掲示板の歴史 その十六
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NO.378  極楽の起源
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2005/02/22(Tue) 19:22:54
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西方極楽浄土(スカーヴァティー)思想の起源に関する学説には、主に次の四つがある。

 @ インド内部説
 A イラン説
 B ユダヤ教説
 C エジプト+ギリシア説

そこで、以下にできるだけその根拠の詳細をリストする。


@ インド内部説
  1. ヤマの天国説(若干の学者による支持)
    以下、『リグ・ヴェーダ』より。
    行け、行け、太古の道によって、われらの古き祖先が去り行きしところへ。スヴァダー(祖霊への供物)を楽しむ両王を汝は見ん、ヤマと神ヴァルナとを。
    祖先と合同せよ、ヤマと[合同せよ]、祭祀・善行の[果報]と[合体せよ]、最高天(ヤマの居所)において。欠陥を棄てて、[汝の]家郷(死者の世界)に帰れ。光輝に満ちて、[新たなる]身体と合体せよ。
    去れ、散り去れ、ここより這い去れ(悪魔に向かっての言葉)。この者(死者)のため、祖先はこの場所を設けたり。ヤマは、昼・水・夜もて飾れる安息所を彼に与う。
    (X「ヤマ(死者の王)の歌」, 14, 7〜9、岩波文庫辻直四郎訳『リグ・ヴェーダ讃歌』二三一)

    つきせぬ光明のあるところ、太陽の置かれし世界、そこにわれを置け、[ソーマ・]パヴァマーナよ、不死(恒久)にして滅ぶことなき世界に。――インドゥ(=ソーマ)よ、……。
    ヴィヴァスヴァット(太陽神)の子(ヤマ、死者の支配者)が王たるところ、天界の密所(楽園)のあるところ、かの若々しき水(新鮮な水)のあるところ、そこにわれを不死ならしめよ。――インドゥよ、……。
    欲するがままに動きうるところ、第三の天空において、第三天(最高天)において、光明に満つる世界のあるところ、そこにわれを不死ならしめよ。――インドゥよ、……。
    (IX「ソーマ(神酒)の歌」, 113, 7〜9、辻本一一〇)
    このように、天上のヤマの楽園には常住不断の光があり、それは不死にして不滅の世界であるという。

  2. ヴィシュヌ神の天国説(荻原雲来博士)
    同じく『リグ・ヴェーダ』によると、ヴィシュヌの最高の歩処(padaM paramam)には蜜があるという。 
    われ願わくは、彼のいとしき領土に達せんことを、神を崇むる者たちの陶酔するところに。そこにこそ闊歩の[神]の親縁(関連)はあれ。ヴィシュヌの最高歩(最高天)には蜜の泉あり。
    (I「ヴィシュヌの歌」, 154, 5、辻本四二)
    また甘露(amRta)があるとも言われているが、それはソーマ酒のことをいう。その原語 amRta が、俗語で amita または amida となったのであり、それを後代の人々が無量の意味に解した。太陽は神酒ソーマと同一視されたから、太陽に即して無量光、無量寿が考えられるようになった。
    この語源解釈は疑わしい(中村元談)が、根拠がないわけではない。
    ダルマーカラ・ビクの第二十六願(サンスクリット本)では、「ナーラーヤナ神(ヴィシュヌ神)のような強い力を得たい」と発願している。このことから浄土教とヴィシュヌ教との間に連絡があることは間違いない。

  3. 梵天世界との関連性(中村元氏)
    アミタをアムリタの転訛であると解釈せずとも、 amita を無量の意味に用いた例がバラモン教に古くからある。『カウシータキ・ウパニシャッド』(一・三以下)に述べられている梵天の世界(brahmaloka)の叙述と、少なくとも何らかの関連があると考えられる。そこでは、梵天の玉座は「無量の威力」(amitaujas)とよばれている。この玉座は梵天世界における中心的意義をもったものであり、この一節の教義は、後代のヴェーダーンタ学者によって「玉座の明知」(paryaNka-vidyA)と呼ばれているほどである。この「無量の威力」とは、インド一般の見解に従った解釈・翻訳であるが、 ojas には仏教サンスクリット特有の意義としては光輝・光明の意義があり、漢訳仏典では「光沢、光色、精光」と訳されていて、「無量光」に繋がるものであることが分かる。

