掲示板の歴史 その十
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■9 芝居と演劇
□投稿者/ 如月
2004/09/17(Fri) 12:33:16

私は誰もいじめてませんよ。だからいろいろ苦労するんです(笑)。

「芝居」と「演劇」に関しては、この言葉(用語)が、私が考えていることを表すのに適切であるか、今一自信がありません。
ただ欧米の概念では、芝居なり演劇なりは、人間が演じるtheatre pieceという一種類の概念しかなくて、どうしても、実写映画はそれの代用品、アニメは実写のさらなる代用品ということになっちゃうんじゃないですか。これだとアニメはいつまでたっても救われない。
で、最近は実写のなかにもCGとかある意味でアニメ的ないろいろなテクニックが入りこんで、実写のリアリティを拡大するような方向にあるわけですが、アニメがそれに危機感を感じてテクニック的なところに走っていっても、結局「代用品」という考え方をくつがえせなくて、「アニメにしてはよくやったね」といわれるのが落ちだと思うんです。
で、私の言う日本的な「芝居」という考え方のなかでは、歌舞伎と人形浄瑠璃には本物と代用品という考え方は成立してなくて、「芝居」ということではどちらも対等です。「演劇」のうえに、「芝居」というより根源的なものがのっかってる。二つのジャンルの併存は、こうした構造を明らかにしてくれるんですね。
より具体的に、たとえば演出ということに関していえば、この「芝居ー演劇」という二重構造を認めたうえで、人間によりふさわしい演出、人形によりふさわしい演出が考えられている。そしてまた、人形の演出がおもしろければ人間の演出にもそれが取り入れられ、それがまた人形の演出を刺激していく。歌舞伎と欧米の演劇を比較したときに、歌舞伎では身体性が強調されているというのは、このためで、こうした併存的なあり方の方が、よりクリエイティブだと思うんです。
で、芝居ということにおいて、歌舞伎は歌舞伎、人形浄瑠璃は人形浄瑠璃なんだけど、そのなかで人形浄瑠璃の特徴とか可能性をギリギリ追求していくと、歌舞伎では、しょせん「演じる」という偽の行為が観客の眼の前で展開しているだけなのに対し、はじめからいわば「虚」である人形浄瑠璃には、歌舞伎的な意味での「演じる」とか「偽の行為」というものが存在しようがない。だから人形浄瑠璃は、作者の意図というものにより近いところで、あるいは作者の意図そのものの直接の開示(回線をとおさないダイレクトな接続)として、上演できるのだと思います。はじめから「これは虚ですよ」と宣言している人形浄瑠璃が、ときとして「これはリアルですよ」と言っている歌舞伎よりも強い感動を呼ぶというのは、そういうことじゃないですか。
この辺のところをアニメでも展開できれば、アニメはもっとスリリングになると思うんですけど。