仏刹浄土対照表
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NO.374  仏国土/浄土比較対照表
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2005/02/22(Tue) 13:02)
□IP/ 4.27.3.43


以下に各仏国土/浄土の比較対照表を更新する。
基本的に同じ対象を示す言葉でも、表記の異なるものは敢えて区分する。

仏国土/浄土 比較対照表  (c)2005 qookaku
国土名 国土主 経典の記述 (特徴、位置、時間など。要約含む。出典別に記載) 関連情報
 
@ 主な仏国土
 
「浄土と穢土」 仏国土の浄穢 仏国土をそのまま浄土と考える向きがあるが、厳密に言うと仏国土はそのままでは浄土とはいえない。
天台宗では巧く浄土の傾向を分類していて、
  1. 凡聖同居土(ぼんしょうどうごど)
    聖凡が共に住んでおり浄穢土の区別がある国土
  2. 方便有余土(ほうべんうよど)
    声聞・縁覚のために仮に浄土のように設えている国土
  3. 実報無障礙土(じっぽうむしょうげど)
    国土主の誓願と修行の結果として当初から浄土である国土
  4. 常寂光土(じょうじゃっこうど)
    煩悩・業・苦の三道を法身・般若・解脱の三徳に転換した「悟りそのもの」としての国土
の四土(四種仏土)を挙げている。
『維摩経』などには釈迦の「仏国土」がいかに汚れていて恐ろしい場所であるかが説かれているし、また『法華経』などにも「自分の属する仏国を浄める」という表現が散見する。凡聖同居土である仏国土は仏陀の在不在にかかわらず四悪道(修羅・餓鬼・畜生・地獄)を払拭しきって浄化されなければ穢土のままであり、浄化されて初めて浄土になる。このため、このタイプの国土には同居浄土と同居穢土という区分が存在する。つまり、総括して大きく分けると仏国土には穢土と浄土の二種類があるということができる。
この思想は、「浄」「穢」の訳経表記によって中国において顕在化した。
仏国土の典型的設え 浄土としての仏国土の典型的設えとして共通点を簡略化して述べると、それはすなわち「大地や樹木が貴金属である」「貴金属によって徹底的に飾られている」「宇宙的数量の菩薩が居住する」ということになるだろう。

『妙法蓮華経』「見宝塔品第十一」 (筑摩書房『大乗仏典』所収、中村元訳 一一一)
そのとき仏は眉間の白い捲毛(白亳)から一条の光を放たれた。そのとき、東方において、ガンジス河の砂の数にひとしい五百万億ナユタの国土の諸仏が見えた。それらの仏国土は皆、瑠璃を大地とし、宝石の樹や衣で飾られ、無数千万億の菩薩がその中に充満し、あまねく宝石を鏤めた幔幕を張り、宝石で飾られた網で覆われているのが見えた。かの国の諸仏が美しくすぐれた声で教えを説いており、無量千万億の菩薩がもろもろの国に充満して大勢の人たちに教えを説いているのが見えた。南・西・北・南西・北西・南東・北東・上・下の方角でも、白い捲毛から放たれた光に照らし出されたところは、皆、このようであった。
阿弥陀如来 (西)
諸法界 (あらゆる存在の世界) 如来:阿弥陀
菩薩:観世音
『六十華厳』「入法界品」
あるいはまた、阿弥陀仏と観世音菩薩と、灌頂を受け成仏の予告を与えられた者たちが、あらゆる存在の世界に満ちみちているのが見える。
『六十華厳』のこの偈頌に見られる「阿弥陀仏」という表記は、『八十華厳』では「仏無量寿」と表現されている。このことから、原語はアミターユス(無量のいのち)であったことが分かる。

ところで同経「入法界品」の偈頌において、仏や菩薩などの国が記述され、彼らをはじめとする者たちがそれらの国に満ちていることを説いているが、阿弥陀・観世音の段には特定の仏国土(極楽・安楽)を説かず諸法界に遍満しているとしている。
木村清孝氏はこれについて、「(入法界品において)その国が西方の安楽世界に限定されていないこと、観世音菩薩が眷属の代表とされていること、菩薩たちへの受記者とされていることなどは、阿弥陀信仰の一つの特徴ある流れが本品の宗教的立場の形成に強い影響を与えていることを窺わせて、興味深い」と述べている(『仏教経典選(5)華厳経』三六八)
この段階で阿弥陀三尊の脇侍の一人である勢至菩薩の名が出ていないことは、観世音菩薩と阿弥陀仏の二尊格のセットが三尊形式の前段階として先行していたことを表しているのかも知れない。
極楽世界 如来:阿弥陀
菩薩:観世音
菩薩:大勢至
『仏説観無量寿経』 (岩波文庫『浄土三部経(下)』 )
伝キョウ(一/田/一/田/一)良耶舎訳。以下には精神統一して浄土を観想する十三の方法より、浄土の特徴を描写する部分を列挙する。
  • 初観 「日想」
    (太陽の観想)
    [前部略] 正坐して西に向かい、はっきりと太陽を観るのだ。心をしっかりと据え、観想を集中して動揺しないようにし、まさに沈もうとする太陽の形が天空にかかった太鼓のようであるのを観るのだ。すでに太陽を観終ったならば、その映像が眼を閉じているときにも、眼を開いているときにもはっきりと残っているおうにするのだ。

  • 第二観 「水想」
    (水の観想)
    [前部略] 瑠璃の大地の内も外も透き通っているさまを観るのだ。下にダイヤモンドなどの七種の宝石に飾られた黄金の幢幡(はたぼこ)があって瑠璃の大地を支えている。その幢幡は八面あって八角形を形作っている。一々の面が百の宝石でできている。一々の宝珠に千の光明があり、一々の光明に八万四千の色があって瑠璃の大地に照り映えているさまは、億千の太陽のようであって、つぶさには見ることができない。瑠璃の大地の上には黄金の縄がびっしりと張りめぐらされ、七種の宝石で境界がはっきりと区切られる。一々の宝石の中に五百色の光があり、その光は花のようでもあり、また星や月のようでもある。その光は虚空にかかって光明台となり、そこには百の宝石から成る千万の楼閣があり、台の両側にはそれぞれ、百億の花の幢幡と無数の楽器が飾られている。八種の清風が光明から吹きおこり、この楽器を鳴らして、苦・空・無常・無我についての教えを聞かせる。 [後部略]

  • 第三観 「地想」
    (大地の観想)
    [特になし]

  • 第四観 「樹想」
    (林の観想)
    大地の観想ができたならば、次には宝石の木を観想するのだ。宝石の木を観想するときには、七重に並ぶ七種の宝石の木の一々を観想する。一々の木の高さは八千ヨージャナある。その宝石の木にはみな、七種の宝石の花や葉がそなわっている。一々の花や葉がそれぞれに違った宝石の色をしている。瑠璃の色の中から金色の光を出し、水晶の色の中から紅の光を出し、瑪瑙の色の中からシャコの光を出し、シャコの色の中から緑真珠の光を出している。珊瑚や琥珀やその他一切の宝石に飾られて照り映えているのだ。木々の上は美しい真珠の網に覆われており、一々の木の上に七重の網がある。一々の網の間に五百億の美しい花の宮殿があって、ブラフマンの宮殿のようである。多くの天の童子たちが自然にその中に住んでおり、一々の童子は五百億のシャクラアビラグナ珠宝を首飾としている。その珠宝の光は百ヨージャナの遠くまで照らし、百億の太陽と月を合わせたようであるが、つぶさには説明のしようがない。種々の宝石が入り乱れて、その色は比類がない。これらの宝石の木の列は互いに触れ合い、葉と葉とが連なっている。葉の間からはさまざまな美しい花が生じ、花の上には自然に七種の宝石の果実がついている。一々の木の葉は縦横共に二十五ヨージャナである。その葉は千の色をもち、百種の模様があって、天人の胸飾のようである。さまざまな美しい花は、ジャンブー河産の黄金の色をおび、旋火輪のように優雅に葉の間で廻っている。涌き出た果実はシャクラデーヴァ(帝釈天)の瓶のようである。大光明は、無数の幢幡を吊るした宝石の天蓋と化し、この宝石の天蓋の中に三千大千世界の仏たちの一切の所作が映っており、十方の仏たちの仏国土もまたその中に現われている。 [後部略]

  • 第五観 「八功徳水想」
    (八種の功徳ある池水の観想)
    [前部略] 極楽世界には八つの功徳のある池水がある。一々の池水は七種の宝石でできている。その宝石は柔軟(にゅうなん)であり、あらゆる宝石の王であり、あらゆる願いを叶えるという珠宝から生じ、分れて十四の流れとなる。一々の支流は七種の宝石の色をおび、黄金の溝を流れる。溝の下には、さまざまな色をもつダイヤモンドが底砂となっている。一々の水の中に六十億の七種の宝石の蓮花があり、一々の蓮花はひとしく完全な円形をなし、十二ヨージャナの大きさがある。その珠宝の水は、花の間を流れ注ぎ、木々を求めて上下する。そのひびきは美しく、苦・空・無常・智慧の定戒についての教えを物語る。また仏たちの顔かたち、姿の美しさを讃えるものもある。あらゆる宝石の王であり、あらゆる願いを叶えるという珠宝からは美しい黄金色の光が流れ出し、その光は化して百の宝石の彩りを持つ鳥となる。相和して鳴く声は甘美優雅であって、常に仏を思念し、教法を思念し、僧団を思念することを讃える。

  • 第六観 「総観想」
    (総てを観る観想)
    さまざまな宝石に飾られた国土の一々の境界の上に五百億の宝石の楼閣があり、その楼閣の中に無数の天人たちが居て、天上の音楽を奏でる。また、楽器は虚空にかかり、天上の宝石の幢幡のように自然に鳴る。このさまざまな音楽はみな、仏を念じ、教法を念じ、僧団を念ずべきことを説いている。この観想に到達したら、ほぼ、極楽世界の宝石の木・宝石の大地・宝石の池を見たと言えるであろう。 [後部略]

  • 第七観 「華座想」
    (花の座の観想)
    かの仏を観たいと思ったならば、観想の念をおこさなければならない。七種の宝石でできた大地の上に蓮花を観想するのだ。その蓮花の一々の葉には百の宝石の彩りがあると観想するのだ。その葉には八万四千の葉脈があって天上の絵のようであり、葉脈に八万四千の光があって、これらがみな、はっきりと見分けられるようでなくてはならぬ。花びらの小さいものでも直径二百五十ヨージャナはある。このような蓮花に八万四千の葉があり、一々の葉の間に各々百億の珠宝があって、あたりを輝かすための飾りとなっている。一々の珠宝からは千の光明が放たれ、その光は天蓋のようであって、七種の宝石でできており、あまねく地上を覆っている。シャクラアビラグナ珠宝をその台としている。この蓮花の台は、八万のダイヤモンド・キンシュカ珠宝・ブラフマ珠宝・真珠を鏤めた網をもって飾られている。その台の上には自然に生じた四本の宝石の幢幡があり、一々の宝石の幢幡は百千万億のスメール山(須弥山)のようである。幢幡の上の宝石の幕はヤマ(閻魔)の天宮のようである。五百億の美しい宝珠があたりを輝かすための飾りとされている。一々の宝珠に八万四千の光があり、一々の光は八万四千の違った金色の彩りをおびている。この金色はその宝石でできた大地をあまねく覆い、いたるところで変化してさまざまな形を現わしている。あるものはダイヤモンドの台となり、あるものは真珠の網となり、あるものはさまざまな花の雲となり、十方の方面において、観る者の思うままに変現して、仏の所作を現わしている。

  • 第八観 「像想」
    (像の観想)
    [前部略] かの仏を観想しようとする者は、まず、その像を観想しなければならない。眼を閉じているときにも、眼を開いているときにも、ジャンブー河産の黄金の色のような宝石の像が花の上に坐しているさまを観想するのだ。像の坐しているさまを見終ったならば、心の眼が開けて、極楽世界の七種の宝石に飾られた、宝石の大地・宝石の池・宝石の木が並び、その上を天人たちの宝石の幕が覆い、さまざまな宝石を鏤めた網が虚空にいっぱいであるのを一つ一つ、はっきりと観る。これを観ること、掌の中を見るようにその映像をはっきりと観るのである。このことを観終ったならば、さらに一つの大きな蓮花を仏の左に観想するのだ。それは前に述べた蓮花と全く同様であって異なるところはない。また一つの大きな蓮華を仏の右に観想するのだ。アヴァローキテーシヴァラ(観世音)菩薩の像が左の花の座に坐っていると観想するのだ。この像が金色の光を放つことは前と同様であって、異なるところはない。また、マハースターマプラープタ(大勢至)菩薩の像が右の花の座に坐っていると観想するのだ。この観想ができると仏と菩薩の像はみな光明を放つ。その金色の光はもろもろの宝石の木々を照らす。一つの木の下にまた三つの蓮花があり、これらの蓮花の上にはそれぞれ、一つの仏の像・二つの菩薩像があって、かの仏国土にあまねく満ち満ちている。この観想ができるようになったとき、この観想者は、水流も光明も、さまざまな宝石の木々も、鵞鳥も雁も鴛鴦も、みなすぐれた教法を説いていることに気づくであろう。冥想に入っているときにも、冥想から出たときにも、常にすぐれた教法を聞くであろう。感想者は冥想から出たときに、冥想中に聞いたことを記憶していて忘れず、経典の記すところと照合してみるがよい。もし合していなかったならば、それは妄想と言うべきである。もし合していたならば、大まかな観想によって極楽世界を見たことになるであろう。 [後部略]