    「無量寿」に関しては、このウパニシャッドには説かれていないが、梵天の世界には不老(vijarA)という河があり、そこに達した人は老いることがないであろうという。
    以下は梵天世界と極楽浄土の対比。

    ●梵天世界  ⇒ そこにはサーラジヤという都市があり、アパラージタという宮殿があり、インドラ神とプラジャーパティ神とがその門衛であり、ヴィブという大広間があるという。
    ●極楽浄土  ⇒ 多数の宮殿があり、そこには美麗な玉座があるという。

    ●梵天世界  ⇒ 『カウシータキ・ウパニシャッド』では五百人の天女(アプサラス)が梵天世界に入った人に向って来るという。
    ●極楽浄土  ⇒ これに対して、極楽の生ける者はおのおの七千の天女に取り巻かれて逍遥し、戯れ、楽しみ、遊び回っている。

    ●梵天世界  ⇒ 「百人の天女は果実を手にし、百人の天女は膏油を手にし、百人の天女は華鬘を手にし、百人の天女は衣裳を手にし、百人の天女は香粉を手にして」かれに向って来るという。
    ●極楽浄土  ⇒ 「諸の飾具、すなわち首飾、頸飾、手足飾、すなわち冠、耳環、腕飾り、胸飾り、頸飾り、耳飾り、指印環、金鎖、帯、金網、真珠網、一切宝網、金宝鈴網」が欲するがままに樹木から垂れ下ってくるという。また、ダルマーカラ・ビクが過去世に求道者としての行を行なっていたときに、「一切の宝の荘厳、一切の被服、法衣、一切の華、焼香、薫香、華鬘、塗香、傘蓋、幢、一切の楽器、歌詠」がかれの一切の毛孔および両手の掌から出てきたという。
    [ウパニシャッドの梵天世界が、仏教以前の古代インド上層階級の簡素な生活を反映しているのに対して、極楽浄土は、恐らく、クシャーナ王朝時代の富裕な資産家の生活欲求を反映しているのであろう(中村談)]

    ●梵天世界  ⇒ イリヤという樹木があると、『カウシータキ・ウパニシャッド』では、極簡単に述べられている。
    ●極楽浄土  ⇒ 一本の菩提樹(bodhi vRkSa)があるといって、その高さは千六百ヨージャナあるといい、巨大な数字を用いてそれの絢爛たるすがたを述べている。この点では、浄土経典はむしろヒンドゥー教のプラーナ聖典の叙述に類似している。

  4. シヴァ信仰の影響(中村説)
    ダルマーカラの師であったローケーシヴァラ・ラージャ(世自在王仏)のローケーシヴァラとは、ヒンドゥー教のシヴァ神の別名である。ヴィシュヌ神の千の名の中にはこれに類似した呼称はあるが同一のものはない。このことからシヴァ信仰との関連性も考察されなければならないが、浄土教にはヒンドゥー教の影響があることは確かである。

    諸々の天の世界の観念は、バラモン教乃至ヒンドゥー教から仏教のうちにとり入れられ、それらに影響されて極楽浄土の観念が成立したのであるが、仏教神話のうちでは、特に他化自在天(シヴァ神の世界)の観念をうけているのであろう。「極楽に生れた人々は、他化自在天のごとし」とか「他化自在天と極楽に生れた人々とは異なることなく、ともに大神通力がある」などという。

