掲示板の歴史 その十四
▲[ 366 ] / 返信無し
NO.367  二元論的誤解
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2005/01/26(Wed) 13:47:46
□IP/ 4.27.3.43


>長文引用お疲れ様です

せっかく資料が手元にありますし、試みに比較引用を施してみました。
これによって、以前の記事にて引用していただいた「正木晃氏の文章」とされる内容に、若干の間違いが含まれていることが効果的に指摘できました。
これが参考資料活用のポイントの一つです。
(感想とうろ覚えとでは不可能ですからね。笑)


>真言宗の関係者は教相は「大日経住心品」を基に、事相は「金剛頂経」にというのが暗黙の了解みたいになっております。例えば「息災護摩次第」は、「金剛界念誦次第」がベースになっております。

なるほどねえ(^_^)
まあそれでも『大日経』に基いた事相も膨大にあるわけですから、後付で出来た真言密教特有の両部思想に基いて『大日経』『金剛頂経』を教相、事相で二元論的に区切るような立場は本末転倒ですし、よくない誤解を招くような気がいたします。例えば日本の四度加行の『胎蔵界念誦次第』というのも『大日経』に基いてますし、『大日経疏』二十巻に関しては、そのうち第三巻前半までが『大日経』「住心品」の注釈で「口の疏」(教相)、それ以後は「奥の疏」(事相)とされてます。
つまり、厳密にいうと教相は「住心品」を基に、事相は『大日経』『金剛頂経』両経にというのが本来の図式なのだと思います。暗黙の了解ってのは、時折質し合ってみる必要があるかも知れませんね。


>よく鎌倉仏教系の宗派の一部のお坊さんや上座部仏教を支持される方には密教の入我我入観は外道の教えとレッテルを張る方がいます。でその見方についての反論として「大日経」の空思想を紹介する。

それがいちばん手っ取り早い方法なんでしょうね。


>ただ、真言密教では一つの真理を金剛界、胎蔵の二つの局面で著しているという『両部不二』の思想がありますが両部の経典の一つ「大日経」は7世紀の半ば頃西インドで成立と伝えられます。一方、「金剛頂経」は7世紀後半、南インドで成立したといわれています。

『金剛頂経』の成立地は南インドがコンセンサスになってますが、『大日経』の成立地に関しては西インド説のほか北、南、中、東インド説があり、西説と中説が有力ということです。