  • 第九観 「ヘン(彳+扁)一切色身観」
    (あまねく一切の体や形を観る観想)
    この観想[第八観]ができたならば、次にはさらに無量寿仏の身相と光明とを観想するのだ。アーナンダよ、まさに知れ。無量寿仏の体は百千万億のヤマ天を彩るジャンブー河産の黄金の色のようである。仏の身の高さは六十万億・百万のガンジス河の沙の数ほどに無量のヨージャナである。眉間の白い旋毛は右廻りに優雅に回転し、スメール山が五つ並んだようである。仏の眼は四大海の水のようであり、青さと白さとがはっきりと分れて見える。体のすべての毛孔から光が出てスメール山のようである。かの仏の円光は百億の三千大千世界のようである。円光の中に百万億・百万のガンジス河の沙の数にひとしい化仏があり、一々の化仏にまた無量無数の化菩薩があって侍者となっている。無量寿仏には八万四千の相があり、一々の相に各々八万四千の小相があり、一々の小相にまた八万四千の光明があり、一々の光明はあまねく十方の世界を照らして、仏を念ずる生ける者どもをおさめ取って捨てられることがない。その光明・相好・化仏はつぶさには説明することができない。ただ観想して心の眼で見るの他はない。このことを観る者は、十方の一切の仏たちを観ることになる。仏たちを観るのであるから、「仏を念ずることによる心の安らぎ」と名づけるのである。この観想を行なうのを「すべての仏たちの体の観想」と名づける。仏の体を観ることは、また、仏の心を観ることになる。仏の心とは大慈悲心である。 [後部略]

  • 第十観 「観観世音菩薩真実色身想」
    (アヴァローキテーシヴァラ菩薩の真実の体の形を観る観想)
    無量寿仏を明瞭にはっきりと観ることができたならば、次にはアヴァローキテーシヴァラ菩薩を観想する。この菩薩の身の丈は八十万億・百万ヨージャナである。体は紫をおびた金色である。頭の頂部は盛り上がり、項(うなじ)には円光があって、縦横各々百千ヨージャナである。その円光の中に五百の化仏があって、釈尊のようである。一々の化仏に五百の化菩薩があって無量の天人たちを侍者としている。全身から発する光の中に、地獄・餓鬼・畜生・人間・天人という五種類の世界にある生ける者どものすべての形や姿が現われている。頭上にはシャクラアビラグナ珠宝の天冠(てんがん)がある。その天冠の中に一人の立った化仏があって、高さ二十五ヨージャナある。アヴァローキテーシヴァラ菩薩の顔はジャンブー河産の黄金の色のようである。眉間の白い旋毛には七種の宝石の色があり、八万四千種の光明を放っている。一々の光明に無数の化仏がある。一々の化物は無数の化菩薩を侍者としている。変現自在で、十方の世界に満ち満ちている。譬えば紅の蓮花の色のようである。八十億の光明が胸飾となり、その胸飾の中にあまねく一切の不思議な現象が現われている。掌は五百億のさまざまな蓮花の色をしている。十本の指先の指紋は、それぞれ八万四千種の画でおしたようである。一々の画に八万四千の色があり、一々の色には八万四千の光があり、その光は軟らかで、あまねく一切のものを照らし出している。この宝石のような手で生ける者どもを救い取られる。足をあげれば、足の裏にある千輻輪の相が自然に五百億の光明の台(うてな)に変化する。足を下ろせば、それはダイヤモンドや珠宝の花と変化し、一切のものの上に散り敷いてあますところがない。それ以外の体の相が整っていて美しいことは仏となんら異なるところはない。ただ頭の頂部の盛り上がりと、その上にある不可視の頂点のみが仏に及ばないだけである。

  • 第十一観 「観大勢至色身想」
    (マハースターマプラープタの形や体を観る観想)
    次にまた、マハースターマプラープタ菩薩を観想しなければならない。この菩薩の体の大きさは、アヴァローキテーシヴァラ菩薩と同様である。円光は縦横各々百二十五ヨージャナであり、二百五十ヨージャナを照らしている。全身から出る光は十方の国を、紫をおびた金色に照らし、縁に結ばれた生ける者どもすべてを観ることができるのである。この菩薩の一つの毛孔から出る光を観ただけでも十方の無量の仏たちの清らかな美しい光明を観たことになる。それ故に、この菩薩を「無限の光」と名づけるのだ。(この菩薩は)智慧の光であまねく一切のものを照らし、かれらを地獄界の火に焼かれる火の途、畜生界の互いに相食む血の途、餓鬼界の刀剣に斬られる刀の途という三つの世界から離れさせ、無上の力を得させる。それ故に、この菩薩を「大いなる力を得たる者」と名づける。この菩薩の天冠に五百の宝石の花があり、一々の宝石の花に五百の宝石の台があり、一々の台の中に、十方の仏たちの清らかな美しい仏国土の、はるかなひろがりを持った姿がことごとく現われている。頭の頂部の盛り上がりは、紅の蓮花のようであり、その上に宝石の瓶があってさまざまな光に満ち、あまねく仏のなしたもう救済の事業をあらわしている。その他のさまざまな体の様相は、アヴァローキテーシヴァラと同様であって少しも異なるところはない。この菩薩が歩いて行くと、十方の世界がことごとく震動する。大地の震動するところに五百億の宝石の花があり、一々の宝石の花は荘厳でありきらびやかであることは、極楽世界のようである。この菩薩が坐るとき、七種の宝石でできた仏国土は、下方にある金光仏の仏国土から、上方にある光明王仏の仏国土に至るまで一時に動揺する。その中間に、無量の塵の数の(ように無限な)分身のアミタ仏、分身のアヴァローキテーシヴァラ、分身のマハースターマプラープタが雲のように「幸あるところ」という世界に集まり、空中一杯になって蓮花の台座に坐り、すぐれた教法を説いて、苦悩する生ける者どもを救われる。 [後部略]

  • 第十二観 「普観想」
    (普く観る完全なる観想)
    この観想をするようになったら、自分自身の心に目覚めなければならない。西方の極楽世界に生まれて、蓮花の中に両足を組んで坐り、蓮花が閉じる観想を行ない、蓮花が開く観想を行なうのだ。蓮花が開くとき、その中から五百色の光がさして来てわが身を照らすと観想するのだ。そして眼が開けると観想するのだ。仏と菩薩とが虚空に満ちているのを観るとき、水のせせらぎ、鳥の啼く声、林のざわめき、仏たちの音声(おんじょう)がみなすぐれた教法を説いており、それがみな十二部経に説くところに一致していることを、冥想からさめても忘れないようにするのだ。 [後部略]

