掲示板の歴史 その八
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NO.234  『宝積経』に見られる「不可得」
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2004/05/27(Thu) 17:26:51


『宝積経/四三』「迦葉品」の九八節目には次のようにある。

カーシヤパよ、実に心は、内にもなく外にもなく、この両者以外のところにも存在しない。カーシヤパよ、心は形をもたないもの、見られないもの、抵触のないもの、あらわれ出ないもの、認知されないもの、基底のないもの、名づけられないものである。カーシヤパよ、心はいかなる仏陀によっても見られなかったし、現在も見られていないし、将来も見られないであろう
(しかし)いかなる仏陀によっても見られなかったし、見られていないし、また見られないであろうような心ならば、それの動き――倒錯の誤謬に陥った思惟(する心)によって、存在の法が生成する、という(心の動き)以外に――(その心の動き)は、どのようなものとして考えられうるのか。
(中央公論社『大乗仏典』二一七頁)

そして心の諸相を幻の像や雷、盗賊などに譬えて列挙しており、続く同品一〇二節目では次のように述べられている。

カーシヤパよ、あますところなく観察が行なわれるとき、心の存在は認められない。すなわち――否定(不可得)される。否定されるものは、過去にもなく未来にもなく、現在にもない。過去でもなく、未来でもなく、現在でもないものは、三つの時間を超越している。三つの時間を超越したものは、有でもなく無でもない。有でもなく無でもないものは、生まれることがない。生まれることがないものには、そのものの自体(自性)がない。自性のないものには起こることがない。起こることのないものには、滅することがない。滅することがないものには、過ぎ去ることがない。過ぎ去ることがないならば、そこには行くこともなく、くることもない。死ぬこともなく、生まれることもない。行くこともなくくることもなく、死ぬことも生まれることもないものには、いかなる因果の生成もない。いかなる因果の生成もないものは、変化作為のないもの(無為)である。それは聖者たちにある、生まれつきによる本性(種姓)である。
(同二一八頁)

同カテゴリ内「記事[No.205]不思議空」と仏教用語辞典内「本不生」参照。