掲示板の歴史 その二十一
▲[ 433 ] / 返信無し
NO.435  漢訳阿含の成立 補遺
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2006/03/11(Sat) 02:48:01
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また、以下は平川出版社『現代語訳「阿含経典」長阿含経』第3巻所収、丘山新『釈提桓因問経 解題』(二七〜二八頁)より抜粋。
  • 『長阿含経』は、後秦の弘始一五年(四一三)、●(四/マダレ/炎+リ)賓の沙門仏陀耶舎が誦出、涼州の沙門竺仏念が訳出、漢人の道含が筆受したもの。その原本は、ガーンダーリー語で伝えられ、法蔵部に属していたと言われているが、なお確定はしていない。
  • 『中阿含経』には、三八四〜三八五年に兜●(人+去)勒(トハリスタン、もしくはクシャーナ国)出身の曇摩難提が誦出し、竺仏念が筆受(訳出)したもの(『出三蔵記集』大正五五・九九中、「曇摩難提伝」の項)と、三九七〜三九八年に●(四/マダレ/炎+リ)賓の僧伽羅叉が誦出、僧伽提婆が訳出、漢人の道慈が筆受したもの(『出三蔵記集』大正五五・六三下〜六四上に収められた道慈「中阿含経序」による)との二本が存在したといわれる。このことに関しては、水野弘元「漢訳中阿含と増一阿含との訳出について」(『大倉山学院紀要』二、昭和三一年、八八〜九〇頁)、および榎本文雄「阿含経典の成立」(『東洋学術研究』第二三巻・第一号、一九八四年、九三〜一〇八頁)があるが、私見によっても、やはり榎本論文が結論づけるように現存『中阿含経』は僧伽提婆訳とする方が妥当であろう。この「釈問経」と「釈提桓因問経」の訳語とを比較しても、やはり同一の竺仏念の訳出とはいい難いことも一つの証左である。なお、『中阿含経』の原語(ガーンダーリー語と推論されている)や、成立地・伝承地、さらに帰属部派(説一切有部系と推論されている)に関しては、前掲の榎本論文に詳しい。