掲示板の歴史 その十四
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NO.361  『トマス書』の神話論
□投稿者/ 空殻
□投稿日/ 2005/01/17(Mon) 06:10:34
□IP/ 4.27.3.43


同『ナグ・ハマディ文書II』所収、荒井献著「解説 トマスによる福音書」の「五 神話・思想」(三二二〜)によると、同福音書の背後にある神話論を推定することは困難であるとしながらも、著者は少なくとも次のような神話論の痕跡を著作である『トマスによる福音書』(五四〜五五)にて既に確認していると述べている。
  1. 天地は消え去る(語録一一、一一一)
  2. 至高者としての「父」のほかに「真実の母」が「命」の根源として想定されている(一〇一)。
  3. 「神々」、とりわけ「神」(創造神)は消極的に評価されており(三〇、一〇〇)、「盗賊」(二一)あるいは「強い人」(三五)(いずれも創造神か)は否定の対象とされている。その結果、「神の王国」は多くの場合、「父の王国」あるいは「王国」と言い換えられている(三、二二、四六、一一三)。
  4. イエスは「同じ者」としての「父」から「出た者」であり(六一)、「すべての上にある光」である(七七)。
  5. 人間は「光から来た」「光の子ら」であるが(五〇)、現実には「身体」とりわけ「肉体」の中にあって、それ(「光」あるいは「霊魂」としての本来的自己)を認識していない(二九、八七、一一二)。
  6. 「自己」を認識した者にとって、「自己」の支配領域として「父の国」は現臨している(三、一一一、一一三など)。
  7. 「はじめのあるところに、終わりがある」(一八)。
このような神話論を背景にして、同福音書のイエスは「人間の本来的自己が至高者と本質的に同一である」と「言葉」を通して告知する。
こうして「自己」と「父」との同一性の認識を志す者には、「単独者」になること(語録四、一六、二三、四九)、男女を超えて「一人」になること(二二)、「生ける霊」になること(一一四)が勧められる。この「単独者」が男性でイメージされている限り、女性は男性にならなければ「生ける霊」とはならない(一一四)。しかし、ペトロをはじめとする男弟子とマグダラのマリヤやサロメなどの女弟子の間に、トマス福音書では全く差別がない。マリヤに対するペトロの差別的発言は、イエスによって厳しく退けられ(一一四)、父とイエスとの同質性はサロメに伝えられ、彼女はイエスに「私はあなたの弟子です」と告白している(六一)。(同三二三)
同福音書はグノーシス的原理によって解釈される傾向にあるが、著者はまたこれがあくまでもイエスの語録集であり、編集以前に成立していた語録が伝承の過程で存在していたことに留意し、「一つ一つの語録を編集者の視点(グノーシス主義)のレベルで解釈するか、その視点が導入される以前の伝承(その多くはユダヤ人キリスト教出自)のレベルで解釈するかによって、意味付けが違ってくることに注意を促したい」(同三二四)としている。