掲示板の歴史 その十四
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NO.364  金剛界と空
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2005/01/21(Fri) 18:20:47
□IP/ 4.27.3.43


>[正木晃]すでに指摘したように、『大日経』の場合は、大日如来にしても、胎蔵マンダラにしても、すべてが「空」なるものとして、あらわれていると説く。ところが、『金剛頂経』が説く如来たちの世界、つまり私たちがそこに合一すべき理想の世界は、須弥山のはるか上空に、私たちの側の条件とはまったく無関係に、仏教の用語をつかえば、根器にかかわらず、それ自体が「空」ならざるものとして、時の経過とも無関係に、つねに存在する(講談社選書メチエ『密教』一三九)

『金剛頂経』を再読してみました。
『金剛頂経』、少なくとも『真実摂経』が「空」についてまったく触れていないことから、たしかに上の正木氏のような取り方もできるような気がしないでもないのですが、どうもそれでは納得がいかないというのが私の見解です。
悟りや法の人格化というのは『華厳経』や『大日経』でも既に行なわれていますし、それ以前からも大乗仏教経典というのは時の経過とある意味無関係に現れてきたものであって、また設定にしてもかなりこちら側の条件を無視していますから、『金剛頂経』もその延長線上にあると考えるのが適当なのではないかと思います。
また、『真実摂経』に一切義成就菩薩に対して一切如来が
  • 良家の息子よ、自分の心を見きわめる瞑想にはいるがよい。自己の真実の本性を成就させる『オーン、わたしは自分の心を見きわめよう』という真言を、自分の思うがままに唱えよ。(岩本訳『密教経典』八〇所収)
  • (如来の)家系に属する息子よ。みずからの心に通達するために精神を集中させ、本質としてその有効性が確定している[自性成就]次の真言を、欲するままにとなえながら、修練しなさい。(頼富訳『中国密教』五二所収)
  • 通達せよ、善男子よ、『自己の心の各各に観察する三昧』によって、(すなわち、その命題の内容とそれを誦することとの同一性がその)本性よりして成就しているところの(、したがって、誦しさえすればそのことが成就する筈の、次の如き)真言を好きな(回数)だけ誦することによって……。オーム・チッタプラティヴェーダム・カローミ(オーム、われは[自]心[の源底]に通達せん)。(津田訳『金剛頂経』三五所収)
と告げているように、『大日経』の中枢である「如実知自心」すなわち「悟りとは自分の心を実の如くに知ることである」という理念を基本として踏まえているのではないかと考えられるところから、『大日経』の「空」もまた『金剛頂経』においては自明の理であって、敢えてまったく触れられていなかったという可能性も否めないと思います。

>[正木晃]理想の世界にほかならない金剛界は、無限の過去から、それが本来あるべき色究天王宮という場に、ほとんど無数の如来たちの集合体として存在していた。それが今度は、歴史上のブッダの成道によって、須弥山のはるか上空によ浮揚する金剛摩尼宝頂楼閣という場に、いままさに大日如来となったブッダを中心とする金剛界大曼荼羅として、あらわれたというのだ。(講談社選書メチエ『密教』一三九)

どの訳を見ても、アカニシュタ天にある「色究竟(しきくぎょう)天王宮」が「無限の過去から、金剛界が本来あるべき場所」であるという言い回しはされていません。文脈からもそのような意味が伺えません。このアカニシュタ天(色究竟天)は色界(物質界)の最高天であり禅定の階位においては第四禅の最高位に位置するので、このことと関連付けが行なわれた上での記述なのかと推察します。
また、どうやらこの「金剛摩尼宝頂楼閣」(もしくは「金剛摩尼宝峯楼閣」)は須弥山の頂にあるのであって、「はるか上空に浮揚する」というのは以下のように見ても間違いのようです。
東京美術、津田眞一『金剛頂経』より

そこで一切の如来たちは再びかの一切如来薩タ[土+垂]金剛より出でて虚空蔵大摩尼宝灌頂によって(金剛界如来に)灌頂し、(ついで)観自在(菩薩)の法の智慧を生起せしめ、(さらに彼を自分たち一切の如来を代表する)「一切如来」として一切業者(いっさいごっしゃ、すなわち宇宙建造者)たる地位に据え、(その上で彼を伴って)須弥山の頂上なる金剛摩尼宝頂楼閣に移動した。(そしてそこに)移ると、金剛界如来を加持して「一切如来」たるの資格を授け、一切如来の師子座に一切方に向いて坐らせたのであった。(四二)

中央公論社、頼富本宏『中国密教』所収『金剛頂経』より

ついで、一切如来たちは、ふたたびその一切如来(金剛界如来)の金剛杵から出でて、空間を(宝の)蔵とする広大な宝珠によって(金剛界如来を三界の法王として)灌頂し、(有情の領域を)観察することに精通したかたの諸存在[法]を認識する智慧を生起させ、一切如来の種々なる働きを実行するかたとして位置づけてから、須弥山の頂きにある、金剛石と宝珠と宝石(がちりばめられた)屋根の尖った楼閣[金剛摩尼宝峯楼閣]へと向われたのである。そこに、移動しおわって、(一切如来たちは)金剛界如来を、一切如来たちとして加護をなし、一切如来(にこそふさわしい)獅子座に、あらゆる方向(四方)にお顔が向くように坐らさしめた。(五七)