  • 第十三観 「雑想観」
    (雑多の観想)
    もし心から西方に生れたいと願うなら、まず、一丈六尺の像が一つ、池の水の上にあると観想するのだ。先に説いたように無量寿仏は身の大きさが無限であるから、これは普通の人間の理解力を超えている。しかし、かの如来がかつて誓願を立てられたその力によって、(人間が)観想しさえすれば必ず観想できるようになっているのだ。ただ仏の像を観想するだけでも無量の福を得ることができるのであるから、ましてや、仏の具えられた体の特徴を観想した場合はなおさらのことだ。アミタ仏には自由自在な超自然的能力があって、十方の国において自由自在に変化出現される。あるいは大いなる体をあらわして虚空一杯となり、あるいは小さな体をあらわして一丈六尺、または八尺となられる。あらわされる形はみな金色である。円光の中の化身の仏、および宝石の蓮花は先に説いた通りである。アヴァローキテーシヴァラとマハースターマプラープタとは、あらゆる所で身のたけが同じである。生ける者どもは、首の部分の特徴を見て、これはアヴァローキテーシヴァラであると知り、これはマハースターマプラープタであると知る。この二菩薩はアミタ仏を助けてあまねく一切の者たちを教化するのである。
如来:無量寿
八菩薩:
文殊、観音、勢至、無尽意、宝檀華、薬王、薬上、弥勒
『仏説薬師琉璃光如来本願功徳経』 
  • (浄瑠璃世界は)西方の極楽浄土のように功徳・荘厳とが等しく差別がない。
    ※この記述を解釈して「浄瑠璃世界は極楽浄土と差別がない」と取る向きがある。
  • 文殊、もし仏の弟子である出家・在家の四種の男女と、並びにその他、浄らかな信仰心をもった一般在家の男女がいて、よく八斎戒を受けて、これを守ること、あるいは一年を越え、あるいはまた戒を受けて三月、これを守ることがあるだろうが、この功徳によって西方極楽浄土の無量寿仏の許に生まれて、仏の教えを身近に聞きたいと願っていながら、まだ願いどおりにならない人で、もし世に尊ばれる薬師瑠璃光如来の名を聞くならば、命の終わる時に臨んで、八人の菩薩[八菩薩。文殊、観音、勢至、無尽意、宝檀華、薬王、薬上、弥勒の八人]がいて、不思議な能力を駆使してその人の所に現われてその道案内をし、即座にかの浄土の種種色とりどりの多くの宝珠からなる蓮華の中にひとりでに生まれるだろう。(筑摩書房『民衆経典』石田瑞麿訳 一四一)
極楽国 無量寿
『観仏三昧海経』
空王仏の世に四比丘あり、後に成仏して東方妙喜国阿シュク仏、南方歓喜国宝相仏、西方極楽国無量寿仏、北方蓮華荘厳国微妙声仏となる。(『密教大辞典』「阿シュク仏」)
安楽も極楽も意味は同じだが、漢訳表記が異なることは事実なので敢えて区分する。
スカーヴァティー(極楽)世界 如来:無量光
菩薩:観世音
『妙法蓮華経』「観世音菩薩普門品第二十四」(岩波文庫『法華経』 二六九)
  • 西方に、幸福の鉱脈である汚れないスカーヴァティー(極楽)がある。
  • そこに、いま、アミターバ仏は人間の御者として住む。
  • そこには女性は生まれることなく、性交の慣習は全くない。
  • 汚れのない仏の実子たちはそこに自然に生まれて、蓮華の胎内に坐る
  • かのアミターバ仏は、汚れなく心地よい蓮華の胎内にて、獅子座に腰をおろして、シャーラ王のように輝く。
漢訳『妙法蓮華経』では、この部分がまるまる抜けている。
安楽世界(1) 阿弥陀 『仏説阿弥陀経』 (筑摩書房『大乗仏典』中村元訳 二六七下〜二六八下)
  • 西方に、十万億のほとけの国土を過ぎたところに、「幸あるところ」(極楽)という名の世界がある。その世界には、限りないいのちとひかりの体現者である阿弥陀仏(無量寿如来)というほとけが住んでおり、いま現に教えを説いておられる。
     ※ところでこの「十万億」というのがどのような数かというと、サンスクリット語『無量寿経』には Sata-sahasra-koTi-nayuta とあり、サンスクリット語『阿弥陀経』には Sata-sahasra-koTi と書かれている。十万というのはこの Sata-sahasra (100X1000)の部分に相当する。では億が koTi-nayuta あるいは koTi のいずれかに相当するのかというと、どちらでもないらしい。億は 100,000 であり(現在のように 100,000,000 ではなかった)、 koTi は 10,000,000、 nayuta は 100,000,000,000 である(定方晟『須弥山と極楽』一三五)
  • その世界に住む生ける者たちには、身体の苦しみも心の苦しみもすべてなく、ただ幸せをもたらすものばかりがそこにある。
  • 七重の石垣、七重の鈴をつけた網、七重のターラ樹の並木がある。それらは、みなことごとく金・銀・瑠璃(青玉)・玻璃(水晶)の四種の宝石で飾られ、国中のいたるところにはりめぐらされている。
  • 七種の宝石からできている池がある。池のなかには、八つの特性ある水が充満し、池の底は、一面に金の砂で敷きつめられている。池の周囲四方に四つの階段があって、金・銀・瑠璃・玻璃の四種の宝石からできている。階段の上に高殿があって、金・銀・瑠璃・玻璃・シャコ・赤珠(しゃくしゅ)・瑪瑙の七種の宝石からできており、それらは、まことにみごとに飾られている。池のなかの蓮華の大きさは、車輪ほどもあり、青色の花には青い光、黄色の花には黄色い光、赤色の花には赤い光、白色の花には白い光がある。それらの蓮花は、いずれもうるわしく、清らかな香りを放っている。
  • つねにすぐれた音楽が演奏されている。
  • 大地は黄金からできていて、昼・夜に三度ずつマンダーラヴァの花がふってくる。
  • その国の生ける者たちは、つねに朝食前の時間に、各自の花皿にたくさんの美しい花を盛って、他の十万億のほとけの国にいってほとけたちを供養する。そして、昼食のときまでにこの国に帰って食事をし、午後の休息をとる。
  • 白鳥・孔雀・鸚鵡・百舌鳥・妙音鳥・命々鳥など、色とりどりの珍しい鳥がたくさんいる。これらの鳥は昼・夜に三度ずつ優雅な音色でなくが、そのさえずりは、そのまま、ほとけの教えである五つのすぐれたはたらき・五つのすぐれた力・さとりに役立つ七つの支分・八つの聖なる道の支分を説き明かす声となって、流れ出る。その国の生ける者たちは、この音色を聞いて、みなすべて、ほとけを念じ、ほとけの教えを念じ、ほとけの教団を念ずるのである。(中略)これらのさまざまな鳥たちは[罪業の報いとして生まれてきたものではなく]、すべて、阿弥陀仏がほとけの教えをひろめるために、化作してつくられたものである。
  • そよ風が吹きわたり、宝石で飾られた並木や網をゆり動かして、美わしく快い音が流れ出ている。その音は、あたかも、百千種類の音楽を同時に演奏しているようである。この国の生ける者たちは、みな、この音を聞いて、おのずとほとけを念じ、ほとけの教えを念じ、ほとけの教団を念ずる思いを起す
  • この世界に生まれた人々はみな、仏になることが決定した菩薩で、その地位から退かない者となっている。そのなかには、一生を終れば次生には仏となる位の菩薩が多くいる。かれら菩薩の数は、どんなに長い年月をかけても、数量で計算することができないほどである。
  • わずかな善行や福徳を修めただけでは、かの仏の国土に生まれることはできない。阿弥陀仏の名前のいわれを聞き、その名を心のなかにとどめること、あるいは一日、あるいは二日、あるいは三日、あるいは四日、あるいは五日、あるいは六日、あるいは七日の間、心を一つにして散乱しないならば、その人の臨終のときに及んで、阿弥陀仏は多くの聖者たちにとりまかれて、この人の前に立たれるであろう。その人は、いのちの終るときまで、死の恐れなどで心が乱れることがない。だから、その人は死んで、阿弥陀仏の国土である「幸あるところ」という世界に生まれるであろう。
『六十華厳』「寿命品第二十六」
その時、心王菩薩は諸菩薩に告げた。
「仏子よ、この娑婆世界の一劫は阿弥陀仏の安楽世界の一日一夜で、安楽世界の一劫は金剛仏の聖服憧(しょうふくどう)世界の一日一夜に当る。聖服憧世界の一劫は善楽光明清浄開敷(ぜんぎょうこうみょうしょうじょうかいふ)仏の不退転音声輪(ふたいてんおんじょうりん)世界の一日一夜に、音声輪世界の一劫は法幢仏の離垢世界の一日一夜に当る。かく次第に比較して百万阿僧祗を重ねた最後の世界の一劫は、賢首仏の勝蓮華世界の一日一夜に当る。普賢等の大菩薩はその中に充満している」
劫(kalpa、劫波)は古代インドにおける最長の時間の単位で、梵天(brahmA神)の一日(一〇〇〇yuga)の単位ともいう。
『妙法蓮華経』「薬王菩薩本事品第二十三」 (岩波文庫『法華経(下)』 二〇五)
また、ナクシャトラ=ラージャ=サンクスミタ=アビジュニャ(宿王華)よ、ある女性がこの「バイシャジヤ=ラージャの前世の因縁[漢訳:薬王菩薩本事品]」という章を最後の五十年に聴いて、それを学ぶときには、彼女はここから生まれ変わって、スカーヴァティー世界[漢訳:安楽世界]に生まれるであろう。そこには、完全な「さとり」に到達した阿羅漢の、かの尊きアミターユス如来[漢訳:阿弥陀仏]が偉大な志を持つ求法者の集団にかこまれて、住み、生活をし、暮していられるのだ。かの人[女性のこと]はその地では蓮華の胎にある獅子座に坐って現われ、愛欲も、憎しみも、愚かさも、自惚れも、嫉妬も、怒りも、また悪意も、かの人を害うことはないであろう。かの人はそこに現われるやいなや、五種の超自然的な力を得るであろうし、この世に存在するものは生ずることはなく、滅することもないという真理を会得するであろう。かの人はこの真理を会得して、ナクシャトラ=ラージャ=サンクスミタ=アビジュニャよ、さらに偉大な志を持つ求法者として、七十二のガンジス河の砂の数にひとしい如来を見るであろう。かの人の視覚はこのように完全に清浄となるであろうし、かの人はこの完全に清浄な視覚によって、尊き仏たちを見るであろう。そして、尊き仏たちは、かの人を賞讃しよう。
安楽世界(2) 無量寿/光 『仏説無量寿経』 (筑摩書房『大乗仏典』中村元訳 二八〇上〜)
このサンプルは魏訳を底本としているが、ところどころ岩波のサンスクリット語原典口語訳を参照してもいる。
  • ダルマーカラ(法蔵)菩薩は、すでにほとけとなって、いま現に、西方においでになる。その名をアミターバ如来すなわち無量光如来とも、またアミターユス如来すなわち無量寿如来ともいう。
  • 無量寿如来はほとけとなられてからおよそ十劫の時を経ている。
  • その仏の国土の大地は、金・銀・瑠璃・珊瑚・琥珀・シャコ・瑪瑙の七宝からできていて、それは、実にはてしなく広大で際限がない。また、それらの七宝は、たがいに入りまじって、光り輝き、見事ですばらしい。このような清らかなしつらいは、あらゆるすべての世界のそれにくらべて、超えすぐれている。それらの宝石は、多くの宝石のなかでの最もすぐれたものであって、パラニルミタ・ヴィシャヴァルティン天(他化自在天)の宝石のようである。
  • その国土には、スメール山(須弥山)やチャクラヴァーダ山(金剛鉄囲山)をはじめ一切の山々がなく、また、大海や小海、渓や溝や堀もない。しかしながら、それらを見たいと思えば、ほとけの超人的な力によって、ただちに現われるから、見ることができる。
  • 地獄や餓鬼や畜生などのもろもろの悪しき境界がない。
  • 春夏秋冬の四季の別もなく、寒からず暑からず、つねに調和のとれた快適な世界である。
  • その国土で教えを聞いて修行する者や菩薩や神々や人間たちの寿命もアミターユス如来同様、数えつくすこともたとえをもって示すこともできない。
    これらの存在の数も多く数量で量ることはできない。しかも、かれらは、すぐれた智慧の把握に達し、威力は自在であって、よくその掌中に、あらゆる世界をたもつことができる。
  • 七つの宝石でできたさまざまの樹が茂っていて、正しく列と列との相対し、幹と幹と相望み、枝と枝と相ならび、葉と葉と相向い、花と花と相従い、実と実と相応じて茂り、それらの放つ光は、照り輝いて、目もまばゆいほどである。ときおり、清風が吹いてくると、これらの宝石の樹は、五種の音声を出し、それらがおのずと調和して、いともたえなる調べをかなでる。
  • 無量寿如来の国土の菩提樹は、高さ四百万里、根本の周囲五十ヨージャナあり、枝葉は四方に二十万里にわたてひろがっている。これらは、あらゆる宝石からできていて、宝石の王とされる月光摩尼や持海輪宝で飾られている。
    微風が静かに吹いて、これらの枝葉にふれると、無量の音声を出して、すぐれた真理の教えを説き、その声が流れ出て、あまねく仏たちの国々に広がる。その声を聞く者は、不生不滅の道理を把握して、悟りの位につくことが決定して退転しないという位に達し、仏の身となるまで、耳はよくすんで音を聞き分け、いかなる苦しみやわずらいも受けない。耳を含めて、眼・鼻・舌・身・意の六つの感官は、よくすんで、いかなる苦しみやわずらいをも受けることがない。
    もしも、同国土の神々や人間がこの宝石の樹を見るならば、三種の真理の把握が得られる。すなわち、一つには声を聞いてさとる把握、二つには、すなおに真理に従ってみずから思惟してさとる把握、三つには、真理は不生不滅であるとさとる把握である。このような利益がえられるのは、すべて、無量寿如来の偉大な力、本願の力によるのであり、また、その明瞭な願、堅固な願い、究竟の願いによるのである。
  • 講堂・精舎・宮殿・高殿などがあり、すべて、七つの宝石で飾られ、しかも、おのずと化作されてできている。それらの内外および左右には、多くの水浴する池がある。あるものは、大きさ十ヨージャナ、あるいは二十、三十、ないしは百千ヨージャナのものがあり、いずれも縦・横・深さは、均等の長さである。それらの池に、八種のすぐれた特性のある水が、なみなみとたたえられ、それは、清らかで芳香があり、あたかも不死の霊薬のような味をしている。
    その池の岸のほとりには栴檀の木があり、花や葉をたれ、あまく香気をただよわせている。池のなかには、たえなる青蓮華・紅蓮華・黄蓮華・白蓮華などが、色とりどりに咲き乱れて、その水面をいっぱいに蔽っている。かの国の菩薩や教えを聞いて修行する者たちが、もしも、これらの宝の池に入って、足をひたしたいと思えば、水はたちまち足をひたす。もしも、膝までひたそうと思えば、水はたちまち膝に達する。(中略)体にそそぎたいと思えば、水はおのずと身体にそそがれる。それとは反対に、水を元にかえそうと思えば、たちまち元どおりになる。冷たい水と温かい水は、望みに応じて、おのずと、調節よろしきをえてえられる。
    その池において水浴するならば、身心ともに晴れ晴れとし、喜びにあふれて、心のけがれを洗い去ってしまう。その水は、清く澄んで、すきとおっているので、あるかないかわからないほどである。池の底にある宝石の砂の輝きは、底がどんなに深くても、底を照らし出している。そのような水が、さざ波をたてて、めぐり流れ、あちこちの水流と合して、遅からず速からず、静かにそしてゆるやかに流れていく。
    その漣は、おのずと、無量のたえなる声を出し、どのような声でも聞きたいと思う者は、すべて、同じようなたえなる声を聞くことができる。すなわち、真理の教えの数々の声である。それらの声を聞いた者は、聞くに応じて、はかりしれない喜びにあふれる。それは、清浄・離欲・寂滅・真実をえたことにともなう喜悦であり、また、仏法僧の三宝・十のすぐれた智慧力・四種の畏れなき自信・他と共通しない十八種の固有の特性、そして四種のさまたげのない理解力、および菩薩や声を聞いて修行する者たちの実践道にかなったところの喜悦である。
    それゆえに、かのほとけの国土には、地獄・餓鬼・畜生の三つの悪しき境界や苦難の処といった名前さえなく、ただ、おのずから生ずる快い楽しい音声だけがあるから、その国を名づけて、「幸あるところ」と呼ぶ。
  • この国土に生まれた者は、みな、清らかな身体、種々のたえなる音声、そして超人的な力などのすぐれた特性を具え、また、住んでいる宮殿をはじめ、衣服や飲食物、多くのすぐれた花や香りや装飾具を享受することができるのは、あたかも、欲界の第六天であるパラニルミタ・ヴァシャヴァルティン天(他化自在天)におけるようである。
    だから、もしも、食事をしたいと思えば、金・銀・瑠璃・シャコ・瑪瑙・珊瑚・琥珀の七つの宝石や、明月摩尼や真珠からできているいろいろの食器が、思いのままに眼前に現われ、しかも、それに百味の飲食物が、おのずと盛られている。しかしながら、このような飲食物があっても、実際に、飲んだり食べたりする者はいないのだ。ただ、かれらは、その色を見、香りをかぐだけで、飲んだり食べたりした気持となって、食欲が自然とみたされ、身心ともにやわらぎ、味に対して執着することがないのである。そして、食事が終ると、食器も飲食物も消え失せ、やがてまた食事の時がくると、再び現われる。
  • この国土は清らかにして安らかであり、そして、たぐいなくすぐれ、楽しいところである。しかも、そこは、単なる形状をこえて、常住不変のさとりの境界そのものである。
  • かの国の、教えを聞いて修行する者、菩薩、神々や人間たちは、いずれも智慧がすぐれ、種々の超人的な力の深奥に達していて、すがた、かたちもみな一様に同じく、少しの違いもない。だから、世間一般でいうような区別した呼称を必要としない。しかしながら、ただ他の世界で呼びならわしている言葉に従って、神々とか人間というだけである。それにしても、かれらの顔かたちの端麗なことは、この世のものを超えて、たぐいまれであり、またすがたのうるわしいことは、神々や人間の比ではない。彼らはすべて、さとりにかなった身体すなわち自然の、実体なく、限界のない身体を得ている。
  • この国土の神々や人間が用いる衣服・飲食物・香・花・装飾具・絹傘・旗ぼこ・かれらが耳にする妙なる音声、また住んでいる舎宅や宮殿や高殿は、かれらのすがた・かたちに応じて、高低・大小さまざまである。あるいはまた、一宝、二宝ないしは無量の宝が、かれらの欲求に従って、思いのままに現われる。
  • 自然の徳風が、寒からず暑からず、よく調和し、温かさと涼しさも適度で心地よく、また遅からず速からずに吹く。そして、その風が、もろもろの宝網や宝樹の間を吹くと、はかりしれないたえなる真理の教えの音をかなで、あらゆる種類の優雅な徳香がただよう。こうした音や香りを聞く者は、煩悩のけがれが自然になくなり、徳風が身にふれると、みな身心の楽しみをうる。それは、あたかも修行者が、心の思いをすべて滅しつくす最高の心統一に入った境地のようである。
  • 多くの宝石でできた蓮華が、かのほとけの国土に、あまねく満ちて咲いている。一つ一つの花には、百千億の花びらがあり、花の放つ光には、はかりしれない種類の色がある。たとえば、青い色には青い光があり、白い色には白い光があり、黒・黄・赤・紫の色の光も、また同様である。そのひかり輝くさまは、太陽や月のそれよりも明るい。
    また、一つ一つの花のなかから、三十六百千億の光があらわれ、その一つ一つの光のなかから、三十六百千億のほとけたちが出現される。ほとけたちの身体は紫金色に輝き、身体のどの特徴もことのほかすぐれている。そして、これらのほとけたちは、またそれぞれ、百千の光明を放って、あまねく十方の世界の生ける者たちをみちびいて、ほとけの正しい道に安住させる。
       