  5. 西方楽土思想の影響(中村説)
    西方に理想を求めるという宗教信仰は、ひろく原始民族一般を通じて認められるものである。
    インドでも西方に特別の意義を持たせる考えは存在していた。
    例えば、ヴェーダ聖典のうちでも、特にバラモンに重んぜられたサーヴィトリー頌を学習するに当って「それ故に、かれ(学習者)は(西方を向いて)西方で見つめつつある(師)に向って、東方で(サーヴィトリー頌を)読誦すべきである」という(Santapatha-brAhmaNa XI, 5, 4, 14)。

  6. 補遺(記事[No.382])参照(中村説)

A イラン説
  • 阿弥陀仏の思想はインドにとっては外来思想であると解して、スキチア族やペルシア人の太陽神話やミトラ神信仰などにそれの起源を求める諸学者もいる。

B ユダヤ教説(岩本裕氏)
  • 名前の意味 「スカーヴァティー」はユダヤ教やキリスト教の「エデンの園」のエデンの訳語もしくはその名にヒントを得たものである。「エデン」とはヘブライ語で「快楽」を意味するエーデンのアラム語形であり、アラム語はヘブライ語と同様、西部セム語派に属する。(『旧約聖書』は最初で遍述された) このアラム語およびアラム文字は、ペルシアのアケメネス王朝において用いられ、そのアケメネス王朝の東の端にインドがあった。インド人はアラム文字の影響下にカローシュティー文字を作成、所有し、またアショーカ王はアラム語およびアラム文字をいくつかの碑文に使用した。アショーカ時代のインドにおいては、建築様式にもアケメネス朝文化の影響がみられる。 したがって、「エデン」の語や観念が、インドに伝わった可能性は十分ある。

  • 方位観
    両者共に方位観の上に成り立っており、しかも砂漠のオアシスの象徴であると考えられる。
    「エデン」 ⇒東方。アッシリア語「砂漠(エデュヌ)」と同原語。
    「極楽」 ⇒西方。砂漠のオアシスの神話化した「無熱悩池(アナヴァタプタ)」の拡大増補版。この池はその岸が金・銀・瑠璃・水晶で飾られ、金沙(黄金の砂)が満ちあふれていて、波は清らかで鏡のように光り、清らかで冷い水をたたえているという。
  • しかしながら、定方晟氏はこの方位観の相異から、エデンがスカーヴァティーの起源であるとは考えられないと主張する。

  • また定方晟氏は、仏教の極楽がエジプトのアメンテ、ギリシアのエリューシオンと同様に死の観念に対応しているのに対して、キリスト教では善なる人間が死して赴くのは天国であってエデンの園でないことを指摘している。

C エジプト+ギリシア説 (定方晟氏)
  • エジプトの「アメンテ」とギリシアの「エーリュシオン」の思想が極楽思想に結びつくのではないか。
  • エジプトには古くから、人は死後 amnt(西方)に生れるという思想があった。それは不死の国であり、幸せの土地、微風の吹く土地であった。
  • ハルムハビの墓のテキストの一部に
    「オシリス・Ounnofri につき従うための、アピュドスへの平和の渡航である。――偉大なる主は汝たちとともにあり、西方に、西方に、正しきものの土地!汝が愛せし場所は歎きつつ叫ぶ。汝を曳くものすべては、幸いをえて来たったのである。汝の従者は汝を抱く、おお、主の寵児のあいだに恙なく赴く汝よ、[また]非とさるべき何ものをも持たぬ汝よ!おおオシリス・ケントアメンティよ、かれ心地よき微風をもたんことを許されよ、かれ生けるものの国の讃め祀らるべき人の列にあらんことを許されよ、オシリス・ハルムハビよ!」(マスペロの仏語論文より)
    とある。オシリスは死してよみがえる神であり、人は死ぬとオシリスとなってこの西方なる土地に蘇える。
  • 末期ギリシアの歴史家プルタルコス(四六頃〜一二〇以後)は amnt(西方)を amenthEsとして伝えている。この言葉はコプト語においては「アメンテ」(amnt)となって伝わっている。これは「アメンテ」の思想が少なくとも二世紀頃まで続いたことを示している。
  • イエス・キリストが復活するという思想にも、このオシリスの信仰が影響した可能性がある。
  • このように、西暦一、二世紀において、オシリス信仰は少なからず影響力を持っていた。

