掲示板の歴史 その十三
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NO.327  Re: 教えて下さい。
□投稿者/ のび
□投稿日/ 2004/12/22(Wed) 18:26:17


空殻さま、ありがとうございます。 不作法な文字色で書き込みまして失礼しました。

座頭の方が小さいのに余裕がある、強く見える、そして作者が老人と自分を重ねているのではないか、という観点に、なるほど、と頷いております。

加納鉄哉は、岐阜奉行所の御用達を務める名門旧家に生まれましたが、幕末の厳しい環境の中で家産が傾き、貧窮の生活の中で母が亡くなり、14歳の時、長良崇福寺の住職に引き取られたそうです。その後、19歳ぐらいの時、伊深(美濃加茂)の正眼寺に移ってさらに4年間の修行生活を送ったとあります。両寺とも、臨済宗妙心寺派だそうです。

23歳で還俗したのは、履歴書では「時勢ニ感ジ法衣ヲ脱シテ髪ヲ蓄フ」となっていますが、伝えられている話によると、「若気の至りで何処かの娘と親しくなり、手を携えて寺を出奔した」とあります。鉄哉をモデルにしたと言われる志賀直哉の小説「蘭斎没後」では、「檀家の未亡人と駆け落ちしたため」とされています。

その後、岡倉天心に認められて、奈良の古寺の財物調査に同行したり、東京美術学校の教員に就いたりしています。しかし教職は数ヶ月で辞し、創作活動のみに専心したようです。作品には、仏像の模写や羅漢、閻魔、あるいは達磨といったモチーフが多く残されています。また、歌舞伎や落語界の人々との交流が深かったことをベースとした作品も見られます。銘は「唯我独尊庵主 鉄哉」と記されることが多く、晩年、奈良に住んだ家は「最勝精舎」と名付けられています。

たしかに他宗である天台宗の慈忍と結びつけるのは無理がありそうですね。しかし、鉄哉と臨済(宗)の関係は、いま手許にある資料からは、これ以上わかりません。

「意匠自体には実はそれほど意味がなかったかも知れない」という可能性も捨てられませんね。黄楊木の節を見て「ひとつ目」を発想し、「目クソ鼻クソ」的に、盲目の座頭を配置したのかもしれません。

素材の木の節から考えれば、「ひとつ目」が主役ですが、表情からすれば、小さい方の「座頭」の表情に力が込められている感じ。そこからは、「同一人物説」が有力かもしれません。

空殻さまの言われる「十二支を身につけた反動、副作用かもしれない」という視点はまったくありませんでした。

こうやって、後世の私どもに、あれこれ考えさせるところにネライがあったのなら「参りました」です。

貴重なご教示に感謝申し上げます。