阿シュク如来 (東)
妙喜世界 阿シュク(無動) 『維摩経』「見阿シュク仏品第十二」
  • (釈尊の意を受けて)ヴィマラキールティは、自分はこの獅子座から立ち上がらないままで、次のことをしようと考えた。
  • かの妙喜世界と、
  • その百千無数の菩薩と、天、竜、ヤクシャ、ガンダルヴァ、アスラが住んでいるところをとりまく鉄輪山と、また、河、池、泉、流れ、大海、堀、またスメール山やその他の小山とその物見の高楼、また、日月星辰、天、竜、ヤクシャ、ガンダルヴァの住居、ブラフマー神の住居とその集まり、また、村、町、城氏、田舎、国土、男、女、家など、また菩薩・声聞の集まり、さらに、無動[阿シュク]如来の菩提樹
  • また、その無動如来が海のように多い人々の中にあって法を説いていること、また十方の衆生に対して蓮華が仏陀としてのはたらきを行なうこと、また、ジャンブ洲から高く三十三天まで宝石のきらめくはしごがかかっており、三十三天の神々は、無動如来に会い、礼拝供養し、説法を聞くためにそのはしごによっておりてくること、また、ジャンブ洲の人々は三十三天の神々に会うためにそこへのぼって行くこと、このような無数の性質を集めている妙喜世界の、水輪をはじめとして上のほうはアカニシュタ天(色究竟天)に至るまでを、陶工がろくろをまわすようにまたたくまに切りとって、右手に受け、華鬘をささげるようにしてこのサハー世界にもってこよう。そして、ここに集まっている人々に見せてやろう、と。(筑摩書房、長尾雅人訳 一八四上下)
『阿シュク仏国経』
  • 要約: 過去の時、東方に千仏刹を過ぎたところにある阿比羅提(abhirati、妙喜・妙楽・善快)国に大目如来が出現し、諸菩薩のために六度にわたり無極の法を説いた。そのとき一人の比丘があり、仏の前に「我今より極無上道心を発し、瞋恚を断ち淫欲を断ち、乃至最正覚を成ぜん」と無瞋恚の誓願を発したことから阿シュクと名く。阿シュク菩薩はこのようにして大目如来の下にて発願修行し成仏し、この善快世界(=妙喜世界)にて説法する。(法蔵館『密教大辞典』「阿シュク仏」)
    この国の女性は、出産の際に身体が安らかで身の穢れもない。(『インド仏教(3)』所収、櫻部建「人間と世界」九四)
    またその国は極めて快適で、人びとはみな幸せであるという。(筑摩書房『華厳経』三六八)
  • 要約: 阿シュク仏の仏国土には八功徳の水の満ち満ちた池がある [※ 玄奘訳『阿弥陀経』によれば、澄浄・清冷・甘美・軽軟・潤沢・安和・飲むとき飢渇などのわずらいを除く・飲み終わって身体の健康を増す、の八つの特性を持つ水のこと。『阿弥陀経』『無量寿経』の安楽世界、『観無量寿経』の極楽世界の池もこれによって満たされている]。
『悲華経』四
要約: 過去世に無諍念王の大臣・実海梵志の子が出家して宝蔵如来となった。王、及び彼の多くの王子は大臣の勧誘によって仏を供養し発心誓願して、無諍念王は阿弥陀仏となり、第九王子蜜蘇は阿シュクとなる。(『密教大辞典』「阿シュク仏」)

『観仏三昧海経』
要約: 空王仏の世に四比丘あり、後に成仏して東方妙喜国阿シュク仏、南方歓喜国宝相仏、西方極楽国無量寿仏、北方蓮華荘厳国微妙声仏となる。(『密教大辞典』「阿シュク仏」)

『法華経』三、『仏名経』六、『阿弥陀経』、『最勝王経』八、『清浄観世音普賢陀羅尼経』、『陀羅尼集経』十等もこの仏土を東方に定める。
阿シュクとはサンスクリット語akSobhyaの音写で、原語には「震動せられざる」の意味がある。
木村清孝氏は「女性像の理想化(安産・容色美など)が、この仏の一つの際立った特徴となっていると思われる」と述べている。(筑摩書房『華厳経』三六八) なお、同尊格の浄土が東方にあることから、日本では薬師如来と混同(あるいは習合)されがちで、説話では往々にして阿シュクの薬師への転換が見られる。(岩波『仏教辞典』「阿シュク」)
しかし、『維摩経』の記述を見ても、極楽世界に類似する薬師如来の浄瑠璃世界とは大きく異なって、ジャンブ洲や三十三天、アカニシュタ天があるなどとしていることや、女性が存在し出産という現象があるという点において、娑婆世界と同様の設定であると認識されている。

また中村元氏によれば、阿シュク仏信仰は阿弥陀仏信仰の隆盛に先行して流行していたことは学界の定説であり、前者が後者にとって代わられたのには理由があったと考えられる。(『浄土三部経(下)』二〇一) 坪井俊映氏はこれについて、『印仏研』第二巻第一号(一八二〜)において「大阿弥陀経成立以前に、阿弥陀教徒、阿シュク教徒、釈迦教徒の間に、思想信仰上の軋轢があった」と述べている。
妙楽厳浄刹 如来:阿シュク
菩薩:香象
『六十華厳』「入法界品第二十八」
あるいはまた、阿シュク仏と香象大菩薩をはじめとする者たちが、皆「妙楽厳浄」の国に満ちみちているのが見える。
香象[gandhahastin、乾陀訶提]大菩薩は『阿弥陀経』で釈尊の弟子の一人として登場する(ただし、玄奘訳『阿弥陀経』はこの菩薩名を欠く)。『小品般若経』によれば、阿シュク仏の許で菩薩の道を行じ、常に般若波羅蜜の業を離れずして、尊貴第一の菩薩とされている。
       
薬師如来 (東)
浄瑠璃世界 如来:薬師
菩薩:日光遍照、月光遍照
『仏説薬師琉璃光如来本願功徳経』
(筑摩書房『仏教経典選(12)民衆経典』所収、石田瑞麿訳 一一三〜一二六)
  • 東の方、ここを去ること十恒河沙等の仏の国を過ぎて、浄瑠璃と名づける世界がある。
  • この尊い仏である薬師瑠璃光如来は、かつて菩薩としての修行を行なった時、十二の広大な誓いを立て、(仏となって、いま)多くの人々が求めることはみな、叶えさせている。
  • 浄瑠璃世界は全く清浄そのものであるため、女性がいないし、悪行の報いを受けて堕ちる迷いの世界や苦しみの声もない
  • 大地は瑠璃からなっていて、金の縄が道の境界をなし、城門・宮殿・楼閣(はもちろん)、建物の軒や窓・(その)薄絹の網も、すべて七つの宝でできている
  • 西方の極楽浄土のように、仏の功徳によって厳かに飾られていて等しく、全く差異はない
     ※漢訳読み下し: 亦西方極楽世界の如く、功徳荘厳等しくして差別なし。
     ⇒ 「西方極楽世界と功徳も荘厳も等しく全く差異はない」 と解釈すべきなのだろうか。
  • この浄土には二人の菩薩がいて、一人は日光遍照といい、一人は月光遍照という。この二人はかの浄土の量り知れない数多くの菩薩達の筆頭であって、かの世尊・薬師瑠璃光如来の真実の教えを収めた宝の蔵はすべてよく護持している。
薬師琉璃光如来はバイシャジヤ(薬)グル(師)ヴァイドゥールヤ(琉璃)プラバ(光)ラージャ(王)の意訳。大医王仏、医王善逝ともいう。
       
釈迦如来 (中と西)
娑婆世界 釈迦 『維摩経』「香積仏品第十」
(中央公論社『大乗仏典』所収、長尾雅人訳)
  • 娑婆世界の描写
    良家の子よ、この仏国土[一切妙香世界]から下方へ向かって四十二のガンガー河の砂の数だけの仏国土を過ぎて行くと、そこにサハーという世界があって、シャーキヤムニとよばれる如来が、その五濁(ごじょく。末世、悪世に生じる五つの汚濁。劫濁、見濁、煩悩濁、衆生濁、命濁)の仏国土において、低級なものに信をおく衆生に対して法を説いておられる。そこには、不可思議解脱の中にある、ヴィマラキールティという菩薩がいて、菩薩たちに法を説いている。(一六八)

  • 娑婆世界に独特の善行
    これら[一切妙香世界の]菩薩たちが言う。「実にシャーキャムニ世尊が、その仏陀としての偉大さをさしおいて、低級で貧困で手に負えない衆生をこうまでして教化するとは、まことに奇特なことです。このような恐ろしい仏国土(であるサハ―世界)に身をおく菩薩たち、彼らの偉大な慈悲もまた、はかりしれぬものがあります」
    そこで、ヴィマラキールティは言う。「高貴な士よ、そのとおり、まことに仰せのとおりです。ここに生まれたこれらの菩薩たちの大慈悲は、実に堅固であります。彼らはこの世界に一度生まれただけで、衆生に対してきわめて多くの利益を与えます。かの一切妙香世界では、かりに百千劫(ごう)かかっても、それほどの利益を与えることはありえないでしょう。それはなぜでしょうか。
    高貴な士よ、このサハー世界には、善を積む十種の方法があって、(この世界を)まもっています。それは他の仏国土では見られません。十種とは何かと言えば、すなわち、(1)貧困の者は、布施(パーラミター)をもって引き寄せる。(2)破戒した者は、戒をもって引き寄せる。(3)瞋恚ある者は、忍耐をもって引き寄せる。(4)怠惰な者は、精進をもって引き寄せる。(5)心の乱れた者は、禅定をもって引き寄せる。(6)知恵のそこなわれた者(悪慧)は、知恵をもって引き寄せる。(7)環境的に不幸に陥った者は、八種の環境から脱出する方法を示す。(8)規模の小さな(教え)にたずさわっている者には、大乗を説く。(9)まだ善根を生じていない者は、善根をもって引き寄せる。(10)いつも間断なく四摂事をもって衆生を成熟させる。これら善を集積するこの十種の方法は、この世界をまもる者であり、他の仏国土には存在しません」(一七一〜二)
古典的サンスクリット(Classical Sanskrit)においてサハ(saha)という語は具格名詞を伴って「〜と共に」の意味になる。これに対して、娑婆世界の「サハー(sahA)」は古典的サンスクリットである「サ(sah、耐え忍ぶ)」の仏教梵語(Buddhist Hybrid Sanskrit)なのではないかと考えられる。
『法華経』「見宝塔品第十一」(筑摩書房『大乗仏典』所収、中村元訳 一一一下)
  • 娑婆世界の浄土化
    そのとき、十方の諸仏はおのおの、もろもろの菩薩に告げられた――
    「立派な若者たちよ、わたしは今、娑婆(サハー)世界の釈迦族の聖者のもとに行き、多宝如来の宝塔を供養するであろう」と。
    そのとき、娑婆世界は変化して清浄となり、瑠璃を大地とし、宝石の樹に飾られ、黄金を縄として八道を区切り、聚落・村落・都市・大海・山・河・林などがなく、大宝の香をくゆらし、マーンダーラヴァ花をあまねく大地に布き、宝石を鏤めた網や幔幕でその上を覆い、宝石の鈴をかけ、ただこの集いの人々のみを残して、その他の天人や人間たちは他の国土に移された
いわゆる「霊山(りょうぜん)浄土」のこと。霊山は霊鷲山(サンスクリット語グリドラクータ gRdhrakUTa、音写して耆闍崛山)のことで、インド、摩訶陀国(現ベンガル州)の首都・王舎城の東北方にあった。鷲峰ともいう。
この浄土化の場面において、関係者以外(しかも、四悪道ではなく人や天)をことごとく他の国土へ移す必要性が説明されていないが、これは一般の天人や人間たちがそのままのレベルで存在してしまっては仏国土の「浄土化」ができない(という認識があった)ことを示唆する事例である。ある意味密教的な立場ともいえなくもない。
『法華経』「如来寿量品第十六」(筑摩書房『大乗仏典』所収、中村元訳 一二二上〜)
  • わたしは常にここに在るけれども、もろもろの神通力によって、心のテン倒した者たちの眼には、近くにあっても見えないようにしてあるのだ。
  • 生ける者たちの心が信伏し、素直であって、こころが柔軟になり、一心に仏を見たいと願って体も心も惜しまぬときは、わたしと比丘たちとは、ともに耆闍崛山に姿をあらわすであろう。
  • そして、生ける者たちにこう語るであろう――わたしは常にここに在って、世を去るということはなく、方便力によって、世を去ることを示したり、生まれることを示したりする。
  • わたしの神通力はこのようである。無数劫のあいだ、常に耆闍崛山およびその他もろもろの場所に在る
  • 生ける者の劫が尽き、大いなる火に焼かれるときにも、わたしのこの国土は安穏であって、天人が常に充満している。
  • 園林や、もろもろの堂閣は、種々の宝によって美しく飾られ、宝石の樹、宝石の花菓多く、生ける者たちの遊楽するところである。
  • もろもろの天人は天鼓を打って、常にもろもろの伎楽をなし、マーンダーラヴァ花を雨降らして、仏と大衆の上に散ずる。
  • わたしの浄土は常住であるのに、しかも生ける者たちは焼け尽きて、憂いや怖れ、もろもろの苦悩はことごとく充満していると見る。このもろもろの罪の者たちは、悪業の因縁によって、無数劫を過ぎても、仏法僧の三宝の名を聞かないのだ。もろもろのあらゆる功徳を修めて、柔和であり、素直である者は、わが身がここにあって教えを説いているのを見るのだ。
無勝浄土 釈迦 出典不明。探索中 無勝荘厳、無勝土ともいう。この娑婆世界を西に遠ざかること四十二恒河沙等の諸仏世界を過ぎた彼方にあるという国土の名。釈尊の過去世の浄土という。(小学館『仏教後大辞典』「無勝荘厳」参照)
       
