掲示板の歴史 その十六
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NO.382  インド起源説 補遺
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2005/03/06(Sun) 10:52:15
□IP/ 4.27.3.43


※ インド起源説に基いた極楽思想の考察(中村元説『浄土三部経(下)』二三九〜)

  • 七重の欄楯(らんじゅん)
    鳩摩羅什訳には「七重欄楯」、玄奘訳には「七重行列妙宝欄楯」とある。
    欄楯とはストゥーパ(大きな塚)のまわりにある石垣のこと。例えば、現存のサーンチー第一ストゥーパは、現存するものとしては最も完全なものであるが、その欄楯は一重である。それが七重になっていて、七回も右めぐり三周ができることを理想として考えていたのではなかろうか。欄楯はストゥーパの外側にあって破壊されやすく、現存サーンチーのものが完全をたもつ唯一のものであるので、何ともいえないが、後代にはさらに発達したものがあったと考えられるし、「七」という数は、「七仙人」や「七仏」に見られるように、古くから神聖な数であったので、恐らく、クシャーナ時代の仏教徒が「七重の欄楯」を理想としたのだろう。

  • 七重のターラ樹の並木の列
    チベット訳には Sin ta laHi phreN ba rim pa bdun、羅什訳には「七重行樹(しちじゅうごうじゅ)」、玄奘訳には「七重行列宝多羅樹」とある。
    インドでは霊場の境内の、参詣道の両側に並木の列をつくるならわしがあり、今日なおヒンドゥー、イスラーム両教徒を通じて認められるから、かなり古い時代にまで遡り得るものであろう。その並木の列は直線的で、左右均斉であり、日本のように不均斉を尊ぶ観念が無い。ストゥーパ(または祀堂)へ参詣する道の並木の列が七重であるというのであろう。
    一般には仏教徒はこういう道を通ってストゥーパに参詣し、そのまわりを右肩を向けながらねり歩いた。これは、インド古代の習俗を仏教徒が取り入れたものである。しかし、浄土経典はストゥーパに言及していないようである。「殿堂」(ヴィマーナ)や「楼閣」(クーターガーラ)には言及しているが、ストゥーパ崇拝を強調してはいない。菩提樹崇拝には言及している。恐らくストゥーパ崇拝の徒の間からではなくて、巨大な仏像を崇拝していた人々の儀礼と結びついて、浄土教は発達したのであろう

  • 蓮池
    サンスクリット原文では霊場(tIrtha)とよばれ、そこには階段があると記されているから、ヒンドゥー教一般を通じて認められるように、「水辺の階段を下りて行って水浴する霊場」をいう。霊場としての池は、しばしば寺院に附属していて、四角形、ほぼ正方形であり、どの辺からも下りて行ける。そこを下りて行って、ヒンドゥー教徒は水浴を楽しむ。いわば、今日、運動競技が行なわれる大スタジウムが、円形でなくて正方形であり、その底(競技場)に水をたたえているようなものであり、そこに蓮が生えているのである。そして、まるで観覧席のような周囲の階道が、すべて黄金と銀と吠瑠璃と水晶という四つの宝からできている、と考えていたのである。
    また、このような階段式の霊場は、河川にそって岸辺につくられていることもある。ベナレスの水浴場はその典型的なものである。これを念頭において理想化し、『無量寿経』は「極楽浄土の諸々の河川には浴場の階段があり、泥なく、黄金の砂が撒布されている」というのである。今日でも、ベナレスなどの霊場の水浴場では岸辺に傘を立て、水浴した人々が上って来て、傘の下で日光の直射をよけながら砂の上にころがっているが、そのような場所に泥がなくて、黄金の砂がしきつめてあったらどんなにすばらしいことだろうと、浄土教とたちは空想したのである。

  • 車輪のような大きな蓮華
    『阿弥陀経』によると、極楽浄土の蓮池には「車輪のような大きな蓮華がある」と説く。インドの池には実際に車輪のような大きな蓮華の花の見られることがあるから、インド人のこの空想には実際の根拠がある。

  • 黄金や宝から成っている自然
    極楽浄土の自然は、すべて黄金や宝から成っているものとされている。恐らく、浄土経典のつくられたクシャーナ王朝時代は、インド古代・中世史を通じて、金貨の流通量が最も多かったし、また最も良質のものが通用していた時代であったので、このような希望的空想がかきたてられたのであろう。また宝石からできている樹木を楽しみたいというのは、宝石を重んじるインド人の本能的な欲望だったのであろう。南アジアの成金のうちには、宝石でつくった盆栽をいくつも置いて楽しんでいる人がいる。こういう事例もあるから、極楽浄土の荘厳、美しさは、全然でたらめな空想の所産ではなく、当時の富者階級の生活が理想化され誇張されて、そこに反映しているのであろう。

