掲示板の歴史 その十四
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NO.363  『真実摂経』の理念
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2005/01/21(Fri) 09:42:16
□IP/ 4.27.3.43


こんにちは、義仙さん。

『インド仏教(3)』所収、松長有慶著『密教の形成』によると、『大日経』=『大毘廬遮那成仏神変加持経』の修法の究極目的は経題のとおり「成仏」(abhisambodhi)であり、『金剛頂経』の基本経典『真実摂経』=『金剛頂一切如来真実摂大乗現証大教王経』(不空訳)はその名のとおり「大乗現証」(mahAyAnAbhisamaya)を主題とするとして、また次のように述べられています。
  • 空、菩提心、金剛等の通仏教的な理念を、観法の中に摂取し、その本来の意義を踏まえつつ、その内容を観法化し、儀軌化するその一例を、われわれは『真実摂経』の中にみることができる。(二〇)
  • ただこれら両経[『大日経』と『金剛頂経』]はつねに並び称されるけれども、性格的にはかならずしも同一ではなく、またその後の発展経過もいちじるしく相違している。『大日経』には、思想的にみると、大乗仏教の中観なりし如来蔵の影響が認められ、儀礼の上では、初期密教経典の行法を継承した跡を少なからず残す。(二四)
  • 『大日経』では、第一章にあたる住心品には思想的な記述が多く、第二章以下には実践方法が主として説かれていた。それに対して『真実摂経』は、如来蔵思想を基調にもつが、思想的な面をそれほど表面化せず、金剛界三十七尊の曼荼羅と、その印、真言、観法など実践面を強く打ち出しているところに特徴がある。(二五)
  • 『真実摂経』のみならず、『金剛頂経』系の経典の実践法はヨーガすなわち瑜伽が根幹であって、ヨーガによって行者と本尊、すなわちミクロの世界とマクロの世界が一体化した境地を叙述することに主眼があるとみてよいであろう。したがって内容の上では、『大日経』はどちらかといえば、行者の立場より絶対に近づく具体的な方法を説き明かすのに対し、『真実摂経』では、絶対の世界を曼荼羅諸尊を通じて披瀝したとみてよい。『金剛頂経』では、『大日経』にみられるような大乗仏教と共通の菩薩とか明王の名は消え、五仏以外、ことごとく金剛の名をもつ密教独自の菩薩に生まれ変っている。その整理された菩薩の名称と構成には、密教思想による整合性が目立つ。『大日経』が大乗思想をはじめとする従来のインド文化の包摂形態を示す第一段階とすれば、『真実摂経』においては、第二段階の純化がいちじるしく進められたといえるのである。(二五〜二六)
また同氏は春秋社『講座密教(1)密教の理論と実践』所収『第三章 密教の諸経典』で次のように述べてます。
  • 大毘廬遮那如来が一切義成就菩薩の請願に応じて、みずからの悟りの内容を明かし、それを得るための実践法を説く。その悟りの内容を具体的に示したものが金剛界曼荼羅であり、その実践法の中心になるものが五相成身観である。『金剛頂経』は『大日経』の「住心品」のように思想的な記述を一章にまとめて出さない。金剛界三十七尊と六種曼荼羅を中心とした観法と、真言および印契を説きつつ、適宜それらの思想的な裏付けを示すという方法をとっている。『大日経』においては、まだ大乗思想と密教儀礼が完全に融合したとはいえないが、『金剛頂経』においては瑜伽観法が主体となって、思想と儀礼が観法の背景に巧みに生かされている。(一七九〜一八〇)
このように、『金剛頂経』は思想的内容をあからさまに説くことはせず、あくまでも実践面を空、如来蔵などの思想的基盤に基いて強調していると見る向きがあることが分かります。
一方、講談社学術文庫『密教の哲学』で金岡秀友は次のように言ってます。
  • 胎蔵界のマンダラが密教の真理論の「実相」をあらわすのにたいし、真理の「観想」の面をあらわすのが金剛界のマンダラとされる。(一四七)
  • 『金剛頂経』は『大日経』を承けて成立した経典ではあるが、その系統は、さきに述べたように、中観・般若経に立つものではなく、瑜伽行唯識派の哲学・認識論によっている。したがって、ここでは、真理自身の直感的把握よりも、理性の発動による外界の認識と、ヨーガ(宗教的瞑想)によるそれの体認が中心課題となり、秘儀による実践哲学の膨大な体系が展開されることとなる。(一四七〜一四八)
  • 『金剛頂経』はこのように、『大日経』を継承してこれを発展させた一面も有しているが、その本領はやはり智慧の認識論的・実践的観察にあったといわなくてはならない。(一四八)
  • このように、『金剛頂経』は、いくつかの大乗経典・密教経典を継承し、それを網羅する実践体系として完成した、という基本的性格をもっている。(一四八)
  • [十五会の『金剛頂経』たる『秘密集会経』(guhyasamAja)にみられる、五仏が明妃を得て多くの仏・菩薩を出生するという考えは本初仏(Adi-buddha)思想の発展に繋がるが、]この思想の成立には、大乗の如来蔵思想、その本性は清浄にして不変なるものが、しかも起動するという思想――華厳の性起、ないし不変随縁というがごとき――が横たわり先住していたと考えられるほか、菩薩がこのように性格を一変して、菩提を求める向上の菩薩ではなく、仏が生んだ文字通りの仏子として、仏の流出する姿となるについては、やはり後期の密教が直面した、さまざまな異教的要素を無視するわけにはいかないであろう。(一九二)
このように、『金剛頂経』が中観・般若経における空ではなく、瑜伽行唯識派の哲学・認識論に依拠し、転識得智のコンセプトに見られるような超越論的な立場であったことを指摘する人もいます。