掲示板の歴史 その一
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NO.13  で、再び私の立場ですが
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2003/07/27(Sun) 14:54:42
□URL/ http://6927.teacup.com/mminoru/bbs


下記は、みのるさんの投稿に対する私の正直な分析の結果です。
これを読まれれば私の立場、ひいては同サイトの方針についても、そこそこご理解いただけるのではないかと期待しております。




客観的に申し上げますと、みのるさんの主張はまず論法的に自己崩壊している上、価値観からいってもきわめて一面的で視野が狭いです。
ただし、個人的に感想を申し上げますと興味深い見解だと思います。

さて、なぜ論法が破綻し、一面的で視野が狭いかを列挙すると次のようになります。


@「殆どの人達は死にたくない、又生まれ変わりたいものと願っているのではないですか。〜解脱は日本には無縁」 についてですが、もし仰るとおりならば少なくとも仏教における「人はアーラヤを楽しむ」という主張は間違っていないわけですね。 (講談社学術文庫刊・玉城康四郎著『仏教の根底にあるもの』の29頁によると、Ariyapariesana-Sutta[聖求経、しょうぐきょう]という仏典に「世間の人はアーラヤを好みアーラヤを楽しみアーラヤを喜ぶ」とあるそうです。ちなみに、この記述には「そのような人々にとっては、この道理はとても理解できない」という言葉が続きます)

また、おっしゃるところの「殆ど」は、数字で表すことができるわけでもなく証拠も不十分です。あくまでもご主張に即した希望的憶測の域を出ません。しかもそういった時点で「すべての人がそうであるとは限らない」ことを主張してしまってます。

つまり、「かならずしも日本には無縁ではない」 とおっしゃっておきながら「無縁である」 と主張しているわけです。
矛盾してますね。

A「今では全ての国民は、子供の誕生を心から祝福します。そして誕生日を家族みんなで祝います。(皆さんのご家庭ではどうですか?) そして世界一長寿国になったことを、喜んでいます。この国では、「生」は既に祝福の対象であって、「苦」ではなくなっています。」 についてですが、

▽「全ての国民は子供の誕生を祝福します」 →残念なことにそうとは限りません。
▽「誕生日を家族みんなで祝います」 →残念なことにそうとも限りません。
▽「長寿国になったことを喜んでいます」 →そうでない人もおそらくいるでしょうね。

「みんな〜である」 という固定化した観念、決め付け、ステレオタイプ、そして過度で軽率な概括が目立ちます。また、みのるさんは「生=苦」の状況に置かれた恵まれない国民の存在を一切考慮に入れていない、ということがわかります。
このことから、この主張Aが一面的で偏ったものでしかないことが分かり、ひいてはみのるさんという人物の「思いやりのなさ」あるいは「想像力の欠如」を伺い知ることができます。

B「欲望を止滅して生きていけますか? 」 についてですが、仏教を「欲望を止滅する教え」であると決め付けるのは早計だと思います。もう少し落ち着いて学習されることをお勧めします。

C「人生苦の解決〜芸術・学問〜感情を止滅」 についてですが、上のように仏教の人生苦の解決を「感情の止滅」であると決め付けるのもまた早計ですね。現に、仏教という流れは、多くの芸術を輩出しております。

D「それに、釈尊は苦からの解脱に<執着>しすぎたために、幸いにして涅槃に達し得た暁に、さて何をなすべきかに全く想いがいたらなかったのが最大の欠点でした。つまり早い話が、静かな安らぎの訪れた人達が只ゴロゴロしている、言ってみれば特養ホームの老人ばかりの集団を作っただけという結果になりました。(京都やその他の坊主どもを見ればご納得でしょう。)」 ということについてですが、次のようなことが挙げられます。