以下は『大日経』成立地説の諸相(参考文献:頼富氏『大日経入門』『中国密教』)。

@ 北インド成立説
  • 厳密には北西インド。あるいは近接国であるパキスタン、アフガニスタン
  • 『大日経序』の記述。
    開元十六年(七二八)に崔牧が撰述したとされる。
    北インドの勃ロ(口+魯)羅国(現在のパキスタン領バルティスタン)の城北の石窟に蔵されていた『大日経』を猿が持ち出し、樵が集めて国王に献上したという伝承(清水谷恭順氏などが支持)
  • 『大毘廬遮那経供養次第法疏』
    霊妙寺の僧であった不可思議の撰述で、善無畏三蔵がインドから中国への旅の途中、北インドの乾陀羅国(現在のパキスタン領ガンダーラ地方)の金栗王(おそらくカニシュカ王)の仏塔において仏の加護を祈ったところ、空中に『大日経』第七巻「供養次第法」の文字が現れたという伝承。
  • 迦畢試国(現アフガニスタンのコーダーマン盆地など)が仏教文化の中心地であったことなど。(仏教美術史家の小野玄妙氏)
A 南インド成立説
  • 松本文三郎氏
    (特定の地名を挙げていない)
    (1)原典請来者の無行が南インド旅行中に得たのではないか
    (2)両部の大経の一方である『金剛頂経』の南インド成立はほぼ確実なので『大日経』もその可能性がある
B 西インド成立説
  • 栂尾祥雲氏『秘密仏教史』
    羅荼国(蘇刺侘国、現西インドのグジャラート州カティヤワール半島南部地方)
    (1)義浄『西域求法高僧伝』に明呪(真言)が盛んであったと説いており、道琳・玄照などの中国僧が西インドで密教(密呪)を学んだことを記している
    (2)『大日経』では、教理を説く「住心品」で、地・水・火・風・空の五大の比喩として、水界がすべての人びとに歓楽を与えるものとし、また「具縁品」では、大海を渡ることなどを説く。これらは、海を知る人びとによって編纂された証拠である。
    (3)『大日経』では、曼荼羅を説く「具縁品」その他、尊像が登場する個所で、それらの衣裳に関する記述が現在も見られる「パタ」など比較的軽装を示している。これは寒冷地ではありえない。
    (4)この羅荼国と隣接する代臘毘国(同じく西インドのカティヤワール半島東部)は、当時東ローマ・ペルシャなどとの交易で栄えており、さまざまな文化が交流していた。『大日経』を含む密教は混淆主義(シンクレティズム)の色彩が強い。
  • 上記見解の宮坂宥勝氏による補強
    (1)「住心品」に説かれる百六十の心(人間の心の種々相)のうち、「塩心」・「海等心」・「商人心」のうち前二者は海と関係があり、後者は当時の西インドが西方諸国との海上交易で繁栄していた状況と符合する。
    (2)大日如来という尊格は宇宙的性格からいってもインド以外の異教的要素も含んでいる。文化の接触地帯においては最適である。
  • ただし密教系遺品は少ない。
    (1)アジャンター石窟(後期窟、五世紀〜八世紀)には金胎両系の尊像は皆無
    (2)エローラ石窟(後期窟、六世紀〜九世紀)では『金剛頂経』系の尊格、通密教像が知られるのみ
C 中インド成立説
  • ガンジス河中流地域 (現マディヤプラデーシュ州の「中央インド」ではない)
  • 大村西崖氏『密教発達志』
    多数の漢訳資料を用いてナーランダー寺院の隆盛を説く。
    (1)『大日経』漢訳者、善無畏三蔵の伝記にあるが、彼は明らかに中インドのナーランダー寺院で、身・口・意の三密行完備の密教を伝授されていた。ここには『大日経』について言及していないが、『大日経』『金剛頂経』両経がその中心であったと考えられる
    (2)義浄『西域求法高僧伝』の記述から、梵本『大日経』を北インドまでもたらした無行は、ナーランダーで学んだことは疑いない
  • 松長有慶氏
    上記大村説に賛同
    (1)善無畏はナーランダー寺院で『大日経』の相承を受けたと考えるのが自然
    (2)同地は、大乗仏教が興隆して以後、四〜五世紀のグプタ期の隆盛以来、仏教の中心地である。複雑な成立過程を持つ『大日経』も、仏教研究の長い伝統を持つナーランダーで編纂された可能性が高い
    (3)加えて、ナーランダーをはじめ近隣のパトナーやブッダガヤーなどの博物館には、降三世や大威徳などの明王像、さらには金剛手・金剛薩タなどの純粋に密教系の石像が少なからず収蔵されているのは好都合である
  • 如来形タイプ(宝冠をかぶらない)胎蔵大日如来蔵の出土。
D 東インド成立説
  • オリッサ州を中心とする。
  • 頼富本宏氏
    (1)二種類の胎蔵大日如来蔵(如来形と菩薩形)が、オリッサ州のラトナギリ(Ratnagiri)とラリタギリ(Lalitagiri)の両遺跡から出土
    (2)八大菩薩、不空羂索観音、摩利支天、八方天など胎蔵曼荼羅に登場する尊格の多くがオリッサ州から出土
    (3)『大日経』の漢訳者善無畏はオリッサとの関係が深い
    (4)『大日経』の成立に影響を与えた『華厳経』もオリッサと近親性がある
    (5)海に関する記述も海辺国オリッサにまさに適応する
  • 胎蔵大日の真言を刻んだ大日如来像が発見されていることからも、『大日経』の流行地であったことは事実。
また以下は『金剛頂経』の成立地について。
  • 以下の論拠で、ほぼ例外なく南インドとされている。
    (1)南天竺で『金剛頂経』を授かったという、いわゆる「南天の鉄塔」説の伝承
    (2)『初会金剛頂経』に関係の深い金剛智が南インドのバッラヴァ王朝と関連を持ったこと
    (3)彼の弟子で『三巻本教王経』を訳出した不空が、インド、もしくはスリランカで密教の資料を得たこと
    (4)シャーキャミトラの注釈『コーサラの荘厳』に、コンカナ(Konkana)、サヒヤ(Sahya)など、主に南インドで同経を学んだと記していること
    (5)空海のサンスクリット語の師匠であった般若の伝記にも「時に、南天、持明蔵を尚ぶと聞き、遂に便ち、往詣し、未だ聞かざるを諮稟(しひん)す。灌頂師厥名(そのな)法称あり。瑜伽教を受け、曼荼羅に入る。三密護身五部契印、是の如く承奉す」とあり、南インドが密教(持明蔵)を尊ぶことを強調するとともに、「瑜伽教」「五部」という『初会金剛頂経』と不可分な用語を用いていることは、同経の南インド流行を裏づけているものと考えられる
  • 南天竺とはいえ、アマラーヴァティー、ナーガールジュナコンダ(NAgArjunakoNDa)、カンチープラム(Kan~chIpuram)などの地方(現アーンドラプラデーシュ、タミールナードゥ両州)を中心とする地方ではなく、頼富氏の見解によれば「オリッサを流れるマハーナーディー(MahAnAdI)河を遡ったシルプル(Sirpur)、そしてその西部に現在位置しているナグプル(Nagpur)を結ぶ線以南」(中央公論社『中国密教』三五八)のことであるという。
>金剛頂経を成立させた密教者と大日経を成立させた密教僧と交流があったのでしょうか?ここら辺は推測の域でしょうね。

論書ではないですし、それはタイムマシンがなければ分からないでしょうね(笑)
ただ、頼富本宏氏は大きな理由を二つ挙げて、『大日経』と『金剛頂経』とは断絶したものではなく、後者は前者の影響のもとに作られたとしています。

以下、『大日経』から『初会金剛頂経』への影響
  • 本尊が同じ毘廬遮那であること。
    『大日経』では単なる「毘廬遮那」(Vairocana)
    『初会金剛頂経』では「金剛界」(VajradhAtu)という固有名詞を具有した毘廬遮那に展開
  • 部族(kula)が説かれることとその展開。
    複数の尊格を整理体系化し、全体仏との属性関係を規定する。
    『大日経』 ⇒「仏」「蓮華」「金剛」の三部の体系
    『初会金剛頂経』 ⇒「仏」「金剛」「宝」「蓮華」「羯磨」の五部の体系