掲示板の歴史 その二十一
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NO.433  漢訳阿含の成立
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2006/03/08(Wed) 09:16:39
□IP/ 71.118.35.228

以下、岩波書店『東洋思想第八巻 インド仏教1』所収、榎本文雄著「初期仏教思想の生成――北伝阿含の成立」より要略。

北伝阿含 = インドから北の中央アジアや中国へ伝わった阿含経典、すなわち、北伝の初期仏教経典の総称。北伝阿含のインド語原典は断片的な形でしか残存しないが、漢訳の北伝阿含はまとまった形で現存する。『大正新脩大蔵経』の「本縁部」や「経集部」には、『法句経』や『義足経』などの、第五阿含に相当するものに分類できる経典が収められている。


漢訳四阿含の成立
  1. 『長阿含』(一〇四頁)
    • 四一二〜四一三年に、●(四/マダレ/炎+リ)賓(ケイヒン)出身の仏陀耶舎(buddhayaSas)と涼州出身の竺仏念によって訳出された。その原本はガンダーラ語で伝えられ、法蔵部に属していたと考えられている。
  2. 『中阿含』(一〇四〜一一〇頁)
     (1)漢訳者
    • (1) 三八四〜三八五年 に兜●(人+去)羅(トカラ、現在アフガニスタン北部のトハーリスターン)出身の 曇摩難提(dharmanandin) が竺仏念の助けを借りて訳出したもの
      (2) 三九七〜三九八年 に●(四/マダレ/炎+リ)賓(ケイヒン)出身の ●(貝+貝/隹)曇僧伽提婆(くどんそうぎゃだいば、gotama saMghadeva、略称・僧伽提婆) が訳出したもの
      の二本が存在していたが一方が散逸。現存するものがいずれの訳者の手によるものかが問題になっていたが、近年の研究で後者であると確定(『同朋大学論叢』所収、畝部俊英「東晋の訳経者 僧伽提婆の研究」二四・ニ五合併号、一九七一年、二二六〜三〇〇頁)。水野弘元「漢訳中阿含と増一阿含との訳出について」(『大倉山学院紀要』二、一九五六年、四一〜九〇頁)や同「中阿含経解題」(大東出版社『国訳一切経 阿含部六』一九六九年、四〇三〜四一一頁)などによると、前者は全体としては散逸してしまったが、それを構成していた経の幾つかは他の訳者に帰せられたり、訳者不明の経とされたりして今に伝えられているという。
    • 上記(2)僧伽提婆訳の原本は●(四/マダレ/炎+リ)賓出身の僧伽羅叉(saMgharakSa)が伝持、もしくは、暗唱してきたと記録されている。したがって、『中阿含』の原本は●(四/マダレ/炎+リ)賓地方で伝承されていた可能性が濃い。この●(四/マダレ/炎+リ)賓は、四〜五世紀において、インド仏教の一大中心地と見做されていた場所で、当時、インドから中国へ仏典を伝え、翻訳に当たったのは、ほとんど●(四/マダレ/炎+リ)賓出身か、●(四/マダレ/炎+リ)賓で仏教を学んだ人々であり、中国人たちも●(四/マダレ/炎+リ)賓を目指してインドに旅立った。
    • 中国の南北朝時代において、●(四/マダレ/炎+リ)賓と言えば、インド北部のカシュミールを指すと従来は信じられてきた。それは、かつて、白鳥庫吉教授が●(四/マダレ/炎+リ)賓の所在地を、前漢より晋初にかけては現在パキスタン領のガンダーラ、南北朝時代はカシュミール、隋唐は現在アフガニスタン領のカーピシーを指すと論述したことによる(岩波書店『白鳥庫吉全集 第六巻』「●(四/マダレ/炎+リ)賓国考」一九七〇年、二九五〜三五九頁、『東洋学報』七巻一号、一九一七年に初出)。もっとも、隋代の●(四/マダレ/炎+リ)賓は、カーピシーではなく、カシュミールを指すことは、近年の桑山正進教授の研究で明らかにされている(Sh. Kuwayama, "Khaneh and its Chinese Evidence", Orient 11, 1975, p.101)。ところが、その桑山教授の最近の研究(新潮社『展望アジアの考古学 樋口隆康教授退官記念論集』「●(四/マダレ/炎+リ)賓と佛鉢」一九八三年、五九八〜六〇七頁)や、古くは足立喜六教授の研究(法蔵館『法顕傳』一九四〇年、二八〇〜二八三頁)によると、四〜五世紀の●(四/マダレ/炎+リ)賓も、カシュミールではなく、ガンダーラを指す場合があるという。
