掲示板の歴史 その二十一
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NO.430  聖典成立史
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2006/03/06(Mon) 22:08:19
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以下、岩波書店、中村元訳『スッタニパータ』「解説」(四三四〜四三八頁)に説明される聖典成立の歴史です。
  1. 韻文または簡潔な文句でまとめられた
    歴史的人物としてゴータマ・ブッダ(釈尊)の逝去(北方の伝説によると、西紀前三八三年頃になる)ののちに、仏弟子たちはその教えの内容を簡潔なかたちでまとめ、あるいは韻文の詩のかたちで表現した。いずれにしても暗誦の便をはかったものである。ことに教えの内容がひとたび詩のかたちでまとめられると、そのまま、大した変更も加えられることなしに、後世に伝えられた。多数の詩のうちには、あるいはゴータマ・ブッダ自身がつくったものも含まれているのではないか、と考えられる。最初は古マガダ語或いはマガダ語の影響の強い俗語(東部インド語)の一種で唱えられていたのであろうが、或る時期にそれがパーリ語に書きかえられて、現在では、パーリ語聖典のうちに伝えられている。しかしマガダ語の影響を完全に消し去ることはできないで、その痕跡をとどめている。こういう詩あるいは短い文句の集成がいくつも伝わっているが、『ダンマパダ(法句経)』(岩波文庫『ブッダの真理のことば』)もその一つである。これらの詩あるいは短い文句は大体アショーカ王(西紀前約二六八−二三二年)以前に成立したものである。それらの集成のうちでも『スッタニパータ』は特に古く成立したものであり、それらの第四章(アッタカ・ヴァッガ)と第五章(パーラーヤナ・ヴァッガ)とは最も古く成立したと考えられる。最初のうちはこれらの各章が別々に独立の経典として行われていたが、或る時期に一つの『スッタニパータ』にまとめられたのである。
  2. 散文で説明された(アショーカ王時代/西紀前268-232年)
    第二の段階として古くから伝えられた韻文あるいは短い文句に対して種々の説明が付け加えられた。この努力はすでにアショーカ王以前から行われ、逐次継続された。一般に原始仏教聖典の散文の部分は韻文の部分よりかなり遅れてつくられたと考えられている。しかしそのうちにも古い伝承を含んでいることは否定できない。これらの散文の部分もブッダ(釈尊)にかこつけて「仏説」として伝えられた。
  3. 経典としてまとめられた
    第三の段階として「仏説」として伝えられたものがすべて集成編集されて、ここに原始仏教聖典のうちの「経蔵」(経典の部分)が成立した。パーリ語の経蔵は五つの部(ニカーヤ)に分かれている。戒律の集成説明書である「律蔵」も相並んで成立した。
  4. 三蔵(経・律・論)の成立
    第四の段階として、マウリヤ王朝以後になると、仏教教団が細かな部派に分裂した。これらはみな小乗仏教(大乗仏教の立場から見て)と呼ばれるものである。小乗仏教の諸部派で経典の内容の説明・整理・註解を行い、諸異説に対して統一的解釈を与えるようになった。これらが集められて「論蔵」を構成した。論蔵は現在では、スリランカ(セイロン)の上座部のものと説一切有部(主として漢訳)のものとが最も完全なかたちで伝わっている。
    右に挙げた経蔵と律蔵と論蔵とをまとめて「三蔵」といい、原始仏教聖典のすべてをまとめたものである。現在まとまったものとしては、パーリ語の聖典が、スリランカ、ビルマ、タイ、カンボージア、ラオスなど南アジアの国々に伝えられている。
  5. 現存パーリ語三蔵 / サンスクリット訳三蔵(⇒漢訳三蔵)
    三蔵は恐らく西暦紀元後のもとの俗語からサンスクリットに翻訳されて、ひろく行われた。それらは散逸してしまったが、近年西北インドの山奥、あるいは中央アジアの地下の洞窟から発見され、逐次刊行されている。