▽「釈尊は苦からの解脱に<執着>しすぎた」 →物理的に(もちろん精神的にも)証明不可能な憶測で、しかも個人的知識と価値観に基づいた偏見です。
▽「(釈尊は)涅槃に達し得た」 →証明不可能な憶測です。
▽「(釈尊は)何をなすべきかに全く想いがいたらなかったのが最大の欠点でした」 →証明不可能な上に「欠点だった」と決め付けてます。
▽「(釈尊は)特養ホームの老人ばかりの集団を作っただけ」 →証明不可能です。しかも、ゴータマシッダールタに始まるとされる仏教という流れは、今日にいたるまで各国の文化や芸術に多大な影響を与えてます。これは少なくとも私にとっては有意義な現象です。

これらのことで、みのるさんが憶測でものをいっているか、もしくは読んだり聞いたりした知識をただひたすら鵜呑みにしているかどちらかであることが分かります。その結果を事実だと思い込んで勝手に自己の範疇の中で物事を判断し、決め付けて主張を展開しているのが分かります。

また、歴史的観念についても次のようなことがいえます。

▽「京都やその他の坊主」 →古代インドにおけるシッダールタの話で、いきなり条件がまったく違うはずの日本の僧侶を例にとっている、つまり現代日本と古代インドの僧団が等価であると仮定していることが分かります。このことから、歴史的観念が欠如しているか、もしくは混乱しているものと思われます。しかもみのるさんは、@の主張で「今から二千数百年の昔、しかも熱帯のインド云々」と現代日本と古代インドの人の在り様の違いをご自分で強調しています。

これらの事実から、みのるさんという人物は歴史的観念を持とうととりあえず努力してはいるがそれをこなすことができず、結局ご自分の中に矛盾を残していることが分かります。


以上において、みのるさんの論法が根本的に破綻していて、また論点や論拠が偏っているということがお分かりになったと思います。
したがいまして、「仏教は21世紀には全く用をなさないから消えてもらう」という結論もまた、「仏教が用をなしている」もしくは「用をなしうる」ことが判明した時点で自動的に破綻します。

この「仏教がこの世から消える」ということが果たして善いことなのか悪いことなのか、必要なのかそうでないのか、またもしくは、可能なのかそうでないのか、などといった荒唐無稽なことは私には分かりません。
ただ、少なくとも、「用をなさないから消えてもらう」という言いまわしには道徳観念の欠如を感じざるを得ません。
それが非常に残念です。


加えて文体の運びについてですが、これはなかなか上手いです。
まず常識的もしくは専門的な知識から入って話相手に自分(その知識や主張)の正統性を信じ込ませ、それに乗じてまくし立ててうまく丸め込んでしまおうとする方法を取っているように見受けます。
強い自己顕示欲を髣髴とさせる修辞的論調、そして少々辟易とさせられるような荒唐無稽で極端な発想などが私のような者にはとてつもなく胡散臭く思えてしまうのですが、あまりこういったことに免疫のない方なら珍しさと勢いに呑まれてつい頷いてしまうかも知れません。
そんな迫力に満ちた、強引かつエンタテイニングな「主張の仕方」なのではないでしょうか。
ただし、それを武器に、ついうっかり誤まって人をコロリと騙してしまうことのないようお気をつけください。


みのるさんが私に期待していたのがどのような応えであるかは分かるような気がするのですが、私の立場としては、あくまでも仏教を批判するわけでもなければ応援するわけでもありません。
また上の記述を読む限りは、あたかも私が仏教を弁護しているように見えると思いますが、そういうわけでは決してなく、私はただみのるさんのご投稿に対して、私の「空殻」としての立場とは何かを暗に交えながら、分析と若干の意見を述べさせていただいただけですのでどうかよろしくご了承ください。

最後になりますが、みのるさんの今後のご活躍を期待します。
先日のあの唐突でしかも喧嘩腰なご投稿にはおどろかされましたが、私は別に気にしておりませんのでご安心ください(^^)
ただ、同じようなことを他でされると「不躾である」「無礼である」もしくは「危ないヤツである」などと判断され、かなり迷惑がられるのではないかと憂慮します。

どうかくれぐれも、ご注意ください。