      その根拠は次の如くである。五世紀の初めに法顕がガンダーラのプルシャプラで仏鉢を見た。そして、『高僧伝』(五一九年成立)によると、同じ頃、他の中国人たちは、●(四/マダレ/炎+リ)賓で仏鉢を見ている。しかも、この両者の仏鉢は同一のものと見做しうるので、『高僧伝』の●(四/マダレ/炎+リ)賓は漢時代のようにガンダーラを指すと見るべきである。さらに、桑山教授は、カシュミールには、七世紀以前の仏教遺跡が殆どない点もその根拠にしている。(中央公論社、桑山正進訳『大乗仏典 中国・日本編 九 大唐西域記』一九八七年、二四五〜二四六頁)
    • 僧伽提婆や僧伽羅叉が●(四/マダレ/炎+リ)賓出身であるという記録は『高僧伝』より遥か以前の道慈の『中阿含経序』(『大正新脩大蔵経』五五、六三頁下〜六四頁上)に見えるものである。同時代の道安や慧遠も僧伽提婆が●(四/マダレ/炎+リ)賓出身であると記している(『大正』七二頁上下〜七三頁上)。この中、道慈は、『中阿含』などの諸経論の漢訳に際して、その筆受をした人物であり、道安や慧遠も仏典の漢訳事業に関与している。そして、こと翻訳仏典に関する限り、そこに見られる●(四/マダレ/炎+リ)賓は、インド語では、ガンダーラではなく、カシュミールの訳語であることは、『中阿含』の訳出時代以前から『高僧伝』成立期にいたるまで一定している。したがって、このような、仏典の漢訳に関係した人々にとって、●(四/マダレ/炎+リ)賓はカシュミールの訳語と意識されていたと推定される。
      ところが、道安の著作の一つである『●(革+卑)婆沙序(ビバシャジョ)』の中に次のような文章がある。
      ●(四/マダレ/炎+リ)賓の沙門僧伽跋澄、此の経(『●(革+卑)婆沙論』)を諷誦すること四十二処、是れ尸陀槃尼の撰する所のものなり。長安に来至し、趙郎、飢虚在往、求めて焉を出さしむ。其の国の沙門曇無難提筆受して梵文と為し、……

      ここで、道安は、曇無難提(dharmanandin)を「其の国の沙門」と呼んでおり、「其の国」とは、文脈上●(四/マダレ/炎+リ)賓を指す公算が強い。ところが、この同一人物を当の道安が『増壱阿含経序』では、兜●(人+去)勒国、すなわち、トハーリスターンの人と呼んでいる(『大正』二、五四九頁上、五五、六四頁中。ただし、ここでは曇摩難提と音写されている)。道安にとって、トハーリスターンは、●(四/マダレ/炎+リ)賓と同じ地域、あるいは、●(四/マダレ/炎+リ)賓の一部をなす地域であった可能性が強い。
      また、道安の著作のひとつで、現在散逸してしまったものの中に『西域誌』と言う書物がある。たまたま、この書物は、『水経注』の中に『釈氏西域記』として引用されている。そして、この『釈氏西域記』からの引用文の中で、道安は、「新頭河(インダス川)は●(四/マダレ/炎+リ)賓」を通ると記している(『水経注』巻一。ただし、新頭河は●(牛+建)越(ガンダーラ、あるいは、その都城)や摩訶刺諸国も通るという。このうち、摩訶刺を中期インド語形のmahAraTThaの音写語と考えると、現在のインドのマハーラーシュトラ州に当たる。ところが、そこはインダス川の流域ではないので、問題が残る)。ところが、インダス川の本流はカシュミールを通らない。したがって、ここで道安は、●(四/マダレ/炎+リ)賓をカシュミールとは別の地域か、あるいは、カシュミールやインダス川本流域を含む広範な地域と見ているようである。
      以上のような次第で、結局、道安のいう●(四/マダレ/炎+リ)賓は、必ずしもカシュミールのみを指すのではなく、トハーリスターンやインダス川本流域を含めた広範な地域、例えばクシャーナ国全体を指していた可能性がある。したがって、四〜五世紀において●(四/マダレ/炎+リ)賓が何処を指すかということもこのような視点から再考する必要がある。現に、漢訳者の鳩摩羅什による加筆が指摘されている『大智度論』(四〇五年訳)では、現在アフガニスタン領のカーピシー(むしろ、ナガラハーラか?)を指す公算の強い●(四/マダレ/炎+リ)賓の用例が指摘されている。かくて、僧伽提婆や僧伽羅叉の出身地であり、『中阿含』の原本が伝えられていた場所は、カシュミールからアフガニスタンに及ぶ北・北西インドの中のどこかということになる
