掲示板の歴史 その二十一
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NO.432  初期仏教の資料
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2006/03/07(Tue) 15:28:38
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以下、岩波新書、三枝充ヨシ著『仏教入門』(二四〜二八頁)より抜粋。
最古の『リグ・ヴェーダ』に用いられたヴェーダ語に親近のサンスクリット語は、「高尚・完全・純粋で神聖な雅語」を意味し、中国では梵語と呼んだ。梵は、インド思想の中枢ブラフマンおよびインド神話における創造神のブラフマーの音写に由来する。サンスクリット語は前四世紀の大文法学者パーニ二によって完璧無比の文法書がつくられ、以後インドの標準語として現在に及ぶ。十八世紀半ば以降サンスクリット語の学術研究がヨーロッパに栄え、ヨーロッパ諸言語との比較研究が進められて、印欧語(インド・ヨーロッパ語族)の発見・確定となった。
標準語のサンスクリット語に対し、俗語ないし方言をプラークリット語(自然の風俗を原意とするプラクリタにもとづく)といい、それにはマガダ語やパーリ語その他がある。またサンスクリット語から派生した別系のアパブランシャ語より、現在のヒンディー語やベンガリー語などが生まれた。インドにはこれらのほかに、先住民の言語としてのドラヴィダ語系などがあり、さらに外来のセム語系も用いられて、地域ごとに異なる。
釈尊の活動範囲から推定して、釈尊と信奉者たちはマガダ語(もしくは半(アルダ)マガダ語)によったと類推されるが、マガダ語のみの文献は現存しない。北インド東部のマガダ語に対し、パーリ語は中部以西の俗語と考えられ、、言語学上はピシャーチャ語の一種で、パーリは聖典を意味する。それはサンスクリット語に近く、俗語の崩れは比較的少ない。
おそらく仏滅直後の最初の結集(教団の集合会議)にはマガダ語が用いられ、それ以後に仏弟子の西方への布教によってパーリ語に移され、また別に、マガダ語からサンスクリット語に変えられたとみなされる。
パーリ語文献はアショーカ王の時代にスリランカに伝えられ、のち東南アジア全域にひろまり、以後二千数百年間も多少の変遷を受けながらもそのまま通用して、現在はいっそう栄えている。ただしそのなかの一部にマガダ語がまじり、却って聖典を印象づける。南伝仏教圏では、それぞれの言語が、スリランカのシンハリーズ語はインド系、ビルマ(ミャンマー)はチベット語系、タイは中国語系などと、まったく異なるけれども、仏教用語のパーリ語使用は変わらず、逆にかれらの共通語とされる。
戒しめから律蔵(ヴィナヤ・ピタカ)への固定化とならんで、釈尊および最初期の教え(一部はその活動の記録もふくむ)は、経(スートラ、スッタ、長いものはスッタンタ)にまとめられ、それがその語の原意どおりに縦糸にされて、仏教思想を伝える資料の中核となる。金口の説法と称される釈尊自身のことばは、とうに隠れて不明ながら、それはマガダ語からパーリ語に、またはサンスクリット語(ときに混淆サンスクリット語、仏教梵語ともいう)に転じ、後者からは漢訳や一部にチベット語訳が生まれて、現代に伝えられる。
経は、初期仏教に関しても、種類も量も多く、経蔵(スッタ・ピタカ)の語がふさわしい。それは弟子たちの口誦によって各世代に伝来し、次第に広範囲に拡大する。それらは伝来をあらわすアーガマ(アーはこちらへ、ガマ=ガムは来るの意)と呼ばれて、中国では阿含と音写され、他方、パーリ語はニカーヤ(部の意)と称する。