香積如来 (上)
一切妙香世界 最上香台 『維摩経』「香積仏品第十」
(中央公論社『大乗仏典』所収、長尾雅人訳 一一六)
  • この仏国土[娑婆世界]から上方に向かって、四十二のガンガー河の砂の数ほどの仏国土を越えて、一切妙香(あらゆるかおりの中でもっともよいかおり)とよばれる世界がある。
  • 現在そこには最上香台(すぐれたかおりの峰。香積仏)と名づける如来があって、現に日を送っておられる。
  • この世界にある木からは、十方の仏国土の人や神々が発するかおりのいずれよりも、はるかに上等なかおりが発散している。
  • この世界には声聞とか独覚というよび名すらなく、かの最上香台如来は、ただ菩薩たちだけの集まりに対して説法をされる。
  • この世界では、あらゆる楼閣は香気からなっており、遊歩場も園林も宮殿も、すべて香気でできあがっている。
  • その菩薩たちのとる食事のかおりは、無数の世界にゆきわたるのである。
衆香世界 香積 『維摩経』「香積仏品第十」
(筑摩書房『大乗仏典』中村元訳 四四上)
  • 上方に向かって四十二のガンジス河の砂の数ほどもある多くの仏国土を過ぎて行ったところに、衆香という国がある。
  • そこの仏は香積と号し、いまも現にまします。
  • その国の香気は十方の諸仏の世界における人間や天人どもの香に比べてみても、最もすぐれ第一のものである。
  • その国土には、教えを聞くのみの修行僧や、ひとりでさとりを開く修行僧がいるとは聞いていない。
  • ただ清らかな大菩薩のかたがたのみがおられ、仏はかれらのために法を説きたもう。
  • その世界の一切のものどもは、みな香をもって楼閣を作り、香りよりなる地をそぞろ歩きし、庭園もみな香ばしい。
  • その食物の香気は十方の無量の世界にあまねく流れている。
上の一切妙香世界と同じ。長尾訳がチベット訳を底本としているのに対して、こちらは漢訳を底本としている。
       
多宝如来 (東)
宝浄世界 多宝 『法華経』「見宝塔品第十一」
(筑摩書房『大乗仏典』中村元訳 一一一)
  • 過去に、東方[サンスクリット語本では下方]無量無数千万億の世界を過ぎたところに宝浄(ラトナ・ヴィシュッダ)という国があって、多宝(プラブータ・ラトナ)という名の仏がおられた。
       
毘廬遮那如来 (遍)
       
       
A 未来仏/非仏陀の浄土
非仏陀の浄土について非仏陀的存在が仏陀のはたらきをすることで環境が浄土化する事例がある。

『維摩経』「菩薩行品第十一」
(シャーキヤムニ・ブッダが言う)アーナンダよ、あるところでは菩薩が仏陀のはたらきをする、そのような仏国土もある。ある仏国土では光が仏陀のはたらきをし、ある仏国土では菩提樹が、ある仏国土では如来の相好を見ることが、ある仏国土では衣服が仏陀のはたらきをするようなところもある。それと同様に、食事が仏陀のはたらきをし、河が、園林が、宮殿が、楼閣が仏陀のはたらきをするところもある。化作(けさ)された者が、虚空が、空間が、同様に仏陀のはたらきをするところもある。このようにして、衆生が導かれるのである。(中央公論社『大乗仏典』所収、長尾雅人訳 一七五上)

ここでは、いまだ成仏していない菩薩と、菩薩が将来成仏した際に得るであろう浄土の様子などに関する記述を蒐集する。
弥勒菩薩/如来
兜率天 (兜率陀天十善報応勝妙福徳処) 弥勒菩薩 『仏説観弥勒菩薩上生兜率天経』
(筑摩書房『民衆経典』所収、石田瑞麿訳 一六〜)
  • その時、兜率天上には五百万億の神神がいた。
  • 一人一人の神神はみな極めて深遠な、悟りの智慧を得る布施[※壇波羅蜜]を修行して、この天上から地上に降りて、仏の後を継ぐ弥勒菩薩(一生補処の菩薩)を迎えて供養しようと思った。神神はそのために、身に備わる福徳の力をもって宮殿を造営してから、それぞれ身につけていた栴檀香のような紅白などの色の摩尼宝で飾った宝冠を脱いだ。そして長い間、[両足で]跪いたまま[※この作法を長跪(じょうき)という]合掌して、このような誓いをおこして言った。
    「わたしはいま価のつけようもない高価な宝珠と瓔珞を飾りとした宝冠を手にしていますが、それは弥勒菩薩を供養するためです。この方は来世もそう遠くない頃にきっと最高至上の仏の悟りを成就されるにちがいありません。わたしは、弥勒菩薩が仏になられた時の国土を厳かに飾るために、この宝冠をもって、弥勒仏から成仏の予言を受けることができる人が仏に捧げる時の供養の品と変わるようにさせたいのです。」
    このように、多くの神神達はそれぞれ、長い間、跪いて、また同じように広大な誓いの言葉を述べた。
    天上の神神達がこの誓いを述べ終わった時、この多くの宝冠が五百万億の、宝玉で飾られた宮殿を忽然と作り出した
  • その一々の宮殿には七重の垣が回らされ、一々の垣は七宝から作られ、その一々の宝が五百億の光を放った。(しかも)その一々の光の中には五百億の蓮華があり、その蓮華の一々が五百億の七宝で飾られた並木と変わり、一々の樹の葉が五百億の金色に輝いたが、さらにその色には五百億の紫磨金(しまごん)の光があり
  • 一々の紫磨金の光の中に五百億の天の玉女が姿を見せ、一人一人の玉女は樹の下にたたずみながら、百億の宝玉で作られた数限りない多くの瓔珞を手にして
  • えもいえない美しい音楽を奏でた。すると、その楽の音は再び退くことのない不退転の位を得る修行の教えを説き述べ、
  • また樹々になった果実は頗黎のような色をしていて、色という色のすべてをその頗黎一色に染めた。
  • またかのさまざまな光は右回りにゆるやかに渦を巻いて、多くの音を流し出し、それらの音は広大な慈悲の教えを説き述べた。
  • また宮殿の垣や籬の高さは六十二由旬、厚さは十四由旬もあり、五百億の竜王がこの垣の周りをとり囲み、竜王一人一人が五百億の、七宝で飾られた並木に雨を降らせて、垣の上を厳かに飾った。
  • またひとりでに風が吹いてきて、この樹々を揺り動かし、樹々は揺れて触れ合い、苦・空・無常・無我の、悟りの道を説いた
  • その時、この宮殿に一人の偉大な神がいた。牢度跋提と名づける。直ちに座を立って遍く十方の仏を礼拝し、広大な誓いをおこした。
    「もしわたしの福徳によって弥勒菩薩のために立派な法堂を建立することができるものなら、(その印として)わたしの額に宝珠を浮き出していただきたい。」
    そう誓い終わると、額に忽然と五百億の宝珠が浮き出た。瑠璃や水晶などすべての色を備え、色として備わらないものがない
  • そして紫紺の珠が表裏透き通ってうつるように、この珠の光は空中を旋回し、四十九層の何とも言えない宝珠で飾られた宮殿と化した。石垣一つ一つが万億という数の大梵天王の如意宝珠を組み合わせて作られ、さまざまな石垣の間にはひとりでに九億の天人や五百億の天女が姿を現わし、天人はそれぞれ手に自然に生じた量り知れない多くの七つの宝からなる蓮華を持ち、その蓮華の一つ一つに量り知れない多くの光があって、その光の中にさまざまな楽器が備わっていた。しかもこのような天の楽器は打ちもしないのに自然に鳴り、その音がした時、天女たちはいつの間にか楽器を手にして競って立ちあがり、歌い踊り、その歌声は十種の善行や四種の誓いを説く声と聞こえ、それを耳にした神々はみな、最高至上のさとりを求める心をおこした。
  • またさまざまな庭園には八種の瑠璃色をした渠(みぞ)があった。その一つ一つの渠は五百億の宝珠からなり、八つの色を備えていて、その水は湧きあがって建物の梁と棟との間に飛び散った。四つの門の外には四種の花がひとりでに咲きでて、水がその花の中から、ちょうど宝珠の花が流れるように流れでた。そしてその花の上には二十四人の天女がいて、言いようもないその姿の美しさは、菩薩たちの厳かに身を飾った姿にまがうほどである。手には五百億の宝珠の器が忽然と生じ、器の一つ一つに天上界のさまざまな甘露が満ち溢れている。天女たちは左の肩に量り知れない多くの装身具を身につけ、右の肩にもまた量り知れない多くの楽器を掛け、雲が空に浮ぶように、水から浮きあがって、菩薩が修行する六波羅蜜をほめ讃える。もし兜率天に生まれることがあれば、望まなくてもこの天女たちにかしずかれることができよう
  • またそこには七つの宝で飾られた大きな説法の座所がある。その高さは四由旬、紫磨金の量り知れないさまざまな宝珠で厳かに飾られ、座所の四隅の先端から四種の蓮華が生じ、蓮華の一つ一つは百種の宝珠からなり、その一つ一つの宝珠が百億の光を放って、その光は言いようもなく美しく、五百億の多くの宝珠や種々さまざまな花で飾られた見事な帳(とばり)と変わる。すると、あらゆる方角から何百何千という梵天の王たちが各自一つずつ手にした梵天界の素晴らしい宝珠を見事な宝鈴と変えて、美しい帳の上に懸け、小梵天王たちも手にした天の多くの宝珠を宝で飾る網と変えて、帳の上にすっぽりと覆いかぶせる。
  • その時、数知れない多くの天人や天女の仲間が手に手に宝珠の蓮華をもって座所の上に敷くと、この沢山の蓮華から忽然と五百億の玉女が現われ、白い払子を手にして帳の内に立ち控える。
  • ところで、この宮殿の四隅に宝珠でできた四本の柱があり、その一本一本の宝珠の柱に何百何千という楼閣があって、大梵天王の如意珠がそれに絡まり合う。その時、多くの楼閣の間に何百何千という天女がいて、その容貌は美しく、他に比べようもない。手には楽器を持ち、奏でる楽の音は苦・空・無常・無我の、さまざまなさとりの修行を説く。(しかも)このような天の宮殿には量り知れない数限りない多くの美しい色があり、天女の多くの一人一人も勝れた美貌である。その時、量り知れない多くの天の神神は、命の終わる時はみな、兜率天の宮殿に生まれたいと願った。

  • ところで、兜率天の宮殿にはさらに五人の偉大な神がいた。
  • 第一の偉大な神は名を宝幢という。その体から七宝の雨を降らせて宮殿の石垣の内に撒き散らせると、その宝珠の一つ一つが量り知れない数の楽器と変わって空中に懸かり、打たないのにひとりでに鳴って、量り知れないほど多くの音となり、聞く者それぞれの思いどおりになる。
  • 第二の偉大な神は名を花徳という。その体からさまざまな花を雨と降らせて宮殿の石垣を覆いつくし、花の傘と変える。そしてその花の傘に垂れている幢幡は見る者を引きよせる導きとなる。
  • 第三の偉大な神は名を香音という。その体の毛孔から言いようもない香高い海此岸栴檀香を雨のように吹き出し、その香は雲のように百の宝珠の色になって、宮殿の周囲を七遍まわる。
  • 第四の偉大な神は名を喜楽という。如来珠を雨と降らせると、その宝珠の一つ一つがひとりでに幢幡の上に静止して、量り知れない多くの仏とその教えと教団に帰依することを明らかに説き、また五戒や、量り知れない善法などのさまざまな悟りの智慧をうる修行、さらには世の人人に恵みを与え、勤めて悟りを求めるようにと説く修行者のことを説く。
  • 第五の偉大な神は名を正音声という。その体のさまざまな毛孔から多量の水を流出させると、その一滴一滴の水の上には五百億の花があって、その一つ一つの花の上に二十五人の玉女がいる。その玉女一人一人の体のさまざまな毛孔から一切の音という音が流れ出、それは天魔の后が奏でるあらゆる音楽にもまさっている。

