掲示板の歴史 その九
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NO.290  漢訳『阿含経』における「名色」
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/10/19(Tue) 14:00:36
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平河出版社『現代語訳阿含経典(長阿含経)第2巻』所収の『衆集経(P:saNgIti-suttanta, S: saMgItiparyAya)』(一九三〜二一八頁)は、死期が近いブッダが、十六大国の一つであるマッラ(末羅)という国(ブッダが入滅したクシナガラはこの地にある)に遊行した際、自分の背中が痛いためシャーリプトラに「今度はお前が説きなさい」といって説かせたとする内容が記されている。
その中でシャーリプトラは「如来が説かれたことであり、これらを集めて争いを防ぎ、梵行を長く確立させれば、利益は大きく、神々も人々も安穏を得るだろう」として「一つのことがら」から「十のことがら」までを述べているが、そのうちで「二つのことがら」を十二項目数え、その第一として「名称と物質」を挙げている。[諸此丘。如來説二正法。一名、二色。(一九一頁)]
訳注者の末木文美士教授は次のような註釈を書いている。
あまり参考にならないと思うが、一応引いておきたい。
一名二色 パーリ本nAmaN ca rUpaN ca. (p.212). 梵本も同じ。宋訳「一名二色」。『門論[=阿毘達磨集異門足論]』(有部所伝の同経の注釈)では「名色」とある。『十上経』『増一経』にも出る。『大縁方便経』注26・『増一経』注15参照。『門論』では、受蘊・相蘊・行蘊・識蘊と虚空・択滅・非択滅を名、四大種および所造の色を色としている。DA. も大体同じ方向だが、nAmaについて、cattAro arUpino khandhA nibbAnaN ca としている。mind and body [Rhys Davids]. 『大乗義章』四に「心従詮目、故号為名。身形質礙、称之為色」(大正四四・五四七中)(三六五頁)
同『長阿含経(第3巻)』収録の辛嶋静志教授訳『十上経』もまた上の『衆集経』と同じように(場所こそ違うが)ブッダが自分の背中が痛むためシャーリプトラに説法させた内容である。ここでもまた上の経と非常によく似たパターンで、
@ X の成し遂げるべきことがら
A X の修養すべきことがら
B X の目覚めるべきことがら
C X の消去すべきことがら
D X の減退すべきことがら
E X の増進すべきことがら
F X の理解しがたいことがら
G X の生ずべきことがら
H X の知るべきことがら
I X の証得すべきことがら
を説き、 X に一から十の数をあてて一つ、そして二セットから十セットまでの計五五〇項目を挙げ連ねている。
このうち、Bのうち「X=二つ」として「名称ともの」が説かれている。
(原文:云何二覚法。謂名與色。 →三九頁)
辛島氏はこれに註釈をつけて、上記『衆集経』下記『増一経』のそれぞれと同一の意味であると述べ、同じく下『大縁方便経』注26を参照すべしとしている。(一六三)

また『増一経』という経典はブッダがコーサラ国シュラーヴァスティーで千二百五十人の弟子たちといた頃の説法の内容で、上同『長阿含経(第3巻)』所収、辛嶋教授訳によると、『十上経』でシャーリプトラが説いた「十上法」にきわめて近い形式で(違うのはそれが五つの項目に減ったこと)「一つずつ増す法」というものを説いている。
そしてここでもまた、二つの目覚めるべき事柄の第三項目として「名称ともの」が挙げられている。
(原文:云何二覚法。謂名與色。 →七六頁)
これに対する氏の註によると次のようになる。
15――名与色 「色」(P.=S. rUpa)は、個人存在の物質的な方面を意味し、五陰(paNca-skandha)のうちの色陰にあたり、「名」(P.=S. nAman)は、精神的側面をさし、五陰のうちの受・想・行・識陰(感受作用、表象作用、心作用、認識作用)にあたる。『大縁方便経』注26参照。Frauwallner, Geschishte der indischen Philosophie, Bd. I, S. 204-20 Geschishte der indischen Philosophie, Bd. I, S. 204-208 および、M. Falk, NAma-rUpa, and Dharma-rUpa, pub. by Univ. of Calcutta, 1943 も参照。『十上経』注22参照。(二二〇)
最後に、同『長阿含経(第3巻)』所収の『大縁方便経』(一〇一〜一二二)は岩波『東アジアの仏教』収録論文「漢訳仏典論」でもお馴染みの丘山新教授による訳注がなされた作品であるが、これはブッダがクル国で千二百五十人の弟子たちとともにいた折りの話である。