釈尊をふくむ初期仏教の教説を伝える貴重な資料は、このアーガマ文献のみに限られる。しかし同時に、数百年にわたる口伝の間に、その伝誦は、増大や付加(増広という)、また削除や喪失(損耗という)を受け、編集に類したこともおこなわれた、とこの文献中に語られている。それらの現在形への固定は、中期仏教の部派仏教においてはじめて達成された。
したがって、アーガマ文献は釈尊ならびに初期仏教の教えを物語る唯一の経典群でありつつ、現存のそれらは原型そのままでは決してなく、かなりの変容を受けており、当然、その資料の扱いには充分で精密な文献学的研究を経由する必要がある(付加するまでもなく、後代の大乗経典から初期仏教いわんや釈尊の教説を探索することは、到底できない)。
アーガマ文献に関し、今日に伝わる最古の編集形態として、経の形式にもとづく九分割があって九分経と称し、おそらくのちに三種が追加されて十二分経と呼ぶ系譜もある。この術語では、分は部と、経は教と変わる例もみられる。
それを、サンスクリット語に漢訳を添えて示すと、(1)スートラ(契経)、(2)ゲーヤ(応頌)、(3)ガーター(諷頌)、(4)ニダーナ(因縁)、(5)イティヴリッタカ(本事)、(6)ジャータカ(本生)、(7)アドゥブタダルマ(未曾有)、(8)アヴァダーナ(譬喩)、(9)ウパデーシャ(論議)、(10)ウダーナ(自説)、(11)ヴァイプリヤ(方広)、(12)ヴィヤーカラナ(授記)が、十二分経であり、九分経は右のうち(4)と(8)と(9)とを除く。これらは右の名称のみが後代まで広く伝わるにすぎず、その実態は判然としない。
現存のアーガマ文献はつぎのリストのように、おおよそその各々の経の文章の長短によって、四つのグループ、すなわち(1)長い経、(2)中ぐらいの経、(3)短小の経、(4)残余を一から十一までの数でくくったグループとから成る。そして、(5)さらに、以上に洩れた十五種より成るグループに分類されている(この区分はすでにマガダ語の資料において成立したと考えられる)。
パーリ語五部右の邦訳漢訳四阿含
(1)『ディーガ・ニカーヤ』『長部』『長(じょう)阿含経』
(2)『マッジマ・ニカーヤ』『中部』『中阿含経』
(3)『サンユッタ・ニカーヤ』『相応部』『雑阿含経』
(4)『アングッタラ・ニカーヤ』『増支部』『増壱(ぞういち)阿含経』
(5)『クッダカ・ニカーヤ』『小部』
(5)の小部は、ごく一部の漢訳を残すのみ、しかし雑蔵の名でその存在が処々に伝えられる。またパーリ五部は上座部に属し、漢訳四阿含の各々は原典を伝えた部派も訳者や訳時や訳所も異なるが、およそ五世紀初頭には出揃う。なお漢訳には、右のほかに部分的ながら別訳があり、また右のグループからは独立の単経も少なくない。
パーリ五部と漢訳四阿含とにふくまれる経の数(一部は概数)は、つぎのとおり。
(1)『長部』三四経『長阿含経』三〇経
(2)『中部』一五二経『中阿含経』二二二経
(3)『相応部』二八七二経『雑阿含経』一三六二経
(4)『増支部』約二三〇八経『増壱阿含経』四七一経
(5)『小部』一五経
パーリ小部のうち、『スッタニパータ』(経集)と『ダンマパダ』(法句経)とが、最も古く、重要でよく知られ、『ウダーナ』(自説または感興偈)、『イティヴッタカ』(本事または如是語)、『テーラガーター』(長老偈)、『テーリーガーター』(長老尼偈)、『ジャータカ』(本生物語)もみのがしがたい。
小部を除くパーリ四部と漢訳四阿含とは、右の表の各々ごとに大綱はほぼ共通するものの、細部には異同がかなり多く、まったく一致するものは皆無といってよい。両者の各経の比較研究において、双方に共通するものは、その原型がおおむね部派分裂以前の成立とみなされよう。また漢訳仏典は、(1)年代がほぼ明確、しかも古い、(2)書写がその当時におおよそ固定などの利点があり、このことは後述の大乗仏典にも通ずる
