように、また虚空は、如何なる処にも遍く同一に行き渡るようなものでありましょう。世尊よ、このように、世尊の御教えの根底が一でありますから、人によって世尊の御教えを色々に解釈して信じ行なっても、そこには、この『無自性』 『無我性』 唯一真理の実在せぬことはありません。所謂 『声聞』も 『縁覚』も、皆等しく、この真理を味わうことができるのであります」

B 【空、無我の実現】
勝義 「世尊よ、私は世尊の御教えを三つに分類して考えてみましたところ、初め世尊は世の中の存在について四の原理をお説きになりました。それは万象は惑業(まよい)の 『集』を因として 現世の『苦』の果を生じたことを識り、 修『道』の因によって 絶対常住の『滅』の果を得よ、といわれるもので、これは未だ 『有』 に即した真理の消極的方面で、小乗の機根に適した御教えであります。
 然し世尊は、進んで大乗の機根の者のために、 『無自性』 の真理を説かれました。これは現象の生滅変化に心を奪われる 『有』 を超越して、一切はわれわれの認識の迷いから起るものに過ぎぬ、という徹底した 『空』 の観察によるので、目前の差別界を空じ去る微妙な御教えであります。然しそれも未だ 『空』 の一面に堕した積極の中の消極的な真理に外なりません。
 世尊は、更に進んで、その空のまま、無我のままに、而も一切を統摂する真如の大生命、大智慧、大光明を説かれました。これこそ積極の中の積極、真理中の真理であります。如何なる論議も、批判も、この絶対普遍の真理の前には権威を示すことは出来ません」
世尊 「善い哉、善い哉、汝はよくも予が教えを理解した。真に毘濕縛藥、彩色、熟酥、虚空の譬えの通りである。勝義生よ、汝はよくこの理を信じ護り、理に違わず思惟し、思惟のままに行なったなら、その得るところは実に無尽無限である」



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初版:2003年5月20日