掲示板の歴史 その十三
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NO.326  う〜む・・・
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/12/22(Wed) 16:36:05


はじめまして、のび様。
書き込みありがとうございます。

画像についてですが、そうですね・・・。
一つ目入道が盲目の老人を指差して哂っている。
しかし、老人はそれにまったく動じていない。
むしろにこやかに、泰然として佇んでいる。
そんな感じでしょうか。

この老人についてですが、すでにご指摘いただいた理由で、私も老人は僧侶ではなくて座頭なのだと思います。
着物の十二支柄が十二支縁起にかけられているとするならば、仏教の代表的な教えが身に着いていることを象徴しているのかも知れないので、その場合はただの座頭ではないということになりますね。もしかすると妙好人のような存在なのかも知れない。

一つ目入道が象徴するものは、構図からしてもやはり座頭の分身なのではないか(つまり、仰るように「この人物の想念が生み出した存在」なのではないか)とも思うのですが、これはもしかすると老人が十二支を身に着けていることの反動、副作用として現れているのかも知れませんね。
丁度、ジキルとハイド、ピッコロと神様のような構図です。
同じ生命を共有してはいるが、まったく別の人格を持つ存在というヤツです。

私は、一つ目入道が老人の盲目を哂っているように見るのですが、この画を見ていると、どうも盲目の老人の方が強く見えてしまう。それはどういうことかというと、老人は盲目なのに無明ではないのではないか。それどころか、一つ目よりも多くが見えているのではないか、という思いにかられるんですね。
そして作者はおそらく老人と自分を重ねている。
自己投影型アーチストってヤツです(私もそうです)
まあ単なる印象なんですけど。

眼に関して象徴的に解釈することも可能で、一つ目=偏見、盲目=無明、盲信などとも取れると思います。ただ、老人の表情が澄んでいるので、私にはそのようには思えないんですね。やはり体のサイズが小さい老人の方に余裕を感じる。

もう一つ、可能性としていえるのは、意匠自体には実はそれほど意味がなかったかも知れない、ということでしょうか。よく見てみると筒の木目が一つ目入道の瞳になっているようですし、もしかすると行き当たりばったりで作られたのかも知れないですね。

普化と臨済の逸話や天台宗の慈忍がモチーフになっているかどうかということに関しましては、私には分かりかねますね。特に慈忍説に対しては懐疑的です。修行者でもない者に対して慈忍和尚を持ち出してくるのは変でしょう。
それから臨済をそのまま一つ目入道のモチーフとしたならば、加納鉄哉氏は臨済を揶揄したことになるわけで、まあもしそうならば彼の還俗と何等かの関係があったのかも知れないですね。
作者はなぜ還俗したのでしょう。