掲示板の歴史 その十四
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NO.356  『大乗起信論』
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2005/01/12(Wed) 15:51:02
□IP/ 4.27.3.43


『大乗起信論』

岩波書店『東アジアの仏教』所収、柏木氏「本学思想の形成」より(二八一〜)。
  • 同論書は南北朝時代、南朝梁代末に梁都建康に招かれた訳経三蔵・真諦(しんだい、paramArtha 四九九〜五六九。五四八〜五六九年中国滞在)によって漢訳されたといわれているが、信憑性が薄い。
  • 馬鳴菩薩作の伝承があるが現実的説ではない。実際の著作者は不明で、しかもインド成立であるかどうかも疑問視されている。
  • 『宝性論』とは別系統の作品。
  • その成立事情、背景などの確定は、現在入手可能な資料の性格から困難であると考えられる。
  • 同論書の教理内容が中国仏教の文献に登場するのは真諦の中国滞在期間中あるいはおそくともその直後の時代(つまり六世紀中葉)であったことは、関係資料の成立年代から見て間違いない。

  • 如来蔵思想を説く代表的な論点とされる。
  • 同教授は論文「如来蔵思想」にて、同論書は「如来蔵思想と阿頼耶識説の折衷」であるとしている。
  • その名のとおり「大乗総摂説」的性格の強い論書。現在のわれわれが知らされているような大乗の諸経論がある程度出揃ったあとにそれらの諸経論の教説を多角的に採り入れることによって大乗仏教の理論と実践を総括することを目的とし、仏教論書としては稀に見る整合性を発揮する。
  • 同教授は同論文において、中国と日本の仏教を含めた本覚思想の源流を考察するための起点を、この論書の登場とその周辺の諸状況に置いて考察する。
  • 「本覚」という語が中国仏教の文献にあらわれてくるのは同論書の真諦訳テキストが最初である(田村芳朗氏)

  • 同論書における「本覚」の語義
    一切の衆生の心に本来具有せられた不生不滅の心性――本来自然のままの悟り(筑摩書房『大乗仏典』所収、柏木訳『大乗起信論』)

  • 同論書の論旨「立義分・解釈分」
    一貫して「衆生心」(=心あるいは一心)に対する洞察であり、この「心」を把握するために二種の観点として「心真如門」と「心生滅門」を挙げ、これらをめぐって唯心の世界における理論と実践を開示する。

    @ 心真如門
    心のあるがままの真実のすがたにおいて捉える立場。
    大乗の究竟態であり、そこには心における生滅去来するもの、あらゆる多義性が壊滅、鎔融する不生不滅の世界として描かれる。同時に、この心真如の世界は心生滅の世界(現実におけるあらゆる心意の展開する諸相)にとってはつねに根本であるという。
    A 心生滅門
    心が現実にさまざまに展開しつつあるすがたにおいて捉える立場。
    心生滅因縁相ともいう。
    衆生心が現実にさまざまに展開する諸相のありかたを捉える立場であり、迷悟・染浄の織り成すわれわれの現実の経験世界の全体。この世界は「心真如相になりきることができていない」という意味で「不覚の迷妄に左右されている非究竟の一切の境位」を指すが、その基体はつねに心真如でなければならない

以下、中村元編『大乗仏典』所収、柏木弘雄訳『大乗起信論』より如来蔵、アーラヤ識、本覚などに関する引用。
  • 心が現実にさまざまに展開しつつある世界とは、いかなるあり方において存在しているのであろうか。それは「如来蔵」(一切衆生の心中に本来的に宿されている悟りの性質)にもとづいて成立している、と言われる。(三八一、上)

  • 現実のわれわれにおける心のあり方は、「不生不滅」と「生滅」とが和合して、しかも両者は一でもなければ異なるものでもないという関係にあると言わなければならない。われわれの現実におけるかかる心の構造をここに<アーラヤ識>と名づける。(三八一、上下)