     (2)原本の言語
    • 近年の(O. von Hinu:ber/フォン・ヒニューバー教授の)研究によって、『中阿含』のインド語原本にはガンダーラ語が用いられていたと推定されている。ガンダーラ語とは、少なくとも紀元前三世紀から後三世紀に至るまで、ガンダーラを中心に現在中国領の東トルキスタンでも使われていた中期インド語の一種であり、現在、インダス川上流域やカシュミールで用いられているダルディク語がその後裔と見られている。このことから、『中阿含』の原本は、以上の地域、すなわち、ガンダーラ、カシュミール、東トルキスタンの内のどこかで伝えられていたと推定できる
    • ガンダーラ語で伝えられていた仏教聖典には法蔵部に属していたものが多いが、それをもって『中阿含』の法蔵部帰属を論じることには無理がある。『中阿含』の教理は、法蔵部の文献に見られるものと異なり、説一切有部系の文献に見られるものと一致する。
     (3)教理内容
    • 従来の教理内容を中心とした研究では、『中阿含』は説一切有部に近い他部派、もしくはガンダーラあたりの傍系の説一切有部に属し、『雑阿含』や『阿毘達磨大毘婆沙論』(『大毘婆沙論』と略称)などがカシュミールの正統説一切有部を代表するものとされていた(大東出版社『国訳一切経 阿含部六』所収、水野弘元「中阿含経解題」一九六九年、四〇九頁)。その根拠として、赤沼智善教授は『中阿含』の中に説一切有部的要素と並んで非説一切有部的な要素も幾つか見られることを指摘している(『佛教經典史論』法蔵館、一九八一年(一九三九年初版)、四一〜四四頁)。
    • 赤沼教授の挙げる非説一切有部的要素
      1. 無記の質問の項目数
        仏陀が解答せず沈黙を守った(無記)という形而上学的な質問の内容を見ると、『中阿含』は、南方上座部のパーリ経典と同じく一〇項目の質問を含むのに対し、『雑阿含』などの説一切有部系の文献では四項目が付け加わり、一四項目を数える。また、法蔵部所属と考えられている『長阿含』では一六項目となっている。
        ところが、説一切有部系の論書の中で古い時代(三八三〜三九〇年 畝部俊英/前掲論文/二八〇頁参照)に漢訳された『●(革+卑)婆沙論』が引用する経文には、『中阿含』と同じ一〇項目が挙げられている(『大正』二八、四六七頁中)。したがって、この一〇項目説は、必ずしも『中阿含』の非説一切有部的要素とは成り得ない。また、この一〇項目説と一四項目説とでは、一〇項目説の方が古いと考えられている(東洋哲学研究所、三枝充ヨシ『初期仏教の思想』一九七八年、五四頁)。南方上座部のみならず、説一切有部でも初期の頃は、この一〇項目説を保持し、それが『●(革+卑)婆沙論』に伝えられていたのであろう(『●(革+卑)婆沙論』の成立については、河村孝照『阿毘達磨論書の資料的研究』日本学術振興会、一九七四年、一一八〜一二一頁参照)。ところが、説一切有部系の教団では、後に、一四項目説に改め、それが『雑阿含』などの文献に反映していると見られる。ゆえに、『中阿含』の一〇項目説も、説一切有部の初期の教理を示しているものとも考えられるのである。
      2. 十二分教の各項目の列挙順
        十二分教とは、形式や内容によって仏陀の説法を一二に分類したものであるが、その順序は部派に応じて相違がある。そして、『中阿含』に見られる十二分教の項目は、『雑阿含』や『大毘婆沙論』などの説一切有部系の文献に見られるものと一個所順序が入れ替わっている。
        しかし、その後の研究によって、この点は、『中阿含』が、説一切有部系内部で、『雑阿含』や『大毘婆沙論』などとは異なる系統に属していたことを示すものであり、また、この場合は『雑阿含』などの方がより本来的な伝承を残していると推定されている(前田惠學『原始仏教聖典の成立史研究』山喜房仏書林、一九六四年、二一六〜二二〇頁)。
      3. 『中阿含』と『雑阿含』の双方に全く同一の経が収められており、このことは同じ部派の経典としては不似合いであると言う指摘。しかし、このような同一経は、同じ部派内、たとえば南方上座部の経典にも収められているので、この指摘も決定的ではない(『中部』九八経と『スッタニパータ』三・九経など)。