  • これを兜率天の、十善の報いにふさわしい、勝れた不思議な福徳の処 [※兜率陀天十善報応勝妙福徳処]と名づける。わたしがこの世に一小劫の間、住して、仮に、兜率天からこの世に生まれてわたしの後を継ぐ菩薩がかつてつとめた修行にふさわしい報いと十善の果報を詳しく説くとしても、とても説き尽すことはできない。
  • もし比丘やすべての人たちのなかに、生死を繰り返すことを厭わず、天に生まれたいと願う者や、最高至上の悟りを得たいという心を愛し敬う者、(或いは)弥勒の弟子になりたいと欲する者などがいるなら、当然、この菩薩の観想をするにちがいない。この観想をすれば、(在家なら)五戒や八斎戒、(出家なら)具足戒を守り、身も心も精進努力し、あえて三界の煩悩に断つことを求めず、十善の教えを修め、それぞれ、兜率天上での最上の清らかな楽しみを考えることになるだろう。この観想を正しい観想[※正観]と名づけ、もしこれ以外の観想をするなら、それをよこしまな観想[※邪観]と名づける。

  • 相好一つ一つが光彩あでやかに八万四千の光輝く雲を出し、(弥勒は)さまざまな天人たちとそれぞれ蓮華の台(うてな)に坐って、昼夜の六時[※晨朝(じんじょう)・日中・日没(にちもつ)の昼三時と初夜・中夜・後夜の夜三時]に常に、再び退くことない不退転の位を得る修行について説く。そして(六時の)一時を経る間に最高至上の仏の悟り(を求める心)を失わせないことを成し遂げる。このように弥勒は兜率天にあって昼夜常にこの教えを説き、多くの天人たちを導く。
閻浮提 (華林園、翅頭末城、耆闍崛山頂) 弥勒如来 弥勒如来の成道とその後の三会の説法は、閻浮提が舞台となる。
そのため閻浮提を以て弥勒如来の仏国土であるとすべきなのであろう。
しかし、以下の記述を見ても、閻浮提は弥勒の成道以前からすでに浄土的な様相を呈している。
そこで、「弥勒浄土」の描写(と関連の記述)を、 @下生前、 A下生後、 B成道後の三段階に分けてみることにする。


『仏説弥勒下生成仏経』
(筑摩書房『民衆経典』所収、石田瑞麿訳 六一〜一〇三)



@ 弥勒下生前
  • 四大海の水が少しずつゆっくりと減少して三千由旬に至ると、その時、この世界[※閻浮提]の地面は縦の広さ一万由旬、横の広さ八千由旬に及んで鏡のように平坦である。
  • 美しい華や軟らかい草が隈なくその地面を覆い、さまざまな種類の樹樹が繁茂し、華咲き実がなり、その樹はすべて高さが三十里、城に囲まれた街がつぎからつぎと並び、鶏さえもこの世界にふさわしく飛ぶことができる。
  • 人の寿命も八万四千歳で、正しい智慧やおかしがたい徳[威徳]、身にみなぎる力[色力]などがともに備わり、心は穏やかに安らぎ、信仰の喜びにひたる。
  • ただ三つの病がある。一つには排泄、二つには飲食[おんじき]、三つには老衰[衰老]である。女子は五百歳に達してそこではじめて嫁に行く。
  • この時、翅頭末(しずまつ)と呼ばれる大きな城がある。
     ※憬興の『三弥勒経』によると、玄奘の説として西方では王舎城を香芳城といい、未来に王があって飼●(人+去)といい、都を●(奚+隹)頭末、中国では慧幢というと記し、これから、「然れば知る、●(奚+隹)頭末は即ち是れ王舎城の国界なりと。義亦失無し。『成仏経』に翅頭末と云うは即ち是れなり」(大正三八・三二〇下)とある。
  • 縦の広さは十二由旬、横の広さは七由旬あって、整然として殊のほか美しく、厳かに飾られ清らかで、その中には幸福で富豊かな人が満ちみちている。そうした幸福で富豊かな人ばかりだから、(この国は)豊かで楽しみにみち、おだやかである。
  • その城は七宝作りで、上に楼閣があり、戸口の窓や軒下の窓はみな多くの宝珠で作られ、その上を真珠を散りばめた網がすっぽりと覆っている。
  • 街の辻や街中の道は広さ十二里あるが、掃き清め、水が打たれていて清浄である。
  • 非常に力の強い多羅尸棄という名の竜王がいるその池が、城の近くにあり、竜王の宮殿がこの池の中にあって、夜半にはいっても極めて細かな雨を降らせて、塵によごれた土にしめりを与える。その地面はつややかで、喩えていえば、油を塗ったようであり、道行く人の往来にも埃や塵がたつことはない。(それは)この時のここに住む一般庶民の幸福と豊かさがもたらしたものである。
  • 街の辻や道のここかしこに明るい珠の柱があり、いずれも高さ十里で、その光が赫赫(あかあか)と照り輝いて昼も夜もかわることがないから、どんな燈火(ともしび)の明かるさもものの役にたたない。
  • 城内の家屋敷や、および城下の村里には、ごく微細な土くれさえもない。ただ金の砂だけが地面を覆い、所どころかたまり集まっているのはみな金・銀である
  • 跋陀波羅●(貝+余)塞迦[秦の言葉では善教という]と名づける強大な夜叉神がいて、常にこの城を守護し掃除していて、清潔である。もし糞尿で汚れることがあると、地面が裂けてこれを取りこみ、取りこんでしまうと、再び元のように合わさる。

  • 人の命が終わろうとするときは、人はそれと気付かないでひとりでに墓地に出かけて死ぬ。
  • この時、世の中は安らかで楽しく、人を害し財を奪う者の心配やものを盗み取られる憂いもなく、城内でも村落でも、門を閉じる者はいない。また身の衰えや心の悩み、洪水・火災・戦禍、および飢饉・毒殺などの厄難もなく、人は常に慈しみの心があって、つつしみ敬い、なごみ順い、さまざまな身心の欲望を抑えて、言葉遣いはひかえめである。

  • 舎利弗、わたしはいま君のために、あらましその国の国境や城市、豊かな富や楽しみ等について説こう。
  • その国のさまざまな庭園や林の中の池や泉にはひとりでに八つの功徳を具えた水をたたえ、青や紅・赤・白の蓮華や、(その外、)とりどりの色をまじえた蓮華が一面にその上を覆っている。その池の周辺の、四種の宝珠で飾られた四つの階段をなしている道には多くの鳥が和やかに集まり、その中にはいつも鵝鳥や鴨・鴛鴦・孔雀・翡翠・鸚鵡・ハ(句+鳥)ハツ(谷+鳥)鳥・鳩那羅・耆婆耆婆などのさまざまな声の奇麗な鳥がいる。また種類のちがった声の奇麗な鳥もいて、一一数えあげることはできない。
  • 果実のなる木や匂いのよい木が国の内に満ちみちている。その時、この世界には常にかぐわしい薫りがあって、喩えていえば香酔山のようであり、流れる水はその様美しく、味は甘くて、憂いを除いてくれる。
  • 豊かな雨の恵みは時に応じ、穀物はよく実って、雑草がはえることはない。一度、種をまいて七回、収穫があり、労力をついやすこと極めて少なく、得る収穫は非常に多い。またこれを食べると、香り高く味がよく、気力が体に満ちわたる。

  • その国にその時、●(虫+襄)■(人+去)と名づける転輪聖王がいる [※ 『増壱阿含経』巻四九、(七)に「爾の時、王有り、●(虫+襄)■(人+去)と名く。法を以て化し、七宝具足す」(大正二・八一九上)と記す]。(王の軍隊には)四種の兵 [※ 四種兵、四兵(しひょう)。象兵・馬兵・車兵・歩兵の四種]がいるけれども、権威と武力を行使することなく、天下を治める。
  • その王の千人の子は勇ましく健やかで、秀れた力を具え、仇をなす敵をよく打破する。
  • 王は七つの宝 [※ 転輪王が所有するその権力の象徴を宝として数えたもの。金輪(ないし鉄輪)以下、象・馬・珠玉・美女・勝れた大臣と将軍を七宝といったもの] を所有していて、それは金輪宝・象宝・馬宝・珠宝・女宝・主蔵宝・主兵宝である。
  • またその国土には金銀などの宝で出来た七つの高台がある。いずれも高さ千丈 [※ 丈(約三〇・三センチ)は尺の十倍、頭もそれに準ずると思われ、牛馬などの背丈、輪も車輪の直径(古くは車輪の周りを六尺六寸とした)から割り出した長さをいったものと想像される]と千頭・千輪分あり、広さは六十丈である。
  • また四つの大きな蔵があり、その一つ一つの大蔵にそれぞれ四億の小蔵があって周囲をめぐっている。(この四つのうち)伊勒鉢大蔵は乾陀羅国 [※ 梵語ガンダーラの音写で健駄邏などとも書く。『西域記』巻二に「健駄邏国<旧に乾陀衛と曰うは訛なり。北印度の境>に至る。健駄邏国、東西千余里、南北八百余里、東は信度(梵語シンドゥ)河に臨み、国の大都城を布路沙布邏(梵語プルシャプラ)と号す」(大正五一・八七九中)とあり、北インド、カーブル河にあった国という] にあり、般軸迦大蔵は弥●(糸+是)羅国 [※ 梵語ミチラーの音写で弥薩羅などとも書く。『中阿含経』巻一四に、「一時、仏、●(革+卑)陀羅国に遊び、大比丘衆与倶(ととも)に弥薩羅に住至す」(大正一・五一一下)といい、ヴァツジ族のヴィデーハの首都という] に、賓伽羅大蔵は須羅タ(口+託の旁)国 [※ 梵語シュラシュトラの音写で蘇刺侘とも書く。『西域記』巻一一に、「伐臘毘(ヴァラビー)国より西に行くこと五百余里、蘇刺侘国に至る。蘇刺侘国、周四千余里、・・・・・・西は莫醯(マヒー)河に拠る」(大正五一・九三六下)とあり、今のカーティアワルという] に、●(虫+襄)■(人+去)大蔵は波羅捺国 [※ 梵語バーラーナシーの音写で筏羅●(ヤマイダレ+尼)斯などとも書く。釈迦がさとりを開いて初めてここで説法したといわれ、よく知られる鹿野苑はここにあった。ガンジス河とバルナ河の合流点、ガンジス河の北岸に位置する] にある。この四つの大蔵は縦横共に千由旬で、中に珍しい宝が満ちみち、それぞれ四億の小蔵があって、これに付属しており、四人の竜の大王 [※ 四大竜王。『増壱阿含経』巻四九、(七)に、伊羅鉢竜王・般稠竜王・賓伽羅竜王・●(虫+襄)■(人+去)竜王の四竜王が宝蔵を管理していたことを語る(大正二・八一九上)。四竜王が善宝という名の典蔵人にこの四蔵を奉り、善宝はこれを受けて●(虫+襄)■(人+去)王に奉ったという]がいて、めいめい持ち場を守護する。
  • この四つの大蔵と多くの小蔵はひとりでに(どこからともなく)踊り出るもので、その形は蓮華のようであり、数えられないほど大勢の人がみな一緒に出かけて生き、その様を見る。この時、(蔵の)多くの宝を守護する者はだれもいないけれども、人びとはこれを見ても心にむさぼり執着することはなく、ちょうど瓦や石、草木・土塊(つちくれ)を見るように、これを地に棄ててかえりみない。この時にこれを見る人はみな嫌悪の心をおこして、このように思う。「かつて過去には、世の人びとはこの宝のために互いにそこない合ってともに傷つき、さらに脅し強奪し合い、欺き誑かし合い、嘘を言い合って、生死を繰り返す罪の条件を次から次と増大させたものだった」と。
  • 翅頭末城の多くの宝で飾られた網が蔵の上を遍く覆い、宝の鈴の飾りがそよ風に吹かれて動き、その鈴の音はおだやかで気高く、鐘や磬 [※ 鐘磬(しょうけい)。どちらも打楽器。磬は仏前の礼盤右側に架に懸けてならすもので、「へ」の字形などをした銅製のもの] を打つようである。
A 弥勒下生後
  • その城の中に代表的な婆羅門の長がいて、名を妙梵と呼び、その婆羅門の妻は名を梵摩波提という。弥勒は(この夫婦を)父母としてこの世に生を受ける [※ 「生を託して父母と為す」。弥勒は仏となる菩薩であるから、当然、仏の八相の一つとして托胎が説かれる。八相(八相成道ともいう)は @上天(弥勒が兜率天に生れたこと)、 A托胎(入胎)、 B出胎、 C出家、 D降魔、 E成道、 F転法輪、 G入滅ともする]。
  • [弥勒菩薩は生死の迷いに苦しむ衆生を思って悩み] 出家して仏の道を学び、竜華樹の下に坐るが、その木の幹や枝、葉は高さ五十里である。
B 弥勒成道後
  • [弥勒は出家したその日に仏の悟りを得、] その時、さまざまな天主や竜神の王がその身を現わさないまま、華と香と雨と降らして弥勒仏を供養する。ありとあらゆる、世界という世界はすべて、大地が激しく震動し、仏の体は光を放って量り知れない多くの国国を照らし、仏の救いに与れる者はみな、仏を見たてまつることができるだろう。
  • その時、弥勒仏は華林園 [※ 竜華樹の林の園の意。弥勒菩薩がこの竜華樹という菩提樹の下で成仏し、説法することからこの名がある] においでになるが、その園の縦横の幅は一百由旬あって、園内には集まり会した大勢の人で溢れている。
  • (こうして)最初の集まりの説法で九十六億人の人達が阿羅漢のさとりを得、第二回目の集まりの説法では九十四億人が阿羅漢のさとりを得、第三回目の集まりの説法では九十二億人が阿羅漢のさとりを得る。
  • [説法を終えて天上の神々をさとりの世界に導き終えると、弥勒は弟子たちを率いて翅頭末城内に入るが、] 入る時にあたって、さまざまな不思議な能力をはたらかせて、量り知れないほどさまざまな様相を現わし出してみせる。釈迦桓因は欲界の天人達と、梵天王は色界の天人達と、何百何千という音楽を奏でて仏の徳を歌うたい、天上の沢山の華や栴檀香の細かな粉末を雨と降らせて、仏に供養する。街の辻や街中の道には沢山の幡や天蓋を立て、各種の仏に奉る香をたいて、その煙は雲のように(棚引く)。
  • [同じく、仏が城内に入る際に魔王を打ち負かすのを見て歓喜し] 天上の神々が、種々雑多な色とりどりの蓮華と曼荼羅華を仏前の地上に撒き散らすと、華は積みつもって膝に届く。多くの天上の神々は空中にあって音楽を奏し、仏の徳を歌ってほめ讃える。
  • [弥勒仏は弟子たちを連れて耆闍崛山頂に赴き、大迦葉の遺骨を讃えたが、] その時、人々は、大迦葉が弥勒仏から讃えられるのを目のあたりにし、その何百何千何億という人がこのことによってことごとくこの世を厭い、さとりを得た
  • その時、弥勒仏が説法された場所は横の広さ八十由旬、縦の幅百由旬で、その中にいた人達は、坐っている者も、あるいは立っている者も、近い者も、あるいは遠い者も、それぞれみずから、仏が自分の前においでになって、ただひとり自分の為に法をお説きになると思う
       