  • 女性がいない世界
    ダルマーカラ・ビクの誓願によって、極楽浄土には女性はいないことになっている。女性はすべて男性に生まれ変わっている。
    この思想の起源はよく分からないが、決して仏教特有のものではない。
    『サンユッタ・ニカーヤ』によると次のようにある。
    心よく静まり、智慧が顕われたならば、
    正しく法を見るものに、女性たることが何の障りがありましょう。
    われは男か女かと、かくのごとく惑って、
    そもそもわれは何ものぞや、と思うものこそ、
    悪魔が語るにふさわしいのです。(第一巻、一二九、中村『釈尊のことば』一〇七)
    これは「婦人を宗教的に差別してはならない」という原始仏教の思想である。
    この思想が『法華経』、『須摩提菩薩経』、『大宝積経』第九八巻、『無所有菩薩経』といった大乗経典になると基本的に女性を否定する立場から女人成仏、転生男子の思想に転化する(※ただし、往生は成仏ではない)。『無量寿経』の「呉訳」と「宋訳」では極楽に往生する女性は「男子に生れる」とするが、梵本では単に「女子に生れない」とあるだけで、往生後の性別については触れていない。
    ヒンドゥー教の諸聖典や文献に出ている性の転換の例をみると、むしろ、男性が女性に変化する話ばかり出ていることからも、この極楽の男性思想はヒンドゥー教とは異なる他の起源に由来するものであるといえる。

  • 空観的な象徴的表現と差別待遇の観念
    極楽の衆生は「空中を滞りなく行く」という。極楽浄土には、財産や住宅に対する執着はない。自分のもの、他人のものという区別もない。また異本(『無量寿荘厳経』)の第十二願に「無量無数の諸々の仏刹土は、無名・無号・無相・無形にして称讃せらるるところ無しと聞く」とあるのも、空観の影響であると考えられる。
    ただし、後代になると玄奘訳『阿弥陀経』には階位的差別待遇の観念が反映してくる。『阿弥陀経』の原文(10)には、ただ「退転せざる」(avinivartanIya)とあり、チベット訳もクマーラジーヴァ訳も直訳しているのに、玄奘訳は非常に長くて、「皆不退転、必不復堕諸険悪趣辺地下賤蔑戻車(mleccha)中」となるが、ムレーチャとは異民族のことであり、それを軽蔑している。彼らをけなすのは仏教の普遍主義と矛盾する。恐らく、グプタ王朝(西紀三二〇年〜)以後のサンスクリット復興、バラモン教中心主義の影響であろう。

  • 「無量光」(amitAbha)の観念
    「amita」とは「計量する」という意味の動詞の語根「mA」の過去分詞形「mita」に、否定の接頭辞「a」が付いたもので、これが「AbhA」と結合して「連声(れんじょう)」というサンスクリット語の文法規則により本来ならば「amitAbhA」となるはずだが、「amitAbha」として語尾が短母音(男性形)に置き換わって「所有複合語(bahuvrIhi)」となっている。つまり厳密にいうと、「amitAbha buddha」は「無量の光の仏」ではなく、「無量の光を持つ仏」とか「無量の光を伴った仏」という意味になる。
    この「無量光」の観念は、光を尊ぶ古代インド思想に基いている。
    『チャーンドーギャ・ウパニシャッド』(III, 13. 7)には「この天よりも高く、すべてのものの背面、一切のものの背面にあり、無上最高の世界において輝く光明は、実にこの人(プルシャ)の内部に存するこの光明である」とあり、また同ウパニシャッド(III, 14,2)にはアートマンが「光明の相あるもの」(bhArUpa)と記されて尊重されている。『無量寿経』には、無量光仏の光の広大無辺であることを讃えた詩が見られるが、これもまた諸ウパニシャッドやインドの国民詩『バガヴァッド・ギーター』における伝統的な表現を受けたものである。

  • 「無量寿」(amitAyus)の観念
    寿命に限りがない、無量である、ということは、当然願わしいことであると考えられていた。古い仏典である『ラリタヴィスタラ』においても、侍臣が国王に向って「寿命が無量であれ(amitAyus)」ということを願っている(Lefmann編, p.199, v.7)。人間の生命への希望がここに投影されている。

  • うなじの「円光」
    『観無量寿経』によると、無量寿仏の項(うなじ)には「円光あり」という。これはしかし、お互いに接触があったとは考えられないような宗教、文化間に共通の現象が見られることから、仏教特有のものではなく、むしろ人間そのものの精神性、傾向に由来するものであると考えてよいのではなかろうか。例えば、ジャイナ教の祖師・高僧の絵画にも常に描かれているし、また西洋ではカトリックの聖者像にhaloとして附せられている。英雄の像に円光を附することはアメリカ・インディアンの間でも行なわれ、勇士の絵の多くには光輪(円光)が描き込まれている。

  • 絢爛たる「傘」
    無量寿仏に向って諸菩薩が花束をふりかけると、それが直ちに百ヨージャナに亘る宇宙的に巨大な、そして美しい柄の傘を形成し、これが全身を覆うという。
    クシャーナ王朝時代の仏・菩薩像には後ろに柄がついていて、その上に絢爛たる彫刻を施された傘が乗せられているものがある。その中でも、インドのサールナート博物館にあるものは、豪華精緻という点ではおそらく代表的なものであり、上のような想像の傾向に対応するものである。

  • 三尊と一体三神(trimUrti)の関連性
    浄土経典には無量寿仏が観音菩薩と大勢至菩薩とを脇侍としていると説かれているが、この弥陀三尊の記述が、ヒンドゥー教の一体三神(trimUrti、三位一体)の思想と関係あるか否かが問題となる。ボンベイ沖のエレファンタ島には、三面の巨大な神像が残っていて、これらとの関係も想像される。
    また一体三神説が説かれる以前の段階に対応していると考えると、叙事詩に見られるようなヴィシュヌ(クリシュナ)とシヴァの二大伸を同一視しようとする傾向に淵源があるとも推察できる。この場合、観世音はヴィシュヌ神に、大勢至はシヴァ神に相当するものであるといえる。