      4. その後の研究(平川彰『律蔵の研究』山喜房仏書林、一九六〇年、三八四頁参照)で論拠を失っている。
      5. 根拠不十分。
      6. 根拠不十分。
      7. 『中阿含』に直接関係したものではない。
      8. 説一切有部系の『阿毘達磨順正理論』(『順正理論』と略称)の引用する『中阿含』の経文が、現存の漢訳『中阿含』のそれと異なっていると言う指摘。
      9. 同上。
      10. 『順正理論』の中に、昔は存在したが当時すでに散逸していた経の幾つかが、その内容の一部と共に引用されているが、それら散逸経が現存の漢訳『中阿含』に存在すると言う指摘(経全体が散逸したことを言うのか、引用されている部分だけが散逸したことを言うのか明確でない。そこに挙げられている経の幾つかが『順正理論』の他の個所にも引用されている(『大正』二九、五七三頁下、七一六頁下)ことからすると、経の一部だけが散逸したようにも見える。しかし、散逸したとされる『涅槃経』の当該部分が、『順正理論』の成立後に書かれた梵文写本の中に含まれていたり(mahA-parinirvANa-sUtra 42. 17, ed. E. Waldschimidt)、同じく散逸したとされる『●(貝+貝/隹)博迦経』の当該部分が、『順正理論』成立後のシャマタデーヴァが『目連と学』という経(本庄良文「シャマタデーヴァの倶舎論註――定品」『南都仏教』五〇号、一九八三年、二〜三頁参照)から引用する個所に一致していたりする(『影印北京版西蔵大蔵経一一八』二六三頁、五段、四〜五行=Peking-Tanjur, Thu 111b 4-5)ので問題が残る)。しかし、これらは五世紀後半に成立した『順正理論』が、説一切有部系内部で現存の『中阿含』と相異なる系統に属していたこと、さらに、現存の『中阿含』が説一切有部系内部の古い伝承を残していることを物語るものともとれる。
      11. 同上。
      12. 同上。
      13. 同上。
      14. 同上。
      15. 同上。
      以上の次第で、赤沼教授が指摘する諸点は、いずれも『中阿含』の非説一切有部的要素として確実なものとは成り得ない。これらは、むしろ説一切有部系内部に諸系統があり、現存の『中阿含』が、『雑阿含』や『大毘婆沙論』などと異なる系統に属していたことを示すものであろう。上述したように、『中阿含』には、説一切有部特有の要素も多く認められているからである。また、『中阿含』に古い伝承がしばしば残っていることは、『中阿含』の韻文部の分析からも確認できる(榎本文雄「UdAnavarga諸本と雑阿含経、別訳雑阿含経、中阿含経の部派帰属」『印仏研』二八巻二号、一九八〇年、九三一〜九三三頁参照)。
    • さらに、最近、シュミットハウゼン教授が、いわゆる他心智(他人の心を見抜く知)などの内容項目の検討によって論証したように、『中阿含』は『阿毘曇八●(牛+建)度論』(『八●(牛+建)度論』と略称)と同じく説一切有部の本来の伝承を残しているのに対し、従来、正統派の説一切有部文献とされていた『雑阿含』や、『大毘婆沙論』などの玄奘訳のアビダルマ論書、さらに梵文や西蔵訳で現存する説一切有部系論書は、根本説一切有部の影響を受け改変された新たな伝承を示している(L. Schmithausen, "Beitra:ge zur Schulzugeho:rigkeit und Textgeschichte kanonischer und postkanonischer buddhistischer Materialien", Zur Schulzugeho:rigkeit von Werken der HInayAna-Literatur, ed. H. Bechert, Vol. 2, Go:ttingen 1987, pp. 304-403)。『八●(牛+建)度論』は、最近の研究によると、カシュミールの説一切有部が伝承したものと考えられている(河村孝照、前掲書、三七頁参照)。