  • <アーラヤ識>は「覚」(心の本性にたいする覚知)と「不覚」(心の本性にたいする迷妄)との二義を有し、現実における迷いの生存から最高の悟りに到達せる覚者の立場にいたる一切の衆生の心のあり方を包含し、また一切の心のあり方を生起させるものである。(三八一、下)

  • 本覚とは「始覚」(修行の力によって始めて開顕される覚知)にたいしていわれることであるが、始覚は本来、本学と同一のものであるからである。始覚という意味は、本覚があるからそれにもとづいて「不覚」(心の本性に対する迷妄)があり、その不覚の立場にもとづいて始覚の意味が語られるのである。(三八一、下)

  • もしも「覚性」(覚の本性)をまったく離れて論ずるならば、それに対して迷うということ(「不覚」)も成立しないのである。しかしながら、不覚による妄想の心がわれわれの心に描き出されていることによって、かえって迷いの世界に対する悟りの世界というものを推求し、その名と義とをわきまえて、「真覚」を説き示すことができるであろう。(三八四、上)

以下は同『大乗仏典』所収柏木訳より真如の捉え方に関する二つの立場について。
心のあるがままの真実のすがた、それはわれわれの思惟・表現をはるかに絶したものではあるが、もしかりに言葉によってこれを説明するならば、
 真如を「空」の方面から考察すること(「如実空」)
 真如を「不空」の方面から考察すること(「如実不空」)
という二つの立場が考えられるであろう。第一の立場においては、真如にあっては本来、一切の迷妄が空無であるということをつきつめていって、それを払拭することによって、真実のすがたを明らかにすることができるからであり、また第二の立場においては、真如には一方において、何ものにも否定されることのない自体があり、汚れのない本来のすぐれた徳性を具有していることが明らかにされるからである。
真如が「空」であるといわれるのは、真如が本来、一切の汚れ(「染法」)と渉わりあうことがないからである。真如は、一切の諸法を差別的認識によって把えようとする立場からはとうていその真相に触れることのできないものであり、そこには虚妄の心念がないからである。真如の本性は、有でもなく、無でもなく、有にあらざるものでもなく、無にあらざるものでもなく、有にしてかつ無なるものでもない。また一でもなく、異でもなく、一にあらざるものでもなく、異にあらざるものでもなく、一にしてかつ異なるものでもない。すなわち、われわれの思考形式におけるあらゆる手段をつくしてこれに近づこうとするも、かかる妄念にもとづいた差別的認識(「分別」)の尺度によっては、その真相に触れることができない。このような差別的認識を超越した真如のあり方を「空」と言う。したがって、もし妄心を離脱するならば、真如そのものには、実に否定さるべき何ものも存しないのである。
つぎに真如が「不空」であるといわれるのは、すでに真如の自体が空であり、そこには何らの妄念も存在しないことが明らかにされたのであるから、これは「真心」とも言うべく、常・恒・不変にして、あらゆる清浄なる徳性を完全にそなえているから、「不空」と名づけられるのである。しかし、このようなすぐれた徳性も、決してわれわれの差別的認識によって、形相のあるものとして把えられるごときものではない。それはあくまでも、妄念を離脱した心の境界であり、ただ自らの無分別の心による実証によってのみ、その真相に触れることができるのである。(三八〇下〜三八一上)
この件に関しては『勝鬘経』でほぼ同様の内容が説かれている。
記事「No.353」参照。



覚え書き
  • 「覚と不覚」
    如来蔵思想と唯識思想の折衷として、同論作者は「不生不滅の如来蔵に依って現実の生滅心があり、アーラヤ識はこのような心生滅の世界をすべて包含する」という。このアーラヤ識には覚(自性清浄心)と不覚(智慧の欠如による迷妄)の二義があり、両者の互いの関連において一切法の生滅の世界が成り立っている

  • 「法身」
    心の本性は一切の差別的な妄念を完全に離れていて、この姿は虚空の如くにすべてに遍満している。これは永遠に不滅なる仏の「法身」であり、これに基いて「本覚」が説かれる。(『大乗起信論』三八一、下、趣意)