掲示板の歴史 その十
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■12 どれどれ・・・
□投稿者/ 空殻
2004/09/19(Sun) 04:58:30

ミメーシスというのは映像学部で学んだような気がしないでもないのですが、まったく憶えていないので(笑)
インターネットで調べてみました。
そうしましたところ、東北大学のホームページ【http://friedrich.human.is.tohoku.ac.jp/~yanai/2002.No.4.html】には次のようにありました。

「■ 詩学■ 創作の本質は、模倣(ミメーシス)にある。悲劇は崇高な行為の模倣であって、崇高な人物が不幸に陥っていく過程を模倣し、観客のうちに引き起こされる哀れみと恐れの情緒を用いて、こういう情緒を浄化することを本質とする。〈加藤信朗〉『スーパー・ニッポニカ』一部改変」

また、山形大学のサイト【http://www-h.yamagata-u.ac.jp/~miharu/Fiction/y-higuti.htm】では次のようにありました。

「アリストテレス『詩学』のミメーシス理論は古今の虚構行為論の先駆となり、近代の多くの創作理論に影響を与えた。〈ミメーシス〉には、「再現」「模倣」「模写」「描写」「模擬的再現」など、多様な訳語が解釈の数だけ存在する。ミメーシス理論を虚構論として再規定し、結論として「形象的呈示」を訳語として提案したい。
プラトンは対話編『国家』のなかで詩人追放論を展開している。感覚の彼岸にあるイデアを最高の美とするプラトンにとって、現実の存在者が既にミメーシスであり、芸術はさらにそれを模倣するミメーシスのミメーシスに過ぎない。真理に近付こうとする哲学的思索を阻害する詩人は、人々をスキャダリズムに堕落させ、国家を頽廃に導くだろう」
「アリストテレスのミメーシスは文芸に限らず、唱歌、楽器演奏、舞踏などの一部にも適用される概念である。当時、ミメーシスは茶番寸劇の古代物真似〈mines anciens〉から派生した「真似」の意味で用いられた言葉であったが、アリストテレスは従来のミメーシスの概念を大幅にずらしている。そこではもはや物語と舞踏は区別されない。そもそもポイエーシスとは詩の制作のみならず制作一般を指す言葉であり、技術と芸術の区分同様、芸術内部のジャンル区分も現在とは異なっていた」
「虚構論としてのミメーシス論の最も重要な点は、ミメーシスは単なる現実の「模倣」ではないことである」
「ミメーシスは長く"imitation"(模倣)と訳されてきた。これは現代語では他に適訳がないという理由のためであり、一般的な「模倣」の意味に妥当しないことは、かなり以前から指摘されている。現在ではミメーシスを模倣概念から解き放とうというとする傾向は決定的である」

どうもこういうヨーロッパの哲学とかはあまり今まで縁がなかったため、言い回しにいちいち躓かされたりもするのですが、上のような記述を読む限りでは、ミメーシスに関して語るときにプラトンだけを引き合いに出してミメーシスを「模倣(にしかすぎないもの)」と考えるのは適当ではないのでは、という気がいたします。

これまでアメリカに住んできて、映画とかアニメとかを観て「しょせんはミメーシス」という片付け方をしたアメリカ人を私は見たことがないので、少なくとも米ではプラトン主義は芸術観の根底としては生きていない、つまり機能していないように思えてなりません。
また、上の東北大が引用している定義が正しいなら、創作であって観客の情緒を浄化する作用がある以上(あるならばの話ですが)、人形浄瑠璃も起源がどうあれミメーシスなのではないかと思います。

また、作者の意図そのものが直接開示されたからスリリングになるというのは当たってません。そもそもアニメーションは他の映像分野と同じように、多くのスタッフと協力し合ったところに創作されるものです。だから、作者の意図そのものが反映されることは、作者が製作の指揮を取ってでもいない限り実をいうと稀なんですね。
ただ、それでもスリリングな作品はスリリングだし、そうでない駄作は駄作でしかない(しかもそれは個人の感性に依拠するので主観的なものにならざるを得ない)

人形浄瑠璃も歌舞伎も私は実物を見たわけではないですし、実際見てみたら意見も変わってくるんでしょうが、今のところ仕方ないですね(苦笑)
こちらでも公演しないかな?