読売新聞社、岩本裕『密教経典』所収『金剛頂経』より

さて、一切の如来は再び一切の如来の金剛のように堅固な本質を出て、虚空蔵の大宝玉の灌頂によって灌頂し、アヴァローキテーシュヴァラ(観自在菩薩)の教えの智慧(すなわち「慈悲」)を生じ、一切の如来がいかなることでもなしえられる状態を固めたのち、スメール山の頂上にある金剛宝珠の尖塔の聳える宮殿に赴いた。そして、加護を垂れてヴァジラ=ダートゥ如来を一切の如来の位に据え、一切の如来が坐る獅子座に、どの方向からもその顔が見られるように坐らせた。(八三)
「金剛界」が一切如来の集合体である大日如来そのものであること、一切如来をその身に取り込んで大日如来を体現した一切義成就菩薩が「金剛界」そのもの、そして「金剛界如来」となることなど、神秘的で象徴的な描写が多い『金剛頂経』ですが、同経典にあるような具体的な場所設定がそれほど重要な意味を持つのかどうか、私には疑問です。むしろ、『大日経』の「広大金剛法界宮」はそれがどこであるのかが特定されていませんし(ただし『大日経疏』はこれを魔醯首羅天宮、つまり他化自在天とする)、この方がより抽象的で「私たち側の条件に支配されない」のではないかと思います。。『大日経疏』によると、この「金剛法界宮」の「法界」とは法身である大日如来の境地(智慧の身)の意味で、「金剛」は変異することなく破毀されることもない不尽不壊な状態を表現するということです。これについては『大日経疏』から参考までに該当部分を以下に引用します。
栂尾祥雲訳『大日経疏』より

その中、「大」とは、竪にも横にも辺際のないことであり、「広」とは数えることの出来ない数量の多きことである。「金剛」とは諸法(もの)の実相(まこと)を照見する本不生の智体に喩えたものである。すなわち、それは対立する一切の言語なり心行(こころゆき)の道の超過し、心の行くところ所依なく、諸法の実相を示すべき言語を絶離している。初も中も後もなき無始無終にして、終尽すべきものでもなく壊滅すべきものでもない。有とか無とかの待対の諸の罪過を離れて変異することも破毀することもできないものなるがゆえに金剛と名づけるのである。
すべて世間(よのなか)の金剛宝に三つの最勝のことがある。一には破壊することのできないものなるがゆえに、二には宝の中で最上のものなるがゆえに、三には戦具の中で最も勝れたるものなるがゆえである。これ智度論(四七)に百八三昧を説ける中の金剛三昧と金剛輪三枚と如金剛三昧との三種の三昧における金剛の喩とその意、大に同一なのである。
「法界」とは広大なる金剛の智の体のことにして、その智の体とは、いわゆる法身如来の実相智の身のことである。
この金剛の智と法界の理との加持(ちからぞえ)をもってのゆえに、真実の功徳に荘厳せられる処となり、本地法身の妙住の境として、心王なる本地身の都したもうところなるがゆえに「宮」というのである。
この宮殿(みやい)は、これ古来の仏が始めて菩提(さとり)を成就したまえる処にして、いわゆる魔醯首羅(maheshvara)天宮のことである。智度論(九)によると、色界の第四禅天に九天ある中、後の五種の天は那含(anAgAmin)、すなわち不還果の聖者の住処にして、これを浄居天(shuddhAvAsa)と名づけるのである。これを過ぎて彼方に、十住すなわち十地の菩薩の住処がある。これをまた浄居天という。号して大自在天王宮というものもこれである。
いまこの大日経宗に明らかにする義をいえば、自由自在に加持(ちからぞえ)する神妙不思議の心王の本地身の所宅(すまい)なるがゆえに、名づけて自在天王宮というのである。いわゆる法身如来の理と智との相応する処にしたがって、至るところ、この宮殿にあらざるはなく、ただ独り三界の表面に立つるもののみに限らないのである。(四八七〜四八八)
欲界の最上位「他化自在天」にあるはずの魔醯首羅(maheshvara)天宮を広大金剛法界宮のロケーションであるとする説は『華厳経』第六会との関連を匂わせていて興味深いのですが、それだと『智度論』に解釈されるとする「色界の第四禅天の上位五種とその上にある十地の菩薩位の境地」を「大自在天宮」とする考えとは矛盾してしまいます。他化自在天と第四禅天の上位五位とは十三天も離れていますし、法身如来の加持を得られるならばどこでも「自在天王宮」になる、というのもまた牽強付会の感が否めません。これらの解釈にはやはり無理があるようです。