マウリヤ王朝滅亡のあと、西北インドにギリシア人があいついで国を建て、そのひとりメナンドロス王(前一六〇年ごろ)は現在のアフガニスタンからインド中部までを支配した。この王は公式にはギリシアの神を信奉していたが、仏教への関心も強く、仏教僧ナーガセーナ(那先比丘)と二日間対話をおこない、三日目に仏教徒になった、と仏教側の資料は伝える。
この対論集はパーリ語の『ミリンダパンハ』(ミリンダ王の問い)、漢訳の『那先比丘経』として現存し、そのなかで両者の合致する個所は古い。このテクストでは、ギリシア対インドの対決が、きわめて興味深い。
なおアショーカ王の時代に仏教教団が派遣した伝道師のなかにギリシア人の比丘がふくまれ、またサーンチーの碑文にギリシア人の寄進銘があるなど、インドに入ったギリシア人の仏教帰依の諸資料も知られる。
以上の諸資料のほかに、いわゆるシルクロードの各地などで発見・発掘される諸文献があり、仏教梵語によるものが多い。また一部にはチベット語訳その他がある。
初期経典は、(1)韻文すなわち詩のみ、(2)韻文と散文、(3)散文のみの三種に分かれ、現在の学説ではおおむね韻文が古く、散文はあとで付加されたのであろう、と推定されている。
出家者の集団である教団には律蔵があり、比丘・比丘尼の守るべき規則を集めたものを波羅提木叉(パーティモッカ、プラーティモークシャ、戒経・戒本)と称し、この条文集は比較的早くまとめられた。のちにその規定の解釈をめぐって諸部派に分裂し、各部派ごとに律蔵を整備した。すなわち上座部のパーリ律、漢訳には、法蔵部の四分律、説一切有部の十誦律、化地部の五分律、大衆部の摩訶僧祇律、根本説一切有部律(チベット訳もある)の五種が伝わる。
律の条項に付随して、その規定の所以が記録され、これを因縁譚と称して、経蔵のなかの釈尊の回顧談とともに、やがて本生譚(『ジャータカ』など)や仏伝また教団史などの資料となった。
仏伝すなわち釈尊の伝記は、当初はそれほどの関心を呼ばなかったが、仏教の普及とともにその数も増加し、華麗に飾られて、広く流布した。これらはむしろ文学作品として、中期仏教にかけて栄える。
そして以下は岩波書店『東洋思想第八巻 インド思想1』所収、榎本文雄著「初期仏教思想の生成――北伝阿含の成立/一 阿含経典概観」より抜粋(一〇〇〜一〇一頁)。
阿含経典は次の四、ないし、五つの部分から成る。これらは、初期の仏教教団が南方上座部、説一切有部、法蔵部など約二〇の部派に分かれて後は、それらの部派ごとに伝承されてきた。そのため、部派が違えば内容は相当異なり、使われる言語や名称まで異なる場合もある
(1)『長阿含』(dIrghAgama)、南方上座部では、『長部』(dIghanikAya)――比較的長い経を集めたもの。
(2)『中阿含』(madhyamAgama)、南方上座部では、『中部』(majjhimanikAya)――中ぐらいの長さの経を集めたもの。
(3)『雑阿含』あるいは『相応阿笈摩』(saMyuktAgama)、南方上座部では、『相応部』(saMyuttanikAya)――比較的短い経を内容に応じて分類して集めたもの。
(4)『増壱(ぞういつ)阿含』(ekottarikAgama)、南方上座部では、『増支部』(aNguttaranikAya)――比較的短い経を、その主題に含まれる数(二種の罪が主題なら二)に応じて分類し、順に配列したもの。
(5)『小阿含』(kSudrakAgama)、あるいは、『雑蔵』、南方上座部では、『小部』(kuddakanikAya)――上記の四阿含や四部に収められなかった、主に比較的小さな経典を集めたもの。ただし、説一切有部などでは、これを第五阿含とせず、経律論の三蔵に含めない場合もある。