ここではアーナンダがブッダに十二因縁について(パーリ本では九支因縁で、しかも縁起=paTicca-samuppAda としか書かれていない)教えを請いブッダがそれに対して説明している。当然、その説法の過程で「名色」についても触れている。
この問答がもっとも参考になるため、一連の遣り取りを漢訳も対照して大幅に引用してみたい。
  • また、何が六つの感受領域のよりどころなのだと問うなら、名称と形態とが六つの感受領域のよりどころなのだと答えるがよい。また、何が名称と形態とのよりどころなのだと問うなら、認識作用が名称と形態とのよりどころなのだと答えるがよい。
    (原文:若復問言、誰為六入縁、応答彼言、名色是六入縁。若復問言、誰為名色縁、応答彼言、識是名色縁。)(一〇二〜一〇三)
  • 「(略)阿難よ、名称と形態とに縁って接触があるとは、これはどういう意味なのか。もし、あらゆる生きものに名称と形態とが無ければ、心による接触はあろうか(原文: 阿難、縁名色有触、此為何義。若使一切衆生無有名色者、寧有心触不)」
    答えた(答曰)。
    「ございません(無也)」
    「もし、あらゆる生きものに形態や相貌が無ければ、身体による接触があろうか(若使一切衆生無形色相貌者、寧有身触不)」
    答えた。
    「ございません」
    「阿難よ、このことから接触は名称と形態とに由来し、名称と形態とに縁って接触があるとわかるのだ。私が説いたことは、意味はこの点にある。(阿難、我以是縁知、触由名色、縁名色有触。我所説者義在於此)
    阿難よ、認識作用に縁って名称と形態とがあるとは、これはどういう意味なのか。もし、認識作用(の主体)が母胎に入らなければ、名称と形態とはあろうか(阿難、縁識有名色、此為何義。若識不入母胎者、有名色不)」
    答えた。
    「ございません」
    「もし、認識作用(の主体)が母胎に入ったまま出てこなければ、名称と形態とはあろうか(若識入胎不出者、有名色不)」
    答えた。
    「ございません」
    「もし、認識作用(の主体)が母胎を出ても嬰児のまま死んでしまったら、名称と形態とは成長できようか(若識出胎嬰孩壊敗、名色得増長不)」
    答えた。
    「いいえ」
    「阿南よ、もし、認識作用(の主体)が無ければ、名称と形態とはあろうか(阿難、若無識者、有名色不)」
    答えた。
    「ございません」
    「阿難よ、このことから名称と形態とは認識作用に由来し、認識作用に縁って名称と形態とがあるとわかるのだ。私が説いたことは、意味はこの点にある。(阿難我以是縁知、名色由識、縁識有名色。我所説者義在於此)
    阿難よ、名称と形態に縁って認識作用があるとは、これはどういう意味なのか。もし、認識作用が名称と形態に留まらないなら、認識作用(の主体)には留まる場が無い。もし、留まる場が無いなら、生・老・病・死などの憂いや悲しみ、苦しみや悩みはあろうか(阿難、縁名色有識、此為何義。若識不住名色。則識無住処。若無住処、寧有生老病死憂悲苦悩不)」
    答えた。
    「ございません」
    「阿難よ、もし、名称と形態とが無ければ、認識作用はあろうか(阿難若無名色寧有識不)」
    答えた。
    「ございません」
    「阿難よ、このことから認識作用は名称と形態とに由来し、名称と形態とに縁って認識作用があるとわかるのだ。私が説いたことは、意味はこの点にある。(阿難、我以此縁知、識由名色、縁名色有識。我所説者義在於此)
    阿難よ、さればこそ名称と形態という原因で認識作用があり、認識作用という原因で名称と形態とがあり、名称と形態という原因で六つの感受領域があり・・・(阿難、是故名色縁識、識縁名色、名色縁六入・・・後略)」(一一一〜一一三)
  • 上記引用中「名色」に関する註:
    26――名色 パーリ本nAma-rUpa(名称と形態、名称と物質)に相応し、安世高訳では「名字」、支謙訳では「名像」などが用いられる。「名称と形態」とは古ウパニシャッドにおいては現象界の個別性を成立させる原理であると考えられ、さらに現象界の一切の事物を総称する名称であった。それが仏教の教理体系のうちに取り入れられ、その最初期には同様の意味で使われていたが、後に名(名称)は個人存在の精神的な方面を、色(名称)は個人存在の精神的な方面を、色(形態)は物質的な方面を意味すると考えられるようになった。さらに詳しくは、PTSD.[= PAli Text Society's PAli-English Dictionary の略] rUpa の項、英訳Dhamma-saNgaNi のintroduction など、また和辻哲郎『原始仏教の実践哲学』二一三頁以下を参照。(二五四)