    そして諸部派に伝わった主としてサンスクリット原典がシナにもたらされて漢訳され、ほぼパーリ語三蔵に比敵するものが漢文の大蔵経のうちに収められ、若干はチベット大蔵経の中にも訳出されている。
  6. 大乗経典の成立(⇒漢訳/チベット訳)
    西暦紀元後にインド及び中央アジアで大乗仏教が興起し、多数の大乗経典が作成された。それがシナ及びチベットに伝えられたが、漢文の大蔵経及びチベット大蔵経は主として大乗経典及び論書によって構成されている。日本の仏教に特に影響を及ぼしたのは『法華経』『浄土三部経』などの大乗経典である。
以下、岩波書店『インド思想1』所収、榎本文雄著「初期仏教思想の生成――北伝阿含の成立/二 阿含経典の成立年代」(一〇一〜一〇三頁)より抜粋。
多くの部派が伝えるところによると、仏陀の死後すぐに、その教えは、これらの四、ないし、五つの部分から成る阿含経典に編纂されたという。これを第一結集と呼ぶ。確かに、何らかの形で仏陀の教えはまとめられたと考えられるが、阿含経典全体の編纂がこの時になされたという伝承を史実として裏づける資料はない。
紀元前三世紀のアショーカ王の碑文のなかに、仏陀の説いた七つの教説が列挙される。碑文自身はそれらの内容には言及しないため、各々の教説がどの経に当たるかを確定することは困難であるが、その幾らかは既に現存の阿含経典の中に比定されている。このことから、ある程度の阿含経は、当時既に成立していたことが知れる。しかし、『長阿含』などのまとまった形の阿含経典が成立していたか否かは不明である。
また、南方上座部の註釈文献の中に「『長部』を暗唱するアバヤ長老(dIghabhANaka-abhayatthera)や「『相応部』を暗唱するチューラ・シーヴァ長老」(saMyuttabhANaka-cUlasIvatthera)と言う呼称が見られ、これら両者は、紀元前の二世紀末から一世紀前半頃の実在のスリランカ人であることが判明している。したがって、これらの呼称が後代の付加でなければ、彼等がそれぞれ暗唱していた『長部』や『相応部』は、当時のスリランカに実在していたことになる。
次いで、紀元前二世紀から後一世紀頃、中インドのバールフトやサーンチーの仏塔に刻まれた奉納文の中に、「五部に通じた」(pacanekAyika)と言う寄進者の称号が見られる。この「五部」は、南方上座部に属する阿含経典の五つの部分を示す「五部」(pan~ca nikAya)に相当する語であるので、当時、すでに『長部』などの五分類が知られていたと推定されている。
そして、二、三世紀頃、南インドのナーガールジュナコンダやアマラーヴァティーの仏塔に刻まれた奉納文の中に「『長・中部』を記憶している」(digha-majhima-nikAyadhara)や「『相応(部)』を暗唱する」(saMyutakabhanaka)と言う語が見られる。これが、『長部』、『中部』、そして、おそらく『相応部』の存在を示す最古の確実な資料である。
一方、二世紀の半ばには、安世高によって阿含経典の中の幾つかの経が漢文に訳される。しかし、『長阿含』などのまとまった形を取る阿含経典は未だ訳出されず、したがってそれら各阿含が成立していたという保証はない。他方、同じ頃、支婁迦讖によって大乗経典が漢訳されている。これら各阿含の成立が大乗経典の成立に先行するとは限らないのである。ただし、おそらく法蔵部の『雑蔵』に含まれるガンダーラ語の『法句経』がその頃すでに成立していたことは、現存する写本断片の研究から明らかにされている。三世紀になると、それぞれ、南方上座部の『小部』中の『ダンマパダ』と『スッタニパータ』第四章に相当する、『法句経』と『義足経』が漢訳される。そして、四世紀の末から五世紀の前半にかけて、帰属部派はそれぞれ違うものの『増壱阿含』、『中阿含』、『長阿含』、『雑阿含』が相次いで漢訳され、これら四阿含が名実ともに存在していたことがここに初めて確認できるのである。インド、ネパール、パキスタンのギルギット地方、チベット、中央アジアなどで阿含経典のインド語原典が発見されているが、それらは、殆ど断片ばかりで、しかもその現存写本の大多数が書かれたのは、上記の漢訳阿含経典の訳出以降であり、したがって、その成立も、相当後代の可能性がある。