掲示板の歴史 その二十一
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NO.429  結集とその周辺
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2006/03/06(Mon) 21:14:26
□IP/ 71.118.35.228

なぜ第二結集に至るまで仏教が口伝されてきたかの理由には歴史的な確証はありませんが、周辺の情報からある程度の事情を察することはできます。
  • 岩波新書『仏教』渡辺照宏
    インドの仏教教団には中央集権がなかった。世尊は「自分はサンガを統率するのではない」と明言した。事実、世尊は教誡し忠告はしたが、サンガに対して命令したことはない。サンガ全体を統制する機関はなく、それぞれの地区ごとに自主的に運営さえれた。(中略)
    教団の紀律を規定する"律"や、教義を述べた"経"の本文もそれぞれの地区、ないしはグループで伝承の差ができてきた。それを調整するために、仏陀入滅のあとカーシャパの提唱により"結集"(聖典編集)の大集会が開かれたが、そこで制定された聖典は必ずしもサンガの全員に対して拘束力を持つものではなかった。(一三二〜一三三頁)
  • 同上
    仏陀は、すべての人がそれぞれの立場で苦悩を解決するように指導した。一定の教説を講義したのではなく、思想体系を樹立することも考えなかった。毒矢に刺された人にとっては、矢を抜きとって治療することが緊急に必要なのであって、毒矢や矢や射手についての研究にふけることは迂遠であり、不要である。仏陀はこの比喩を用いて、形而上学的な思弁を排斥した。しかし仏陀の後継者たちは師のさまざまな遺訓を保存し、整理し、聖典として纏めあげることを必要とした。仏陀入滅の直後の雨安居に際してマハー=カーシャパが主導者となり、五百人のアラカンがラージャグリハの郊外の洞窟に集合し、ウパーリが『律』を、アーナンダが『経』を吟誦してテキストを編集したという。これを"結集"という。しかしその機会に成立した聖典がそのままそっくり後世に伝えられたという保証はない。また、その結集は必ずしもすべてのビクシュたちの承認を得たのでもなかった。(一四五頁)
  • 岩波新書『仏教入門』「第二章 中期仏教」三枝充ヨシ(真+心)
    釈尊の入滅後、多数の仏弟子が王舎城に集まり、釈尊から信頼の篤かったサーリプッタ(シャーリプトラ、舎利弗)とモッガラーナ(マウドガリヤーヤナ、目連)とは仏滅以前に死去していて、長老のひとりマハーカッサパ(マハーカーシャパ、摩訶迦葉、大迦葉)を中心に、釈尊生存の教えと戒しめ(その遵守を釈尊は遺言に述べ、後継者は指名していない)とを確認し合う会議が開かれた。これを結集と称し、その後も数回開催されたので、とくに第一結集という。
    結集の原語のサンギーティには合誦の意もあり、おそらくそこで各自の記憶する釈尊の説を述べ合い、確実な教説を得て、ともに誦えたのであろう。しかし会議の開催は伝えられても、その内実はまったくわからない。結集されたものも多分に断片的であったろうと推測される。(二九頁)
  • NHK『原始仏教 その思想と生活』「九 初期の教団」中村元
    仏の弟子(徒弟)という表現が最初期の仏教には見当たらない。この点はジャイナ教の場合でも同じである。親方と徒弟の関係は、ここでは仏と修行者との間にもちこまれていない。「教えを聞く人」ということばが使われているだけである。(一四二頁)
  • 同上
    原始仏教における最初期の教徒には特別な宗教的意識がなかったから、仏教教団員たることを示す特殊な呼称はなく、特に他の諸宗教から区別する呼称を求めるならば、「シャカ族の者」または「仏教徒」というのがそれであろう。シャカ族という呼称が仏教徒の意味に拡張されたのである。アショーカ王は「サンガ」という語で仏教教団を意味しているが、マウリヤ王朝以前には、仏教徒たることを示す定まった呼称がなかったらしい。(一四四頁)
  • 清水書院『人と思想106 玄奘』「経本崇拝――抽象から具象へ(2)」(三友量順・立正大学仏教学部教授)
    インドでは聖典は暗唱によって伝えられた。聖典の言葉それ自体が聖なるものであるから文字に書き写すことをしなかった。普遍的な理法が無限定性を保つためには文字という枠から解放されることも必要になる。(二九頁)
  • 学研『お経の本』「第1章 お経とは何か」(吉田邦博・ライター)
    ブッダが直接、著作を残すことはありませんでした。実際にお経をまとめたのは、仏弟子たちです。さらにいえば、書かれたというのは正確ではありません。というのも、このころのインドにおける神聖な文書、たとえばバラモン教の聖典などは、紀元前1000年もの昔から、すべて文字を使わず口伝によって、きわめて正確に伝えられていたからです。お経も同様でした。その内容は、「ガータ(偈)」と呼ばれる節のつけられた短い詩のようなものによって、謡い継がれていったのです[仏弟子たちは、これらの詩を覚えることで、ブッダの教えを修得していったと考えられる。こうした伝統は、現在でもスリランカ、ミャンマー、タイ、カンボジアなどの仏教者の間で受け継がれ、これらの地域に伝承される聖典のことを「二カーヤ」と呼ぶ]。(二五頁)
このようにしてみてみると、「インド古来の、聖典を口伝によって伝承する習慣」を初期仏教における口伝の理由にそのまま充当させて断言してしまうスタンスと、そうでないスタンスとがあるようです。
私は、ブッダが教団において「統率者」であったのか、またブッダの教えがそもそも教団にとって「聖なる教え」として認識されていたのか自体が不確定な以上、そのように断言してしまうのはよろしくないのではないかと思います。