観世音(自在)菩薩 (南)
補陀落 観世音(自在)
仏陀跋陀羅訳『六十華厳』「入法界品第三十四」
「善男子よ、ここより南に光明と名く山があり、観世音という菩薩がいる。彼を訪ねて菩薩がどのように菩薩行を学び菩薩道を修すべきかを問いなさい」

実叉難陀訳『八十華厳』「入法界品第三十九之九」
般若訳『四十華厳』「入不思議解脱境界普賢行願品」
「善男子よ、ここより南に補怛洛迦と名く山があり、観自在という菩薩がいる。彼を訪ねて菩薩がどのように菩薩行を学び菩薩道を修すべきかを問いなさい」
学研『般若心経の本』(一三九上)によると、観自在菩薩はすでに過去世において正法明如来として成道した存在であり、また未来には光明功徳仏という仏となって仏位に戻ることを約束された菩薩とされているらしい。それが確かならば、観音は菩薩の姿をした仏陀であると考えてよい。

補陀落はサンスクリット語potalakaの音写語。岩波『仏教辞典』の観世音の項には 「華厳経入法界品では53人の善知識の1人として補怛洛迦山に住むというが、これが古来、観世音菩薩の住所とされた南海摩頼耶山中の補陀落を指し、中国では浙江省舟山群島の普陀山普済寺、わが国では那智山(青岸渡寺)を当てる」 とある。
衆寶普集莊嚴 普光功徳山王如来 『観世音菩薩授記経』 (空殻訳)
  • 要約: かつて、無量徳聚安樂と名づく世界が示現し、そこに金光師子遊戯如来という仏があった。この仏国土は阿弥陀仏の安楽浄土に比して毛先の水と大海の違いほども勝れた国土である。[大正新脩大藏經 0371_,12,0355c01(04) 〜 0371_,12,0355c17(03)]
  • 要約: 阿弥陀仏の滅後、更にその正法が滅した後、夜が明けようとする時に、観世音菩薩は七宝の菩提樹の下において結跏趺坐し等正覚を成就するだろう。
    (仏となった観世音菩薩は)普光功徳山王如来と号して、その仏国土は七宝がうまく融け合って荘厳するだろう。諸仏がガンガー河の沙の数だけの劫をかけてもその様子を説き尽すことはできないが、敢えて譬えて言えば、かの金光師子遊戯如来の国土の荘厳に比して、普光功徳山王如来の国土の素晴らしさは百万千倍、億倍、億兆戴倍、乃至、数量でははかることすらできないほどである。
    その仏国土には声聞も縁覚も皆無であり、ただ菩薩のみが充満する。
    この国土を衆寶普集莊嚴という。[大正新脩大藏經 0371_,12,0357a07(03) 〜 0371_,12,0357a28(08)]
つまり、観世音菩薩が未来において成道した際に得る浄土は、阿弥陀仏の安楽世界と比べ物にもならないほどに勝れた世界のさらに「百万千倍、億倍、億兆戴倍、乃至、数量でははかることすらできないほど」も優れたものになるという。
       
文殊師利菩薩 (東北か東)
清凉山(しょうりょうせん) 文殊師利
『華厳経』「菩薩住處品第二十七」
東北方の菩薩の住処を清凉山といい、文殊師利は一万の眷属と共に説法している。
これに基づいて中国五台山は文殊菩薩の聖地とされている。
金色世界 如来:不動智
菩薩:文殊師利
『華厳経』「如來名號品第三」
東に十仏国土と微塵数の国を越えたところに金色世界がある。その仏を不動智といい、菩薩を文殊師利という。
通常は上記「清凉山」と一緒くたにされ、「清凉山金色世界」として文殊師利菩薩の浄土とされる。同品で同名の仏国土が説かれているが、これは東南にある究竟智如来と目首菩薩の国土であって、文殊師利のそれではない。
五頂山 文殊師利
『文殊宝蔵陀羅尼経』
贍部洲東北方に大振那と名く国あり、その国の中に五頂と名く山あって、文殊師利童子が遊行し居住して諸衆生に法を説く。
この記述こそが、五台山の文殊信仰を決定的なものにしたものであると考えられる。
(不確定) 文殊師利 『文殊師利仏国厳浄経』 (空殻訳)
  • 要約: 無量壽佛の西方安養世界を文殊師利のそれと比べるのは難しいが、仮に譬えて言うならば、無量壽佛のそれは一本の毛で取った水のようであり、文殊師利のそれはあたかも海のようである。[大正新脩大藏經 0318_,11,0899c21(05) 〜 0318_,11,0899c26(00)]
 
       
地蔵菩薩
善名称院 地蔵 『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』(筑摩書房『民衆経典』所収、石田瑞麿訳)
  • また善名称院のことを説こう。
  • ここはとくに勝れた所であって、仏のおいでにならない所に別に浄土として建てられたものである。
  • 黄金(こがね)の砂が地に満ちみち、銀(しろがね)の玉が道に重なっており、四方の地境には四種の宝玉を積みあげ、四つの門が相次いで開く。
  • 黄金の樹木は七宝に分かれ、枝には美しい花が咲き、その房ごとに小さな実をつけ、花からまた花が開いて、長く春の間、散ることなく、実からまた実がなって、長く秋の間、落ちることがない。
  • 池には七宝の蓮が花を咲かせて青や黄・赤・白の色を重ね、水際(みぎわ)には六種の鳥が囀って宮商角候羽の五音となって声をあわせ、その厳かな飾りは何とも言いようがない。
  • 兜率天のなかの殊勝殿のように、五種の宝珠で飾られた座が安置されているが、これこそは地蔵菩薩が禅定にはいる尊い場所であって、その四方にも座があり、四人の大菩薩の坐る所で、(四人とは)いわゆる破悪趣菩薩・悲旋潤菩薩・金剛笑菩薩・除憂闇菩薩である。
  • その時、仏がおいでにならないこの世界の、世の人人を教化する指導者である、強固な慈悲の誓いを立てた地蔵菩薩が中央の座に坐り、毎日、早朝に恒沙定 [※様々な禅定の意味。特定の禅定のことではないが、一切の数限りないものの救いの方法を求めて入った禅定と解釈することも可能] に入り、禅定から起ちあがると、十方の国国をめぐって、人人の家や門口に立ち留まる。清らかな信心を抱いてわたし(釈迦仏)を念じて、両手を開き、顔をほころばせて微笑を浮かべ、智笑士(また金剛笑大菩薩とも呼ぶ)を現わし出す。(しかし)不浄な行いがあると訊くと、左手の中指を自分の胸の上に突きたてて、悲しみ泣いて立ち去り、悲旋潤菩薩を現わし出す。ある時は地獄に入ってすべての罪人の苦を除かせ、またその他の悪世界にも残すところなく広く入って命あるものを救い、救いの誓いを思いのままに駆使して毎日、怠ることがない。
地蔵経典といわれるものは偽経の疑いが強い。『仏説地蔵菩薩発心因縁十王経』(略称を『十王経』)も例に洩れず偽経であり、しかも日本で撰述されたものと考えられている。先行経典である『仏説預修十王生七経』も偽撰であることは明らかで、石田氏は訳注で「おそらく『預修十王生七経』を元にしながら、これと同時に撰述されたかのごとく装ったものが『十王経』であろう」(同一八四〜五)と推察している。
       
