掲示板の歴史 その十九
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NO.401  涅槃経について
□投稿者/ 佐伯俊
□投稿日/ 2005/08/27(Sat) 10:06:25
□IP/ 210.252.5.136

すみません。(また)教えて戴きたいことがあります。

「涅槃経」は、中国の6−7世紀頃はさかんに(南北朝時代に)研究されたようですが、日本に入るころには「追説」とか「常修多羅経」という位置づけで、重要視されず、しかも、「法華経」に取り込まれた、とされています。しかし、実際には院政期でも、一部では熱心にその法要を聴講したり、護持僧などに修させたり(学問的な方の)涅槃講が行われたりしています。

質問は、
1)「涅槃経」は、(発生した中国では)「般若」(知恵)の「空」の批判原理を使って、それまでの大乗の課題の一つ「仏陀の死の捉え方」や「不信者(<=正しい用語の漢字が出ませんので動議語ですみません)の成仏可能性」などについて、後者には、「煩悩すら仏性の証し」として成仏できる、と説き、前者には、一般の仏教の代表的な理念の一部である「無常」に対して(まさに「般若」的な対置と転倒、止揚を行い)「常」をも含みこむ形(「法身常住」と、その拡大)で捉え直し、肉親との「愛別離苦」に対し、柔らかく抱擁的に包む(仏教の統一的な)立場、なのに対し、

2)「法華経」は、「寿命無量の如来」を立てて、ただひたすらに(「再生」を求めての)「法華経」への信仰を求める、という(やや排他的な)剛直な「統一理論」という立場、(<=簡単にしすぎですが・・・)
という気がするのですが、

この「立場」を全く異にする(180度違う)

「法華経」が「涅槃経」を包摂する、という従来の説明(あるいは、前者の欠けた部分の説明に後者を援用したのか?とも思いますが)は、はたして可能(正しい)のでしょうか?

あまりにも、水と油のように、内容が違いすぎる、と思うのですが。。。

お手数ですが、どうかよろしくお願い致します。