掲示板の歴史 その十
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■11 反ミメーシスとしての人形浄瑠璃とアニメ
□投稿者/ 如月
2004/09/19(Sun) 00:52:40

ちょっと誤解を生じさせてしまったかもしれませんが、私はアニメは何かの代用品だと主張したいわけではなくて、空殻さんと同様、「アニメにはアニメの在り様があり、実写には実写の在り様がありますし、演劇には演劇の在り様がある。同じように人形浄瑠璃にはその独特の在り様がある」ということをいいたいのです。
ただ、欧米の芸術観の根底には、プラトン以来のミメーシス(模倣)観があって、(古代ギリシアには映画もアニメもありませんでしたから)文学であれ、絵画であれ、芸術は、現実に存在している何かの模倣であり代用品である、それゆえ、それらが模倣している「実物」や「本質」よりも価値がおとるという議論が根強く存在しています。そしてこのミメーシス観からすれば、現実→演劇→実写映画→人形芝居・アニメの順に存在の階梯(リアルさの度合い)が下がっていくのは明白であり、アニメも人形芝居も、それがどれだけの感動を生むかという前に、「しょせんはミメーシス(模倣)」として片づけられてしまうのです。
ですから、「アニメにはアニメの在り様があり、実写には実写の在り様がありますし、演劇には演劇の在り様がある。同じように人形浄瑠璃にはその独特の在り様がある」ということを明確に主張するためには、アニメの起源や映画の起源という100年単位の時間で語るのではなく、より根源的なところで、このミメーシス観をくつがえす必要があると、私は考えています。
ところで、人形浄瑠璃にはこのミメーシス論は通じません。なぜなら、それは人間が演じる芝居の模倣として生まれたものでないことは明白であり、逆にこれが人間が演じる芝居(歌舞伎)を生んだわけです。そして反ミメーシス的な存在として現代まで生き延びてきたのではないでしょうか。
ですから私は、人形浄瑠璃の特徴を、「はじめからいわば「虚」である人形浄瑠璃には、歌舞伎的な意味での「演じる」とか「偽の行為」というものが存在しようがない。だから人形浄瑠璃は、作者の意図というものにより近いところで、あるいは作者の意図そのものの直接の開示(回線をとおさないダイレクトな接続)として、上演できる」書いたのです。私は、これはアニメでも基本的には同じだと思います。
そして、空殻さんに批判された今でも、「この辺のところをアニメでも展開できれば、アニメはもっとスリリングになる」と思っています。
(日本のアニメは、もしかすると、人形浄瑠璃の反ミメーシス的な精神を無意識かどこかで引き継いでいるのではないでしょうか?)