舎利弗 (華光如来)
離垢国 華光 『法華経』「譬喩品第三」
(参考文献: 筑摩書房『大乗仏典』所収、中村元訳『法華経』 七八〜七九、岩波文庫『法華経』所収、坂本幸男読み下し『妙法蓮華経』 一四七〜)
  • 舎利弗よ、おまえは未来世において、無量無辺不可思議劫を過ぎて、幾千万億の仏を供養し、正しい教えを保ち奉り、菩薩の実行すべき道をそなえて、仏となるであろう。その名を華光如来といい、国を離垢と名づけるであろう。
  • その国土は平正(びょうじょう、平坦)清浄にしてきわめて美しく、安らかであり、豊かで安楽であり、天人や人間があふれているであろう瑠璃を地となして、八つの交差する道がある。そのほとりは黄金の縄によって区切られ、その傍らには各々七宝の並木があり、常に華と果実とが実っているであろう。
  • この華光如来もまた、三乗の教えをもって生ける者たちを教化するであろう。舎利弗よ、かの仏の出られる時は悪世ではないけれども、昔立てた願いによってこの三つの立場の教えを説かれるであろう。
  • その劫の名を大宝荘厳という。何故大宝荘厳と名づけるかというと、その国の中では、菩薩を大いなる宝とするからである。
  • そのもろもろの菩薩の数は、無量無辺不可思議であって、算えることも喩えることもできないほどである。仏の智力以外には、よく知り得る者はないであろう。
  • この菩薩らは歩くたびに宝石の花がその足を受けるのである。
  • このもろもろの菩薩は、初めてさとりに向って心をおこした者ではない。皆、長いあいだ徳の根を植えて、無量百千万億の仏のもとで梵行(清らかな修行)をし、恒に諸仏の称嘆するところであり、常に仏の智慧を修め、大神通力をそなえ、よく一切の教えを知り、実直であり、偽りがなく、意志が堅固である。このような菩薩がその国には充満しているであろう。
  • 舎利弗よ、華光如来の寿命は十二小劫であろう。ただし、王子となってまだ仏になっていなかった時は除く。
  • その国の人民の寿命は八小劫であろう。
  • 華光如来は十二小劫を過ぎて、堅満(ドゥリティ・パリプールナ)菩薩のことを予言して比丘らにこう言うであろう――
    『この堅満菩薩は、次の仏となるであろう。その名を華足如来というであろう。その仏国土もまたこのようであろう』と。
  • 舎利弗よ、この華光仏がこの世を去られてのち、正法が世に住すること三十二小劫、像法(正法に似た教え)が世に住すること、また三十二小劫であろう。
『サ・ダルマ=プンダリーカ(saddharmapuNDarIka)』「3、たとえ」
(岩波文庫『法華経』所収、岩本裕訳『サ・ダルマ・プンダリーカ・スートラ』 一四八〜一五一)
  • さらに、また、シャーリ=プトラよ、測り知ることも考えたり推測したりすることもできないほどの幾億・幾千万劫の未来において、汝は幾千万億という大勢の如来たちの正しい教えを信奉し、種々の供養をし、求法者としての修行を完了し、パドマ=プラバという、完全に「さとり」に到達した阿羅漢 [※ padma-prabha、紅蓮の光輝をもつ者。『妙法華』華光如来、『正法華』蓮華光如来] となって、この世に生れるであろう。そして、完全な学識と勝れた所行を具え、この上ない幸いに到達して、最もよく世間を知り、人間を訓練する調教師であり、神々および人間の教師であり、仏であり、世尊となるであろう。
  • さらに、また、シャーリ=プトラよ、そのときパドマ=プラバ如来のヴィラジャという仏国土 [※ viraja。「塵芥のない」「清浄な」の意] が生ずるであろう。
  • この清浄な国土平坦で、草木が繁茂し、風光明媚であるばかりでなく平穏であって、富裕であり、食料がゆたかで住むに快いところである。ここには多くの男女の群れが満ちあふれ、また神々も満ちあふれており大地は瑠璃づくりで、黄金の糸で八つの花弁に結び付けられていた。そして、これらの八つの花弁には、七宝づくりの花と果実をいつもつけた宝玉の樹木が生えるであろう。
     [※ 上記「八つの花弁」に関して、原文には「八つの台」を意味する「アシュター=パダ」(aSTApada)とあるが、仏国土の修飾語として何を意味するかは全く不明。これに対して『正法華経』には「八重交道」、『妙法華経』では「八交道」と訳出され、その原語が「アシュター=パッタ」(aSTApaTTa)であったことが知られるが、この意味においても仏国土のどのような状況を描写したかは知れない。ところが、梵語の音韻論から見て、「パッタ」(paTTa)という俗語形に基づく単語は「パットラ」(pattra)=「葉、花弁」に由来する。アシュター=パダをアシュター=パットラ「八葉、八つの花弁」の転訛と解すれば、後の本文に「この仏国土にいる求法者たちの大部分の者は、宝玉の蓮華の上を歩きまわる者となるであろう」とある一節にも無理なく繋がる。さらに、密教における「八葉の蓮弁」「八葉の蓮華」の先駆と見做される注目すべき表現と考えられる。(IWAMOTO, Y.: Lexikalische Nachlesen aus dem SaddharmapuNDarIka, I, Acta asiatica, 9 (1965). pp. 78-82、岩波文庫『法華経』 三九三)]
  • シャーリ=プトラよ、かのパドマ=プラバ如来も三種の乗物に関して教えを説くであろう。しかも、かの如来は転変地災のつづく汚濁の世には出現しないであろう。しかし、かの如来は前世における誓願の力により教えを説くであろう。
  • そして、シャーリプトラよ、この如来が出現する劫はマハー=ラトナ=プラティマンディタ(「偉大な宝玉で飾られた」の意)と名づけられるであろう。汝はどう考えるか、シャーリ=プトラよ、どのような訳でマハー=ラトナ=プラティマンディタと呼ばれるのか。仏国土においては、「さとり」を求めて修行する求法者は宝玉といわれるからだ。
  • そのとき、ヴィラジャ世界には、教えることも、測ることも、他と比較することもできないほどに多くの求法者がいるであろう。しかし、如来が計算するのでなければ、その数は分からないであろう。このような訳で、かの如来の出現する劫はマハー=ラトナ=プラティマンディタといわれるのだ。
  • さらに、また、シャーリ=プトラよ、そのときこの仏国土にいる求法者たちの大部分の者は、宝玉の蓮華の上を歩きまわる者となるであろう。
  • しかも、かれらは初心の未経験者ではなく、長い間にわたって善根を培い、幾十万という多くの仏のもとで梵行を修めて如来から賞賛され、仏の智慧を得ようと専念し、仏の偉大な神通力の遂行によって生まれ、あらゆる教えの方法に通暁し、温和で、前世の記憶をもっているのだ。シャーリ=プトラよ、かの仏国土には、このような求法者が満ちあふれるであろう。
  • さらに、また、シャーリ=プトラよ、パドマ=プラバ如来の寿命は、太子であったときを除いて、十二小劫であろう。そして、その仏国土にいるものたちの寿命は八小劫であろう。そして、かのパドマ=プラバ如来は十二小劫が過ぎ去ったときに、ドリティ=パリプールナ [※ dhRtiparipUrNa、「決心を完全に成就した者」。『妙』『正』両者ともに「堅満」と訳す] という偉大な志をもつ求法者の出現を予言して、入滅するであろう。
    『僧たちよ、この偉大な志を持つ求法者ドリティ=パリプールナは、余につづいてこの上なく完全な「さとり」をさとるであろう。そして、彼はパドマ=ヴィリシャバ=ヴィクラーミンという如来 [※ padmavRSabhavikrAmin、「パドマ(紅蓮)地獄を雄々しく越えて行く者」。『正法華』の「度蓮華界如来」の訳はこの意味であるが、『妙法華』の「華足安行」はいかなる意味か不明] となって、この世に生れるであろう。そして、完全な学識と勝れた所行を具え・・・・・・(中略)・・・・・・仏であり、世尊となるであろう。』
    と。シャーリ=プトラよ、このパドマ=ヴリシャバ=ヴィクラーミン如来にも、前に述べたような仏国土があるであろう。
  • ところで、シャーリプトラよ、かのパドマ=プラバ如来が入滅したのちには、三十二小劫のあいだ、正しい教えが存続するであろう。さらに、彼の正しい教えが滅びたとき、三十二小劫のあいだ、正しい教えの模倣が存続するであろう。
       
迦葉 (光明如来)
光徳国 光明 『法華経』「授記品第六」
(岩波文庫『法華経(上)』 三〇〇〜三〇二)
  • わが、この弟子、摩訶迦葉は、未来世において、当に三百万億(のく)の諸(もろもろ)の仏・世尊を観奉りて、供養し、恭敬(くぎょう)し、尊重(そんじゅう)し、讃嘆(さんだん)して、広く諸仏の無量の大法を宣ぶることを得べし。最後身において、仏に成為(な)ることを得ん。名をば光明如来(以下略)と曰わん。国をば光徳と名づけ、劫をば大荘厳と名づけん。
  • 仏の寿は十二小劫にして、正法(しょうぼう)の世に住すること二十小劫、像法(ぞうぼう)も亦、住すること二十小劫ならん。
  • 国界を厳飾(ごんじき)して、諸の穢悪・瓦礫(がりゃく)・荊棘(きょうこく)・便利の不浄無く、その土は平正(びょうじょう)にして、高下(こうげ)・抗坎(あな)・堆阜(おか)あることなけん。瑠璃を地となして、宝樹は行列し、黄金を縄となして、もって道の側を界(さかい)し、諸の宝華(ほうけ)を散じ、周遍して清浄ならん。その国の菩薩は、無量千億にして、諸の声聞衆(しょうもんしゅ)も、亦、また、無数ならん。魔事あることなく、魔及び魔の民ありと雖も、皆、仏法を護らん。
『サ・ダルマ=プンダリーカ(saddharmapuNDarIka)』「6、予言」
(岩波文庫『法華経』所収、岩本裕訳『サ・ダルマ・プンダリーカ・スートラ』 三〇一〜三〇三)

  • 僧たちよ、余は汝らに告げ知らせよう。余の弟子であるこの僧カーシヤパ(迦葉)は、未来において三千万億の仏たちの許で、これらの仏たちを崇め尊んで、師事し、供養し、讃嘆し、礼讃するであろう。そして、これらの尊い仏たちの正しい教えを信奉しよう。彼はマハー=ヴューハという劫アヴァバーサ=プラープター世界最後の化身を現わしラシュミ=プラバーサという、完全に「さとり」に到達した阿羅漢である如来となって、この世に生まれるであろう。
  • 彼の寿命の長さは十二小劫であろう。そして、彼の正しい教え(正法)は二十小劫のあいだ続くであろう。さらに、正しい教えを模倣した教え(像法)が二十小劫のあいだ続くであろう。
  • しかも、彼の仏国土は清浄で、石や砂利や瓦礫は取りのぞかれ、陥し穴も断崖もなければ溝や汚水溜りもなく、平坦で心地よく、風光明媚で、瑠璃造り宝玉の樹木で飾られ、黄金の糸で八つの花弁に結びつけられ、花が撒き散らされいよう。そして、そこには幾十万という多くの求法者が現れるであろうし、また、そこには幾千万億という無数の弟子がいるであろう。また、そこには、悪意をもつ悪魔が姿を現すことなく、悪魔の眷属どもも見出されないであろう。しかし、後になって、悪魔とその眷属どもがいるようになるであろうが、たとえそのようになっても、かれらは、その世界でかの尊きラシュミ=プラバーサ如来の教えを受けて、正しい教えを受け入れようと努力するようになるであろう。
       
須菩提 (名相如来)
宝生国 名相   『法華経』「授記品第六」
(岩波文庫『法華経(上)』 三〇八〜三一〇)

  • この須菩提は、当来世において、三百万億那由他の仏を観奉りて、供養し、恭敬し、尊重し、讃嘆し、常に梵行を修(しゅ)し、菩薩の道を具して、最後身において、仏に成為(な)ることを得ん。号(な)をば名相如来(以下略)と曰わん。劫をば有宝と名づけ、国をば宝生と名づけん。
  • その土は平正にして、頗梨を地となし、宝樹にて荘厳して、諸の丘坑(くきょう)・沙礫(しゃりゃく)・荊棘(きょうこく)・便利の穢無く、宝華は地に覆い、周遍して清浄ならん。その土の人民(にんみん)は、皆、宝台・珍妙の楼閣に処せん。声聞の弟子は、無量無辺にして、算数(さんじゅ)・譬喩の知ること能わざる所ならん。諸の菩薩衆(しゅ)は、無数の千万億那由他ならん。
  • 仏の寿は十二小劫にして、正法の世に住すること二十小劫、像法も亦、住すること二十小劫ならん。その仏は、常に虚空に処して、衆のために法を説きて、無量の菩薩と及び声聞衆とを度脱せん。
『サ・ダルマ=プンダリーカ(saddharmapuNDarIka)』「6、予言」
(岩波文庫『法華経』所収、岩本裕訳『サ・ダルマ・プンダリーカ・スートラ』 三〇九〜三一一)

  • 僧たちよ、余の偉大な弟子であるこの長老スブーティは、三千万億の仏たちを崇め尊んで、師事し、供養し、礼讃するであろう。そして、これらの仏のもとにおいて純潔を守って修行をし、「さとり」を得るであろう。彼はこのような数々の奉仕をして、最後の化身においてシャシ=ケートゥという、完全に「さとり」を達成した阿羅漢である如来となって、この世に生まれるであろう。そして、完全な学識と勝れた所行を具え、この上ない・・・・・・(中略)・・・・・・仏であり、世尊となるであろう。
  • そして、彼の仏国土はラトナ=アヴァバーサと呼ばれるであろう。そして、彼の仏国土は平坦で心地よく、瑠璃づくりで宝玉の樹木で飾られ、陥し穴も断崖もなければ溝や汚水溜りもなく、素晴らしく美しく、花が撒かれているであろう。そして、そこでは、人々はあらゆる楽しみが設けられた宮殿楼閣の中に住居を構えるであろう。また、そこには、幾千万億という多くの求法者たちがいるであろう。
  • そして、かの世尊の寿命の長さは十二小劫であろう。また、彼の正しい教えは二十小劫のあいだ続くであろう。さらに、彼の正しい教えを模倣した教えが二十小劫のあいだ続くであろう。そして、かの世尊は虚空の中にとどまって常に教えを説き、幾十万という多くの求法者と幾十万という多くの弟子たちを導くであろう。
       
大迦栴延 (閻浮那提金光如来)
(不確定。閻浮提か?) 閻浮那提金光  
 
       
 
     
 
       
 
     
 
       
B その他仏国土
楽色(ぎょうしき)世界 如来:大智
菩薩:覚首
南に十の仏国土と微塵数の国を越えたところ (『華厳経』「如來名號品第三」)  
華色(けしき)世界 如来:習知
菩薩:財首
西に十の仏国土と微塵数の国を越えたところ (『華厳経』「如來名號品第三」)  
●匐華(せんぶけ)色世界 如来:行智
菩薩:宝首
北に十の仏国土と微塵数の国を越えたところ (『華厳経』「如來名號品第三」)  
青蓮華(しょうれんげ)色世界 如来:明智
菩薩:徳首
東北に十の仏国土と微塵数の国を越えたところ (『華厳経』「如來名號品第三」)  
金色世界 如来:究竟智
菩薩:目首
東南に十の仏国土と微塵数の国を越えたところ (『華厳経』「如來名號品第三」) 文殊師利の金色世界とは異なる。
宝色(ほうしき)世界 如来:上智
菩薩:進首
西南に十の仏国土と微塵数の国を越えたところ (『華厳経』「如來名號品第三」)  
金剛色(こんごうしき)世界 如来:自在智
菩薩:法首
西北に十の仏国土と微塵数の国を越えたところ (『華厳経』「如來名號品第三」)  
玻璃色(はりじき)世界 如来:梵智
菩薩:智首
下へ十の仏国土と微塵数の国を越えたところ (『華厳経』「如來名號品第三」)  
如宝色世界 如来:伏怨智
菩薩:賢首
上へ十の仏国土と微塵数の国を越えたところ (『華厳経』「如來名號品第三」)  
蓮華妙徳刹 如来:賢首
菩薩:普賢
あるいはまた、賢首仏と普賢大菩薩をはじめとする者たちが、みな「蓮華妙徳」の国に満ちみちているのが見える。 (『華厳経』「入法界品第三十四」)  
明浄厳浄刹 如来:月慧
菩薩:金幢
あるいはまた、月慧仏と金剛大菩薩をはじめとする者たちが、みな「明浄厳浄」の国に満ちみちている。 (『華厳経』「入法界品第三十四」)  
清浄光明刹 如来:日蔵
菩薩:智灌
あるいはまた、日蔵仏と智灌大菩薩をはじめとする者たちが、みな「清浄光明」の国に満ちみちているのが見える。 (『華厳経』「入法界品第三十四」)  
       
       






昨日 今日