掲示板の歴史 その十四
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NO.366  両部不二
□投稿者/ 義仙
□投稿日/ 2005/01/25(Tue) 20:40:33
□IP/ 219.164.110.141

>>[正木晃]すでに指摘したように、『大日経』の場合は、大日如来にしても、胎蔵マンダラにしても、すべてが「空」なるものとして、あらわれていると説く。ところが、『金剛頂経』が説く如来たちの世界、つまり私たちがそこに合一すべき理想の世界は、須弥山のはるか上空に、私たちの側の条件とはまったく無関係に、仏教の用語をつかえば、根器にかかわらず、それ自体が「空」ならざるものとして、時の経過とも無関係に、つねに存在する(講談社選書メチエ『密教』一三九)

>[空殻]『金剛頂経』を再読してみました。『金剛頂経』、少なくとも『真実摂経』が「空」についてまったく触れていないことから、たしかに上の正木氏のような取り方もできるような気がしないでもないのですが、どうもそれでは納得がいかないというのが私の見解です。悟りや法の人格化というのは『華厳経』や『大日経』でも既に行なわれていますし、それ以前からも大乗仏教経典というのは時の経過とある意味無関係に現れてきたものであって、また設定にしてもかなりこちら側の条件を無視していますから、『金剛頂経』もその延長線上にあると考えるのが適当なのではないかと思います。また、『真実摂経』に一切義成就菩薩に対して一切如来が
  • 良家の息子よ、自分の心を見きわめる瞑想にはいるがよい。自己の真実の本性を成就させる『オーン、わたしは自分の心を見きわめよう』という真言を、自分の思うがままに唱えよ。(岩本訳『密教経典』八〇所収)
  • (如来の)家系に属する息子よ。みずからの心に通達するために精神を集中させ、本質としてその有効性が確定している[自性成就]次の真言を、欲するままにとなえながら、修練しなさい。(頼富訳『中国密教』五二所収)
  • 通達せよ、善男子よ、『自己の心の各各に観察する三昧』によって、(すなわち、その命題の内容とそれを誦することとの同一性がその)本性よりして成就しているところの(、したがって、誦しさえすればそのことが成就する筈の、次の如き)真言を好きな(回数)だけ誦することによって……。オーム・チッタプラティヴェーダム・カローミ(オーム、われは[自]心[の源底]に通達せん)。(津田訳『金剛頂経』三五所収)
>と告げているように、『大日経』の中枢である「如実知自心」すなわち「悟りとは自分の心を実の如くに知ることである」という理念を基本として踏まえているのではないかと考えられるところから、『大日経』の「空」もまた『金剛頂経』においては自明の理であって、敢えてまったく触れられていなかったという可能性も否めないと思います。


空殻様、長文引用お疲れ様です。m(__)m
真言宗の関係者は教相は「大日経住心品」を基に、事相は「金剛頂経」にというのが暗黙の了解みたいになっております。例えば「息災護摩次第」は、「金剛界念誦次第」がベースになっております。
よく鎌倉仏教系の宗派の一部のお坊さんや上座部仏教を支持される方には密教の入我我入観は外道の教えとレッテルを張る方がいます。
でその見方についての反論として「大日経」の空思想を紹介する。

ただ、真言密教では一つの真理を金剛界、胎蔵の二つの局面で著しているという『両部不二』の思想がありますが両部の経典の一つ「大日経」は7世紀の半ば頃西インドで成立と伝えられます。
一方、「金剛頂経」は7世紀後半、南インドで成立したといわれています。
(ここら辺の記述は、学生時代のあやふやな記憶で書いております。文献の引用ができません。あしからず(>_<)
金剛頂経を成立させた密教者と大日経を成立させた密教僧と交流があったのでしょうか?
ここら辺は推測の域でしょうね。