掲示板の歴史 その一
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NO.87  RE: 空殻の立場について
□投稿者/ 大閑道人
□投稿日/ 2004/01/06(Tue) 12:59:53


空殻師が主宰するこの掲示板の主旨に従った書き込みになるかどうか、まったく自信がないのだが・・・

不立文字は、不用文字とは違う。単に、真理は文字に乗り切れない、というほどのこと。
⇒ 私は、個人的に「真理は何語で語って来るのか?」を学生時代の課題とした。
で、真理は、言語では語ってこないで現象で諭すことを、体験として、知った。

梵語文献を学生時代に読まされたので(苦い思い出!)、その知識を基にして言えば、
日本語には「しる(知る)」に関する単語がない。「しる」の一語のみ。

漢語ならば、知る・識るなど、多彩にある(※ どういうわけか、日本語辞書がこの掲示板では、展開しない)。
梵語においても、知るについて「近づく」とか「(それに)成る」とか、さまざまな単語が類比的に「知る」を表現している。

つまり、文字情報として知識の形で「知る」と、実際体験の上で「知る」とは、同じ「知識」でも次元が違うのだ。

さらに、
>仏教、更には誤訳、意訳、音写、音訳、真言・・が混在している仏教では、字面を追っているだけでは何にもわからないのです。
というのであれば、それ以前の原語=サンスクリット語に戻りなさい、ということになるけど、言語は、如何なる言語であっても、その土地土地の歴史伝統分化風俗とともにあるので、本当に梵語母国人にならなければ、微細なニュアンスなどもわかるまい。
そうなると、それを日本語母国人に正確に伝えることも、無理難題になりますね。

玄奘の翻訳も、無駄の典型になってしまうでしょう。