    • 最後に、天界の神々の数え方を見ると、『中阿含』は、説一切有部系の中では、カシュミールの論師たちの説に一致し、「西方」の論師たちや、トハーリスターン出身と言われる法勝の説とは異なる(望月信亨『佛教大辞典二』一九三二年、一七四一頁/ 伴戸昇空「漢訳雑阿含考」『印仏研』三〇巻二号、一九八二年、三四七〜三五〇頁/ 『大正』二八、八二六頁中所収『阿毘曇毘婆沙論』)。
    • このようにして、『中阿含』の教理内容は、ガンダーラの傍系の説一切有部というより、カシュミールにおける説一切有部の本来の思想を反映していると見るべきであろう。
    (4)小結
    • 以上、漢訳者の出身地、原本の言語、教理内容の三点にわたって検討した結果を総合すると、『中阿含』の原本は、カシュミールの説一切有部教団において、ガンダーラ語で伝えられていたと推論することができるのである。
  3. 『雑阿含』(一一〇〜一一一頁)
    • 四三五〜四四三年に中インド出身の求那跋陀羅(guNabhadra)が翻訳した。ところが、訳出後、本来の漢訳『雑阿含』を構成していた五〇巻の内、二巻分がそっくり散逸してしまい、そこに他の経典が入り込み、しかも巻の順序が大幅に乱れたものが現存の『雑阿含』である。近年の研究で本来の巻の順序と組織が復元された(向井亮「『瑜伽師地論』摂事分と『雑阿含経』」『北海道大学文学部紀陽』三三巻二号、一九八五年、一〜四一頁)。
    • 『雑阿含』の原本の成立にあたってはマトゥラーの教団が関与しているようである。また、その帰属部派は、上述したように、従来、説一切有部の正統派と言われていたが、近年の研究で、むしろ根本説一切有部の伝承が『雑阿含』の中に認められることが明らかになってきた。根本説一切有部は説一切有部と極めて密接な関係にあったことが両はの文献中の多くの共通点から知られ、根本説一切有部を広い意味での説一切有部に含めるのが一般的である。本稿でも根本説一切有部を含めて説一切有部系と呼んでいる。
    • また、『小阿含』中に収められることもある『パーラーヤナ』や『アルタヴァルギーヤ』などの経典が『雑阿含』の中に引用されたり、『雑阿含』内部で一つの経が他の経に引用されていたりもする。このことから、『雑阿含』はこれら引用されている経典よりも後に成立したこと、また『雑阿含』を構成する各経には新古の別があることが判る。
  4. 『増壱阿含』(一一一頁)
    • 三八四〜三八五年に曇摩難提が竺仏念の助けを借りて翻訳、道安が補正。しかし、『中阿含』の場合と同様、この訳本は散逸し、それを構成していた経の幾つかが、他の訳者に帰せられたり、訳者不明の経とされたりして現存するにすぎない(水野弘元「漢訳中阿含と増一阿含との訳出について」『大倉山学院紀要』二、一九五六年、四一〜九〇頁)。
    • 一方、現存の『増壱阿含』は僧伽提婆の訳であるという伝承があったが、この点は未だ確定されていなかった。それは、僧伽提婆が『増壱阿含』を訳出したという記録に信頼出来る古い資料がないためである。
    • ところで、この僧伽提婆は道安が訳出に関与した経論の改訳に従事していたが、彼が結局改訳出来なかった経論の一覧表を見ると、そこに『増壱阿含』の名はない(『大正』一、八〇九頁中、五五、六三頁下〜六四頁上)。このことは、裏を返せば『増壱阿含』が僧伽提婆によって既に改訳されていたことを意味する。現存の『増壱阿含』には、曇摩難提・竺仏念の訳風が残っていることを問題にする向きもあるが(畝部俊英「竺仏念の研究」『名古屋大学文学部研究論集 五一、哲学一七』一九七〇年、三〜三八頁)、それは、その改訳が初期の頃だったためであろう。僧伽提婆が初期に改訳した『●(革+卑)婆沙論』や『八●(牛+建)度論』にも竺仏念などの古い訳風が認められるからである(畝部俊英「東晋の訳経者 僧伽提婆の研究」『同朋大学論叢』二四・ニ五合併号、一九七一年、二二六〜三〇〇頁、榎本文雄「阿含経典の成立」『東洋学術研究』二三巻一号、一九八四年、一〇四頁)。
    • 成立地としては、北インド、とりわけカシュミールの可能性があるという以外は不明であり、帰属部派もまだもって定かでないが、大乗仏教の影響も多分に受けている(ちなみに、大乗経典と阿含経典を区別する際、思想以外に文体もその基準を提供し得る。榎本文雄「東トルキスタン出土梵文阿含の系譜」『華頂短期大学研究紀要』二九、一九八四年、二三〜二四頁)。また、『増壱阿含』の経の中には、他の幾つかの既存の経を合成したようなものもある。