  • ギリシア神話の「地の涯のエーリュシオン」もやはり西方にあるとされる。ホメロスによると「そこ(エーリュシオン)は金髪のラダマンテュスが(治めて)いて、この上なく暮し易いところである。雪も降らず、冬の暴風も酷からず、大雨もけっしてなく、常住オーケアノスが爽やかに吹くゼピュロス(西の微風)の息吹を送り、人間どもの気を引き立たせる」とある。(呉茂一『ギリシア神話』新潮社) 後世にストラボーン(前六四〜二一以後)は、この文章を引用した上で「なんとなれば、ゼピュロスの清らかな空気とやさしい風は、ともにまさしくこの国に属するのだからである。というのも、この国は西にあるだけではなく、暖かいからでもある」と述べている。
  • ギリシア神話には、「エーリュシオン」のほかに類似した観念として、「マカローン・ネーソイ(至福者の島)」や「ヘスペリデスの園」がある。前者は春風が吹き、樹木に金色の花が咲く幸福の島であり、後者は西の方、太陽の没するところ、オーケアノス(極洋)の涯に位置し、黄金の実を結ぶ樹があり、へスペリデス(へスペロス/黄昏の娘の複数形)が、常に歌い舞っている。呉茂一氏によれば、ピンダロス(西紀前五二二〜四四二)らの詩人では、時代の推移とともに、「至福者の島」ゆきの条件には、若干の倫理的な基準が加味されているという。

  • ローマ帝国がキリスト教化して徹底的な弾圧が行なわれる以前、ヘレニズムの時代、エジプトの地を治めたプトレマイオス一世は、ギリシアとエジプトの宗教を融合してアレクサンドリアに「サラペイオン」という神殿を作り、サラピスという神を祀った。サラピスというのは彼が神官たちに考案させた人工的な神で、ギリシア神話のゼウスとエジプト神話のオシリスおよびアピスが習合された神であった。
  • ニルソンによると、「エーリュシオン」の思想は、古い時代、エジプトからクレタ経由でギリシアに入ったものだという。つまり、「エーリュシオン」がエジプトのアレクサンドリアへ行って「アメンテ」と合体したとしても、それは一度輸出された品物が逆輸入されたということにすぎない。
  • アフガニスタン首都カブールの北方にあるベグラムは昔のカピシであり、七世紀にここを訪れた玄奘によれば、これはかつてインド王の夏の都であったという。定方晟氏はこれを「おそらくクシャーナ朝の王のことであろう」と推測する。クシャーナ朝は第一クシャーナ(西紀一世紀頃)、第二クシャーナ(西紀二世紀頃)、第三クシャーナ(西紀四世紀頃)に区分することができ、第二クシャーナ朝のカニシカ王は仏教の保護者として有名である。クシャーナ朝の文明的状況や、貨幣が文字はギリシア文字、推定第二クシャーナ朝の都のあと(と考えられるカピシ)から今世紀初頭にフランスの学者たちに発掘された物品の内容(例えばアテナ、ヘラクレス、またセラピス・ヘラクレスといったギリシアの神や英雄の像)などを考慮すると、クシャーナ族はギリシア愛好者であった可能性が高い。
  • 『大無量寿経』は西暦一四八年から二五八年のあいだに、知られるだけでも五回に亘って中国語に翻訳されている。これはまさに第二クシャーナ王朝の時代である。そして訳者もパルチア、クシャーナ、サマルカンド、クチャといった第二クシャーナ朝下に活躍した人々であると考えられる。