掲示板の歴史 その二十一
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NO.431  翻訳の型/サンスクリット語化
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2006/03/07(Tue) 13:47:18
□IP/ 71.118.35.228

以下、清水書院、三友量順『玄奘』(三二〜三四頁)より抜粋。
(ただし書体は編集)

  • 「仏典翻訳の基本型」
    抽象から具象へと代わるものとして理法が具現化された経本が挙げられたが、中国で仏典が翻訳されるのにはおよそ次の三つの型があった。
    @ 一つはインドや中央アジアからやってきた僧侶たちの暗誦に頼って、それを翻訳する場合。
    A 二つ目はサンスクリット語以外の言語で記された経本(胡本)からの翻訳、
    B 三つ目がサンスクリット語の経本からの翻訳である。

  • 「仏典のサンスクリット語化」
    ここで三番目の型として、サンスクリット語の原典とせずに経本としたのには理由がある。一般に漢訳経典の原典はすべてサンスクリット語で書かれたものと思われている。これは間違いである。南アジアに伝わる仏教聖典はパーリ語という西インドに端を発する俗語形の方言で伝わっているし、大乗仏教の興起と密接な関係のある西北インドの方言で記された原始経典もある。インドでのサンスクリット復興運動は四世紀のグプタ王朝になってからである。クシャーナ王朝や南インドのアンドラ王朝が次第に衰退すると、三二〇年に即位したチャンドラグプタ一世がマガダでグプタ王朝を創始した。次のサムドラグプタの時代にはマウリヤ王朝以来の統一国家を形成するのである。インド古来のバラモン教が国教とされ、かれらの用語であるサンスクリット語が公用語となった。仏典のサンスクリット語化はおそらくこの時代であったであろう。それ以前は仏教が流布された諸地方の言語でも経典が訳されていたと考えられる
    ここで問題が生ずる。最初に経典を翻訳したのは安息(アルサケス、パルティア)出身の安世高である。二世紀の中程に洛陽にきた彼は主に小乗経典を翻訳している。続いて月氏(クシャーナ)出身の支婁迦讖で、彼は大乗経典を翻訳している。古訳の代表者である竺法護は敦煌の出身で、彼は三世紀の後半から四世紀の初頭にかけて重要な大乗経典を訳出している。次の旧訳の時代を代表する鳩摩羅什が後秦の姚興に迎えられて長安で翻訳に携わるのは四世紀の後半から五世紀初頭にかけてである。そうすると初期の仏典の訳出がサンスクリット語の原典に基づいていたかどうかということになる。恐らく羅什がもとづいた原典も現存の写本よりは混成したサンスクリット語であったであろうし、最初期のものほどサンスクリット語ではなく俗語に近い言語で記されていた可能性が高い。ところが今日、伝わっている仏典写本は、例えば『法華経』をみても最古のもので六世紀以降の写本である。いわば今日、伝わっている仏典としては漢訳経典の方が現存サンスクリット写本より古いことになる。現存のサンスクリット写本が決して漢訳経典の原典ではないということになれば、サンスクリット原典ではなくサンスクリット経本と呼ぶべきであろうと思う。