掲示板の歴史 その八
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NO.237  『維摩経』に見られる「不可思議」
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/06/01(Tue) 15:36:09


漢訳『維摩詰所説経』(中村元本)
  • シャーリプトラよ。諸仏菩薩には<不可思議>という名の解脱があります。(筑摩書房『大乗仏典』三〇頁/上二三)
  • 十万の無量無数の世界の中で魔王[チベット語訳(長尾本)では単純に「魔」]となる者は、多くは不可思議解脱に住する菩薩である。それは、菩薩が方便力をもって衆生を教化しようとして、魔王のすがたを現じたのである。(同三一/下一)
  • [このように]乞う者は多くは不可思議解脱に住する菩薩である。それは菩薩が方便力をもってかれらのところに往って、かれらを試み、かれらを堅固ならしめようとするのである。そのわけはなぜであるか。不可思議解脱に住する菩薩は威徳の力があって、ことさらに脅迫を現じて、もろもろの衆生にこのような困難なことがらを示すのである。(同三一/下六)

  • 法を<汚れのないもの>と名づける。もしも法ないし涅槃に染まるならば、それはすなわち汚れに染まることであって、法を求めることではない。(同二九/二四)
  • 法を<無相>(無特性)と名づける。もしも特性にしたがって識別するならば、それは何らかの特性を求めることになり、法を求めることにはならないのである。(同二九/下七)
  • 法を<無為>と名づける。もしも人が有為を行ずるならば、それはすなわち有為を求めることであって、法を求めることにはならないのである。それ故に、もしも法を求めようとするならば、一切の法について求めてはならない。(同二九/下十三)
同経典で経主ヴィマーラキールティ(維摩)は、須弥燈王仏の八万四千由旬もある獅子座を三万二千個も呼び寄せて狭い自室に入れたが、何の物理的障害も生じなかった。これに驚いたシャーリプトラにヴィマーラキールティは、このような現象を可能とする悟りの境地を「不可思議解脱法門」であると説いた。
この「不可思議解脱法門」に住する菩薩は「空間」と「他人の主観的時間」と「自らの姿」を思うがままにすることができるという。
すなわち、空間に関していえば、須弥山のように巨大なものを芥子粒のような極微なものの中に入れることができ、しかもそれをしても両者のサイズはもととまったく変わらない、などということが可能になり、また一つの仏国土の人々を片掌に入れた上で「十方」に飛んで遍く一切の生類に示しながら、しかももとの場所からまったく動いていないということも可能になる。
また主観的時間に関していえば、長生を望む者に対しては七日間をあたかも一劫であるかのように感じさせることができ、逆を願う者を救うためには一劫をあたかも七日間に感じさせることができるという。
これを聴いたマハーカーシャパは感嘆してシャーリプトラに「盲者が色を知覚しないように修行者は不可思議解脱の法門を了解することができないが、この法門を耳にする智者はかならずや無上の悟りを求める心(菩提心)を起こす」と告げ、三万二千の天人の子らがこれを聴いてまさに菩提心を起こしたという。

ヴィマラキールティは同章において、上の奇跡を起こす直前に「法を求める者は、法を求めてはならない」と説いている。「法」は「寂滅」であり「汚れなきもの」であり、「無相(無特性)」であり「無為」であって、対立を越えた「はたらき」でなければならない。それは仏その他の聖なるイメージとしても、言葉としても、アーラヤ(自己の根柢としての場所)としても捉えることが出来ないし、求める以上はそのように捉えようとしてもいけない。
石田瑞麿氏は筑摩書房『実践への道』で「空見」について興味深い見解(『掲示板の歴史/七』「No.236」参照)を述べられていたが、その言葉を借りれば、法を法というモノ、あるいは法という「原理」として捉えることは、これを対立に対する超対立として固定化してしまう、ということになる。

だからこそ、敢えて「不可思議なる境地」が想定され、「菩提心」を煽る必要があったのかも知れない。